このページは、山佐木材の社長が書いたブログをまとめたページです。
毎朝の日課 船内新聞を見る
部屋の外ドアの横にある文書受けに、毎朝早くに船内新聞が入る。その日の予定などが書いてあって、まずはこのチェックが毎朝の日課になる。
1月30日のものをお目に掛ける。PONANTというのはボレアル号などクルーズ船を運用しているフランスの会社である。
ボレアル号船内新聞1ページ目に、この日の午前のエクスペディションである、「ネコ ハーバー」上陸のこと、2ページ目には午後の「パラダイスベイ(湾内)ゾディアック(ゴムボート)クルーズ(遊覧)」が行われることが書いてある。そして、様々な娯楽が準備されていて、この時間割が書いてある。
3ページ目に午前中上陸予定の「ネコ・ハーバー」の説明、4ページ目に午後の遊覧場所パラダイス湾の説明がある。
阪急交通社からの船内新聞にも様々なサービス等の情報が提供されている。
ピアニスト、歌手、ダンサーたちが沢山乗船していて、毎日様々な船内イベントが行われる。この日も21時30分から始まるのがダンスショー、引き続きダンサーと乗客とのダンスなど、一体何時に終わったのだろう。参加者たちの元気さには驚かされる。
私はこの日の例で言うと、夕食前に行われた「翌日(1月31日)の寄港地についての説明会」にのみ参加し、他の催しには行かなかった。今回クルーズでの私たち夫婦の最大目的であるエクスペディションにすべてを集中したかった。ワインと夕食を食べて、部屋に帰ると焼酎のお湯割りを飲む。そして早い時間に就寝、翌日のエクスペディションに備えるのを本分とする。
とはいえこれらの諸イベントも参加費に含まれているし、案内を見るとなかなか魅力的なものもあって勿体ない気持ちもある。考えてみると焼酎を飲むというのは非生産的なものだと思わぬ事もない。
「ネコ・ハーバー」へ向けて出発 午前8時半
昨日の「アイチョウ島」と違って初めての南極大陸上陸になる。
約2時間後母船に帰る。平服に着替え10時半過ぎ。例によって熱い紅茶にウィスキーを入れてすすり、体を温める。
「パラダイスベイ」の遊覧 午後から船が移動開始、パラダイス湾に入る
そしていよいよゴムボートで湾内クルーズ
まず出発の記念写真、家内の体調復活。このエクスペディションから参加。
母船に帰還。
ビール、ワインとともに夕食。
焼酎のお湯割りを飲んで就寝。
ボレアル号の僚船「ソレアル号(LE SOLEAL)」とランデブー
この日の夜9時過ぎのことである。突然船内放送があって起き上がる。同じポナン社の僚船である「ソレアル号(LE SOLEAL)」とランデブーするというのである。何と先方ソレアル号から、当方ボレアル号への米の積み替えを行うというのだ。馬鹿らしくも愉快ともつかない南極の夏の夜の一幕である。
日本人の我々がフランス人たちの予想を超える量の米を食ったらしい。「日本人たちが米が足りなくて、これから飢えるかもしれないから、SOS!」とでも言ったのだろうか。先方乗客は欧米人主体のようで、米は余っている、それではその米を日本人たちに譲ることにしよう。いたずら好きらしい船長の考えそうなことである。
米が無くて腹を減らしている日本人のクルーズ船に、一方のクルーズ船から米を贈るイベントは、これ以上無いショーとなり効果抜群、その盛り上がり方たるや尋常ではない。デッキや窓によって手を振り手を叩き大興奮の態である。もちろん親愛の情も含まれてはいるのだろうが、当方憮然として眺めるのみ。
(佐々木 幸久)
自宅を出てから5日目。気象に恵まれて予定の30日朝到着予定が半日早く目的地に到着。
午後から南極上陸となる。想像もできない大量のペンギン親子たち。運営会社はツアーや旅行でなく、「エクスペディション」であると位置づけている。辞書を引くと「探検(隊)」或いは「遠征(隊)」と出てくる。
1月29日(火) 前回紹介のゾディアックボートに乗ってアイチョウ島へ
いよいよ今回最初の上陸地点である「アイチョウ島」に向かう。最高部が標高75m、島の全長1.5kmという小さな島だ。
不安が全くないと言えば嘘になる。何でも最初の体験は心配が先立つ。無事に帰って来た時のために、熱いココアやクッキーなどがバーカウンターに準備してある。それを横目に見ながら、服装点検を受け、旅行社が準備してくれているパネルを持って、出発の記念写真を撮りあう。
今回写真が多いが、何せ初めてでこちらも物珍しく、写真を撮りまくっている。いずれ落ち着いてくれば、減ってくるだろうから、お付き合い戴きたい。
スタッフの「エクスペディションガイド」は、ペンギン、アザラシ、クジラなど海洋生物などの研究者、地質学者、或いはその卵であるという。非番の時はボートを貸与されて、それぞれ調査、観察あるいは撮影などを行っている。船の停泊中は、常時3、4艘のボートが本船周辺を遊弋している。これが楽しみで参画しているのかもしれない。
海岸線でのおびただしいペンギン。これから海に入るもの、上がってきたものが交差する。腹が真っ白なのは海から上がってきたところで、汚れているのはこれから入るところである。営巣の場所はここ海岸縁でなく、島のてっぺんも含めて高いところにある。ここでは「ジェンツウペンギン」と、「ヒゲペンギン」を見ることが出来る。
外套(パルカ)の赤が私たち、黄色がエクスペディションガイド。私たちの上陸に先立って、上陸地点の設営、歩行コースや進入禁止ラインの設定などを行っている。終了後はコーンやロープ、道具などを撤収する。今日は午後のみだが、明日からは午前、午後の二回、なかなか大変な仕事だと思う。
島のあちこちに群居しているペンギンたち。左側の手前と奥に二つのグループ、中央右側に分散して多数いる。右側端の山頂の高いところにも多数のグループがかすかに見えている。あそこからあの小さな足で日に何回も上り下りしているのだ。手前がぐちょぐちょしているのはペンギンの糞。
「ジェンツウペンギン」の親子
JRのカード「スイカ」に載っているのは、このジェンツウペンギンであるという。
左側がヒナ、右側が親。ヒナと言ってももう親と変わりないほど大きくなっている。えさをやるのを嫌っているように見える場面を見る。大きなひなが親を追いかけているのだ。自活を促しているのだという。もうほんの少したつと今のこの産毛が生え替わって、自分で餌を取りに海に入れるようになる。
ヒナがここまで大きくなっているのは、ここが最も北側で比較的暖かいためであり、これから南下するとヒナはもっと小さい、或いはまだ卵を抱いているという光景を見ることになる。
一方こちらは、「ヒゲペンギン」
ヒゲペンギンのグループ。あご(頬か)にすっと一本黒毛が通っている。
望遠にしたところ。ちょっとピンぼけになってしまったが。
ペンギンの新鮮な糞は、餌の甲殻類である「ナンキョクオキアミ」の赤い色素と、鳥類の排せつ物の特徴である尿酸の白。これが雪や氷の上だと赤色のみが目立つのを後で知る。
人間からペンギンに不用意に近づくこと、彼らの歩行を邪魔することは厳禁されている。カメラを構えている私に向かって2羽のヒナが近づいてきた。こちらは驚かせぬようじっとしているしかない。
写真下の黒いものは私の雨靴の先である。
一羽は人間相手に飽きて一羽が残り、人間(私)をじっと見ている。雨靴をつつくところまで接近。
カモメ(この島に営巣しているというミナミオオフルマカモメか)に襲われるペンギン。群れからうっかり離れたヒナは襲われやすいという。
無事終えて母船を見る。ペンギンの糞などを船に持ち込まぬように、雨靴を入念に洗う。再び船上へ。入口の薬液槽で雨靴の消毒を入念に行う。
出発から帰るまで、おおむね一時間半。部屋に帰ってお湯を沸かし、紅茶を入れこれにミニバーのウィスキーをたっぷり入れて飲む。
夕食ではビールもワインも欲しいだけ飲める。それでも締めは部屋での焼酎のお湯割りである。ぐっすり眠って明日に備える。
(佐々木 幸久)
アルゼンチン最南端の都市「ウシュアイア」を出て、荒れることで有名な「ドレーク海峡」を二日間かけて南下、細長く南極半島、東シェトランド諸島をめぐり、再びドレーク海峡を北上、出発地のウシュアイア市へ向かう。船中10泊の船旅である。
※ボレアル号の概要
全長 142.10m 全幅 18m 総トン数 10,944トン
メインエンジン 2×2300kw スピード 16ノット
乗組員 144名
長い船上生活である。少し船内を散策してみよう。
喫茶・談話室
客室最上階の前方、操舵室の下に立派な部屋がある。広い。この写真は部屋の半分も映していない。有料でカクテルなどが飲める。書棚があって、英語やフランス語の書籍がある。自由に読書や談話ができる。時にはピアニストの演奏も聞ける(夜に行われる演奏会の練習かもしれない)。
喫煙場所
その喫茶・談話室前のデッキに喫煙スポットがある。SMOKERS' POLE と読める。喫茶室から見ていると、寒い中時々吸う人の姿が。
南極で物を投げ入れる、放置する(忘れる、風に吹き飛ばされるも含めて)ことは厳重に禁じられるが、愛煙家のために、こういう場所がちゃんと設けてある。
物資置き場
屋上デッキの後方に物資置き場がある。白いカバーはミネラルウォーター。金網の大きな籠は野菜など、食品。天然の冷蔵庫だ。
この写真は実は帰りの時。行くときはもっとすごい量だっただろう。
救命艇や上陸、周遊に使用したゴムボートも同じデッキにあった。
必要な時はクレーンで吊り下げる。
2019年1月29日(火)
午前8時、緊急船内放送
「ナガスクジラの群れを発見! 回頭してそちらに向かう」
残念ながら群れは小さく、それぞれが離れ離れであった。
午前10時半 再び船内放送
「今回初めての氷山発見。そちらに向かう」
氷山の周囲をクルーズ船は一周。1万トンの船にしてはなかなか動きが軽やかである。
そして再び船内放送で発表
「通常2日間掛かるドレーク海峡だが、気象条件に極めて恵まれて、今回半日早く海域に到着。明日朝からの予定を半日繰り上げて、今日午後から実施する。」
初上陸は大陸ではなく、南シェットランド諸島の「アイチョウ島(Aitho island)」。日本語で愛鳥島かと一瞬思ってしまうが、イギリス海軍のさる部局の略称、H.O.が、その発音からアイチオーAithoとなったものだという。
完全装備 防寒服、手袋、パルカ、サングラス、浮き輪(ライフベスト)、雨靴
先遣隊出発
上陸先の状況確認
上陸ポイント、気象条件、通路、生物の状態、通路の指定などなど
ゾディアック(ゴムボート)乗船
いかにも剽悍な姿のゴムボート、軍用にも使われるというゾディアックボート。まず雨靴を消毒薬に十分浸して、両脇を支えられて合図に従い、ボートに乗り込む。参加者全体を約30人4班に分け、2班ずつ上陸、残り2班は最初の全員が帰船後出発する。ゾディアックの数の問題もあるかしれないが、上陸地の環境負担を過重にしないねらいもあるとのことである。
(佐々木 幸久)
2019年1月27日(日)
ボレアル号(Le Boreal)に乗船、出港準備、出航
18時に乗船、これは日本時間同日午前6時である。家を出たのが日本時間25日午前8時だったから、正味70時間経過している。
※ボレアル号の概要
全長 142.10m 全幅 18m 総トン数 10,944トン
メインエンジン 2×2300kw スピード 16ノット
乗組員 144名
この船に、阪急交通が全国で募集した日本人乗客130名弱が乗り込む。
乗船後の避難訓練
乗船後すぐに船内放送で非常呼集がかかる。船室内に準備されている救命具を身に着けて、廊下に出る。乗組員たちが要所要所に立っており、とりあえず身に着けた救命具をここで直され、次のポイントでまたチェックされ、緊迫した雰囲気の中、D3(三階デッキ)の部屋に集合。
ここで簡単な説明を受け、船長から Abandon Ship! (総員退去!)の命令。乗組員の誘導で、もう一階下の、救命艇が発着できる場所に移動する。避難訓練終了、首に下げた磁気カードに終了の記録が入力されて、全員が受講したことを確認、間もなく出港ということになった。
1月28日(月)
洋上初日の朝日を見る
船内レクチャー
①9時30分 セミナー1 1時間
・南極上陸について、ゴムボート(ゾディアック)について、スケジュール
旅行ではなく、「エクスペリエンス(体験)」である、積極的に行動し、おおいに体験をしてほしいと
強調される。
・エクスペリエンスチームの紹介
獣医、海洋生物・動物学者、クジラ・ペンギンの研究者、などなど
②11時 セミナー2 1時間
・南極入門
③16時30分 セミナー3 1時間
・きれいな写真の撮り方
種子等の除去作業
日本から持ち込んだもので、南極上陸で持参、着用する可能性のある衣服、手袋、マフラー、バッグ、カメラなど、新品で包装してあるもの以外はこの作業が義務付けられる。
南極の環境に影響を及ぼすことが無いよう、エクスペリエンスチームの監督を受けながら、上陸班ごとに衣類等を広げて、真空掃除機の吸い込み口で何度も何度も、吸い取り作業をするのである。終わったら磁気カードに記録される。
外套(パルカ)の支給
頑丈な分厚い外套が支給される。貸与ではなく支給、日本に持ち帰ってもよろしいとのこと、「こんな嵩張るものをなんで持って帰る」と言っていた。結局持って帰ったが。
17時40分 「南極収束線に入った!」との船内放送
時々船内放送がある。説明会など行事の案内や、留意点などの通知であったりする。このニュースも重要なお知らせという雰囲気があった。
南極収束線とは、日本でいえば暖流と寒流がぶつかる海流のようなもののようで、これより南は南極地方であり、南極オキアミが大量に発生するようである。南極収束線に入ると、広い意味で「南極に入った」といえるようである。
※南極の定義(インターネットから)
南極(なんきょく、英: Antarctic)とは、地球上の南極点、もしくは南極点を中心とする南極大陸およびその周辺の島嶼・海域(南極海)などを含む地域を言う。
南極点を中心に南緯66度33分までの地域については南極圏と呼ぶ。
南緯50度から60度にかけて不規則な形状を描く氷塊の不連続線である南極収束線があり、これより南を南極地方とも呼ぶ。南極地方には、南極大陸を中心に南極海を含み、太平洋、インド洋、大西洋の一部も属する。
船長主催歓迎会
D3集合室にて
船長、航海士、機関士、コック長、船医、などの主要スタッフの紹介
カクテル、歌
D2メインレストランにて、フォーマルディナー
フルコース、メインディッシュはロブスター
(佐々木 幸久)
旅のきっかけ
半年前に本欄に以下の投稿をした。ずいぶん時間がたつので、再掲したい。「以下次号以降詳細報告」と予告しながら、半年以上空いてしまった。お詫びしたい。
(2019年2月号から引用) https://goo.gl/W66UBj
何と家内と南極旅行をする羽目になった。自宅を出たのが、平成31年1月25日午前6時。そして帰ってきたのが2月9日の深夜。
今回は夫唱婦随ならぬ「婦唱夫随」の仕儀であった。私が体を動かしたのは必要とされる健康診断と、旅行料金の払い込みの時のみで、あとは全くの家内任せ。
鹿児島から羽田経由成田までの道中に、初めて詳しい旅行日程表を見た。南極大陸北西端から細く南米大陸へ手を差し伸べているような「南極半島」と、その近辺の「南シェトランド諸島」と言われる地域の周遊であることをその時初めて知った。
自宅を出てから羽田経由成田まで約5時間、成田から約12時間かけてアメリカのダラス、そこからさらに11時間掛けて、アルゼンチンのブエノスアイレス、さらに国内線で300km南下して、「世界最南端の都市」ウシュアイア市。そのウシュアイアの港からフランス船籍クルーズ船「ボレアル号」に乗船したのが、現地時間1月27日午後6時で、ここアルゼンチンと日本との時差が12時間あるので、日本時間では28日午前6時である。自宅を出てから途中ブエノスアイレス、ウシュアイアで若干の観光をしたものの、ホテル一泊、機中泊二日を含めて、まるまる72時間後である。ここから更に丸2日ボレアル号で、荒海で有名な「ドレーク海峡」を越えて南氷洋に至り、驚天動地の南極クルーズを体験することになる。
(引用終わり)
この旅行のきっかけとなった家内の愛読書
「エンデュアランス号漂流記」
著者 アーネスト・シャクルトン
ダラス国際空港到着 米国入国審査を受ける
2時間以上かかったダラス空港でのアメリカ入国審査の様子はおおむね次の通り。
巨大な国際空港であり、頻繁に到来する航空機。数百人とも千人とも知れない入国審査を受ける人の列。
係官が綱を握る麻薬犬の前を一人ひとり通る。入国審査官のところに行く前に最新鋭かと思われる機器があって、画面の指示に基づき首をひねりながらも顔写真撮影、指紋登録、パスポートを画面にかざすなど一連の操作を終えると、いろいろプリントされたシートが出てくる。それを入国審査官に渡すようになっていて、さすがとその効率性に感心する。
ところが入国審査官のところでそのチェックシートを渡すと受け取るものの、またぞろ審査官の指示により顔写真を撮り、パスポートを電子的にチェック、指紋を指5本とも取る。
笑ったのは、どうも指紋がうまく読み取れないらしい、係官が自分の額を指さして指をこすりつける動作をする。どうも指に額の脂をつけろとという指示のようだ。そこで自分の鼻の脂をつけて読み取り装置に押し付けると「OK」。装置のガラス盤はべとべとで、これではますます読み取れないだろう。
ところで事前のあの自動装置での操作は何だったのだろう。
今度は出国検査。うんざりしていると、日本から南米への通過客と認めると検査をパスして通過させてくれる。夕刻再びアメリカン航空に乗り込み、ブエノスアイレス空港に向けて出発。再び長い一夜を過ごす事に。
翌日ブエノスアイレス空港に到着、再び入国審査で、おそらく軽く千人を超える長蛇。列がいくら混んでいても、休憩時間が来たら審査窓口がすっと閉鎖し休憩に入る。窓口は十数か所もあるから列がストップすることはないものの、3~4箇所の窓口で、思い思いに休憩(男女で夢中にだべっていたりなど)しているのにはちょっとびっくり。ここを抜けるのに3時間近くかかった。
冬の成田から真夏のブエノスアイレス市内。市内観光。ホテルに一泊。
国内線空港から国内便で、最南端の都市ウシュアイアへ
面白いと思ったのは客の搭乗順番である。日本で通常行われるのは主に二つあって、一つには奥の席、中ほどの席、最後に前方の席、という順番で乗せるケース。もう一つは最初窓側の席、次に中央の客。最後が通路側の席。
こちらで行われたのは、スーツケースを持たない客から先に搭乗させる方法である。確かに通路に立って大きなカバンを棚に入れるために一時的に通行を妨げている。手荷物のない客はすぐに椅子に座るからこれが実にスムーズにいくのである。
ウシュアイア空港ターミナルは木造であることが機中からもすぐに見て取れた。
南米最南端の都市「ウシュアイア」
炎熱のブエノスアイレスから真っすぐ南に3000km、こちらでは日中でも寒いくらいだった。真南だからブエノスアイレスとは時差がない。日本との時差が12時間、半日先を行く感じで、日本の正午がその日の夜12時。この時間がクルーズ中船内でずっと使われた。
南米最南端の都市。南極クルーズの基地であり、バタゴニア周遊の基地でもある。市内は建築ラッシュである。
今回のクルーズ参加者で霧島市内観光温泉オーナーさんによれば、とにかくウシュアイアまで行きつけば、たくさんのクルーズ船のキャンセル待ちなどして、若くて時間があればの話だが、格安の南極クルーズも可能だとか。
国立公園、世界遺産でもある、「ティエラ デル フエゴ(火の国)」国立公園。世界の金持ちの中で、自分のキャンピングカーを船で送り、自分たちは飛行機で来て、この公園で何日か過ごすのが流行りとか。たしかに大自然である。
(佐々木 幸久)
下地島空港旅客ターミナル 天井材としてCLT採択
宮古島市の下地島空港活性化対策について、沖縄県の公募に際して三菱地所の提案が採択された。沖縄県との間で基本合意書が締結され、三菱地所はここに旅客ターミナルを建設することになった。自然景観を活かし、環境の観点から木造が選択され、天井材としてCLTが決まった。光栄にも当社が材料製作、加工・架設をお引き受けすることになった。
(下地島空港完成予想図)
起工式に出席
10月11日朝、私、榎原専務、村田部長、小城リーダー4名、伊良部大橋を経由し、建設予定地に設えられた会場テントに到着。元請け会社の国場・大米JVさんの隣に私たち4名の席が設けられ、名前も掲示されていた。
地元の方は、かりゆし姿ながら、外は皆スーツ姿で強烈な日差しと猛烈な暑さで、昨夜重ねた泡盛ロックが効いて式の間はもうろう状態、何とか玉串だけは作法通り奉納。式が終わって立ち上がったら、汗がスーツを通り抜けて椅子がびっしょり。
三菱地所谷澤専務様は施主挨拶の中で、宮古島のすばらしさに惚れ込んでいること、この自然環境を活かすことを願っていることなどを話される。その中で日建設計、元請け国場・大米JVへの感謝と今後の期待を述べられたのは当然ながら、CLTのこと、そして当社の名前も出して下さり、感激する。立派に仕上げてご厚志に応えようと深く期することだった。
(佐々木 幸久)
協和木材さん新工場落成式参加の機会があり、久しぶりに山形県に行くことになりました。月曜日が国製協の総会、水曜日が落成式なので、火曜日は時間を自由に出来そうです。
かねて気になっていた酒田市か鶴岡市まで足を伸ばしてみようかと考えました。「南洲翁遺訓」を編纂されたのが旧荘内藩士の方であると聞き及んでいたので、一度この地を訪問してみたかったのです。
鶴岡市か酒田市かと思いましたが、南洲神社がある酒田市に決めました。酒田市は豪商本間家の事もあり、豊かな街であろうという印象を持っていました。冷たい小雨が降る酒田駅前は、最近の地方のどこの街とも同じようにうら寂しい様子でした。
駅の案内所で街の様子や南洲神社のこと、交通の便などを聞き、親切に教えて貰いました。昼をだいぶ回っていたので、手荷物を引きずりながら案内所で聞いた料理屋を訪ね当てました。参詣が終わってからが好ましいのだがと思いつつ、まずは地元のお酒を指定して熱燗二合。
案内所でバスの時刻表も貰っていましたが、タクシーで行くことに。いかにも古都らしい、山折倉庫、本間様旧邸などの横を通り、南洲神社に到着。タクシーを待たせたままの慌ただしい参詣になりました。
南洲翁と対話の座像は、荘内藩 臥牛翁菅 実秀 「南洲翁遺訓」の編纂者
南洲神社は、鹿児島市内、鹿児島県和泊町、宮崎県都城市、ここ山形県酒田市にある。
荘内南洲神社
昭和51年、伊勢神宮の古材払い下げを受けて創建される。
書籍の頒布、毎月人間学講座を開催。
「南洲翁遺訓」文庫本を製作し、無料配布している。
公益財団法人荘内南洲会 南洲神社 理事長 水野 貞吉氏にご案内戴いた。
ここで求めた書籍。文庫本の「南洲翁遺訓」は戴いたもの。
(佐々木 幸久)
〔編集追記〕
鹿児島に熱心な西郷さんファンが多いのは知られていますが、なぜ遠く離れた山形に西郷さんを祀る神社があるのでしょうか。
(荘内南洲会発行 南洲神社パンフレットより抜粋)
南洲神社は南洲翁(西郷隆盛)を祀る神社ですが、鹿児島市、沖永良部島和泊町、宮崎県都城市、そして山形県酒田市にあります。
明治元年の戊辰戦争で、荘内藩は官軍に激しく抵抗したため厳しい処分を覚悟していましたが、南洲翁の指示により公明正大で極めて寛大な降伏条件の言い渡しを受けました。
(中略)
明治3年~8年にかけ荘内藩主酒井忠篤公を先頭に鹿児島を訪れ、南洲翁(西郷)の学びを得ました。学んだ全てを書き残し、明治23年「南洲翁遺訓」として刊行しました。旧荘内藩士たちはこの「南洲翁遺訓」を風呂敷に背負って全国を行脚しながら配布しております。
荘内藩は戊辰戦争での西郷さんの対応にすっかり惚れ込んで、藩主をはじめ藩の有望な若者を数多く薩摩の西郷さんの元に派遣して教えを乞い、その言葉を本にまとめて普及につとめ、後に神社まで創建してしまうという凄い話です。
来年2018年1月からスタートする大河ドラマが「西郷どん(せごどん)」に決まりました。魅力ある西郷さんが描かれることを期待しています。
去る4月27日、協和木材(株)新庄工場落成式に招かれ、それに先立つ工場見学会と合わせて参加してきました。ちなみに私が招かれたのは、日本集成材工業協同組合理事長の立場としてです。
新しい工場は山形県新庄市の中核工業団地に建設されました。ホテルからタクシーで工場へ向かいましたが、途中の公園の桜が満開でした。今年は鹿児島で十分に花見が出来なかった事を思い、ちょっと寄ってくれば良かったとあとで後悔しました。
この工場はラミナ生産の製材から完成品まで一貫しています。実は他にも驚くべき特色があって、その一つが原料の丸太はすべて2メートルであることです。そしてもう一つの特色として、製品が管柱のみであることです。従って生産ラインは極めてシンプルで、ラインも極めてわかりやすく、ものの流れも非常にスムーズであるように感じました。
工場内の乾燥ヤードから2m限定のラミナが搬入され、様々な加工過程を経て、工場の真ん中に設置してある巨大な自動倉庫に一旦格納されます。その自動倉庫から必要に応じてラミナが太平製作所のフィンガーラインに投入され、回転プレスに入り、仕上げて格付け後梱包し、製品になります。
太平製作所のフィンガーラインは同社の傑作機の一つで、24時間365日連続操業(定期整備日を含む)を念頭に製作されたものです。国産管柱専門工場として国内最強の工場の一つであり、住宅用集成材の国産材比率を大いに高める要因になることは恐らく間違いありません。
落成式は工事経過報告から始まりましたが、この地に建設するまでに一度別の工場用地を取得、造成に入ったもののその土地が建設に不適切であることがわかり一度断念したことが報告されました。
再び用地取得に入り、現在地に完成したものとのこと、佐川社長、関係者の皆さんの喜びもひとしおであったろうと拝察しました。
参加者は行政、地元関係者、業界、お取引先、従業員の皆さまでおおよそ三百数十人でしょうか、会場一杯の大盛況でした。国内随一の国産材加工の近代工場落成に、地元の方々が大変喜んでおられる様が伺えました。
私も知り合いで久しぶりにお目にかかる方々もおられ、閉会まで楽しく過ごすことが出来ました。
ご繁昌を心から祈念するものです。
(佐々木 幸久)
19年前にニュージーランドに行ったときは、既にニュージーランドの国立林業研究所(NZFRI)が民営化され、そしてすべての国有林と国営木材加工工場が、フレッチャーチャレンジに売却されていました。
今回訪問したSCIONは、民営化されたFRIの後継組織であったことを知りました。フレッチャーチャレンジ社の巨大な工場も今回見学したRED STAG、その他の会社に分割されたということでした。これらの経緯はよく分かりませんでしたが、激しい国際的競争原理の中で様々な最適解を求めて変遷していったのでしょう。
20年以上前のあの大胆な民営化は、当時の政権による国柄を替えるほどの行政改革の一環と受け止めていました。もちろんそれは事実でしょう。
ここからは私の想像です。かつてニュージーランドは林業を以て立国すると決意しました。その決意の下、関わった林業研究者たちの覚悟はすさまじいものでした。世界中からこれはと思われる樹木を探してきて、広大な試験林にその苗木を植えました。その遺跡が今回ツアー2日目に訪ねた「レッドウッドフォレスト」です。
気候風土との適性、林業面での経済性、木材加工原材料としての適性など、あらゆる面から科学的合理的多角的に検証検討して、結果的に外来樹種であるラジアータパインを選定しました。
そしてそのラジアータパインにも矢継ぎ早に品種改良を進め、様々な目的にかなう多数の品種が作られました。
このラジアータパインを国木として決定し、国有林を初めとして全国的に造林しました。そして伐採できるまでに成長するや、このやや特異な材質を持つ木を、きちんと合理的に利用するノウハウを確立するために、ついには国営による巨大な木材加工会社まで設立しました。
まさに近代日本立国を図った明治の功労者たちの如くにです。この時期のニュージーランドの行政官、研究者達が何と志が高く有能で、そして果断であったことか。
私たちが訪問した約20年前というのは、恐らくその目的をほぼ完全に達していて、おそらくは達成感に満たされた中、激しい民営化の流れに潔く静かに身を委ねていたという状況にあったものと思い至っています。
これらのプロジェクトが進行中あるいは完成期の頃に、この地に身を置かれたのが九州大学の若き学徒であった堤寿一先生だったのだと思います。先生は謹厳で武士的雰囲気のある方でしたが、まさに林業立国のために取り組んでいるニュージーランドの林学研究者たちの志に傾倒し、共感と深い敬意を覚えておられたのではないかと思うことです。それに比べると自国の林業、林学の世界は一体どうしたか、と歯がゆいものがあったに違いないのです。
今回の旅行で今のバブルの様子を見ていて、直感と想像から思い切って言うのですが、この国はあの頃を分水嶺として、武士的な国から商人的な国に転換したのではないか、ふっと沸いてきた感想です。
(記憶に残る昼食)
○スバイシーポーク+ご飯
アジア系の店 砂糖でベタ甘、辛い、汗があふれる 10.8$
○インドカレー
インド人が多いのだろう。様々な種類があって、うまかった。3度食べた。広大な野菜畑があったが、カレーの具材としてインド人達が作ったものだという。 10~13$
○昼なのにモーニング!
煮た豆とソーセージ、炒り卵、ベーコン、バターを塗った食パン
安くてうまかった 9.9$
(記憶に残る夕食)
○マオリ観劇と食事
ディナー料金69$+ワイン割り勘10$
他に団長外からワイン差し入れ
料理は、鶏、豚、羊肉、魚、芋、野菜の蒸し焼き。カレー、シチュー、麺、サラダその他
ディナー料金はホテルに付け、ということになった。翌朝ホテルでこの分精算しようとしたら、「既に支払い済み」と言う。??? 誰や彼や問い合わせて、何と荒川団長がぼそっと「俺が二人分払ったかも知んない」。えっ!!??。だって英語はすごく堪能な人なのに。
マオリ劇に皆さん参加して、楽しそうだった。ちなみに有名な戦いの前の儀式、「カマテ、カマテ、カオーラ、カオーラ」とは、「生きる、生きる、死ぬる、死ぬる」という神聖なもの。コマーシャルなどで使うのは罰当たりなことのようである。
○オークランドにて最終晩餐 レストラン「モリタ」 日本人経営
120$
ニューシーランド最後の夜。心残りの無いように、まさか割り勘負けをしないようにと言うわけでは無かろうが、みんなまあ良く呑むわ呑むわ、ついに料金一人頭120$に。
参加者中ただ二人の女性、M女史と父娘で参加された宮崎県M木材の娘さんとは、二人ながら英語も堪能で、いつも笑顔でありながら気品があって、とかく放縦に流れがちな男どもの気を引き締めて、視察団の品位を汚さない上で大変功労があったことを記して、この報告記を閉じることにします。
(「ニュージーランド再訪記」完)
代表取締役 佐々木 幸久
ニュージーランド2日目(2016年6月8日)
アグロドームで羊の毛刈ショー
午前中希望者で「アグロドーム」に行くことに。牧畜や農業の国ニュージーランドの情報発信基地として効果的な施設です。広大な敷地があって、体験農業的な事も出来るそうですが、私たちは観光施設の木造館へ。ここで羊の毛刈りなどの出し物を見ます。
観客は中国、韓国、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド国内。日本人は私たちだけで、全体で最も少ない10人。それぞれの言語の同時通訳者がつきます。ガイドさんの紹介で日本語担当者に挨拶。
弁士が立ってショーが始まりました。この司会が大男で芸達者で、早口で良くしゃべる。それを同時通訳が必死で訳すのを、我々はイアピースから聞くのです。いささか野卑な盛り上げぶりで観客も大喜び。
ころころと羊を転がしながらの毛刈りも自ら実演、19種類の羊のお披露目、外に出ての牧羊犬による羊の追い廻しなど、大したエンターテイナーぶりです。
驚いたのが、仕事としての羊の毛刈り。
羊の毛刈りは大変儲かる仕事だというのです。
その刈り賃は1頭当たり2NZ$とのこと、えっ150円?その値段で本当に儲かるの?
弁士によると毛刈り職人は1日9時間労働で600頭の羊の毛を刈る、つまり1頭当たり1分かからないわけで、その効率に2度目のびっくりです。確かに600頭やれば、1頭2ドルでも1200NZ$、10万円以上の日当になります。年100日なら1000万円、150日なら1500万円以上の年収で、確かに「儲かる仕事」と言えそうです。
しかし1人1日当たり600頭で、年間150日の仕事量を確保するには9万頭の羊が必要です。こういう人が何百人もいて、それぞれが十分な所得を得ているのならば、畜産から食肉、繊維までの巨大なサプライチェーンが出来ていることになります。圧倒的な効率を背景にした、圧倒的な国際競争力が背景になければ出来ることではありません。もっともそれが出来ているから国際競争力が出来たとも言えるのでしょう。
しかし一頭の羊を1分で丸裸に出来るとは。労賃はわずか150円とは。それで1日10万円も稼ぐとは。感嘆しつつもまた慨嘆することでした。
羊の毛刈りを我が国林業に引き比べてみる
我が国でも戦後植えた木が概ね伐り時を迎え全国で伐採が盛んになってきました。伐ったあとには当然植え付け(再造林)をしなければなりませんが、植え付けの人の確保が難しくなっているのです。歩掛かりとしての植え付け費は決して安くないと思うのですが、植え付けの仕事が儲かると聞いたことがありません。
実は一人が1日に植え付ける本数が、主たる林業国の中では我が国が一番少ないのです。あちこちで聞くのですが、最も多いところで1日1人400本、一般的に200~250本でしょう。
一方海外ではどうか。私の聞いた限り、どこでも不思議に同じで1日1000本なのです。
1本当たり植え付け費が100円であっても200本植え付けなら、1日20000円です。一方1000本植えれば、100000円の日当になります。仮に単価が半分でも、50000円。
例えば大学生が、1人ではいやだがサークル仲間数人と休暇中に挑戦したとします。1日50000円で20日働いて100万円になります。
例えば初めての仕事で大変でしょうが、夜の飲食店のアルバイトに比べれば健康的です。やっただけの収入が保証されるのであれば若さで乗り切れるでしょう。
次の課題が生まれます。5人で1日5000本。20日間だと10万本。現状だとまず苗木の供給が追いつかないと思います。
次に植え付けの場所ですが、1ha当たり1000本植えなら5人分の作業場所として100ha、1500本植え付けで75haが必要ですが、誰がこれを継続的に、かつ広範囲に確保できるかです。
我が国では林業が儲からないことになっているので、造林から間伐まであらゆる作業に補助金を付けています。補助事業の受け払いは極めて複雑な事務作業であり、専門教育を受けた林業技術者が多数これに携わっています。ベテランの技術者が本来の業務たるべき林業の技術や構造的問題の改良に携わるいとまもない有様です。
国際的に見て我が国林業は劣勢にあり、施業面積は伸びません。単価は高くても作業量が少ないので、結果的に従事者の全体所得は他の林業国に比べて問題になりません。人手不足はやむを得ないでしょう。
本日の整理
・国際競争力を確保できる商品価格を設定する。
・それに見合う労働単価を設定。 一頭2ドルとはまた何と安い!
・単価は安いが、仕事は継続的にいくらでもある。
・本人の技倆と頑張りで、沢山の仕事をこなす。 一人で1日600頭とは!
・少しでも効率を上げられるよう、配慮する。
・平等になどとの配慮から所得の頭切りなどしない、 1日10万円!
・継続して高い所得を上げられるなら、人材は集まる。
(メモ)
・午後は、初回に紹介した「レッドウッドフォレスト」
・昼食 インドカレー 10NZ$
・夕食 荒川団長1日遅れで到着。団長を交えての合同夕食会 75NZ$
サツマイモのポタージュ、ラム肉ステーキ、デザート
ビール、ワイン
(佐々木 幸久)
オークランド空港到着
朝8時過ぎオークランド空港に到着。検疫で食品持ち込みには大変厳格とのこと、申告に少しでも虚偽があれば即刻罰金300$と脅かされました。ほんの少しばかりのおつまみを「食品あり」と書き込む。係官はカードを見て、「これは何か」と確かに聞かれました。何とか答えて無事通過。
両替所で日本円30,000円をニュージーランドドル(NZ$)に両替。手数料10NZ$を引いて356NZ$とコインが何枚か。1NZ$当たり84円。以前来たときも似たようなレートだったと思います。大きな額の札をすべて10$、20$に替えて貰いました。
お土産1万円と、5泊なので1日当たり4,000円、これで十分だろうと踏んだのですが、あに図らんや予想は外れました。
オークランドにてニュージーランド最初の食事
ニュージーランド最初の食事(昼食)はチーズ、ベーコン、目玉焼きのハンバーガーとコーヒー、15NZ$。ペットボトルの水が4.5NZ$(400円弱)だったのにはびっくり、さすがに買う気になりませんでした。同行の皆も目を丸くしていました。
ニュージーランドは住宅バブル
バスの途中で日本人の現地ガイド(運転手兼務)に話を聞きました。家を1件作ると数千万円、水辺など景観の良い場所になると1億円以上掛かるとのこと。
オークランドは人口150万の大きな街ですが、うち中国人が10%近くを占めていてしかも更に流入が続いており、彼らの投機買いも含めた旺盛な住宅購入意欲に煽られて住宅価格が高騰しているようです。
オークランドは最も初期に入植が始まったところの一つであり、数々の名所旧跡がありました。
ロトルアへ移動
途中で休憩 マタマタの町のインフォメーションセンター
映画「指輪物語」「ホビットの冒険」ロケがこの町の郊外で行われた由。 映画好きガイドさんの話。
19年前もロトルアを本拠にしてあちこち行ったものです。
市内の「ポリネシアンスパ」の話が出て、その前も通ったのですが、19年前には宿から歩いてそこに入浴したのです。数日滞在した場所が分かるかなあと思いましたが、記憶は蘇りませんでした。
酒屋でワイン購入
ホテルに入る前ガイドさんが気を利かせて酒屋に寄ってくれました。ニュージーランドのワインは安くて質が高いとのこと。これには皆大喜びで私もシャルドネ系のニュージーランドワイン2本を仕入れました。
伝票を見たら、10.99NZ$と、12.99NZ$、合計23.98NZ$ですが、Rounding 0.02NZ$で、改め24.00NZ$となっています。「丸める」とは日本でも言いますが、大概は小さいところを切り捨てることが多いのですが、こうして足すこともあるのですね。面白いと思いました。しかしそれだったら、最初から10.99などという半端な値付けをしなければ良さそうなものと思うのですが。
ホテルに着いてから早速味見してみましたが、さわやかなおいしいワインでした。この2本と、鹿児島から持ってきた焼酎小鹿5合入紙パック×2本が、これから数日の夜の友になります。
初日の夕食
ホテルから歩いて数分のところに、その名も「EATSTREET」という飲食街があって、滞在中重宝しました。初日の団長抜きの夕食は皆で連れだってホテルを出ましたが、全員での会食は団長が到着する明日の夜にしようと一決。
看板を見ながら小ぶりな食堂街を行ったり来たり、何となく好みで3、4組に分かれました。私たちは気の良さそうな美人店員さんのお誘いで数人、とある店に入りました。ビール、ワイン赤白、料理は数皿を皆でシェアして、一人頭40NZ$。
そのままホテルに帰って二次会に。それぞれ部屋から先ほど入手したビール、ワイン、つまみを持ち寄り、それに焼酎のお湯割り。焼酎5合があいたところでお開きになりました。
(佐々木 幸久)
出発、成田にて
平成28年6月6日16時30分、成田空港HISカウンター前に集合。当日CLT協会総会の日でしたが、塩﨑常務に参加して貰い、余裕を持って成田へ。おかげでこちらには多分一番乗りの到着。
さて旧知、初対面含めて参加予定者が全部そろい、いざ搭乗手続きというとき、荒川団長が「パスポートを家に置き忘れてきた」と爆弾発言。団長からは旅の注意事項や現地の気候情報などと共に、再々「パスポートだけは忘れないように」と、注意喚起のメールを戴いていていつも何か忘れ物をする私なども十分心していたのでしたが、当のご本尊が忘れてしまったとは。
航空会社と話がついて荒川先生のみ翌日便に変更、団長抜きで視察団は出発することとなりました。旅は早くも波乱含みの予感です。
飛行時間10時間30分の時間は実に長いと感じました。行きは夜行便でありかねての晩酌に比べてビール1杯ワイン2杯は少な過ぎ、また余り遅くまで読書灯をつけるのも憚られ、眠れぬ夜を持て余しました。帰り便でさほど感じなかったのは昼行便であり持って行った本をゆっくり読むことが出来たからでしょう。しかしもう海外旅行も考え物だなと感じたことでした。
防腐防蟻は50年保証
今回の視察で最も感じ入ったのは、防腐防蟻の保証期間は基本的に、Life Time(家が存続する限り)とういことです。
ニュージーランドの規格では、 内装材 5年、 外装材15年、 構造材50年 と決まっているというのです。
住宅建築中
木材はすべて保存処理している
大半がホウ酸塩(多分DOT)
ホウ酸塩はピンク色に着色。
(当社でも処理材はピンク色使用)
一部水掛かり部分をCCA処理
なお、CCAはニュージーランドでは禁止されていません。住宅の一部、雨掛かりなどで使用されますし、外構材ではタナリス等とともに非常に多く使用されています。
様々なメーカーにおいて様々な薬剤や処理技術が開発され、メーカー同士の競争もあるようですが、基本的に新築の際にはすべての木材に加圧注入されます。我が国でよくある農薬の現場塗布や、土台根太など構造材の一部処理ではなく、住宅に使用される木材すべてに加圧注入による保存処理が行われています。
それにしても我が国では何故農薬の塗布処理というような永続的な効果が期待できないやり方を、優秀な専門家がそろっているはずの薬品メーカーが推奨して恥じないのだろうかと疑問に思います。
保存処理費は60~75$/m3ということでした。NZ$であれば、5000円~6500円ということになります。家1棟分の木材が、造作材、合板も含めて30m3あるとすれば、1棟あたり15万円から20万円、十分容認できる必要経費だろうと思われます。
当社としても「保証期間」50年と決めるのは時期尚早としても、長期の耐朽性能について真剣に考える必要があるように思います。
その手法についていろいろあると思いますが、家1棟分すべて処理する人にはm3当たり処理費を安くして全棟処理を強く推奨する。
ホウ酸処理マニュアルを再度チェック、温湿度管理が出来る養生室を整えてしっかりした養生を行う。
以上のようなことを検討すべきだと考えました。
ポールコンストラクション構法
防腐処理した丸太を穴に立てて、コンクリートで埋める。
その丸太柱の上に桁を乗せて建物にする。
ニュージーランドやオーストラリアでよく見る。
帯のこ。幅が広く、身も厚い。
背にも刃がついている。
木造の防火用水タンク。二つの工場で見る。
防腐処理(CCAもしくはCuAZ)した木材で作る。
長い鉄筋で絞る。下が水圧が掛かるので、
下に行くほど段々鉄筋の距離が近くなっている。
次回予告
ニュージーランドでの食事その他について
(佐々木 幸久)
19年ぶりのニュージーランド
NPO法人ホウ素系木材保存剤普及協会という団体があります。理事長は荒川民雄氏、ボロンテクノロジー代表。私も理事会の末席を汚しています。
その荒川理事長からニュージーランド視察の企画を聞いたとき、これは是非とも行かねばなるまいと思いました。ひとつは荒川先生の防腐防蟻関連の視察が久しぶりだったこと、それともうひとつは20年近く前ニュージーランドに旅行した時の印象がとても良かったのです。
この時は堤寿一先生(当時九州大学農学部名誉教授)のご案内で、今回のようにオークランド空港に到着後、ロトルアを中心に、堤先生が練りに練った計画を作ってくれて有意義に視察を行うことが出来ました。そのようなことでお話があってすぐに1週間の時間を作る段取りを始めました。
帰国後 同行のNさんからメール
実は旅行から帰ってから、同行のAFM Japan社のNさんから以下のようなメールを戴きました。
Nさんのメール
(前略)帰国後、ガイドいただいた松木さんのサイトを検索中に、佐々木社長の平成9年の「ニュージーランド視察記」を見つけ拝読いたしました。
視察前に読んでいれば相当に視る目が違ったのにと残念です。
20年近く前の森林・木材関係の事情も大きくは変わっていないようで、ただ、所有形態が政策により民間化が進んでいるようで、松木さんのレポートの内容に理解がつきます。
訪れたSCIONが森林総合研究所が前身と聞きましたが、当時にもNZ森林総合研究所を訪れておられ、案内の仕方も次々と担当から担当に引き継がれるとの文章に、今回も同様であったなと思いました。
松木さんが属したフレッチャー社も訪れておられ、時期的にどこかでお二人のニアミスがあったのではないかと思われてしまいます。(後略)
私もNさんに言われて、改めて自分の昔のレポートを再読してみました。もうこの歳になるとあまり勉強もはかが行かないのですが、当時は見るもの聞くもの新鮮で、しかも堤先生の実に懇切な解説付きですから、こと細かに記録しています。当社ホームページでも検索できますので、興味を持った方は読んでみて下さい。
■ ニュージーランド視察記(社内報「やまさ」平成9年8月号~11月号掲載)
故 堤寿一先生をひそかに偲ぶ旅に
私にとってニュージーランドは即ち堤先生でした。先生はニュージーランドを愛し、この国の林業研究や研究者たちに深い尊敬の思いを抱いておられました。今回の旅行は堤先生を偲びつつ、20年間の変化や推移を観察できれば、と考えていました。
荒川理事長からは参加者全員にそれぞれの視察先について分担してレポートを提出するように指示があり、そして佐々木には「レッドウッドフォレスト」が割り当てられました。
今回のレッドウッドフォレスト山行中、私は不思議としか言えないことに出会いました。それが耳に入ってこのテーマを私に割り当てたのでしょう。 従って今回は順番を飛ばして、まずレッドウッドフォレストの山歩きからレポートし、その他は次回にしたいと思います。
さてその山中での不思議なことについて述べる前に、今少し20年前の旅行のことを述べることにします。
堤先生は九州大学で木材理学の研究室で永年研究、指導をしておられました。若い頃ニュージーランド国立林業研究所に留学、ラジアータパインを主とした材質の研究をされました。そしてその材質の特徴について、正確な知識、情報を初めて我が国にもたらした方です。ラジアータパインの製材JASは他の樹種のそれに比べて妙に学理的ですが、先生の情報を元に作られたものです。
先生はニュージーランドが大好きで、毎年のように行っておられたと思います。九州大学退官後あるとき、今年もまた行ってくるとお聞きしました。先生の滞在中に私もお邪魔させて下さいとお願いして、約1週間の視察が実現したのでした。シーズンもたまたま今回のツアーとほぼ同じ時期です。
この絶好の機会に自分だけで行くのは勿体ないと思い、関心のありそうな方々に声を掛けてみました。急な日程の中、都合がついたのが、当時当社で技術指導をして戴いていた中村徳孫先生(当時宮崎大学名誉教授)、鹿児島県工業技術センター遠矢木材工業部長のお二人でした。ちなみに3人とも自費での参加です。
あの時のニュージーランドはこんなにも過激に、と思うほどに急速な民営化のただ中にありました。国有林も民営化されましたし、二日間にわたって訪問した林業研究所も、民営化直後で雰囲気も如何にも慌ただしく、良くない影響が出なければ良いがと思ったような気がしたものです。
先生の昔からの滞在先のお宅に私たち三人もホームステイさせて貰いました。気むずかし屋のご主人と、昔モデルだったというのが信じられない、おしゃべりで世話好きの奥さん。お茶はいかが?としょっちゅう言われるのに閉口しながらも、堤先生ご夫妻、親戚づきあいとも言うべき宿のご主人夫妻と、朝夕の楽しかった思いでがよみがえりました。
当時ニュージーランドは物価が大変に安かったのです。消費税は当時からとても高く、20%近い税率だったと記憶します。ただ税込みで値段を聞くとそれでも安くて、満足しました。昔のレポートにその辺も記録しています。
今回驚いたことの一つが、ニュージーランドの物価高でした。まさにニュージーランドはバブルの真っ最中、と言える状況です。
当日午後の予定としてまず間欠泉の見学、その後レッドウッドフォレストの視察という見学コースがありました。
私はより多くの時間をこのレッドウッドフォレストで過ごしたいと思い、間欠泉の見学はキャンセルしました。英語の堪能なM女史と、ホウ酸塩防腐処理事業をシステム化して全国展開しているA社長が賛同、3人でのツアーとなりました。
森の中での不思議な邂逅
この公園は元々国の林業研究所の施設で、重大な目的のために設置、目的を果たして公園となったものです。ニュージーランドの人工林草創に当たり、どのような樹種を選択するかまさに国家的取り組みをした、若い国故にこそ、どこの国もここまで徹底して取り組んだことのない、まさに林業研究の革命でした。世界中から有望そうな樹木、日本からもカラマツ、スギなども苗木を取り寄せて植林し、成長性や地域への適合性、材質など仔細に調べられたと聞いています。
私たちは2時間コースを選択、巨木の森を歩き始めました。暫く歩いている内に、この森の中で先に述べたまさに不思議としか言いようのない出会いがあったのです。地元の人と思われる高齢の紳士が、後ろから早足で歩いてくるので、ゆっくり散策している私たち3人は道を譲ろうと脇へよけました。すると追い越しざま、「日本の方ですか」と片言の日本語で語りかけてきました。いろいろ話す中で、Mさんが私たちは木材関係の視察団で、と達者な英語で紹介しました。
くだんの紳士も日本との関わりを話しました。自分も林業関係で、九州大学で昔林学を教えた、宮崎や秋田にも行った、筑波のクロダとは一緒に仕事をした等、どうもただならぬ成り行きになりそうです。
そこで「堤教授を知っていますか」と聞いてみました。地元の日本びいきの老紳士と日本からの観光客とのたわいない立ち話が、ここでがらりと局面が変わりました。襟を正して深林での名刺交換の仕儀となりました。
さて貰った名刺には、Dave Cown
な、なんだって! カウン先生!
堤先生のお引き合わせか
一瞬総毛立つような気がしました。もうこれは堤先生のお引き合わせとしか思えません。九州大学に集中講義で招聘したのも堤先生なら、南九州の木材工業を案内して回ったのも堤先生(その際当社も訪問)。先述したラジアータパインの解説書「ニュージーランドパインユーザーガイド(堤、黒田監修)」の原著者の一人でもあります。
改めて名刺をよくよく見ると、かつてのFRIの後継組織SCION、そこのSenior Scientistという肩書になっています。
道々お話ししながら公園の中を歩きました。お近くにお住まいのようで、公園を出たところの駐車場に車が止めてありました。固い握手を交わし、「お元気で!」。
車で出発するCown氏を見送り、私たちは再び山へ。
どこかで道標を見失ったか、それとも正しいコースだったのか、約2時間の彷徨を経てやっと最初の公園入り口に帰り着きました。間欠泉→レッドウッドフォレストのメンバーと合流、皆さんのバスに乗せて貰って無事ホテルに帰還となりました。
もう一つ密やかな関心がありました。当時は電柱の半分以上が木製(集成材が主)、ガードレールの柱はすべて木柱、羽の部分は鉄と木と半々、街中の交通区分帯に使っているのも集成材の円柱などだったのです。それがどうなっているだろう。
その結果ですが、ガードレールの柱は今でも多くが木製でしたが、当時半分はあった木製の羽は皆無、そしてずっと車窓から注意深く見ていましたが、あの独特の形状の集成材電柱は全くありませんでした。すべてコンクリート製に変わっていました。
次号予告
さかのぼって出発時の成田での大騒動。珍道中の始まりです。
(佐々木 幸久)
去る4月9日、銘建工業様のCLT新工場落成式に参加してきました。聞きしに勝る規模であり、同社中島社長のこの事業に掛ける熱い思いが伝わってきます。
CLTについては当社も小松幸平先生のご紹介によって、おかげさまで早い内にその存在を知ることが出来ました(2000年KLH社視察)。大型木造建築事業を始めてちょうど10年たった頃でした。魅力的な新材料・新構法として今後の事業展開に大いなる可能性を感じました。早速中古のプレスを手に入れて、試作や性能試験をしたりしましたが、規制の壁は厚く、私の器量ではこの魅力ある新素材を事業化することは出来ませんでした。規制でがんじがらめの我が国にあって、まさに中島浩一郎氏の突破力でこの新材料が陽の目を見ることになりました。
当日落成式にゲストで来ておられた政治家の方が挨拶の中で、「2番では駄目なんです、1番でなければ駄目なんです」と銘建さんへのエールを送りました。この発言は出席者から大いに受けていましたが、これはもちろんかつて民主党政権時に何とか言う女性議員が、スーパーコンピューター開発について「なぜ2番目では駄目なのか」と批判、当時話題になった妄言へのひねりです。
中島氏はもちろんこの事業の成功を確信していると思いますが、同時に業界の推進者、牽引車としてこれだけ話題になり各界の期待を担った以上、質量ともにヨーロッパ並みの、国内ではダントツの規模の工場を作らざるを得なかったものと思いました。
先ほどの議員さんの発言はご祝儀表現であって、スパコンのようなニーズや性能が割と明確な最先端技術とは違って、木材や建築のような裾野が広く、多種多様な用途や価値観がある産業では、もちろん二番手、三番手があり得ます。社会の隠れたニーズや価値観の中から、ニッチな用途を発掘して独自の事業コンセプトを練り上げる、まさに「人の行く、裏に道あり」。会場の多くの方々と言葉を交わしながら、そのようなことを考えていました。
パーティーは工場の一画で行われましたが、豪華なお弁当のほかに、中島氏の幼なじみの料理人さんが焼くお肉とか、特産の海産物、おそばなどの屋台がたちました。また地元の清酒、ワインなど銘酒がこれでもかというほどに並びました。真庭市という豊かな地方都市らしい、中島氏のお人柄にふさわしい誠に温かい雰囲気に溢れた良い宴席でした。あとは新幹線に乗り込むのみ、心ならずもかなりの量のお酒を頂戴した次第です。
(佐々木幸久)
4月19日(日)、アクロス福岡にて福岡大学建築展2015シンポジウム「夢の理由~大規模木造の時代~」が行われました。
コーディネーターは福岡大学工学部教授の稲田先生、基調講演はアルセッド建築研究所代表の三井所先生と鹿児島大学教授の塩屋先生。稲田先生からも是非と言われておりましたので、楽しみに参加させていただきました。
三井所先生は、伝統構法の価値や、地元の材料・地元の技術を使う大事さ、金物が見えない構法が与える安心感について触れ、我が国は素足文化であり、そこから金物や石への違和感。純木造に親和感が生まれると講演されました。
塩屋先生は、自身の開発されたSAMURAI構法について講演され、ドイツでも同時期に同じ研究がスタートしているが、実際に建物として実現しているのは世界で初めてであることを紹介されました。
稲田先生は「わずか6年でここまでの完成度の高いシステムに持ってこられたことに驚嘆する。塩屋先生は、実に緻密でエネルギッシュ」と評しておられました。
シンポジウムでは、建築の六次産業化の提言(福大宮崎助教)のうち、「一次のみが不振」に対し、私から一次産業活性化=儲かる林業の指針について提言いたしました。
(代表取締役 佐々木 幸久)
尊敬する中島社長とは昔初めて会って以来、思えば永いお付き合いになりました。中島さんは眼光炯々体躯も大きく、胆力に富み豪放果断、天衣無縫で時に乱暴とも思える痛快な語り口の快男児ですが、一方において実に繊細で愛情深く、まじめで配慮に富んでいます。
そもそもは岐阜県立工業高校土木科を卒業、家業の建設業を引き継ぎました。高度成長期であったことと氏の優れた経営手腕が相まって、一時期土木だけで施工高が百億円を超えたことがあるとのことで、あの僻陬の地に本社をおきながらと驚きを覚えます。
土木事業に付随して必要な関連事業へも熱心に取り組みました。生コン、間知ブロックの生産、重機の整備工場、鉄骨工場など早い時期から整備し、それぞれが副業の域を脱し、地域業界でもトップレベルの水準にあります。
本拠地が交通不便で遠くから調達していたのでは間に合わないこと、事業の季節性、繁閑時期を調整するため、そして更に地域雇用の場を創造するなどの事情からと思います。同じような地域事情にある当社でも、彼ほどの徹底性は欠きますが、志向してきたところです。
中島工務店で住宅事業を手がけたのは自ら進んでのことではなく、何代か前の加子母の村長さんからの強い要請によるものでした。村で生産される「木曽五木」(※注)の銘木は今は木材としてそのままで売れているが、いずれ時代の変化でそれには限界が来る、都会で村の銘木を多用する家を建てて、末永く村の産業を振興するようにと諭されたそうです。
※注 木曽五木 ヒノキ、アスナロ、サワラ、コウヤマキ、ネズコ
村長さんの情理を尽くしたお話に、中島さん生来の義侠心、郷土愛が目覚めて一肌脱ぐ決意をしたのでしょう。今では更に寺社仏閣事業まで広がり、何と現時点で40件の現場が動いているとのこと、住宅事業と併せて同社の重要な事業の柱になっています。
時代の趨勢を見通し、新しい産業モデルをもって中島さんに村の発展を託した村長さんの慧眼と人物に感慨を覚えます。
「雇用の場を維持する」という中島さんの意志は徹底していて、永らくの建設不況から事業不振もしくは後継者難などから、維持が困難になった会社をいくつも引き受け、鉄骨工場、砕石工場、川砂採取船、建設会社などが新しく傘下に加わっていました。スーパーマーケットさえ、閉鎖になっては村の人々が困るし、雇用の場を守るということから引き受けています。
いずれの職場でも、従業員の方々は中島さんの意気に感じて、まさに自分のこととして頑張っているように見受けました。
中島工務店と加子母の末永い発展を心から祈念するものです。
(「加子母をたずねて」完)
代表取締役 佐々木幸久
台湾3日目
台湾で最初のCLTビル(5階建て)を見ることが出来ました。こちらは塩崎常務のレポートを見て下さい。
このビル見学後、小松先生のご縁で、オーナーである焦(Chiao)様から、ご家族様との昼食に私達をお招き戴きました。豪勢な食事と日本酒をご馳走になる、という思いがけない嬉しいご接待でした。
台湾高速鉄道・台中駅で小松先生と別れ、空港のある桃園市近く中瀝市のホテルに入りました。
ホテルのすぐ近くに公園があって、その先に有名な「中瀝夜市」があります。その規模の大きさ、動くのもままならぬほどの人出、その喧噪さ、売り物の多彩さに目が回るようでした。これが毎日とのこと、観光客ももちろん沢山いるとは思いますが、これを運営する台湾国民の底知れぬエネルギーに心底敬服しました。
街中に一行4人で出て、30分くらい歩き回り飲めそうな店を物色、「バドワイザー」の看板が掛かったビアホールを見つけ中に入りました。大勢の外国人らしき人々で混み合っています。
ここは外と変わらぬ暑さ、ホットな味付けの食事(肉豆腐鉄板焼きは絶品)とあいまって、飲んでも飲んでも片端から蒸発するのと、汗で流れ出るのと、もう店員が回ってくるのが間に合わず、他の客の様子に見習い、様々な銘柄のビールの瓶がつまった冷蔵ケースから、今度はあの銘柄、今度はこれと持ってくる始末です。それでもお勘定をして、思ったより安い明朗会計で満足でした。
そして熱気の塊のような夜の街へ押し出すように足を踏みだすと、かすかな風が一瞬、あ、涼しい!
帰りに小さなお茶の専門店で「阿里山烏龍茶」をお土産に購入。ホテルに帰ってシャワーで汗を流しました。
翌朝真っ暗な内から出発の準備、会計、外へ出ると目の前の公園で沢山の人々がそろって太極拳。私達は予約したタクシーで桃園空港へ向かい、心を残しつつ鹿児島空港へ、そして早い時間に無事自宅に帰り着きました。
<台湾への旅/完>
(代表取締役 佐々木幸久)
<台湾(台南)2日目>
小松先生ご勤務の国立成功大学は日本が帝国だった時代の台湾総督府の創建になるもので、今では規模も極めて大きく、台湾国内有数の優秀な総合大学になっています。
広い構内には広場、池、森もあります。樹木が茂る森にはリスが、広場には犬がのんびり寝そべっているなど、暑い中静かな平和な空間に心が和みました。
近代的な新しい建築の外に総督府が建設した多くの建物が建つ一画があります。様々な時代の変遷の間に幾多の改修が行われてきました。そして今また更に老朽化し、抜本的な改修が行われつつあります。現在の改修方針が総督府が創建した当時の状態に復元することにあるとのことで、とても興味深く思われました。
歴史遺跡も訪問しましたが、大学の名前の元になる鄭成功の遺跡は外国の侵略を防いだ台湾国民の偉大なる記念碑であり誇りであると感得されました。
夜は、小松先生行きつけの店のなかでお勧めの料理がうまくて、ビールを出してくれる数少ない店に案内して戴きました。広い店がお客さんであふれています。
辺りを見回しても地元の人は安くてうまい中華料理をたくさん食べながら、お茶か甘いジュースを飲んでいるのは何か不思議に思えました。たまにビールを飲んでいる人は、大概日本人など外国のグループです。逆に言えば地元の人たちは大量のビールを食らっている私達がどのように見えていることか。ただ宗教などの禁忌があるわけではないので、咎めるような視線は全く感じません。まさに人は人、我は我という感じでしょうか。
小松先生によると、学生たちに飲みに行こうと誘えば断られて、「お茶のみに行こう」と言えば皆付き合うとのこと、信じられません。
おいしい料理をたらふく戴きながら、ビールの小瓶を十数本飲んだと思いますが、もうちょっと強い酒も飲みたく、しかし店にはないので帰りにコンビニで焼酎(高梁酒=コウリャン酒)を買ってホテルの部屋で締めにしたことでした。
(代表取締役 佐々木幸久)
平成26年8月12日(火)10時から、「株式会社さつまファインウッド かごしま材JAS製品流通加工センター」新築工事の地鎮祭が行われました。
台風一過、暑いながらもさわやかな夏日のもと、霧島市上野原大地の実に風光明媚で神話の時代からの霧島の台地に、鍬入れが行われました。
当社からは、私と榎原専務が出席しました。山佐木材は原板供給者であり、また工場建設用資材の提供者でもありますが、この会社の株主でもあります。
そのようなことで神事に際して、私も安全無事な工場の完成を祈りつつ玉串を神前に捧げる機会を戴きました。
来賓として霧島市前田終止市長殿、鹿児島県商工労働水産部田中和彦部長殿、県木連、県森連、(株)伊万里木材など業界団体からご参加でした。
神事の後、林雅文同社社長殿から氏の使命感に基づく明晰な企業理念の表明がありました。また前田市長殿も霧島市への立地への感謝と、今後の支援について力強く表明されました。
設計事務所 (株)石橋建築事務所様
施工業者 ヤマグチ(株)様
(代表取締役 佐々木 幸久)
6月24日~27日まで台湾(台南)に行って来ました。
小松幸平先生が昨年夏から1年の約束で台湾国立成功大学に行っておられます(成功大学については小松先生寄稿「研究室だより」参照)。
先生がおられる間に訪問したいと、以前から先生にお願いしていて、今回実現したものです。
私にとっては3回目、同行の他の3人は初めての台湾訪問ですが、鹿児島空港から台北への直行便が週3便あり、所要時間はわずか2時間、私達にとっては実に身近で、もっともっと往来があっても良い国だと思います。
今回の旅行でも感じましたが、台湾は近隣国の中で民度が高く、価値観を共有出来る豊かな民主国家です。また私達の国と同じく島国であり、穏やかな民情が見て取れます。わずか3泊ではありましたが、大変快く楽しい旅でした。
小松先生に台北桃園国際空港までお出迎え賜り、すっかり恐縮したことでした。
快適な台湾高速鉄道で一気に台南まで。
台南は猛烈な暑さで、夜になって、さぞビールがうまかろうと思いました。
ところが、驚いたことに小松先生によると、地元の人たちが食べに行く店では、お酒を出すところが殆ど無いということなのです。
私達が宿泊したホテルのレストランではビール、ワインが飲めたので、初日はそこでしのぎました。ビール大瓶7,8本、赤ワインボトル3本。
(代表取締役 佐々木幸久)
11月2日(土)ウィーンにて
空港から市街地行きの列車に乗りましたが、網野教授ほか数人は別の予定があって少し先まで行くとのこと、電車で別れて私達数名はホテルへ向かいました。
電車を降りてすぐ、前を歩いていたYさんが突然硬直、うめき声を上げました。
「バッグを忘れた!」
何とパスポート、財布、カードなど何もかも入っている手回りバッグを、電車に置き忘れたというのです。一同悄然としながらとりあえずホテルに入りました。
すぐに網野教授に連絡しましたが、すでにその電車を降りたところでした。それからは、日本大使館は?カード会社は?警察は?保険会社は?と、皆で手分けして電話をかけまくり、ホテルロビーの一角を騒然とさせました。
その最中、網野教授から電話が。何と奇跡的にも見つかったという連絡です。
網野教授達のお手柄でした。「あの電車は折り返して帰ってくる可能性が高い」と、ひっきりなしに到着する電車の車中を、ホームから目を皿のようにして見続け、そしてYさんのバッグを発見、その車両に飛び乗り、置き引きに間違われないように「有った!有った!」と叫びながらバッグを回収したという実に胸のすくような活躍でした。
一部始終を目撃したSさんは若い人たちのめざましい活躍ぶりに感激のあまり、オイオイ泣いたとか。
Yさんはいかにも九州男児らしい快男児ですが、その怒濤の狂喜乱舞は今でも鮮やかに目に浮かびます。その日は全員がYさんの奢りの口福に預かった次第です。
11月3日(日)、4日(月)
今日の便で帰る皆さんを近くの駅まで見送りました。
私達夫婦は同じホテルにあと2泊滞在します。冷たい小雨の降る中、ウィーンの街を当てもなく終日歩き、また電車に乗りました。
映画「第三の男」で有名なプラーター公園の大観覧車に乗り、シュテファン大聖堂の尖塔に行く何百段かの階段を上りました。家内は登り切ったときには息も絶え絶えでしたが、私は殆ど息が切れることもなかったので、ちょっとだけ胸を張ったことでした。街ではウィーン名物とワインを頼みました。ホテルでは、日本からはるばる持ってきた日本酒を味わいました。
11月5日(火)
ホテルを引き払い、後ろ髪を引かれるような思いで、一昨日皆さんを見送ったホテル近くの駅から列車に乗り込み、ウィーン空港へ。
そしてオーストリア航空の機中、搭乗前に買い込んでいたヘネシーを、うまいなあとしみじみ味わっていると日本人乗務員からおしかりが。「お強そうですけれども、思わぬ悪酔いをすることもありますので、強いお酒はお控え戴けませんか」と誠に丁寧なご挨拶なので、快く了承、潔くテーブルから酒瓶を鞄の中へ。あとは言いつけに従って飲まぬ風に、テーブルの上に酒瓶を置かず、鞄の中から取りだして、飲んだらまたしまう、きれいに飲み終わったらそのまま気持ちよく就寝、目覚めたらもう日本上空です。
成田到着後、最近運行されている成田発LCC便に乗って、鹿児島へ。こうして足かけ11日の思い出深いヨーロッパの旅を、無事終わることが出来ました。(完)
代表取締役 佐々木幸久
2013年11月2日(土)、全ての視察を終えて朝、3泊したホテルをバスで出発します。朝飯もおいしく、良いホテルでした。
トモエテクノの岡本社長は、シュミット社との打合せもあり、あと2,3日このホテルに滞在するとのことで、ここでお別れです。
この視察のバイオマス関係の計画、段取りは岡本さんがしてくれていて、大変お世話になりました。
成田でのSさんのパスポート事件などは有ったものの、最後まで無事に終わって良かった、とても中身の濃い視察内容だったと、皆で岡本さんにお礼を言い、また別れを惜しみました。岡本さんからも、「これだけの人数のツアーとしては、時間通り事が進みまことに心がけの良い、レベルの高いメンバーでした」とお誉めを戴きました。
「まだしかし、成田に帰り着くまでがありますから・・・」と。
バスでエシュリコンを出発、チューリッヒ空港へ行って、ウィーンへ空路移動です。
チューリッヒ空港でのこと
この旅から帰って暫くして、東京でのことです。同業会社の役員Aさんが「佐々木さん、スイスの空港で何か有ったそうだね」とニコニコしながら、「知ってるぞ」という感じで言うのです。
「旅の恥は掻き捨て」の失敗話が、業界内である程度伝わるのは当然だけど、はて、何だっけ?
そうそう、そういえば・・・・
空港の搭乗手続きで、荷物を預けるとき、女の係員が「ノー」と言うのです。預かり荷物の重量制限が結構厳しく、その制限を何㎏かオーバーしていたようなのです。拒否されたバッグから「あるもの」を持ち込み手荷物へ移しました。これでパスするはずと、試みたら無事通過でした。
何のことはない、ほんのちょっとした手違いだったのですが、同行の誰かからAさんへ伝わるほどの何の話題性があったものか。
実はその「あるもの」が日本酒だったのです。「佐々木は酒を沢山持ち込んで、受け入れを拒否された」という話に転化していったようでした。
これまで同業の方々と海外に行くときは、よくアルコールを持って行きました。鹿児島勢でオーストラリアに行ったときは、同行の人たちも同じ思いだったらしく、確認したら持ち込んだ焼酎の総数が何と一斗(一升瓶にして10本)も有りました。さすが鹿児島県人です。毎晩夕食が終わってから、誰かの部屋に集まって、焼酎を飲んで「反省会」に励んだのです。一週間あまりの旅の途中でこれをすべて飲み干したのですから、大したものです。
その時の楽しい記憶があったので、今回は全国からのメンバーだし、焼酎よりは日本酒がよかろうと思ったのです。ところが旅も終わろうというのに全く消化出来ていませんでした。それだけこのツアーの行程が過酷だったのでしょう。遅い夕食が終わったときはもうへとへとで、とても皆さんと一緒に「反省」する元気もない、と言う有様でした。それで酒が残って、笑いの対象になってしまったようです。
(最終話・後編に続く)
代表取締役 佐々木幸久
5月9日、今年度からスタートするCLT事業の「幅はぎ作業棟」の地鎮祭を行いました。いよいよ念願の建設スタートです。
将来的には、この場所でプレス、二次加工まで出来る一貫ラインにする予定ですが、今回は幅はぎラインのみをここに置きます。従って建屋としては全体計画の1/6程度の500m2のみを、今回建設します。
プレスは、論地工場が空いていることから、こちらに設置、この幅はぎ装置で出来た板を論地工場まで運んで、積層し、仕上げてお客様に届ける方法をとりました。
建築は地元の国基建設(株)様が施工することとなり、9月には完成予定です。地鎮祭には、役員と、国基建設(株)現場監督様、そしてこの事業を推進する製造部の4名が参加しました。
幅はぎ装置は(株)太平製作所様に発注、お盆過ぎに納入予定です。9月から試運転、そして本格稼働出来るものと期待しています。
当社のCLT事業への取り組みが、5月4日(日)の地元紙「南日本新聞」に大きく取り上げられたことから、鹿児島県内でもにわかに話題となり、多くの方々の関心を呼び始めたようです。1日も早く生産体制を整え、この新材料による新しい木造建築の黎明を迎えたいものと思います。
(代表取締役 佐々木幸久)
飯島先生のおかげで実現した、久しぶりの冬の秋田訪問です。
(飯島先生の講演会については前回のブログでご紹介しました)
能代一泊では余りに勿体ないと、能代をはさんだ秋田ツアーを計画しました。結局秋田市、能代市、鹿角市にそれぞれ一泊、計三泊することになりました。
永年の酒友、秋田市在住のHさんとも、久しぶりに直接に杯を交わしたいものと連絡を取りました。Hさんとのおつきあいも、思えば不思議なご縁です。
90年代後半、南九州で木造橋への関心が大いに高まった時期がありました。
秋田県は全国的な木造橋の先進地ですが、関係者の間で秋田県の事例を学ぼうということになり、交流した中に、Hさんがおられました。森林土木のご専門で、木造橋建設を直接ご担当、ご苦労なさったようです。
Hさんは無類の酒好きですが、対する私も一年のうちに飲まない日は無いという酒飲みです。北と南、秋田と鹿児島の遠距離、直接酒を酌み交わしたことは、幾度も有りません。しかしながら折に触れ、秋田と鹿児島の地酒を送り送られると言う関係が、数えてみればなんと十数年も続いたことに成ります。まさに「幻の酒友」と申しましょうか。
秋田といえばもう1人、是非お会いしたい人のが、鹿角市にお住まいで、私と同業の集成材メーカーA社を創業されたSさんです。決断力と経営手腕に富み、しっかりした人生観からくるのでしょうか、軽妙な処世術はまさに敬慕の至りです。
連絡したところ、ちょうど訪問予定の当日午後に帰着されるとのこと、かろうじてお目にかかれそうで鹿角市に一泊することになりました。
Hさんは飯島先生の会にも参加されるとのこと、そしてHさんの現在の勤務地が鹿角市にあるとのことです。ずっと休日であり、結局秋田市から能代を経て、鹿角市までの全行程をHさんの車に同乗させてもらうという、大変贅沢なことになりました。
この三日間が丁度連休で、日本海側の秋田市から秋田県を横断、岩手の近く鹿角市まで行くという長道中を、途中あちこち案内して下さいました。男鹿半島、港々、大潟村の干拓記念館、そして「道の駅」や産直市場を見るたびに停車して、珍しい秋田の産物を手にとって眺めました。秋田市でHさんお手製の鮎の干物が非常に美味しかったのですが、その鮎を捕ったHさんの漁場も見ました。
雪景色が何より珍しく美しく、雪を見て大喜びする私達を、そんなに喜ぶならと八幡平の高原まで連れて行って、道の両脇3メートルくらいの積雪を見ることが出来ました。
鹿角市の夜、Sさんのお宅にご招待を受けました。奥様の手料理を戴きながら、秋田の名物どぶろくを、夜遅くまで、そして心ゆくまで堪能しました。鹿児島は黒豚、黒毛和牛、黒麹の焼酎、黒さつまなど、「黒」のイメージと言われます。
今度の秋田では、雪、どぶろく、きりたんぽの圧倒的な「白」のイメージと、飯島先生の周りの方々、Hさん、Sさんとの温かい心のふれあいに満たされた満足の旅でした。
(代表取締役 佐々木幸久)
去る3月20日、秋田県能代市「秋田県立大学木材高度加工研究所」を訪問しました。所長の飯島泰男先生がこのたび退任されることになり、先生のご講演とお別れパーティーに出席するためです。
16時からの講演では同研究所の広い講義室が満席でした。全国北から南までよくこれだけの方々がと、感嘆しました。
飯島先生はその学識の豊かさと、独特のご性格で全国の関係者と幅広い交流があります。先生の活躍期は、木造建築とスギ利用への関心が高まる時期と重なり、活動の舞台は全国にまたがるものでした。
私達も二十余年にわたってスギの構造用集成材、木造建築の事業を行ってきた中で、構造については森林総研接合研小松幸平室長(当時。京都大学名誉教授)に、材料・材質については飯島先生に相談すれば、まさに魔法の杖のように、何らかの解決策が見えてきたものです。
最近学会誌の論文を見て、ため息が出ることがあります。林産学は学問でもありますが、同時に工学でもあり、技術でもあって欲しいと願っています。
その点、飯島先生は学問の世界に身を置きながらも、実用化の視点を必ず持っておられたと思います。改めてご講演を聴いていても、近年の木材関係の様々な変遷に殆ど先生は関わり、付き合ってこられたのだなと感じました。
パーティーも賑やかでした。この頃酒にめっきり弱くなった(家人に言わせると杯のピッチが速すぎる)ため、私はパーティーだけで失礼しましたが、後に聞いたところでは、二次会は1ヶ所で入れるところが無く、3ヶ所に分かれて行われた由。その3ヶ所を先生はすべて回られたとのこと。さすがは飯島先生です。
(代表取締役 佐々木幸久)
フォアアールベルクの木造建築
スイス、チューリッヒの近くエシュリコン村のホテルに3泊しました。
朝、ホテルをバスで出て、国境を越え、オーストリア・フォアアールベルク州で、1日木造建築を見ました。
スイスとの国境、オーストリア最西端の最も小さな州です。オーストリアでも有数の木造建築の盛んなところで、建築についての規制がオーストリアの中では比較的緩いとのことで、ユニークな建物が多いと言うことでした。
これまで写真で見た多くの建物を実際に見ることが出来ました。
◇ライフサイクルタワー
同州ドルンビルン市。2012年完成。8階建て。
このビルを建設した会社は、木造のビルをコスト、工期などでより有利に建設できるために、新しい工法を開発しました。
木材とコンクリートを併用した床版を開発するなど極めて優れた構法ができました。20階建てまで建設できる木造ビルの建設システムが完成、クレー社という「都市木造ビルを建設する新会社」を設立して事業展開、このビルの中に事務所があります。
それにしても、このような優れた技術が開発されるやすぐに建設が実現し、かつ新しいビジネスとしてこれを事業化できるというのは、建築については規制でがんじがらめ、しかもその規制を変更する(して戴く?)には、膨大なエネルギーを要する我が国では、とても考えられないことです。
我が国でも建築の研究者は非常に沢山おられて、日々様々な新しいアイデアを実用化したいと実験しておられます。規制を超えない範囲の小さな研究をするか、規制に関わるユニークな大きな研究はそもそも実用化をあきらめて、「実験のための実験」と自嘲しながら研究をしている研究者が多いのです。まことに勿体ない残念なことです。
◇ルーディッシュ市民センター
先述のライフサイクルタワーと同じ建築家ヘルマン・カウフマン氏の設計による木造庁舎。2005年完成。地上2階、地下1階建て。
ルーデッシュ市の市庁舎敷地内に、日本で言う「木材協会」といった小さなオフィスがありました。そこの事務局の人が網野教授と顔見知りのようでした。デ・ニーロを三枚目にしたような顔をくしゃくしゃにして喜んで、酒瓶を取り出してみんなに振る舞うというので、遠慮無くご馳走になりました。度の強い、シュナプスという焼酎で、一気に飲まないとむせます。珍しい歓待でした。
美しい村に木造の庁舎が建つ
一つの渓谷に小さな村があり、いずれも村の人口は例えば300人とかの小さな集落です。これらの村にちゃんと住民がそこそこに豊かな暮らしを営んでいて、私達の訪問に元気そうな子供達が集まってきました。
「庁舎」と言っても、執務室は村長1人に、秘書1人というような規模で、庁舎の中に保育園あり、診療所有り、銀行有り、マーケット有りという複合施設です。それらの施設も常時開いているわけではなく、マーケットも、私達が行ったときは閉店時間でした。商品を見たら、結構欲しいものもあったのですが。
案内してくれた村長さんたちが、村の永続的な発展を願い、様々な試みをしていることを熱心に話してくれました。そして自分たちが作った庁舎への熱意、愛情、誇りについても雄弁に語ってくれました。
どの建物でも「エネルギー」については徹底した省エネを貫いています。
寒い地方ですが、暖房のために、化石燃料や電気使用はゼロを貫いています。
我が国の常識では信じられないほどの断熱材を使用する事と、チップボイラーを使って村内の資源でエネルギーを得ていることに誇りを持っておられました。
◇ザンクト・ゲロール村 庁舎
◇ブロンス村 庁舎
◇ラッガル村 庁舎
代表取締役 佐々木幸久
10月30日、スイス北部の町ゴッサウ(Gossau)にある、4つの木材・木造建築関連の会社の「団地」を訪問しました。
特に、約10万m3の原木を消費する製材工場(レーマン社 Lehmann)の歴史は古く、工場の建物は新旧全て木造です。
同一業種が集まった団地ではなく、製材所、乾燥後プレーナー加工して販売する製材加工グループが中核としてあります。そしてそれを利用して、様々な商品に展開しています。
厚い断熱材を入れた建築用のパネルなどの建築資材を作るグループ。
当社が手がけているような大型木造建築、それもかなり特殊な、世界的に話題になっているような、デザイン性の高い難しいものを引き受けているグループ。
■世界初の木造ビル 坂茂の木造7階建てビル、チューリヒに誕生
http://www.swissinfo.ch/jpn/detail/content.html?cid=36226708
里信邦子(さとのぶ くにこ), swissinfo.ch
寒い地域なので道路の融雪剤は不可欠ですが、これは鉄だと錆びるとのことで、木製の融雪剤サイロも作っています。これはあちこちで道路端に建っているのをたくさん見ました。
さらにこれらの工場から出てくる廃材などを利用した、地域熱供給+発電会社があります。
「集成材は巨大な工場が沢山あって、余りに競争が激しく、作るよりは購入する方が得策」との説明でしたが、いずれのグループも魅力的な優れた商品を作っており、付加価値は高いようで、ビジネスとして成功しているように見受けました。余り大きな規模は目指さない替わりに、私達がこれからのモデルともしたい、面白く魅力的な企業集団でした。
(代表取締役 佐々木幸久)
今回の旅で最も気になっていた訪問先の一つが、オーストリア・グラーツのKLH社でした。というのも14年前の2000年(平成12年)に同社を訪問して、初めてCLTというものを見たのでした。
同社がグラーツ工科大学の先生をコンサルタントに、何年もかけて技術開発、世界で初めて商品化したのがCLTです。
2000年当時、当社は10年ほど大断面集成材を使って大型木造建築を数々手掛けていましたが、骨組みは立派でも壁や床が物足りず、飽き足りず思っていたところに、この材料は実に我が意を得たものでした。
この視察から帰ったあと、何とか事業化出来ないかと私なりに努力してみました。中古のプレス機を探したら、どういう時の運か四国に探したものが見つかり、トレーラー10台余りで積んできました。
さっそく試作を試み、出来た材料の試験も行って、その木材とは思われない材質に驚きました。CLTは直交して積層するために、「木材の異方性(※注)」が解消されて、強度面での弱点が解消されます。
(注)木材の異方性
木材の性質が長軸方向、接線方向、半径方向の3方向で、強度、たわみ、水分による伸縮などが大きく異なることをいう。長軸方向には多方向に比べて強度が高く、水分の変化による伸縮が少ない。
このCLTを設計にも取り入れて戴くように働きかけました。九州のある町の学校校舎に採用されました。個人のお宅に使って戴いたこともあります。大変頑丈な家になって喜んで戴きました。
しかしながら、当時は結局事業化としては成功しませんでした。我が国で広く使ってもらうためには「公的認定」が無いと難しいのです。公的認定は木材の場合、日本農林規格(JAS)の認定を受ける必要があります。
認定を受けるためには、あらかじめ指定された品目、すなわち無垢材、集成材、合板など毎に定められた基準に合致する品質の製品を作ることのできる設備、技術者、ノウハウがあることを認定されてはじめて認定工場(製品)になります。
CLTはヨーロッパで開発された、これまで我が国には存在しなかった商品ですから、我が国には当然規格もありません。規格が無ければ申請しようがないために、いつまでたっても「公的認定」は得られません。
国内に存在しないもののために新たな規格を作ることは出来ない、しかし公的認定がなければ作って売ろうとしてもほぼ間違いなく決して売れない、という私の個人的力ではどうにもならないジレンマにあったわけです。
今は大きな流れが出来て、「我が国では異例」と言われるスピードで、国内に存在していなかった(従って規格が出来るはずがなかった)CLTの規格、「直交集成板の日本農林規格(JAS)」が出来ました。(2013年12月20日告示、2014年1月19日施行)
ただこうして製品としての「公的認定」はされたのですが、これらが広く使われるようになるためには、さらに建築関連の法整備が必要で、これはさらに3、4年の時がかかると言われています。つまり外国で開発、普及されたものを追認する形で規格が出来ることはあっても、「世界で初めて」という建築材料(特に構造材料)は、まず決して我が国で生まれることは無いだろうと思われます。
一方ヨーロッパでは、特に「公的規格」は無いまま、各社の企業責任に基づく各社独自の「技術基準」により、このCLTが広く普及、多くの会社がこの事業に進出、技術面でも、また多様性におけても長足の進歩を遂げたと聞き及んでいます。今や一つの産業ジャンルを構成しているといってもよく、恐らく数百億から一千億近いマーケットを形成していると思われます。
その中でこのCLTを始めて世に出し、ビジネスとするため設立されたKLHは、どのように変化、あるいは進化しているだろうか、というのが大きな関心でした。
私が視察した当時は、事業化して2、3年目という草創期であり、まだ注文は少なく、一つの現場の注文があれば、工場で作ってその場で加工され、出来たものを現場へ持って行く。おそらくは一件一件が思い出深い、まさに物作りとして最も楽しい時期であり、私にも覚えのある雰囲気でした。
今や生産量も桁違いに増えて、同時並行で多くの現場の加工が行われて、出来上がった分ずつが次々にトレーラーに積み込まれていましたが、現場での組み立てを考え、その順番に積み込み順番もかなり神経を使っているとのことでした。外には積み込みを終えた台車、積み込みを控えた次の台車、およそ10台あって、盛業ぶりを伺わせました。
CLTは優れた商材で、極めて合理的であり、また環境重視の時代の流れにも叶っていたのでしょう。この会社が初めて各地に作った建物は恐らく衝撃的な魅力を放ったのではないでしょうか。
その後、製材大手を含めて後続のメーカーが沢山出てきました。製材大手の立場から見れば、商品価値の低い材料がCLTでは十分使えることも魅力だったろうと思います。後発といっても資本力があり、独自に技術開発し、合理的かつ大規模工場を作ってコストダウンを計り、売上を確保していったと思います。供給が増えれば、値段も下がりさらに需要が増えていく、商品の普及期とはそういうものなのでしょう。
諸データから見てKLH社のシェアは、今では数%程度と思われます。資本の論理とはいえ、創業者利得は十分に得られただろうかと、ちょっとそんな感慨にとらわれました。(次号につづく)
代表取締役 佐々木幸久
ヨーロッパ視察にあたり、視察団名を「欧州における木によるサステナブル戦略の視察ツアー」、副題を「木造建築、製材産業、木質エネルギーの活用形態等」と名付けました。
すなわち視察先を分類すれば、
となりますが、これらが単独で存在しているのではなく、全体的に関連していることを見ようというところに、今回の視察団の大いなる特色があります。
そしてそれはハードなスケジュールの中、今回の極めて感性の高い視察団の17名の各位には、しっかり感得されたように見受けました。
自然エネルギー関連は、メルマガのバイオマスシリーズでご紹介していくこととして、その他のことをこちらのブログにてご紹介していきたいと思います。
両替、為替
成田空港でまず両替です。今回家内と二人で参加しましたので、10日間の滞在、買い物、食事などで20万円かな、とスイスフランに5万円、ユーロに15万円替えました。
実は2000年にヨーロッパに行ったときのことですが、ユーロが極めて安かった記憶があります。その時は街に出て買い物をしても、レストランでビールを飲んでも、こんなに安いのか、と驚いたものです。
木材加工の会社に行って、製材や集成材などの価格を聞いて、円貨に換算してみて、もしこれがそのまま日本に入ってくれば自分の工場はやっていけないな、とかなり真剣に悩んだものです。
確認のため、いまちょっとネットで調べてみたら、2000年というのはユーロの最安値時期で、88.87円と出ています。もちろんこの相場は永く続きませんでしたが。
今回両替したときのユーロは138.6円。20万円分の両替は、10日分の二人の昼と夜の食事、ビール、ワインなどの飲み物、ツアーから延長して3泊したかなり立派なウィーンのホテル代、そしてお土産と、この額で過不足無くまかなえました。
ちなみに、13年前の為替相場なら、同じ外貨を12万円くらいで入手できた計算になります。
「恐るべし、為替」
食事、飲み物
ウィーン初日の夕食は、地元の方に予約してもらった、なかなかしゃれたお店で、地元の人たちで賑わっていました。
「さあ、ウィーン名物を」と、「知らんぞ」と言いたげな網野教授を尻目に、皆張り切ってどしどし注文、豚のあばら肉を焼いたもの、ソーセージ、ウィンナーシュニッツェルなど、運ばれてくると、それはそれは大変な量で、相当に頑張ってもなかなか減らず、往生した次第でした。
ビール、ワイン、その他飲み物を入れて、一人当たりの割り勘が25ユーロ。「世界一住みよい街」との網野教授のお話に首肯出来ました。
朝食
パン、シリアル、ハム、ソーセージ、チーズ、バター、ヨーグルト、野菜、飲み物。どれも種類が多く、なかなかな味わいで、毎日おいしく食べました。
愛媛のKさん、関東のHさん、私達夫婦の4人(視察団の中でも高齢組)が、決まって毎朝6時半レストランが開くのを待っての一番乗りで、しかもお互いの皿を見て笑ってしまうくらい沢山取っていました。私の普段の朝食からすれば、カロリーで3倍ではきかなかったと思います。
毎朝の献立をメモしていましたが、毎日ほどんど同じで、朝については3日目でメモをやめました。
昼食
パンに厚切りのソーセージ、ハムなどをはさんだもの。移動中のバスで食べたこともありました。
ご飯やパンと、肉や魚のシチューなど。スイスで鹿肉のシチューもいただきました。その他、パスタ、フライドポテトなどなど。
飲み物は、ミネラルウォーター、ジュース、ビール、コーヒー(いずれも3~6ユーロ)
夕食
ウィンナーシュニッツェル(薄い肉のカツレツ)
コルドンブルー(薄い肉にチーズがあわせてあるカツレツ)
魚(鮭、鱈など)のフライ、ローストチキン、チーズフォンデュ、鹿肉や牛のステーキなどなど。スイスでの最後の夜は中華料理でした。
というわけで、食事面はかなり充実しておりました。
次回は、木造建築の建築現場について書きたいと思います。
(代表取締役 佐々木幸久)
10月27日から11月2日まで、標題の主旨で行われた視察団に参加しました。
今回の視察は、法政大学の網野教授と、トモエテクノの岡本社長のお二人による入念な打ち合わせのもとで視察スケジュールが作られました。
網野教授はヨーロッパで永年暮らし、木造建築について最新の技術研究とあわせて、歴史的建造物の調査・研究、そして社会構造までも考察を深めてきました。
また岡本社長はスイスのシュミット社バイオマスボイラーを我が国で供給していますが、最多の納入実績と内外の多彩な応用事例を熟知しています。
このお二人のコラボレーションにより実現した視察計画は、標題に示す通り、単にバイオマス利用や木造建築の技術の一端を見るのみだけでなく、ヨーロッパの持続可能なエネルギー供給体制を志向している社会的取り組みを見てこようという意欲的なものになりました。
このようなことから、視察先も製材会社からCLTの製造会社、CLTによる5階建て建設現場、エネルギー公社、村の存続を模索し実践している自治体に至るまで、実に多様でした。
その分、早朝から夜まで一時も休憩の無い、かなりハードな日程になってしまいました。そして多くの方から「このような内容の視察は初めてで、意義深かった」と評価されました。
参加者は北海道から九州まで、年代も20代から70代まで、それぞれ仕事や業種、業態も異なる多様な17名の方々が参加されました。旅行の間ご多分に漏れず、いろいろと事件もありました(注)が、初対面も多い中、お互いの連携、協力は素晴らしかったと思います。
メルマガで次号以降、順次ご紹介します。
※注)第一の事件は旅の初日、成田から始まりました。
全員が揃い、挨拶も終えて、搭乗手続きの際、岐阜のSさんのパスポートが期限切れであることが判明。聞けば、新旧両方を保管していて、期限切れのものを手にしていたことに今の今まで気づかなかったとのこと。
当然この時は搭乗出来ず、衝撃のSさんを残して私たちは機上へ。
幸いSさんは航空券の変更が受け入れられ、2日遅れで無事合流、手を取り合って喜んだ次第。
(代表取締役 佐々木幸久)
太平製作所様には、かねがね大変お世話になっています。
同社は木工機械、合板製造機械で名だたるメーカーです。特に合板では名南製作所様とともに、我が国のみならず世界中にその名を轟かせています。技術面でも品質面でも素晴らしい会社です。
先般、同社本社工場を訪問しました。木工機械を作っている大阪工場は行ったことがあるものの、合板機械を作っている本社工場はこれまで行ったことがなかったのです。大変意義ある訪問が実現したのですが、その経緯と内容をレポートします。
私は、京都大学名誉教授の小松幸平先生のおかげさまで、ヨーロッパ(オーストリア)でのCLTの工場や使用事例を、2000年というまさにその黎明期に見学する機会を得ました。
その後なんとかこれを商品化したいと色々取り組みましたが、いかんせん規格の壁は厚く、日の目を見ることが出来ませんでした。時に利あらず、また私の力不足もありました。
時が移り、世界的規模でCLTの需要が広がり、ようやく国内でも実用化への機運が高まってきました。当社でも改めてこの事業化に取り組むこととしました。
太平製作所の成田会長は、国産材のこれからの活用策として、CLTに大きく着目しました。最近盛んになったCLTに関する各種研究会、講演会への参加はもちろん、海外のメーカーや建設事例の視察にも出かけておられます。
私の視点からは、木工部門、合板部門を持つ同社は、CLTの生産機械メーカーとしては、ベストポジションにいると思われました。このようなことから当社のCLT生産の設備開発を依頼しました。会長自ら陣頭指揮をとって事に当たられました。
そのような中、成田会長様のご提案で、太平製作所様、名南製作所様、太平ハウジング様の役職員の方々と情報交換を開いていただきました。
会社を訪問して玄関先に立ってまず驚いたのが「歓迎板」で、同社で試作された立派なCLTに「歓迎」の文字がありました。
そして玄関から中に入ると、事務所の皆様が一斉に立ち上がり、丁寧な挨拶をしていただいて、すっかり恐縮してしまいました。
交互にご挨拶を交わしたあと、太平製作所様から中間発表として、同社の技術陣入魂のCLTプレステスト機によるCLT製作の実演がありました。
一流の機械メーカーの社員さんたちが、実に折り目正しい行動や作業ぶりで目を奪われました。
当社側からは私と製造部長の村田が、木材加工の林業の現況、あるべき姿、そしてCLTの実用化見通しなどを発表しました。
大変有意義な交流会を持つことが出来ました。太平製作所様には心から感謝いたします。
(代表取締役 佐々木幸久)
去る5月27日、恩師山口隆男先生が逝去されました。先生との出会いは私が中学2年生の時で、先生はその時確か22歳です。それ以後五十余年、時に先生にお目に掛かって酒を飲むのが、私にとって無上の喜びでした。これから先もうお会い出来ないと思うとつい涙がにじみます。
当社季報春季号(第15号)を送ったのに対し、ほんのこの間の4月19日に、以下のようなメールを送って下さっていました。
「ウッディストのたより」有り難うございました。複雑な構成の建物の画像を拝見しました。ゴシックの教会を思わせる、従来の木造建築と全く異なった木造建物の時代になったのだと思いました。お仕事の一層の発展を期待しています。
山口隆男On 2013/4/19 at 9:20 T. Yamaguchi wrote
※山口隆男先生について
ラ・サール学園教諭の後、九州大学大学院を経て、熊本大学理学部教授、元同大天草臨海実験所所長。大学での研究の外、シーボルト研究の第一人者としても知られる。オランダライデン大学にはシーボルトが日本で収集した膨大な資料がこれが未整理のまま保管されていた。先生は大学勤務中から退職後も含めて五十余回にわたりオランダに渡航、同標本の分類、目録作成に死の直前まで精力的に取り組む。未完。
(佐々木幸久)