メルマガの開始とともに始まったM田部長のコーナー。
最初は「肝付町にそんなにネタがあるのか」と心配する声もありましたが、毎月しっかり(?)「ぶらり」してくれています。最近では社内でも「ぶらり部長」と呼ばれ、記事を楽しみにしている社員も多いようです。
第22回 鹿児島市 「鹿児島県立博物館 蔵出し企画展『大隅半島』」
これまでの投稿傾向からこのブログで県立博物館の紹介をすることは、皆様の想定範囲には入ってなかったと思う。そこで、わたしが博物館に出入りするようになったきっかけと、現在の状況などをお話ししておこう。
鹿児島県立博物館は、軍服を着て桜島を見つめる西郷隆盛像を正面に見て、国道10号線を左手にちょっと歩いたところ、島津斉彬公を祀る照國神社表参道の右手に静かに建っている。本館はすっきりとした藤色の3階建てだ。鹿児島独特のイヌマキが姿よく植え込まれ、正面と参道側に設けられた水路には緋鯉が泳いでいる。
所属している自然保護団体のボランティアイベントで、この博物館に収蔵されている動物の剥製を展示する目的で、お借りしに来たのがお付き合いの始まりだった。何回か出入りさせてもらっていたが、この7月、秋に「大隅半島」をテーマとする展示を計画されていることをお聞きした。
一方、弊社はその大隅半島の真ん中あたり、東に志布志湾を望む肝付町で起業、現在も本社をそこに置いて、事業活動を続けている。昭和40年代後半(1971年頃)社員総出で明文化した創業以来の行動指針がある。今も月初めの全体朝礼をはじめ入社式などの全社行事でそれを唱和しているのだが、そのひとつに「郷土の発展と繁栄の先導者となる」という文言がある。実は、昭和の終わり頃までこの『郷土』は、『大隅半島』とピンポイントの地域限定だったのである。
学芸員の先生にこの計画をお聞きしたとき、私の中では、長いこと棚の奥に睡っていた大切なものを久しぶりに手にしたような、「原点はここだったんだよなぁ」感に包まれてしまった。
そして、あれこれ話しているうちに、1時間のおはなしをするはめになって、現在その準備に四苦八苦しているのである。加えて、はなしのテーマが、M田ブログで何回か書いた鳥たちについてなので、ただの苦労話になってしまう可能性も否めない。
企画展 「蔵出し大隅半島」は、大地の成り立ち、植物、動物、昆虫、鳥など、13万点に及ぶ収蔵品の中から、選りすぐりの資料や剥製、標本を展示して11月24日まで開催されている。薩摩半島に比べ少しマイナー感のある大隅半島の大いなる魅力を是非堪能されてはいかがだろうか。
そしてきっと、博物館が動物園や水族館にはない魅力にあふれていることを再認識する機会になるはずである。実際、私もこの企画展の打合せに便乗して1階から3階までの常設展示を見学させていただいた。じっくりと一日中でも見ていたいと思うほどの資料の充実と見せ方の工夫に感動した。そして、この鹿児島という大地で生まれ育ったことを実感するのだった。少ないが写真でご紹介したい。
そして、展示を見学しているうちに学生時代に聞いていた歌を思い出した。その詩を書き留めておこうと思う。なつかしい元祖フォークソングであります。
かるかや かやつり草 わきたつ積乱雲 からすうり 月見草 風わたる草原
この土に 私のすべてがある この国に 私の今がある
いくたびか春をむかえ いくたびか夏をすごし
いくたびか秋をむかえ いくたびか冬をすごし
かもめどり くろ松 岩礁 海岸 かつおどり 海つばめ うねる水平線
この国の 歴史を知ってはいない この国の未来を知ってはいない
けれども 私はここに生まれた けれども私はここに育った
わたしがうたう うたではない あなたがうたううたでもない
わが山々が私のうた わが大地が私のうた
「わが大地のうた」詩:笠木透 曲:田口正和
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鹿児島県立博物館の上舞先生、中峯先生に取材のご協力をいただいた。
鹿児島県立博物館
開館時間 9:00~17:00
休館日 毎週月曜日(祝日にの場合は翌平日)・年末年始
入館料 本館 無料
今回の企画展 無料
恐竜・化石展示室 無料
プラネタリウム 年齢により有料
ホームページ 鹿児島県教育委員会/鹿児島県立博物館
(M田)
第21回 霧島市 「なつかしの肥薩線 大隅横川駅から植村駅近くの温泉」
鉄道雑誌の紀行文風にあるようなタイトルになってしまった。
お断りしておくが、私は乗り鉄、撮り鉄、呑み鉄など熱心な鉄道ファンではない。前回嘉例川駅を紹介したところ、読者のお一人から「横川駅もいいですよね。」とご推薦をいただいたので、かの駅と同時期に整備された鹿児島県最古のこの駅を訪れることにしたのだ。そして、遙か昔、高校時代に乗った肥薩線の風景を懐かしく思い出したのである。
あのころ、伊佐方面から霧島山へ登るには、国鉄山野線で栗野駅を経由し、肥薩線に乗り換えて霧島西口駅(現在のJR霧島温泉駅)で下りていた。乗換と言っても、われわれ乗客はそのまま椅子に座っていればよい、車両がスイッチバック方式で山野線から肥薩線のレールに乗り替わってくれるのだった。このとき、景色の流れが今まで見ていた方向とは逆向きになったのを憶えている。栗野駅を出ると、一駅目が大隅横川、すぐに植村駅、次が霧島西口駅だった。ここではじめて下車し、高千穂河原行きのバスに乗り換えて、登山口にたどり着いていた。その時代、山好きの面々はみな横長のキスリングザックを背負っていた、混雑した駅などでの歩き方から蟹族と呼ばれていたなぁ。
商店街に向かって建てられた横川駅舎は秋口の西陽を受けていた。ホームにはちょうど上りの列車が着いたばかりで、隼人、国分方面の学校に通っている高校生が下りてきたところだった。小さな無人駅を利用する人が思いのほか多いことに、わたしはすこし驚き、ほっとした心持ちになった。
明治36年に建てられた駅舎は、木造平屋建て、切り妻屋根、桟瓦葺き、梁間四間(7.2m)、桁行十間(18m)、で、嘉例川駅より梁間、桁行きは一回り大きいが、プラットフォームの上屋や建屋間取りはほとんど同じ規格で造られているようだ。
ただ、こちらのホームの柱には、先の大戦で機銃掃射の弾丸が貫通した痕が補修されずに残っている。山間の小さな駅に残されたこの傷痕は、通学のとき朝夕目にする高校生たちや駅を訪れる人びとに、平和の尊さを伝えてくれる空洞ではないかと思う。
9月に入って少しずつ夕暮れが早くなってきた。人も去って静かになった駅を後にして、横川温泉に向かおう。ひとつ南の植村駅のすぐ近く、県道50号線沿いの田んぼの中にぽつんと建っている2階建て。飾らない、なにも足さない、なにも引けない、三拍子そろった気になる温泉だ。
折しも、霧島山麓やまあいの田んぼは、刈り入れ前の黄金色に染まっていて、その中に彼岸花が赤いリボンのように咲いている。今、この温泉は一年で一番の風景に囲まれている。
まだまだ残暑の厳しい中での仕事を終え、汗を流しに来られた先輩諸氏が四、五人入っておられる浴室は、5坪ほどか、浴槽は熱湯と温湯に分かれていてそれぞれ三畳くらいずつの設えだ。なによりうれしいのは田んぼに面して開け放たれた窓である。そこから見渡せる田園は、開放感にあふれているし、黄金色に輝く水稲の穂波は、絶景とは別な安心・安堵を農耕民族の私たちに与えてくれる景色だ。
さて、刈り払い機の刃と燃費に関する話題で盛り上がっていた先輩たちから、横川温泉について話を聞くことができた。それによると、もともとこの温泉は国鉄の線路の向こう側にあったという。その後、現温泉の南の竹藪に五右衛門風呂が置かれ、地域の人たちに開放されていたそうだ。
「切り傷にはとてもよく効くし、夏場子供にあせもができるとここに連れてくるのが常だった。飲用にもよく、いまでも焼酎の割り水には最高。今日も汲んで持ち帰るところだ。」と常連客ならではの詳しい効能と利用法も教えてくれた。
しっかり温まった身体を田んぼに吹いていく風に当てると汗も少しずつ引いてくる。
ここから、市街地に引き返して、霧島市横川総合支所を見て帰路に着こう。
2014年1月に完成したこの庁舎は、弊社で製材、集成材製造、木材加工、構造体建て方を担当させていただいた。木材をふんだんに使用した室内は、ゆったりと落ち着ける空間が広がっている。町並みに合わせた色合いの外観は、霧島山麓のランドマークにふさわしい存在感をもって、訪れる人々を受け入れてくれる建物になっている。是非、立ち寄ってほしい木造庁舎のひとつである。
薩摩はこれから本格的な秋を迎えて、楽しみの多い時季となっていく。
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横川温泉:入浴料200円 7時から22時 休業日第1、3月曜日 駐車場30台
参考:文化庁 文化遺産オンライン
(M田)
第20回 霧島市 「嘉例川駅から天降川沿いの楽しみ」
お盆も過ぎたのに、南国鹿児島には秋風は吹かず、身体に応える酷暑が続いている。
こんなときは清流沿いの温泉で、涼やかな川風に吹かれながら露天風呂に浸かれば、体調もおおいに整い、明日への活力も湧くに違いなかろうと、日帰りの湯治に出かけることにした。
鹿児島空港から県道56号線を東に10分ほど下ると霧島市隼人町嘉例川の集落だ。県道から少し左に入ると空港の最寄駅、JR肥薩線嘉例川駅がある。せっかくなので、ここに立ち寄ってみよう。
記念碑には、この駅舎は明治36年(1903年)に建てられ、明治期の遺構として、国の登録有形文化財に指定されたと記されている。ホームの木造の軒は深くかけられ、120年余りにわたって、柱や梁、壁、窓やベンチなどを風雨から守ってきた歴史と風格を感じさせる。内部の事務室や操作設備もきれいに保存され、往時の姿が残っている。線路に沿って植えられた桜並木は、春には見事な風景を見せてくれることだろう。
嘉例川駅をあとにして、国道223号線との交差点を右折し、天降川に沿って下るとすぐに今回のメイン「日の出温泉・きのこの里」に到着する。空港から直接来れば15分足らずである。天降川の左岸に母屋が建ち、その下流側に30台はゆったり停められる広い駐車場が設けてある。霧島市観光協会によると泉源は1811年に発見されたというから200年以上の歴史を持つ温泉なのだ。
母屋は木造2階建てで、2階部に玄関、その奥がカフェになっている。天井は丸太を活かした吹き抜けだ。テーブルは窓際に置かれていて、天降川渓谷を見下ろしながら、飲み物を楽しめる。ここで、湯守の永松さんからこの温泉と建屋のお話を聞くことができた。
もともとは川沿いに湯舟があるだけの温泉だったようだ。その後、少し川上側に湯屋が建てられていたが、30年ほど前に今の母屋が新築され、古い湯屋は解体されたそうだ。
永松さんのご案内で、カフェの窓から別棟になっている湯屋を見ると、屋根に長い鳩小屋がしつらえてあり、湯気を逃すガラリになっている。浴室は自然換気が効いているとのことであった。
階段をおりて、湯屋に向かう。成分表を読むと泉質は炭酸水素塩泉。切り傷、やけどに効くとある。上流の塩浸温泉、ラムネ温泉と同じ泉質のようだ。早速浴室に向かう。一坪ほどの湯舟がふたつ、ぬる湯とあつ湯に分けてある。洗い場は広いがシャワー付きのガランは2箇。
窓の外の木製デッキには水風呂が置いてあり、蛇口から地下水が掛け流しになっている。デッキからの渓流の眺めは申しぶんない。川風が入ってくるので浴室内も思いのほか涼しい。あつ湯と水風呂を何度か往復すると、暑さでなえ気味だった気分もしゃんとなり、汗も引いてさっぱりとした心地になってきた。こういう快さを「整う」というのですなぁ。
湯あたりに注意するよう張り紙がしてあったので、ロケーションを堪能しつつ、長湯にならない程度で浴室を出た。
さて、日帰りとはいえ湯治に来たのだから、元気が出るような食べ物を買って帰り、自炊しなければ完結しない。昔からの湯治場で有名な妙見温泉街に下ってみた。ここに、自炊に使う食材を扱っている田代鮮魚店がある。特に川魚の品揃えが素晴らしいお店だ。
外の生けすには鯉、鮎が入っていて、これを見るだけでも気持ちが上がる。店内の冷蔵ケースには、魚の刺身や切り身、薩摩揚げなどがほどよい量のパックに容れて並んでいる。目移りしてしまうのも楽しみなのだが、元気の素と言えば鯉こくははずせないので、まずは鯉のあらを、刺身は鯉の洗いと、ここにしか置いてない鯉の皮を注文した。そして、この時期ならではと奮発して、鮎の背ごしを造ってもらった。
これだけ買いそろえれば、豪華な川魚料理に舌鼓が打てるだろう。包装にも氷を入れてあって持ち帰るにもありがたい。
我が家で湯治を完結、納涼することにしよう。
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日の出温泉・きのこの里:火曜日定休 営業時間10時から20時 大人300円
田代鮮魚店:火曜日定休 営業時間9時30分から17時
参考:霧島市観光協会HP
Wikipedia 他
(M田)
第19回 南大隅町 「真夏の果実と本土最南端 佐多岬」
2024年7月17日、南九州の梅雨明けが発表された。
濃い青の空に薄く絹雲が懸かり、山上にはぽこぽこと白い積乱雲が湧く。戸外は焼け付くような陽射しが照りつけている。この日、鹿児島に慌ただしく真夏がやってきた。
海水浴場の砂浜に、ソルティドッグの用意をして、皆でくり出してみるのも面白いかもしれない。が、今回は大隅半島南端にドライブすることにした。錦江湾沿いの佐多街道(国道269号)を南下する片道65kmのコースだ。
鹿屋市浜田交差点を左折し、国道269号を南へ向かう。錦江湾は、北に桜島、南に開聞岳を蒼くたたずませて穏やかに広がっている。南大隅町役場を過ぎると、左手には阿多カルデラの外縁を彷彿とさせるような鋭い岩山が直立している。むこう岸の指宿、山川の断崖、奇岩と対をなしているようにも感じられる。
2,151mの伊座敷トンネルを抜けると、旧佐多町の中心市街地に入る。港町伊座敷には、おいしいと評判の食堂がいくつかある。ここで、腹を満たしておこう。個人的には海鮮丼なら食事処「時海」(ときみ)、ラーメン、チャンポンといえば「ときわラーメン」がお勧めだ。どちらも県外からのお客も多いので早めに並んだほうがいいかもしれない。
旧役場前の坂を登り切ったところに、国指定史跡「佐多旧薬園」がある。ここは薩摩藩が設置した薬園で、南国由来の寒さに弱い薬草などの植物を育てていた。1687年に家臣の新納氏が藩主に献上した龍眼樹を植えたのが起こりと言われ、かつては龍眼山と称された。
現在でもこの園内では、龍眼(リュウガン)や茘枝(レイシ)など中国南部や東南アジア原産の果樹70本近くが、勢いよく育っている。そのなかで、濃い緑の葉先にたわわに熟した茘枝(レイシ)がひときわ目を引く。真っ赤に色付いた果実は、楊貴妃が華南から都長安まで運ばせたほどの美味しさだというが、園内採取禁止である。ここは目の保養。
レイシ(ライチ)は南大隅町観光交流物産館「なんたん市場」で特産品として陳列されているから、これを年に一度くらいふんぱつしてその味を楽しむのがよいだろう。ぷるぷるとした半透明な果肉は香りよく絶妙の甘さで、飽きることなくいただけるはずである。
旧薬園から南に11km走ると大泊集落だ。太平洋に面した小さな湾奧の港である。海浜公園として、キャンプ場も整備されている。ここに2021年3月に完成した多目的交流施設「みさきドーム」が建っている。
(弊社メールマガジン第93号 大泊海浜公園多目的交流施設「みさきドーム」 )
ちょっと立ち寄って中をのぞいてみた。
広々とした木造大空間を、天窓からの陽射しが明るく照らしている。中は海風もとおって涼しげだった。夏休みには、いろいろな交流事業が計画されていることだろう。
ここから佐多岬公園線という立派な町道を南に進むと、道ばたにはガジュマルや蘇鉄が自生していて、さながら亜熱帯の風景が続いている。5kmほどで観光案内所前の駐車場に到着。駐車している車は、苫小牧、大阪、長崎など県外ナンバーが多い。
熱中症対策をしっかりとして、佐多岬展望所まで片道約600mの遊歩道を歩くのだが、今は先の大雨被害で一部が通行できず、仮階段の迂回路が設置されており、登り下りの少しきついルートになっている。
汗だくになって、白亜の環境省展望所にたどり着くと、絶景が広がっていた。西の錦江湾から東の太平洋に潮が勢いよく流れているそのさきに、硫黄島、竹島、屋久島、種子島などの薩南諸島が見えている。硫黄島は高く噴煙をあげているようだ。
ここからさらに南に奄美群島が、その先には沖縄、華南、東南アジアが続いている。薬園の植物をはじめとした南方の珍品や富がこの岬をとおって、薩摩に運ばれてきたことに思いを馳せながら、夕暮れ近い遊歩道を引き返し、帰路に着いた。
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佐多旧薬園:年中無休 24時間開園 駐車場あり
佐多岬観光案内所:年中無休 9時から17時まで
佐多岬公園展望所:年中無休 8時から17時まで 展望台には時間外でもいける。
南大隅町観光交流物産館「なんたん市場」:年中無休 8時から18時まで
参考:佐多旧薬園説明板など
(M田)
第18回 出水市 「東雲の里」紫陽花に雨 蕎麦に七味唐辛子
今年、南九州は6月9日に梅雨入りした。それ以降地元肝付町でも、雨や曇りの天気が続き、ときには線状降雨帯が発生して激しい豪雨に襲われることもあり、土砂崩れなどの災害も発生している。
雨降りが続いているからだろうか、道ばたに植えられたあじさいは、いつもの年にくらべて、ゆたかに花をつけくれているようだ。あじさいの花々を見ていると、大雨への不安でざわつく気持ちが少し落ち着いてくるように私には思える。あの丸くふんわりとした形がそう感じさせるのかもしれないし、あるいは白に近い花群でさえどこかに柔らかい紫をふくんでいることがそういう気持ちにさせるのかもしれない。
そんな梅雨のさなか、友人から電話があった。出水の東雲の里・草の居への誘いであった。出水市から伊佐市へ向かう山ふところ、ご主人が自ら拓かれ、植樹し、手入れをされている庭園である。
ぶらり薩摩の国「出水市 梅雨のさなか 紫陽花とざる蕎麦 東雲の里草の居」
あじさい祭が開催されている時期なので二つ返事で誘いに乗り、同行することにした。
山間の庭園は、傘をさすのを迷うほどの静かな雨であった。こちらのあじさいも去年からすると花数が大層増えているようだった。遊歩道沿いも、山肌も小雨に濡れた花々でいっぱいである。
あじさいと雨は相性が合うのだろう。去年、青空のもとで見た風景も良かったけれども、そぼ降る雨を含んだ山の空気がわずかにかすんで、花々がよりしっとりと美しく見える。そういえば、渡哲也の歌にも「あじさいの雨」というのがあったなぁ。「じっと咲いてた花に降る 雨 雨 あじさいの雨はー」というフレーズが思い出されるのである。
ところで、東雲の里にはおいしいお蕎麦屋「草の居」があることは先のブログでご紹介した。冷たいざる蕎麦はもちろんさっぱりといただけるのだが、肌寒い梅雨時期には温かい蕎麦も食べたいものだ。
今回は、澄んだおつゆにたっぷりと浸った温蕎麦を注文してみた。つゆ一口目は、薩摩人好みの少し甘めの鰹、昆布だし、香りも良い。三角のお揚げがあつあつで旨い。それから添えられた七味唐辛子をかけていただくと、甘めだったお出汁はとたんに味が引き締まる。麺とおつゆを完食した頃合いを見て、蕎麦湯を持ってきてくれるから、快い満腹感が味わえる。
今回私を誘った友人の目的は、あじさい見物ばかりではなかった。こちらのそば屋「草の居」に自分の工房で製造している七味唐辛子を納めることがどうやらもう一つの目的であったようだ。借りた畑で韓国唐辛子を自ら栽培し、桜島大根や桜島小みかん、柚や胡麻などとブレンドして製造し、いくつかのそば屋さんに卸しているのである。
「草の居」にも定期的に訪問して、料理・蕎麦打ち担当の息子さんともコミュニケーションをしっかりとっているとみえ、長い付き合いのように楽しげに談笑していた。
また、彼は「鳳山七味」というブランド名で小売りもしている。店の名は「三十四商店」。
製造・営業は親父が、小瓶に貼ったラベルは娘さん、ネットショップのデザインは息子さんが担当しているという、まさに家内巻き込みの起業なのだ。
食べてみると辛みはまろやかでブレンドされた柑橘類のかおりが際立ってくる。もちろん蕎麦に合うし、ラーメンにかけても旨みがひきたつ。お勧めの七味唐辛子なのです。
蕎麦と唐辛子はこれまた切っても切れない仲のようだ。蕎麦屋さんに行くと必ず一味か七味の小瓶か竹筒がおいてある。客はそれを自分の好みの量をかけてから、おもむろに麺をすすり始め、おつゆの味変を楽しむのである。中島みゆきの「蕎麦屋」では、「どうでもいいけどとんがらし どうでもいいけどとんがらし」とリフレインされているほど深い関係性が描かれている。
どうやら、あじさいに降る雨は花の色っぽさを引き立てるのに、蕎麦にかける唐辛子はだしの味を引き締めるのになくてはならない存在にちがいないようだ。梅雨の楽しみを深めてくれた小旅行だった。
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東雲の里 入園時間 午前9時30分~午後4時30分
草の居 営業時間 そば 午前11時~無くなり次第終了
喫茶 午前11時~午後4時30分
定休日 木曜日・金曜日(祝日や紫陽花、紅葉時期は休み無く営業)
HP: https://www.nippon-no-ajisai.net/
三十四商店 https://34shouten.base.shop
(M田)
第17回 霧島市 花は霧島 ほどほどの山歩き
鹿児島の代表的な民謡に江戸初期から歌われているという「おはら節」がある。(※1)
出だしが、「花は霧島、煙草は国分、燃えて上がるはオハラハー桜島」で始まるあの歌である。4百年もの昔から薩摩人の自慢は、なによりも霧島山に咲く花々、本霧島と呼ばれる躑躅であったらしい。
また、昭和9年に日本で最初に「霧島国立公園」として、保全、公開されることになったいきさつも、その山容はもちろん、そこに咲く植物の豊かさと美しさあってのことだろう。
霧島山は最高峰韓国岳(1700m)、龍馬とお龍が新婚旅行で登ったことで知られる高千穂峰(1574m)が有名だ。しかし、いざ登山となると体力と時間の余裕がないとなかなかチャレンジするのがむずかしいのが実情だ。そこで、ほどほどの山歩きでそれなりの達成感を得ることができて、「花は霧島」をまわりに自慢できる三拍子そろったコースを歩いてみた。
§1. 大浪の池 まんさくを愉しむ 3月末ころ
まんさくとは花々のなかで一番最初に咲くから「まんず咲く」→「まんさく」だそうな。3月20日過ぎから黄色の毛糸を数本束ねたような可愛い花を咲かせる潅木で、高さは3メートルくらいだ。まんずこれを見に行こう。
霧島温泉郷から県道1号線をえびの高原に向かうと右側に登山口駐車場がある。30台以上停まれる広さだが、すぐに満杯になるので早めに着けるよう計画したほうがいい。登山口からは大樹の森をぬうように石畳の道が続いている。まだ肌寒い季節だが、ゆっくりと歩いても温かくなってくる。左右の樹木の変化や鳥の声を楽しみながら登れば、小一時間もかからずに、分岐点の展望所に着いてしまう。ここには避難小屋が新築整備されていて、長椅子が設えてあり、霧島山や大浪池の説明パネルも展示してある。また、携帯トイレが使える施設もあるから安心だ。
眼下には、お浪という娘の悲しい伝説を秘めた青い池がひろがっている。湖面をながめながら分岐から右手へ。木の階段はこのカルデラ湖の縁を一周する道に続く。ここから10分ほど歩くと、まんさくの群落が花を咲かせていた。黄色のきゃしゃな花々は青空の下、霧島の春を伝えてくれるのである。北に韓国岳、南に高千穂峰をながめながらお茶でも飲んで、来た道を下る。無理せず、ゆとりのある2時間すこしの花山歩きを楽しめるコースだ。
§2.中岳中腹歩道 深山霧島(みやまきりしま) 5月中旬ころ
深山霧島と名付けたのは、1909年、新婚旅行でこの山を訪れた牧野富太郎だった。そして、江戸末期、新婚旅行で高千穂峰に登った坂本龍馬も一面に咲くこの花の美しさを姉に書き送っている。霧島山に初夏を呼ぶ深山霧島の群落は、新婚旅行でなくても見に行けるのである。
霧島神宮から北東に4kmほどく九十九折りの道を行くと広い高千穂峰駐車場に着く。ほぼ9割の人は、天孫降臨伝説をもつ霊峰高千穂の鳥居をくぐって、峰への登山道を登っていくようだ。そちらには背を向けて、ビジタセンターの左、中岳登山口から入っていく。
実は2011年1月の新燃岳噴火後、中岳と新燃岳は入山禁止となっているのだが、中岳中腹までの遊歩道は開放されている。当時の噴石なども両脇に寄せられていて、石畳の道は歩きやすく整備されているのだ。
登山口から15分ほどで深山霧島の群落が現れ始める。遊歩道は中岳登山道とツツジコース、紅葉コースに分岐するが、中岳登山道を登って、ツツジコースを下りてくることにしよう。深山霧島は歩道沿いにも、その向こうにも一面と言っても差し支えないほどの群落を作って咲いている。振り向けば、高千穂峰が圧倒的な迫力でそびえる。登山道の入山禁止看板まで登ると、左から高隈山系、開聞岳、錦江湾に浮かぶ桜島、南さつま野間岳を一望する絶景が広がっていた。
歩道に沿ってあちこちに配置してある休憩用のテーブルでコーヒーでも飲みながら、何度も花と景色を楽しめるコースだ。往復2時間、疲れを感じることはない。
深山霧島の群落と高千穂峰
眼下に広がる薩摩の山々
どちらのコースもタイムスケジュールに余裕ができるのがいい。帰りに寄って一風呂浴びる温泉や、特産品売り場での買い物の楽しみが増えるのもうれしい。
(※1 おはら節のルーツには諸説あります。)
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参考:林 竜一郎著『おてっちき 鹿児島おはら節』国分進行堂
「平成23年霧島山(新燃岳)噴火 国土交通省の対応」国土交通省 九州地方整備局宮崎河川国道事務所
ウィキペディア
(M田)
第15回 姶良市加治木町 椋鳩十文学記念館と龍門司焼
加治木郷土館から仮屋町の通りをさらに西へ200mほど行くと、「椋鳩十文学記念館」と書かれた看板が立っている。案内に従って右に折れたさき、松の木に囲まれた記念館の入り口が見えてくる。
椋鳩十といえば、『大造じいさんとガン』。小学校の教科書に載っていた。主人公のガンの名前は「残雪」だった。どんな展開だったか。はっきり思い出せないなぁ。などと考えているうちに門口に着いてしまった。そこの木陰に、タイル張りの碑が置かれていた。
碑には、銅色の陶板に、椋鳩十が創作する物語の原点と加治木の住まいへの愛着をしたためた随筆「物語のふる里加治木」がとても丁寧な文字で焼成され、はめ込まれてあった。
私は、まず、この随筆を読んで、家の周りにやってくる動物や鳥の名前の多さにうれしくなった。蛇、ネズミ、スズメ、イタチ、カラス、モズ、ヒヨドリ、三光鳥、ムクドリ、レンジャク。短文の中に動物3,鳥7種が織り込んである。椋鳩十というペンネームが表すとおりに鳥の名前にもくわしかったのだろう。動物や鳥をモチーフにした物語が多いのも頷ける。
そして、さらに、この陶板が龍門司焼川原氏の手によって焼かれていることから、まちの歴史の深さと椋文学という加治木の双璧を同時に感じとれるような気がした。
記念館はこの奧に静かに建っている。作品原稿や書斎など内容も豊富で、子供も大人も楽しめる展示がうれしい。児童文学の館で、存分に物語の世界に浸ってみるものよろしいかと。
さて、門口の陶板に「龍門司焼」とあった。郷土館で受けた説明によると、
龍門司焼は1598年(慶長3年)島津義弘が朝鮮の役から帰還する際に連れて来られた陶工たちによって開かれた窯が始まりで、1607年(慶長12年)義弘が加治木館に移城したとき、陶工たちも帖佐から加治木に移っている。そうして、義弘の死後も加治木に留まった陶工の子孫が、1718年(享保3年)頃現存する龍門司古窯を創設した。古窯は、昭和30年4月、龍門司焼企業組合の新窯が築造されるまで、二百数十年間にわたり焼成に使われていたという。前述した陶板制作にあたった川原氏は、藩政時代からこの窯を代々主導してきたと伝えられる川原家の継嗣だろう。
椋文学を堪能したあと記念館を出て、企業組合の窯場に行ってみることにした。地図で見ると県道55号線を鹿児島空港に向け北に4km上ったシラス台地の中腹にある。
裏山の木々に囲まれた敷地の、手前に焼成の燃料となる大量の薪が丹念に積まれた焚き物小屋、正面の切り妻平屋建てには販売所と製陶作業場が配置されている。左の暖簾をくぐると、棚にはたくさんの焼き物が、器の機能やデザインごとに分けられて陳列されていた。釉薬の色も多彩で見飽きることはないが、黒釉に青流しは「黒薩摩」と呼ばれているこの窯のイチオシのようだ。
右奥の作業所では、土間の囲炉裏にくべられた太い焚木がゆっくりと炎をあげている。作業場の基本的な暖房はこの炎なのだろう。さらに奧、ろくろを据えた作業台と絵付けの机がいくつも並んでいた。来場者は職人さんたちの作業のようすや登り窯も見学できる。
横長の建屋の裏側、作業所から出入りがしやすい位置に登り窯が造られている。訪れたのがちょうど春の窯出し祭のあとだったので、空になった窯室にはもう熱は残ってはいなかったが、作業のなごりを見ることはできた。新築されてからおおよそ70年を経た窯は、古窯に比べればまだまだ若いのだろうが、木造の煤けた小屋組は美しく、石積みにも風格を感じさせるものがある。
加治木を散策して、あらためて以前から気になっていたこのまちの魅力や楽しみの原点に触れることができたように思う。やはり世の中知らないことばかりなんです。
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椋鳩十文学記念館:午前9時~午後5時 (月曜日・12月29日~翌1月3日休館)
龍門司焼企業組合窯場:年中無休・午前8時30分から午後5時30分(年末年始休業)
参考・引用:
加治木郷土誌 平成4年11月2日改訂版
加治木郷土館配付資料
姶良市ホームページ
龍門司焼企業組合 パンフレット
(M田)
第15回 姶良市加治木町 仮屋町通りから加治木郷土館・図書館へ
天ぷら蕎麦の大黒屋からひとつ南の交差点を西に折れると姶良市加治木町仮屋町にはいる。
通りの北に加治木高校、柁城(だじょう)小学校と並び、南には大樹に囲まれた家屋敷が残されている。薩摩藩では、主要な城下に麓(ふもと)と呼ばれる武家屋敷群が置かれていた。県内では出水市や知覧などの麓は古い景観を保存しながら、観光地化されたまちには大型バスで訪れる人も多くなっているようだ。
加治木の麓、仮屋町を通り沿いに西へと歩いてみよう。
まず、目に飛び込んでくるのは、学校の通りに面する石垣である。その組み方は豪快でしかも緻密だ。県内にあるほかの武家屋敷群の石垣が四角い切り出し石や、丸石で積まれているのに比べ、ひとつひとつ異なる形の切り石が一分の隙もなく組み積まれているのである。たしか鹿児島市鶴丸城跡の石垣もこんな感じだった。西南の役で放たれた無数の砲弾痕が残るあの石組みに似ている。どちらにも、なにか特別な格の高さを感じさせるものがあるなぁ。
興味は湧いてくるものの、その品格の高さを裏付ける理由はまだわからない。
このみごとな石垣を日々見ながら登下校する学生や子供たちは個々の大切さや、ワンチームとなることの力強さを知らず知らずのうちに身につけていくのではないだろうかなどと思いつつ、積み石の手触りを確かめながら歩くのであった。
柁城小学校の正門を過ぎるとすぐに「加治木郷土館」と表札のかかった石門が見えてくる。この町の歴史や風物の資料が展示されているだろう。左奧にはおもむきのある木造の図書館も隣接している。早速訪ねてみた。
郷土館に入ると最初に藩政時代の加治木を表すジオラマが置いてある。それをのぞき込んでいると学芸員のかたが来て、加治木の伝説や戦国時代から藩政時代の歴史的なできごとについて、展示資料を見ながら実に丁寧に説明をしてくださった。
いわく、「さっき通ってきた加治木高校、柁城小学校、図書館が置かれている地所を居城として選び、城としての性能を満たすための堀や城壁を整備したのち、御殿を建てたのは、関ヶ原の戦において、撤退に家康軍の中央突破を敢行した島津義弘なのです。その後彼は1607年11月に引っ越してから、1619年85歳で亡くなるまでの12年間、17代目島津家当主として、ここ加治木屋形に住み、執政したのです。」
なんと、義弘公は73歳で新居城の設計と工事を指揮したのだ。しかも遡ること7年前、66歳で合戦場を命からがら駆け抜けたことになる。恥ずかしながら始めて知りました。同い年であるわたしは、その超人的な身体能力と胆力に、驚き恐れ入るしかない。
義弘公亡き後、藩政時代を通して、この屋形は島津本家に次ぐ家格を持つ加治木島津家の居城となっていたとのこと。なるほど、ここの石垣と鹿児島のあの石垣がよく似ているのも腑に落ちた。
三百年以上続く加治木龍門司焼の歴史や資料を始め興味深い展示を堪能させてもらった。
せっかくなので、隣の図書館で郷土誌などをお借りして、教えてもらった歴史のページをめくってみたくなった。図書館と左手に続く研修室(旧郷土館陳列館)は、国の有形文化財に登録されている洋風の木造平屋建て、高い床下、漉きガラスの窓が年代を感じさせる。
母屋からせり出して設けられている玄関で靴をスリッパに履き替えて、加治木石で積まれた階段を数段上がると、穏やかな光量のなかに静かな空間が広がっている。板の間の床は温かさも心地よく、木製のテーブルでゆっくりと閲覧することができた。そして、授業を終えた小学生や高校生が学校の図書館とはひと味違った空気感を持つこの図書館を愉しんでいる雰囲気も伝わってくるような気がした。
郷土誌の伝説欄から、どうも気になっていた「柁城」小学校の訓読みとその由来を知ることができた。柁は「かじ」、城は「き」と読めるのだ。これを「だじょう」と音読みさせるのは、やはりこの町の成り立ちに根付いているようだ。
図書館を出て、もう少し西へと歩いてみよう。
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加治木郷土館:火~日曜日 午前9時~午後5時 (祝日・年末年始休館)
加治木図書館:火~日曜日 午前9時~午後5時 (祝日開館)
参考・引用:
・加治木郷土誌 平成4年11月2日改訂版
・加治木郷土館・加治木図書館ホームページ
・文化庁文化遺産オンライン
(M田)
第14回 姶良市加治木町 知足の極み 天ぷら蕎麦「大黒屋」
姶良市加治木は鹿児島空港の南に隣接する町である。高速道路やバイパスが整備されて景観は昔とは変わってきたのだろうが、町全体から深い歴史が伝わってくるような興味の尽きないまちだと思う。特に、加治木高校から柁城(だじょう)小学校に続く通りの石垣と家並みは鹿児島県内のほかの武家屋敷群とは一線を画す格調の高さを感じるものがある。
そのような加治木を見て廻りたい。
溝辺鹿児島空港から、県道55号線の坂を下り、高速道路の高架をくぐると加治木市街である。東には加治木工業高校の校舎が見えている。この往還の左手に大黒屋の暖簾がゆれている。油断をすると見落としてしまいそうなほど歩道からすこし奥まった位置に掛かっている暖簾である。車で訪れる人には店の裏手にある駐車場をしめす案内板がよい目印になるだろう。
掃除の行き届いた間口と店軒に掛けられた鶯色の暖簾に白抜きの文字が快い。これをくぐって店に入ると左手に開けひろげの厨房がある。
蕎麦を茹でる大釜が白い湯気をあげ、それが載っているかまどは、薪を燃料として使っていたころの煤あとがそのままのこっているし、色取りあざやかなタイル張りの流しも現役を誇っているようだ。そして、手前の水甕にはご主人が毎日仕込むつゆが容れられているようだ。かぶせられた木蓋は渋く色を重ね、この店の歴史を伝えてくれる。つゆは流しの右に置かれた小鍋で温められるのか。
なにも足さない、なにも引かない厨房。できれば、この厨房で流れていく調理作業をずっと見ていたい。
店は奥行きのある木造で、手前の土間席と奧に小あがりがしつらえられている。太い上がり框の土台には鹿児島で加治木石と呼ぶ象牙色の火砕流凝灰岩が使われているようである。
小あがりに上がるとすぐ右の柱は囲炉裏で黒く燻されている。そして、その胴には、ほぞ穴がいくつか開いているが、どの穴も煤で燻された黒だ。開業した頃から天井を支えてきたのだろう。
ご主人にそこら辺のところをうかがってみた。
開業された先代(ご主人の父上)は昭和19年に加治木に大阪からやってきた。この店は、大きな造り酒屋の北はずれにあった麹藏を「そば屋をやる腕を活かす店として使えばよろしい。」と蔵主がゆずってくれた棟だという。それを先代が自分の手で改修して店に模様替えした。開業、昭和29年。ご主人は、その頃南側に続く酒蔵の広い建物を覚えているそうだ。ただ、今残っているのは、この店のところだけになってしまった。おそらくこの棟の構造体は戦前のものだろう。と。
土間には厨房を囲むようにテーブルが、小あがりには厚板の食台がおかれている。くつろぎたい、雰囲気を楽しみたいという向きは小あがりの厚板食台を好まれるようだ。この町に住んでいた作家の椋鳩十と島尾 敏雄も一番奥の食台を定位置として良く話し込んでいたし、海音寺潮五郎もよく来ていたらしいよとサラッと話してくれたのはご主人の奧様。
さて、品書きはと言うと、天ぷらうどん900円、天ぷら蕎麦1000円、めし200円のみ。知足の極みですなぁ。やはりここは、暖簾の白抜き文字通り天ぷら蕎麦を注文。
ふつうの蕎麦どんぶりより広くてやや浅いどんぶりに、透き通ったつゆにゆるりと浸かった太めの田舎蕎麦、その上には野菜が主役の大きなかき揚げと色鮮やかなネギが盛られて運ばれてきた。どんぶりの横には、小皿に真っ白な大根の甘酢漬けが添えられている。
つゆはすっきりとしているが薩摩人好みにほんの少し甘めに仕立ててられているようだ。蕎麦は太いがもっさりとはしていない歯触りのよい麺。そして、かき揚げにはたっぷりと混ぜてある黒胡麻が香ばしく、しゃりしゃりとした衣の軽い食感を拡げてくれる。箸休めに冷たい大根をいただけば言うことはございません。たちまち完食となる。
つゆまで飲みおえた平たいどんぶりには、大黒屋の屋号が釉薬でいれてある。聞けば、加治木町内の知り合いの窯で焼成してもらっている、「新納」と言う姓の窯元ですよ。とご主人。
見ると厨房の店側の壁に、ゴンドラを主体に配した四つ切りの古いモノクローム写真が貼られ、台紙に「ベニスにて 撮影 新納先生」とメモ書きがある。先の窯元との繋がりを訪ねると、窯元のお父さんです。という。県立歴史博物館黎明館の初代館長をされた新納教義先生です。と付け加えてくれた。
食後のお茶と漬け物を愉しんでいる間にも、お客さんが次々と入ってくる。まだまだお話を聞いていたいところだが、席を空けて勘定を済ます。また、今度。
店の外に出ると春先の暖かい日和だった。腹ごなしもかねてもう少しこのまちを歩いてみようと思う。
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大黒屋:定休日 日曜・祝日
営業時間 9時から16時
参考・引用:姶良市デジタルミュージアム・Wikipedia
(M田)
第13回 曽於市財部 県境の駅構内にある食堂「麺処桂庵」
曽於市は大隅半島の北に位置している。北端の曽於市財部町は宮崎県都城市と県境で接する。というより、薩摩人としては、都城盆地の西側にある財部のまちといったほうがぴんと来る。もともと都城市は島津氏発祥の地といわれており、藩政時代の島津三州、いわゆる薩摩、大隅、日向のうち日向の要衝であった。
さらに現在の都城市庁舎は都城島津邸に近接している。もちろん住民の話し言葉は薩摩語である。いまでも、都城市や小林市、えびの市を語るとき、その地と一つ国であるという意識が、私も含め薩摩人の心の底にはあるように思えてならない。
したがって、古来国境を挟んで対峙し、往来を厳しく制限していた熊本との県境にくらべると、行政の境を除けば、「けんざかい」の意味はあってないほどに薄いように感じている。
まして、曽於市本庁舎より都城市庁舎のほうがずっと近いのだから、経済圏としてもこちらに属しているといっても過言ではないだろう。
そして、JR日豊本線も通っていて、都城・宮崎方面行きと鹿児島・隼人方面行きのホームが対面で設置されている。
構内の時刻表をみると下り上りとも一日10本に届かないようだ。乗客数は2015年のデータで一日平均75人だから、いまではさらに減っているのではないだろうか。
駅舎は木造で、向かって右側に多目的ホール「曽於市やまびこ館」として食堂が併設されている。それが麺処桂庵なのです。
どのメニューも食べきれないくらいの量が出てくるという、噂のめし屋だ。なるほど、ここで昼食を終えて、駐車場でたばこなど燻らせながら、談笑している男たちはみな屈強な体格の持ち主ばかりだ。ぺろりとたいらげたに違いない。満足、満足と顔に出ている。
入り口は外にはなく、駅舎の中にいったん入るシステムだ。よくあるサッシ戸を引くと2~4人掛けのテーブル席が6つ、カウンター席が8箇ほど並んでいる。天井も吹き抜けでゆったりとした造りだ。
早速カウンターの中ほどに腰を据え、メニュー表に目を通しながら、隣の席にすわる40代ダンディの食べている料理を横目でチェック。山のように盛られた唐揚げのふもとをスプーンですくって口に運んでいる、大きな皿のよこのどんぶりは蕎麦かうどんだ。こいつを一人で食べきるとはいい男っぷりである。メニュー表下から2段目の唐揚げカレーセットに違いない。
私にこれを完食せよとは無理な注文というものだ。いいかげん分別のある年だし控えめにいこう。海老てんぷら定食ご飯少なめで注文してみた。
なんと大皿にはエビ天と野菜かき揚げが8つずつのっている。ごはんとそばのどんぶりは通常サイズだ。これで1500円は安い。大盤振る舞いに深く感謝しつつ、箸を進める。
天ぷらは揚げ具合もよく、衣もさくっとして良い歯触りだ。最初は塩で、それから天つゆ、おわりに蕎麦の出汁と味を変えながらチャレンジしてはみたが、残念ながらメインの天ぷらは半分食べるのがやっとだった。つくづく寄る年波を感じた次第です。でも大丈夫、プラパックが1箇10円で用意されている。
「今夜は、卵でとじて天丼だなぁ。」とためいきをつきながら、鹿児島行きのホームに出て風にあたるのだった。
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噂のもと:Aさん、Moさん
麺処桂庵:定休水曜日
参考・引用:JR九州HP・Wikipedia
(M田)
第12回 指宿市 温泉郷の大衆浴場(3) 浜児ヶ水区営温泉「浜ん湯」
砂蒸しで有名な指宿温泉郷で、地元の人々は、どんな温泉ライフを満喫しているのかが気になって、大衆浴場を訪ねている。
「弥次が湯温泉」と「区営鰻温泉」、どちらもそれぞれの地域に根ざした味わい深さがあった。
鰻温泉からさらに6㎞ほど南に下ったあたりに、岡児ヶ水と浜児ヶ水という地域がある。難読、「おかちょがみず」と「はまちょがみず」と読むそうだ。大字名だから郵便番号もそれぞれについている。
岡児ヶ水は、18世紀のはじめ、前田利右衛門が琉球から持ち込んだ甘藷の種子芋を植え付けたところだと伝えられ、300年前に立てられたという利右衛門の墓石もこの集落の墓地に現存している。
薩摩の国にあって、甘藷の栽培がいまなお盛んで、うまい芋焼酎をいただけるのは利右衛門さんの功績があったればこそなのだ。日頃の感謝をこめて瞑目合掌させてもらいました。なお、ここは鹿児島県内では西瓜の名産地としても古くから有名で、夏場「徳光スイカ」のブランド名で店先に並びはじめるとつい買ってしまうほどおいしさは極上だ。
さて、岡児ヶ水の東隣が浜児ヶ水だ。地区に入ると「浜ん湯」への小さな案内板が何ヶ所か民家のブロック塀に貼り付けてある。これを見逃さないように狭い集落道を進んでいくと温泉まで行き着く。駐車場は温泉の手前と奧に20台ほどのスペースが設けてある。
温泉棟は集落奧、海端の崖の上に防風林に包まれるように建っていた。そして、入り口の軒より高い蘇鉄が、南国の暖かさと、「浜ん湯」の歴史を感じさせてくれる。
温泉に入る前に、建屋を右手に見ながら、その先に続いている細道を200mほど下りてみた。ゆったりと弧を描く海岸線に東シナ海の穏やかな波が寄せ、すこし冷たい風も吹いている。
この浜には昔から温泉が湧いていて、昭和初期には露天風呂が地区の人々によって造られ、他所からの客も多く賑わったというが、なるほど、このこころ静まる風景に、当時のひとたちも惹きつけられたことだろう。昭和26年に、屋内に浴室を備えた棟屋が建てられ、その後今から40年ほど前に、そのままの形で浜から上がった現在の場所に移築されたそうだ。
「浜ん湯」は、この浜で湧いている源泉を崖の上の貯湯槽に汲み上げて、そこから浴槽に掛け流している。手前に見える四角い木箱がその泉源ではないかと思う。
「干潮時に広がった砂浜から湧きでる湯気が見たいものだ。」などと考えながら、とぼとぼと坂をあがる。温泉の入り口には、営業時間は9月から5月までは15時から19時半まで、その右に入浴料金は現金130円、回数券(20枚)2,000円を案内する紙が張ってある。これは地区外の人への案内で、区民の負担は現金70円だそうだ。区民回数券は推して知るべし。区営温泉は本物の区民ファーストで運営されているが、一見の私たちにもうれしいお湯である。
浴室は腰壁までタイル張りで、そこから上は木造だ。浴槽は2つあって、向こうがぬる湯、手前があつ湯に設定され、塩泉質の透明なお湯が掛け流しされている。洗い場は6ヶ所だが、使う人はまれなようだ。
湯舟から見上げると、浜の建物として、海から襲いかかる強風に耐えるための太い木材と強固な構造が、そして、40年前の移築の痕跡が現しになっている。頬杖や火打ちの入れ方、梁桁の継ぎの巧みさはもちろん、空いたままのほぞ穴まで、のぼせるまで見ていたくなる。
このような地区で運営されている浴場では、どなたも、きちんと「こんにちは」と挨拶の言葉をかけて入って来られる。会話もそこから始まり、つながっていく。地区外の一見の私たちにも同様である。今回ここでは、建屋の話を詳しく聞くことができた。
区営温泉を誇りに思う浜児ヶ水の人々の温かさと歴史が伝わる、清楚な良い温泉である。
賑やかな温泉郷には、さらに深く、つながりの温泉ライフが営まれているのだ。
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浜児ヶ水区営温泉「浜ん湯」
入湯料 小学生以上130円、小学生未満無料
営業時間 9月~5月 15:00~19:30 / 6月~8月 15:30~20:00
休み 毎月第2及び第4木曜日
参考・引用
公益社団法人 指宿市観光協会HP
いぶすき観光ネット
南日本新聞 2021年11月7日号 12ページ(「浜ん湯」の管理人の方に提供いただきました。)
(M田)
第11回 鹿屋市祓川 山寺鉱泉(標高74m)から高隈山 御岳(標高1,182m)を目指す
10月を迎えたとたん、大隅半島は急に秋めいてきた。肝付町から眺める高隈山も、澄んだ空気の中コントラストの効いた引き締まった山容を見せている。
そういえば夏のはじめに、山寺鉱泉湯守の谷本さんから「うちの駐車場に車を置いて、瀬戸山神社から高隈に登ってみれば」と勧められたのだった。タカクマホトトギスの花季は過ぎてしまったけれど、山頂を目指すのには申し分ない季節になってきた。指宿温泉郷シリーズはひとつお休みにして、谷本さんのお勧めに乗ってみようと思う。
朝7時。山寺鉱泉から集落にはいると、あたりは金木犀の香りに包まれている。二人並んで歩くのにちょうどよいくらいの通りをぬけて、瀬戸山神社へ向かってまっすぐにのびる寺街道にでた。朱の鳥居と高隈山の上には、少し雲はあるものの山歩きには申し分ない青空がひろがっている。
鳥居ごしに登山の無事を祈願して、左へ1km近く、よく手入れされた杉林のなか、大きな登山案内板が建っていた。足下にはアルファベット表記で左右ふたつのルートが示されている。「IREIHI」は、かつてこの山に墜落した自衛隊機を忍ぶのための慰霊碑への道筋を、「CLASSIC」は、昔から使われている登山道を示しているのだろう。ここは右のルートへ。
ところが、このクラシックルートは歩きやすいふつうの登山道ではなかった。木の幹や枝に巻かれたピンクのテープを頼りに、倒木を乗り越え、沢の浮き石を踏み渡る、キング・オブ・オフロードだった。頂上までの体力を温存するためには休み休み登るしかない。
息も切れ切れになった標高400mあたりで緩やかな小尾根にでた。スダジイなどの巨木も混じる照葉樹林の中、敷積もった落ち葉のうえを歩くのはなんとも心地よい。息も整い、ふくらはぎも緩んでくる。道すがらヤッコソウやツチトリモチも枯れ葉の間から可愛い姿をあらわしてくれた。特にヤッコソウは「頑張れーっ」と両手を振ってくれているようだ。これはこれは。この森からのご褒美ですな。ありがとう!元気をもらったよ。
出発から80分を過ぎたころ、慰霊碑コースとの合流点の看板が見えてきた(標高約460m)。ここから登山道は急勾配を維持しながら、桧の植栽林を抜けたあと、雑木二次林のなかを一気に標高を上げていく。足もとはしっかりしているが、振り向いて景色を見る余裕など与えてはくれない。ひたすら無心に足を進めるしかない。
合流点から60分ほど、暗い林のさきに、明るい光が射し込んできた。山腹を横切る峰越林道までなんとかたどり着けたところだ。安堵しながら平場に出ると林道沿いに5合目を示す立派な看板が立っている(標高約680m)。
しかし、まだ半分しか登ってないじゃないか。残りの体力で頂上まで行けるだろうか。案内板の先に延びる登山道を見上げながら、気持ちは下りに傾いてしまう。
イヤイヤイヤイヤ、時間だけはたっぷりあるぞ。
ここで、大休止。樹々の間からは、眼下に鹿屋市から志布志湾までの肝属平野を見渡せた。爽快な眺めだ。コーヒーをたて、おやつをゆっくりといただきながら、しぼみはじめた登頂達成への気力を奮い起こすのだった。
5合目をあとにして、再び登山道に取り付く。山肌をおおう樹木は低くなり明るい小径に変わってきた。そして、登山道の傾斜も5合目までを遙かにしのぐ厳しさになっている。木の根や設置されたロープを頼りによじ登るために、ストックは使えなくなった。
急峻な山径を這うように登っていると、その昔ここを飛ぶように歩いた修行僧の高笑いが聞こえてくるようだ。「5合目までは人の道、これが修験の道よ!ふわっふぁっふぁ」と。思わず「懺悔、懺悔、六根清浄」と繰り返し大声で唱えてはみるけれど、登り道の厳しさは増すばかりで、しまいには小声も出なくなってしまう。しかし、登るしかない状況は続くのであった。
取り付くこと70分ほど。青息吐息で見晴らしのよい岩場にでる(標高約950m)。切り立つ岩壁からは志布志市、そのさきの都井の岬あたりまでの景観がひろがっていた。標高差を実感として捉えることができる風景だ。
岩壁から更に40分ほど登ると鳴之尾牧場からの登山道と出合う。ここが9合目。このあたりから橅(ブナ)が見え始める。風が強いためか樹高は低く、幹も太くはない。自生の南限といわれている。
踏ん張って20分で御岳頂上にたどり着いた。12時45分。登山口から5時間の登りがやっと終わった。(標高1,182m)
頂上からのパノラマは360度。北から反時計回りに桜島、鹿児島市内、開聞岳、南大隅の山々、霧島までぐるりと見回すことができる。圧巻の絶景であった。恥ずかしながら、しばし登頂の実感を味わうのであります。
山頂の昼食は格別だったことはいうまでもない。
ゆっくり休憩して帰途についた。滑らないよう気を抜けない小径が続く。急な下りに膝が笑い出すが、こちらは登り同様緊張して歩を進めるしかない。
約3時間ひたすら下って、登山口の看板に到着できた。
山寺鉱泉の谷本さんに登頂したことを報告したところ、自分のことのように喜んでいただいた。至福のお風呂で標高差約1,100m、山行8時間の疲れをじっくりと癒す。登り甲斐のある地元の山が、まさに身近になった一日だった。
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参考:山寺鉱泉湯守 谷本久雄さん製作「高隈山・御岳登山ルート」
(M田)
第10回 指宿市 温泉郷の大衆浴場(2) 指宿温泉郷 「区営鰻温泉」
指宿温泉郷で気になる大衆浴場を訪ねている。
指宿市は、2006年に旧指宿市、山川町、開聞町の三市町が合併して新設された。前回の弥次ヶ湯温泉の所在は旧指宿市街である。そこから車で20分ほど山手に行くと池田湖と鰻池という大小二つのカルデラ湖が並んでいる。池田湖は九州一の大きさで、昔「ネッシー」ならぬ「イッシー」存在の噂が流れたこともある観光スポット。一方、鰻池は直径約1.3km周囲を緑がふちどるこぢんまりとした火口湖である。かつては、水質もよく鰻の養殖も行われていたという。
鰻池の北東、鰻地区の奥まったあたりに「区営鰻温泉」が、これまたこぢんまりと建っている。ここは旧山川町に位置し、指宿市街からは10km近く距離を置いた場所だ。温泉郷にはいるのかどうか迷ってしまうほど、まったく静かな大衆浴場である。
西郷隆盛も来ていたと伝えられており、湯屋の壁には「西郷どんゆかりの湯」と大きく書かれている。西郷隆盛は薩摩の温泉郷のあちこちに訪れているけれど、どうやら、うさぎ狩りができる山と、切り傷や筋肉痛に効能のある温泉がそろったところが特にお気に入りだったように思われる。
この泉源は、指宿地区では唯一の単純硫黄泉で、そちらの効能もそろっている。ただ、脱衣場の壁に貼られている史料を読むと、明治7年正月、この温泉に逗留していた西郷のもとを、佐賀の乱で敗れた江藤新平が訪れ、初日談笑し翌日は何か懇願したが、ついには声を荒げて叱りつけるように帰って行ったという記録が残っており、しかもそのことを、西郷が宿主に対して念入りに口止めしたことが記されている。
西南の役を前にした時期のエピソードとして、なんとも興味深い。
さて、湯屋に入ると軽い硫黄の香りがする。タイル張りの浴室は清潔で、洗い場が3つほど並んでおり、楕円形の浴槽には透明度の高い澄んだお湯が満たされている。少し熱めだがゆったりと入ることができる肌あたりのよい温泉だ。
お湯に浸かって、見上げると天井は木造で架けられている。硫黄を含んだ蒸気に対応するための配慮がなされているのだろう。
ゆっくりと硫黄泉を堪能して外に出ると、湯上がりに湖面から吹く風が心地よい。
そして、駐車場の横に、鰻温泉の特徴を体験できる工夫が設けてある。この地区では昔から、家々の庭先に「スメ」という、噴き上がる蒸気を使って野菜や魚などの食材を蒸して料理するかまどが作り付けられている。その「スメ」で作る蒸し卵を入浴者に提供しているのだ。生卵をいくつか購入して係のひとに託し、7分も待てば美味しい温泉卵ができあがる。塩も付けてくれるので、すぐさま熱々をほおばれる寸法である。(やけどに注意!)
静かな湖畔に地元の人々が建てた清楚な湯屋で、その土地ならではの「温泉」を楽しめること請け合いである。
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区営鰻温泉 大人(中学生以上)200円、小学生100円、乳幼児50円
営業時間 8:00~20:00(受付終了19:30)
休み 毎月第1月曜日
卵 1個60円(2個以上で「スメ」サービス)
参考・引用
公益社団法人 指宿市観光協会HP
いぶすき観光ネット
ウィキペディア(Wikipedia)
(M田)
第9回 指宿市 温泉郷の大衆浴場(1) 指宿温泉郷 「弥次ヶ湯温泉」
新型コロナ感染症が5類に移行されてから、国内の観光地や温泉地をめぐる番組が増えてきた。そのなかでも砂蒸し温泉をメインにした指宿の紹介が多いように感じる。
指宿は、霧島とならぶ鹿児島県内有数の温泉郷である。指宿市観光課のデータでは、令和元年は、入込観光客数は年間370万人を超えていた。市の人口3万7千人のおよそ100倍にあたる人々が国内外からここを訪れていたのは、数多い老舗の温泉旅館やホテル、絶景の海岸線がひろがる露天風呂、そして、世界で唯一ここでしか体験できないといわれる天然の砂蒸し温泉など観光資源の豊かさからだろう。コロナ禍の影響で、令和3年、観光客は年間220万人まで減少してしまったが、温泉郷としての魅力は衰えてはいないはずだ。ウィズコロナとなったこれから、観光客数も回復し街に以前の活気がもどってくることを願いたい。
ところで、指宿市という一大湯の町に暮らしている地元の方々は、普段どんな温泉ライフを過ごしているのか気になるところだ。毎日砂風呂に埋められるわけにもいくまい。手軽で身近な、入り心地のよいお湯があるに違いない。インターネットで「指宿 大衆浴場」と検索してみると17の浴場が掲載されているページが現れる『いぶすき観光ネット』。
入浴料はだいたい300円から350円、なかには150円で入れる浴場もある。この価格なら毎日だって銭湯感覚で利用できる手軽さはある。けれども、湯屋のおもむき深さやお湯の入り心地などについては、やはり実際に行ってみないことには、パソコン画面からは伝わっては来ない。ということでまず、ネットに掲載されている大衆浴場、弥次ヶ湯温泉を訪ねてみた。
鹿児島市内から南に向かって国道225号線を経て国道226号線を南下。車は左手に波静かな錦江湾を、さらに対岸には桜島、大隅半島の山並みを観望しながら走る。国道のすぐ右横を並走しているのはJR指宿枕崎線だ。ディーゼルカーに揺られながら、缶ビールを置いた車窓から見る南国の景色もきっといいものだろう。
指宿市内に入るとすぐに「道の駅いぶすき」が見えてくる。ここで販売されているソフトクリームは、オクラが練り込まれているクリームの横に、寄り添うように塩ゆでオクラが乗っていて、けなげで健康的においしい。
市街地に入ると、田口田交差点から左折して「なのはな通り」に入る。JR指宿枕崎線を越えると正面に海に向かって平地がひろがっている。この道を直進すれば、老舗温泉やホテル、砂蒸し温泉などが建ち並ぶ指宿温泉街に通じているのだが、すぐに左折して市役所方向にむかう。
市役所を過ぎると300mほどで左手に「♨創業明治25年弥次が湯温泉」と書かれた茶色の看板が見える。矢印にしたがって小径にはいるとすぐに駐車場、その奧に2棟の木造の湯屋が建っている。温泉街からはほどよく離れていて、田んぼに面した静かな立地である。
参考にした三国名勝図会に「水田の間に湧出す、(中略)、往昔 弥次といふ者掘出せり。故に其の名を得たり。」とあることからも、いま目にしている風景は昔のままなのだろう。
二つの建屋はどちらも明治からの百年を経たおもむきを醸し出している。右の湯屋の妻面に「弥次ヶ湯温泉」、2階建ての方の軒下には「やじがゆ温泉大黒湯」と表札が掛かっている。
受付で初めて来たことを告げると、ふたつの湯の違いと使い方を教えてくれた。
・弥次ヶ湯は源泉のまま薄めてないし、ちょっと熱いが決して薄めないこと。
・大黒湯は泉源が別で高温のため水で薄めて少し入りやすい温度にしてあること。
・入り口は別々だけれど、中でふたつがつながっているので交互に入浴できること。
・大黒湯2階の風情の残る休憩室にも上がって休めること。
ここはやはり源泉100%の弥次ヶ湯温泉の方から入ってみよう。
脱衣場から天然竹の壁で囲われた浴室までは、蹴上げ15cmほどの階段を4、5段おりる。石造りで一坪ほどの広さの湯舟に、素晴らしく透明な温泉をたたえており、松か桧の底板が敷かれてある。掛け流しの吐出し口も洗い場の蛇口もない。Simple is Best!
お湯は熱めだが、少し気張って入り慣れてしまえば、あとはどうということはない。落ち着ける入り心地を堪能できる。浴場を移動するにはいったん脱衣場に上がって、向こう側の大黒湯の浴室にまた下りる。
造りは弥次ヶ湯とほぼ同じだが、石張りの壁の洗い場には鏡と水の蛇口、階段には手摺りも設置されている。お湯は淡い濁りがあり、説明通り幾分低い温度に薄めてある。老若問わずゆっくりのんびり入るのに申し分ない浴室がしつらえてある。
どちらの泉質も、参考にした資料には「塩化土類含有弱食塩泉」と記載されている。塩味のついたミネラル温泉ということだろうか。なめてみると塩辛く感じ、肌触りはいたって滑らかだ。さらにその本には、指宿温泉のほとんど泉源の成因は、海水と池田湖・鰻池などの湖水とが混合し、それが地下にあるマグマの熱によってあたためられて湧出していると書かれている。火山活動と海のなせる技なのだろう。
資料の温泉利用状況(昭和58年3月現在)に、弥次ヶ湯地区の顕著な特徴が見られた。それは、園芸への熱利用だ。ここでは、全地区で199箇所あるうちの82箇所の農場で植物栽培の加温に使われているという。すでに大正時代には温泉熱を新たな農業に活かそうという試験場が設立され、そこで様々な植物の栽培実験が実施されていたと記されている。その成果が現在まで引き継がれているのだ。
湯屋の窓ごしに、今まで見たことのない美しいピンクの花が青空に映えて咲いていた。この花が弥次ヶ湯温泉の歴史を物語っているようだ。
次に訪れるときには、ここの自炊棟に宿をとり、2階の休憩室でゆったりとひろがる田んぼを眺めてみようと思っている。
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弥次が湯温泉 定休日木曜日 大人350円
参考・引用:
公益社団法人 指宿市観光協会HP
いぶすき観光ネット
三国名勝図会
指宿市史
鹿大農場研報 指宿の温泉熱利用農業の振興 石畑清武(1999年10月10日受理)
(M田)
第8回 鹿屋市 落花生と双子の木橋
台風6号が迷走しながら通過しているうちに、暦の上では秋になってしまった。この時期、肝属鹿屋の笠之原台地の畑では落花生の収穫の真っ最中である。水が乏しく、台風の風が激しく吹きさらすシラス台地の畑作は、草丈が低く土の中に収穫の対象が埋もれているサツマイモと落花生が風害リスクの少ない作物として生産されてきた歴史があるようだ。
酒造用、デンプン用の甘藷を主体とすれば、落花生の作付けはさほど多くはなく、その収穫はほとんど手作業でおこなわれている。夏のはじめ頃から、広い畑に腰をかがめて、株を引き抜いては子房柄(しぼうへい)に付いているたくさんの鞘(さや)をひとつひとつ根気よくちぎっている姿をあちこちで目にするようになる。
収穫された鞘は、生落花生として、スーパーや直売所にならんでいる。今は1kgで1,000円くらいが相場のようだ。新鮮なものを塩ゆでにして熱いままどんぶりに盛り、冷えたビールといただくのが、最速、大満足の調理法だ。
だが、生落花生には時間と手間のかかる至高の調理法がある。それは薩摩語で「だっきしょ豆腐」(ピーナツ豆腐)と呼ばれている。生落花生の絞り汁をくず粉もしくは甘藷デンプンと混ぜて煮固めた純白のゼリーで、つるりのあとねっとりとした食感を味わえる一品だ。
家庭の味として作られていたが、夏の暑い時期に火にかけた鍋をかき回し続ける手間が災いしてか、家でつくられることはまれのようだ。ちかごろではスーパーなどで既製品を買ってきて味わうのがふつうになってきた。
そのような中、大隅半島で最高の「だっきしょ豆腐」(※1)を提供してくれるのは、国道269号線を北田交差点から200mほど西に歩いたところにある「小松食堂」だろう。ここは、チャンポンで有名な大衆食堂だが、すぐ隣で「和魂洋菜」という惣菜店もやっているのだ。この店のだっきしょ豆腐は鹿屋産の落花生で作られていて、透き通るような白さととろりとした食感が特徴の逸品である。口に入れたとたんにふわっと広がる落花生の香りもたまらない魅力だ。お値段も手頃なのがうれしい。
さて、小松食堂から北田交差点にもどろう。ここは東西に国道269号線、北に向かう国道504号線が交る要衝だ。東北角にリナシティかのやという複合施設が建っている。リナシティの東には鹿屋川が流れており、施設建屋と川向こうの駐車場をつなぐ木橋が2本架かっている。どちらも曲線橋で、幅員5.2m、橋長は上流側が21.5m、下流側が23mと、見た目もサイズも双子のような人道橋である。両方の親柱とも「ふれあいばし」「平成18年3月」の橋名板が埋め込まれている。
対岸から広角で施設全体を撮影してみた。リナシティの前庭で、両岸の野外ステージが二つの橋によってつながり、円形の回廊ができあがっているのがよくわかる。この双子の曲線橋は、施設全体のデザインの中で、人と人、人と水とがふれあうためになくてはならないアイテムなのではなかろうか。
湾曲集成材を含む材料と架橋を弊社で納めさせていただいた。弊社が納材・施工を担当した木橋の中でも代表的な一つだと思う。川面近くの遊歩道から全体を見上げると橋の構造もよくわかることだろう。近くにお越しの際は是非ご覧いただきたい。
(※1)M田の個人的感想です。
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小松食堂・惣菜屋 和魂洋菜
鹿屋市北田町9-5
定休日 不定休
営業時間 10時~14時
参考:サカタのタネ園芸通信 ラッカセイの育て方・栽培方法
木橋資料館 福岡大学工学部社会デザイン工学科
(M田)
第7回 鹿屋市 夏空の高隈山と山寺鉱泉
大隅半島の中央部、錦江湾よりに位置する高隈(たかくま)山地。最高峰大箆柄岳(おおのがらたけ 標高1,236m)を含め、標高1,000m超の7峰が連座する山塊は、四季を通して、あるいは眺める者の位置によって、それぞれに違う姿を見せてくれる。
また、古くから修験道の霊山として知られ、それぞれの山頂には、祠が残っていて、修験の荒行が行われていた昔をしのばせる。
わたしも友人や家人と、あるいは単独で登ってみたが、どの登山道も整備されてはいるものの易々とはいかない厳しさが印象的だった。しかし、山頂からの眺望はすばらしく、垂水側の大箆柄岳からは桜島の噴火口を眼下に見おろし、運がよければ錦江湾のはるか南に屋久島をとらえることもできる。また、鹿屋側の御岳(標高1,181m)からは鹿屋、肝属平野の広さのさきに、ゆったりと弧を描く志布志湾を望めるのである。登り甲斐のある山々だと思う。
ふもとに住まう人々も、この山の特別な存在感を感じているように思う。わたしの子供たちが通った地元高校の校歌を見てみよう。
鹿屋農業高校 「仰げば高し 高隈の むらさき匂う峯の色~」
鹿屋高校 「山高隈に月影落ちて 北斗消えゆくあけぼのの空~」
どちらも「高隈」の二文字が、畏敬と愛着をこめて読み込まれている。きっとほかの高校も、このあたりの小学校や中学校の校歌にも、同様の思いを伝えるためのこの二文字が入っているのではないだろうか。
梅雨の時期なかなか全貌を見せることのなかった高隈山が、夏空のもとくっきりと姿を見せてくれるようになった。わたしには翼を大きく広げた鷹のように見えるのだが、鳥の見過ぎだろうか。
国道504号線は鹿屋市街地から高隈山地の東麓を北へ輝北・霧島に向かっている。鹿児島交通のバス路線が通っていて、「上祓川」、「寺街道」という名前の停車場が続き、その先に「山寺鉱泉入り口」の黄色い看板が見えてくる。「源泉掛け流し湯」の文言も見て取れる。
ここを左折するとすぐ右手に広い駐車場が案内される。車を停めて一段上がったところに受付と休憩所があり、その奧に浴室棟が設けてある。脱衣場には歴史を感じる木製の大きな椅子が置かれ、背もたれに「ヤマサハウス」のロゴが入っていた。
清潔に管理されている脱衣場から浴室にはいると、左に3畳ほどの浴槽、その手前に半畳くらいの水風呂、右手に4個の洗い場。五角形の浴槽には薄い黄金色の鉱泉が満たされている。42℃を保つようにとの注意書きがあるから、少し熱めだが、気持ちよく浸かれるお湯だ。夏だけど肩まで浸かり、吹き出すほどの汗をかいたら、水風呂に。16℃・キンキンの地下水が身を引き締めてくれる。
先客は、無駄な肉をそり落とした、ブルース・リーのような体つきの先輩だった。聞けば今年80歳になられたという。背筋の鍛え方を実地で示してもらったが、わたしには到底できない動作だった。
止まらない汗をタオルで拭きながら、湯守の谷本さんから高隈山にかかわる興味深いお話を聞かせていただいた。曰く、
『ここの鉱泉は高隈山の山腹に湧く水を塩ビ管で2kmも引いていて、湯ノ花がたまるのでパイプや溜め桝の管理も大変なんだ。成分として多くの鉄分と特殊なミネラルを含んでいるので、昔から切り傷や肌のトラブルによく効くと言われている。
三代ほど昔は、水源に近い「瀬戸山神社」の参道に湯屋があって、竹を割った樋で引水していたらしい。その頃は、修験道や岳詣りの客も多くて、500m近くあるまっすぐな参道には宿屋や僧坊がならんでおり、賑やかだったという。
「瀬戸山神社」は、室町時代から江戸末期まで、修験道の拠点としての「五代寺」と神仏混淆の寺社であった。だから、バス停に「寺街道」の名が残っているのだろう。』と。
夕方ではあったが、夏の陽はまだ高い。「瀬戸山神社」の参道に向かった。
国道は谷川に沿って北上している。地名の「祓川」とは、霊山に入る前に、この清流にはいって、世俗の身を祓い清めた名残なのではなかろうか。
参道は神社に向かって、北西に延びている。鳥居の向こう本殿はうっそうとした杉木立に囲まれているようだ。背後には夏雲に覆われた高隈山地が横たわっている。湯守の谷本さんは、御岳への登山道はこの鳥居から直登するように続いていて、その途中に泉源があると話してくれた。
歩いてみると参道の傍らの公園には五代寺を守っていた仁王像や、梵字の刻まれた石碑と五輪の塔も残されている。薩摩で明治時代にはいって激しく実行された廃仏毀釈まで、長く真言仏教の寺として信仰を集めていた証しだろうと思う。
何百年もの間、修験道に出立する山伏や岳詣りの人々を見守ってきたに違いない。
高隈山地は、その険しさと歴史によって、今を生きる地元の人々に、畏敬と愛着の念を抱かせる魅力を抱かせているのだろう。
谷本さんから、山寺鉱泉の駐車場に車を置いて、「瀬戸山神社」から高隈に登ってみればと勧めていただいた。鹿児島では「夏山には犬(いん)も入らん。」という。
9月の彼岸を待ってお勧めのコースで登ってみようと思っている。タカクマホトトギスの薄黄色の花が咲いている頃だ。もちろん下山後、山寺鉱泉で汗を流すことを楽しみにして。
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山寺鉱泉
営業時間 13時から20時30分
定休日 火曜日・水曜日
入浴料 420円
※参考:鹿屋市史、吉川満著「鹿児島県の山歩き」
(M田)
第6回 出水市 梅雨のさなか紫陽花とざる蕎麦 東雲の里草の居
薩摩半島西岸の最北に位置する出水市。鶴の飛来地として名高い町だ。2006年に旧出水市と野田町、そして高尾野町が合併してあらたな出水市となった。旧3市町ともそれぞれ「麓(ふもと)」と呼ばれる武家屋敷群が大切に残され活かされている。
そのような町並みにしっくりと落ち着く木造の支所が、2019年に野田、2020年に高尾野に新築された。両方の構造体を弊社で施工させていただいたのでご紹介したい。
どちらも木の温もりで包み込まれるようなすっきりとした建物で、訪れるかたも働くかたもきっと心地よい役所だろうと思う。出水市街地から長島や阿久根への道すがら、懐かしい町並みをとぼとぼと歩いてみるのも楽しい。
さて、市役所本庁のある出水市街地から国道447号線を伊佐市に向かって10kmほど走ったところに大川内という集落がある。清流が自慢の村で、秋祭りで売り出される新米と鮎の甘露煮は格別のおいしさだ。梅雨に入ったこの時期、北薩では田植えが始まっている。水の張られた田んぼに映る里山がきれいだ。
このあたりの国道沿いに「東雲の里 生そば草の居」の入り口看板が立っている。ここからさらに北へ6km、細い道を登っていく。途中不安になるが「信じて登ってください」と親切な案内板が立っているから大丈夫、迷うことはない。つづれ織りの道は伊佐市に続いている。
夏を前にした道は、進むほどに山の緑が濃くなっていく。渓流も雨を集め水量も豊かだ。初夏の風景に気を取られているとお店への別れ道が案内されているから、右折してさらに細道を登れば駐車場に着く。ここには不思議なギャラリーが建っている。中をのぞくとこれまた不思議な雰囲気の絵画が集められており、目を楽しませてくれるだろう。
石畳の坂道を、両手に咲く紫陽花をめでながら少し歩くと「生そば草の居」の建屋が見えてくる。話し好きのご主人によれば、古民家を移築した建物で、木構造部分は大工さんにまかせたが、土壁や内装はご主人手作りのものだという。
食事の前に、園内約2kmの遊歩道をめぐってみよう。40年ほど前に入手した4万坪を超える森林や耕地跡を開墾して、一本ずつ植えていった紫陽花や楓、満天星(ドウダンツツジ)など手入れの行き届いた山道は、進むほどに感嘆の思いが湧いてくる。
石を積んだ田畑を耕し、沢から水をひいて米を作った人々の思いを、ご主人が受けとめて拓かれた風景が山全体に広がっている。紫陽花のひとむらひとむらがその気持ちの繋がりをのせた風船のように見えてくるようだ。一番高いところにある展望所までの往復は1時間ほどかかるけれども、山の姿は見飽きることはなく、たちまちに過ぎてしまうことだろう。お腹もいい具合にすいてくる。
食堂棟に入って、十割蕎麦をいただくとしよう。初夏にはやはり冷たいざるそばが合う。
焼き物の器はすべてご主人の作品だそうで、蕎麦は、跡継ぎのご子息が朝から打っているものだ。申し分などあろうはずがない。仕上げの蕎麦湯まで飲み干してしまった。6月中は紫陽花祭りで少し品書きが変わるが、四季をとおしてその時期にあった蕎麦をお出しします。とのこと。
「東雲の里」は、国道から6kmも入ったところにあっても、人々を惹きつけてやまない魅力に溢れている。紫陽花の時期が過ぎても標高400mの涼しさを満喫できそうだ。
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東雲の里 生そば草の居
定休日 木曜日・金曜日
※祝日や紫陽花、紅葉時期は休み無く営業
参考:東雲の里ホームページ
(M田)
第5回 霧島市牧園町 ラムネ温泉 千寿の里で龍馬をおもう
鹿児島県内には温泉が多い。錦江湾岸、薩摩半島、霧島から北薩摩、大隅半島、離島まで、温泉と名のつく入浴施設がない町があるのだろうか。指宿温泉や霧島温泉のような収容人数の大きな温泉旅館から、集落でよりあって運営しているようなところまで多種多様な「温泉」に行く先々でお目にかかれる。
そもそも錦江湾が巨大なカルデラだというのだから、そのまわりに温泉が湧くのは不思議ではないのだが、実際の数はどれくらいだろうか。
調べてみると環境省のデータでは、源泉数は2,745、42℃以上の高温源泉が1,806もある。利用されている源泉でみると1,198。国内では大分県に次ぐ源泉数を誇っているという結果だ。まったく実態が予想を上まわってしまった。(環境省自然環境整備課温泉地保護利用推進室 令和3年度温泉利用状況より抜粋)
そんなわけで、薩摩の国では、犬も歩けば棒に当たる前に温泉に当たるようだ。今後とも有名無名にとらわれず、個人的に気に入っているか、気になっている温泉を取り上げていくことにしようと思っている。
国道223号線は、宮崎県小林市から霧島市まで、霧島山の南麓に沿っていくつもの温泉地をめぐりながら蛇行して南下している。国立公園の森や渓谷を左右に見ながらその道を走れば、四季折々の美しい風景と温泉を楽しむことができるだろう。道筋は、鹿児島県側領域はすべて霧島市で、かつ旧牧園町内を通過している。国道沿いのランドマークとして、2021年3月に完成した霧島市役所牧園総合支所をご紹介したい。
集成材とCLTパネルを使った木構造平屋建ての落ち着いた庁舎である。杉構造材の製造と建て方を弊社で施工させていただいた。室内には杉材の表しが多く、この町の自然と調和するように、来訪者を暖かなイメージで迎え入れる建物となっている。
ここから北に上ると霧島温泉郷へ、南に下ると妙見温泉を経て旧国分市街地へと向かうことになる。
話は幕末に飛ぶ。1866年春、坂本龍馬が新婚の妻お龍とともに京都から鹿児島を訪れている。寺田屋事件で負った手傷の湯治が主な目的だったが、西郷隆盛と小松帯刀に奨められたこともきっかけとなったようだ。大阪から鹿児島まで、薩摩藩の蒸気船「三邦丸」に西郷、小松も一緒に乗船しているから、警護付きのVIP待遇だったにちがいない。
龍馬夫婦が旧暦3月16日から4月11日まで、塩浸温泉、硫黄谷温泉、栄之尾温泉など牧園に現存する温泉場で過ごした記録が残っている。よほど気に入ったとみえて、塩浸温泉には合わせて18泊もしている。この旅が、日本の新婚旅行第一号といわれていることをご存じの方も多いだろう。
塩浸温泉は、牧園総合支所から南へ3kmほど下った川沿いにある。2010年に「塩浸温泉龍馬公園」として改称・改装され、資料館もあり、龍馬とお龍の銅像も建っている。大河ドラマでも紹介されたので、いつ通っても観光客で賑わっているようだ。資料館には、龍馬が姉の乙女に宛てた書状などが展示してあるので、じっくり読んでみるのもおもしろい。
温泉棟もあるが、残念ながら、あのころ龍馬夫妻がはいった湯治場のイメージとは、かなりかけ離れた印象を受けてしまう。
さて、ここから国道223号線を牧園総合支所方向に1㎞ほどあがった右手に「ラムネ温泉 仙寿の里」の電光看板が立っている。気にはなっていたが、訪れたことはなかった。看板から200mほど細い坂道を行った先に駐車場と建屋が現れる。遊歩道を廻らせた緑豊かな広大な敷地に温泉棟と家族風呂、宿泊棟が建てられている。
受付をすませて、温泉棟に向かうと飲泉のための四阿があって、コップなども用意されているから、まずはここで水分補給をしておこう。炭酸水素イオンがたっぷり含まれているお湯は飲んだあと口がすっきりと感じる。硫黄臭さなどはもちろんない。
効能書きによると飲用は、つい暴飲暴食がすぎて、胸焼けやγGTPを気にしがちなこの身体にぴったりあっているようだ。ただし、有効成分が飲みすぎないようにと注意書きがついている。過ぎたるは及ばざるがごとしか。
温泉棟の正面に「仙寿の湯」と効能書き、男湯の入り口が案内されている。浴用は老人性の諸症状から切り傷ややけどにもいいらしい、これはからだの内と外から健康になりそうである。
建屋の中に入ると、桁と梁が丸柱で支えられた浴室は素晴らしく明るい。正面には壁はなく、虫除けの網が張ってあるばかりで、開放感に溢れた造りになっている。ご主人の話では、材料はすべてこの敷地に立っていた杉を使っているという。梁の加工も大胆だが手が込んでいる。
6畳ほどの浴槽には少し白濁したお湯が惜しみなく掛け流されていて、床などは濃い温泉成分が石化した独特のざらつきが心地よい。正面から右手に少し長い階段を降りたさきに、内湯よりずっと広いつくりの露天風呂が、新緑の中で満々とお湯をたたえていた。
手前に湯源があって滝のように流れて「あつい」、むこうは自然に冷めて少し「ぬるい」湯舟になっているので、交互に浸かってからだの芯から温まろう。
この日はやさしい春雨が火照った肌を冷やしてくれた。露天ならではの楽しさである。そして、お湯の中から見まわせば、四季折々に訪れてみたくなる鹿児島らしい風景が広がっている。きっと龍馬もお龍とともにこんな温泉で、こんな風景を眺めたのかしれない、などと想像もふくらんでしまう。
あがり心地もさわやかな「ラムネ温泉」で、身もこころもスカッとした。少し遠回りして、龍馬夫妻も立ち寄ったという和氣神社で、満開の藤を堪能してみよう。
参考 塩浸温泉龍馬公園のパンフレット
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仙寿の里 ラムネ温泉 鹿児島県霧島市牧園町宿窪田3549
定休日 毎月第3火曜日
(M田)
第4回 南さつま市加世田 かあちゃんのお昼ご飯 辻食堂
国道270号線は、日置市を南に抜けて、南さつま市金峰町にはいる。
この町の東、大坂地区にある「金峰2000年橋」をまずご紹介したい。山佐木材が施工し、2000年1月に竣工した木橋だ。上を走る車道を湾曲集成材のアーチで支える形式では最大級で、幅8.5m、長さは42m、設計荷重は25t。ダンプカーも通行している現役の県道である。橋、その向こうの大鳥居、その奧に見えるご神体の金峰山、この3つがつながる風景にはなかなか出会えない。ぜひご覧になっていただければと思う。
さて、国道270号線、車は金峰山を左手に眺めながら、広大な田んぼの中を南に向かって走る。ここは3月末には田植えがおわり、7月中頃収穫する「超早場米コシヒカリ」を特産としている。春先、田起こしをしているトラクターのうしろをたくさんの鷺たちがついて歩く姿に、つい気を取られそうになるかもしれないが、くれぐれもよそ見は禁物、安全運転で行きましょう。
ゆったりとした田園風景をあとにして万之瀬川を渡ると、市役所の置かれている加世田市街地にはいる。
南さつま市は、旧加世田市、金峰町、大浦町、笠沙町、坊津町が平成の大合併で新設された。どの地区にも歴史の教科書に登場しているようなエピソードが残されているので、訪れたときを機会にして、あれこれ調べてみたいところだ。
市役所に行くと一般向け向けのマガジンラックに「島津日新公(じっしんこう)いろは歌集」という薄水色の折り冊子が置かれていたので一冊もらってみた。最終ページに
日新公とは、名を島津忠義、髪を剃って「入道日新斉」と称した。「いろは歌集」は人間として社会に生
きる道(中略)を説いたもので、四百余年以来子弟教育の教典となった。
という説明書きが付いている。
日新公・忠義は、伊作(現在の吹上町)生まれ、伊集院駅の騎馬武者銅像のモデル島津義弘の祖父に当たる人で、島津家の内紛で勝利をおさめ「島津中興の祖」といわれているという。晩年加世田に隠居して、現在の竹田神社にまつられている。神社の左手に延びる小径には、いろは歌四十七首を一つひとつに刻んだ石碑が「い」から順に並んでいる。
せっかくなので、歌集の最終「す」の諫めを読んでみよう。
(大意)まだ少し足りなくても満足するがよい。月も満月になれば翌日からは十六夜(いざよい)の月となって欠け始
める。
なにごとも、足を知るべし。欲深の身に染みてくる教えだ。春盛りの木漏れ日を浴びながら小径を歩くのは実に心地よい。
加世田の町に、この教えどおりの食堂がある。「辻食堂」といい、スマホで検索すれば、場所は知ることができるが、看板は出ていない・・・。というより看板には間口を同じくする電気店の名前がはいっているのだ。おもてに食堂らしいのれんがかけてあるだけ。
藍色ののれんをくぐると、右手に厨房とカウンター、左手と奧に二間のテーブル席。ひとりなのでカウンターについて、メニューはと壁を見回すと、あの はらたいらのモンローちゃん付きのサインが架かっている。これはいいなぁと見ていると、まだ注文していないのに入店後1分でご飯とおかずが目の前に並ぶ。
辻食堂の昼食は、日替わりの単品一色。これしかない、これでいいのだ。まさにいろは歌「す」の教えの通り、足を知る店としての矜持というものが現れている。
だけど、料理はまったく素朴で飾り気なしのおいしさだ。なんだか懐かしい味。そうだこれは昔、土曜の半ドンで家に帰り着いて食べた母ちゃんの昼ごはんの味だ。
それもそのはず、料理を作っているのは、ほんとのお母ちゃんなのだ。「今年6月で86歳になるんだよー」と厨房の中から明るく笑ってくれる女将さんだ。
お客は、地元のひと、工事関係の人、役所関係らしいひとなど次々に訪れ、ささっと食べては満ち足りた顔で出て行く。常連さんもいて、二人と楽しげに話がはずんでいる。
この日は、かき揚げうどんに蓮根のきんぴら、白ご飯に昆布の佃煮がのせてあった。手作りの浅漬けもさっぱりと旨い。
美味しさと懐かしさ、元気をいただきました。ご馳走さまでした。
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辻食堂
昼定食 600円
営業:土・日定休
住所:南さつま市加世田本町39-2
電話:0993-52-3018
(M田)
第3回 吹上町 透き通る碧の湯 もみじ温泉
日吉からさらに南下し旧吹上町にはいると「温泉のやど」などと書かれた看板が目につくようになる。鹿児島市街からも県道22号線で伊作峠を越えれば30kmほどの距離だから、疲れを癒したい人にとっては、日常生活からしばし離れてゆっくりと休める湯治の里といったところだろう。
鹿児島県内には霧島や指宿のように全国的にも有名な温泉街のほかに、ひなびた湯のまちが多い。そこには地元の人たちが毎日通っても飽きないほどの魅力にあふれた立ち寄りの温泉がある。ここにもいいお湯が湧いているはずだ。期待を胸に看板の案内のまま車をすすめてみるとしよう。
国道270号線から県道を山の手に1.5㎞ほどはいったあたり、湯之浦川という小さな川沿いに5軒ほどの温泉宿があつまる「吹上温泉」はある。
まちへの入り口に建て替えが終わって間もない「吹上温泉郵便局」が見えてきた。郵便局の名前に地名ではなく、わざわざ「温泉」の文字がついているのは、往時、なじみの宿に長逗留して、便りや送受金をする湯治客が多かったことの証しだろう。しかし今、かつての温泉街に向かう道は人通りもわずかで、営業している店も多くはないようだ。
通りを進んでいると左手に「西郷南州翁来遊の碑500m→」と白塗りの板に一行筆書きのみの札が立っていた。矢印は、温泉のある方から右に180°の方向を指している。まずはこちらからご覧なさいと言うことか。その先に続いている林道は、道幅もせまく急な登りである。ありきたりな石碑にがっかりさせられることがよくある。そんな気もしないではないが、行ってみることにした。林道の途中に、今度は踏みあともうすい山道をさして、「徒歩80m」の札が立っている。ここまできたら見て帰らぬわけにはいかない。落ち葉と枯れ枝を踏みながら短い坂を登ったさきに、杉と楠のうっそうとした林に囲まれて、2m四方、高さ3m以上はあろうか、立派な石碑が建っていた。上段の天然石には「西郷南州翁来遊之碑」と刻字されている。その碑名にそえて「元帥伯爵 東郷平八郎 畫」とある。
日露戦争において、日本海戦でロシアバルチック艦隊に完勝した東郷平八郎が揮毫しているのだ。元帥まで登りつめ軍神といわれるほど崇敬された彼がどのような思いで、「西郷さんが来て遊んだ」と書いたのだろうか。大いに興味をそそられるものがある。
下段の碑文には昭和2年建立と記している。ちょっと調べてみると、この年は西郷隆盛が西南の役に敗れ鹿児島城山で自刃して、ちょうど50年の時が流れていることになる。半世紀という節目の年の意味もあるのかも知れない。
明治維新、日清、日露戦争の勝利をへて大正、そして昭和まで海軍軍人として生きた東郷平八郎は、西郷より20歳年下、同じ鹿児島城下加治屋町で育っている。そして、この碑名を揮毫したのは彼がかぞえで80歳の時であった。年を重ねた東郷元帥が、明治政府を下野して帰郷した時期にしばらくここで過ごした西郷に対するさまざまな思いと、その後西南の役で50歳にならない若さで逝ってしまったことへの哀悼の意を込めて筆を執ったことは想像して差しつかえはないと思う。
ふたりの偉人を刻した碑は、当時の吹上温泉街の誇りとして、まち全体を見おろすことのできる丘の頂上に建てられたのだろう。そのころは周囲の樹木は払われていて、まちから歩いて登れるような小径もあったかもしれない。
想像を切りあげて、西郷南州翁が何度も訪れたという伊作温泉に浸かってみよう。
坂を下りて通りの交差点を直進すると「もみじ温泉」が右手に見える。木造の白壁に「源泉かけ流し」と書かれてある。今回はここに決めた。
向かって左に島津の宿、右に島津の隠し湯と二棟。奧には家族湯もあるようだ。
さっそく棟間のせまい通路にはいり、右手の受付で勘定を済ます。そのむかいが温泉の入り口になっていて、暖簾がかかっている。木床の脱衣室はきちんと清掃され、素足に心地よい。壁の適応書には硫黄泉、疲労回復、切り傷にも効能有りとある。先の碑文に、西郷は戊申戦争後と、征韓論に敗れたとき鹿児島に帰り、伊作の霊泉を訪れたと書いてあった。傷つき疲れた心身をこの淡い硫黄の香りする源泉で癒したのだろう。
濁りのない碧色のお湯で溢れた三畳ほどの広さの湯舟が二槽、少し熱めとちょうどいい熱さに仕切られている。赤銅色のタイルで覆われた壁床に暖かみを感じる。
大きな窓からの陽射しで浴室全体が明るく、木造の天井も湯気を逃すためのがらりが光を通し梁や桁、天井板などを明るく見せてくれている。快い開放感のある風呂場である。
先客は、地元の知り合い同士らしい、かなりの先輩が二人、年金の話で盛り上がっていた。
この澄んだ温泉に毎日浸かっているからだろう、声も大きくて元気、そして気さくである。
先の碑文に「翁(西郷隆盛)は常に愛犬を牽きて萬山を渡り衆人と混じて霊泉に浴し」とあった。うさぎ狩りを好んだ西郷が山々を駆け回ったあと、温泉に浸かりながら伊作の人々と語り合うようすが浮かんでくるようだ。
ふたつの湯舟に交互に浸かって、身もこころも芯から暖まった。
外に出ると、まだ浅い春の川風がほてりをほどよく冷ましてくれる。
日置市を吹上海岸に沿って南下してきた。伊集院は関ヶ原の戦いで敵陣中央突破し敗走した島津義弘。東市来は朝鮮出兵時に連れてこられた陶工たち。日吉は明治維新十傑の小松帯刀と、それぞれの町に時代の主役がいた。そして、吹上では、西郷隆盛と東郷平八郎が現れた。
あらためて薩摩の歴史は奥深く、路は楽しみで満たされていると思う。
さらに南へと足を伸ばしてみよう。
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もみじ温泉
入浴料 400円
営業時間 午前6時~午後9時(立ち寄り湯)
定休日 水曜日
日置市吹上町湯之浦2503
(M田)
第2回 手作りバイキング 味処正ちゃんで昼ご飯
鹿児島県の地図を広げると、西側が薩摩半島、東側が大隅半島、南に薩南諸島が続いている。その地図を右に90度回転すると、薩摩半島は子牛の首頭のように見えてくる。きれいに弧を描く首のあたりが吹上浜、47kmにおよぶ砂丘である。海岸線に沿って、国道270号線がいちき串木野市から日置市をへて南さつま市まで、南へゆったりと延びている。
日置市は、2005年に伊集院、東市来、日吉、吹上の4町が合併して誕生した平成大合併のまちである。東シナ海を望む薩摩半島の西に位置し、ちょうど鹿児島市と背中合わせに隣接している。
鹿児島市からはまず市役所のある伊集院にはいる。この町には、関ヶ原の戦いで徳川家康軍の中央突破を果たした戦国武将島津義弘公の菩提寺が置かれている。毎秋、義弘公の遺徳を偲ぶため鹿児島市を起点に、大勢の人々が甲冑を装して歩き参拝する「妙円寺詣り」は、町の一大行事となっている。武将姿もさることながら、実は、歩きながら謳われる「妙円寺詣りの歌」こそが次代に伝えたい肝心のところなのだと思う。
JR伊集院駅前に建つ、島津義弘公の像は、歴史好きならずとも、一度見ておくのも悪くはなかろう。
ここから国道3号線に乗って西へ20分ほど移動すると東市来のまちが見えてくる。
東市来町といえば、司馬遼太郎著「故郷忘じがたく候」で描かれた沈寿冠窯をはじめとする薩摩焼の窯元が集まる苗代川美山が有名である。高台の美山から海のほうに下ると、東市来の市街地だ。町に入るとすぐに、湯之元温泉という泉質のよい立ち寄りの湯がいくつも軒を並べている。温泉はしごを好む向きにはたまらないところだ。
そこから国道270号でさらに南へ向かうと旧・日吉町だ。道沿いに、明治維新の十傑のひとりといわれる「小松帯刀」ゆかりの看板が目につくようになる。彼は、養子としてこの地にはいり、22歳で日吉城領主となった。薩摩の小松として大政奉還を成し遂げた後、病により36歳の若さで世を去った帯刀は、いまは小松家歴代の墓所円林寺跡にねむっている。
そろそろ昼食でもと思いながら日吉町吉利の広い畑地の一本道を走ると右手に「味処 正ちゃん」の大きな看板が立っている。先客も多いようだが、駐車場は広い。
軒下には、日替わりランチ(サラダバー、コーヒー付き)890円の文字。よく見ると8の字が上書き修正してある。物価高の波はここにも押し寄せているのだ
この店のランチは、主菜に加えて、取り放題のバイキングがついている。
サラダはもちろんだが、焼きそばもナポリタンスパゲッティもある。麻婆豆腐もカレーもあるし、野菜炒めも蕪の酢の物もある。ありふれたバイキングメニューではあるが、よく見ると料理の一つひとつに手作り感があふれている。決して豪華さはないが、産直の野菜が調理されて並んでいる安心感が伝わってくる。しかも、どれも美味しそうだ。
しかし、昔のようにはいかない。今日の主菜は天ぷらの盛り合わせだ。冷静に自制心をもって、みあった料理を選び適量を皿に盛ること。特に、仕上げにカレーライスなどもってのほかなのである。
思い留まることができずに多すぎる昼飯をすませて、駐車場に出ると海からの心地よい風が吹いてきた。 松林のむこうは吹上浜、そして東シナ海が広がっている。
おおいに元気をもらった。これから、さらに南へ、旧吹上町から南さつま市にむかって車を走らせよう。
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味処正ちゃん
営業時間11:00~14:00 休み日曜・月曜
日置市日吉町吉利1589
(M田)
みなさま、素晴らしいご新年をお迎えのことと存じます。
ご無沙汰しておりました。M田です。
気分も新たに、さつまの国の道々で立ち寄った、じわりといい感じのところをご紹介できればと思います。本年もよろしくお願い申し上げます。
第1回 夕日がにあう癒しの湯 薩摩薬師温泉
平成の大合併は、中央や県から見れば自治体の数が減った分だけ事務などの負担は減少したかもしれないが、さつまの国をあちこちと移動しているわたしには広くつかみどころのない境界線が引かれたうえに、合併前にその町がもっていた由緒ある名前や独特の魅力を無理やり剥奪してしまったように思えてならない。
さて、鹿児島市郡山町(旧日置郡郡山町)あたりから伊佐市へと向かうには、薩摩川内市入来町を経てさつま町で国道328号から267号へと乗り換えて走ることになる。現さつま町は、薩摩郡宮之城町と薩摩町が合併して誕生した町である。
宮之城は地元では「みやんじょ」と発音され、薩摩言葉にはめずらしく語感は穏やかで豊かな土地の印象が伝わってくるように思う。大河川内川の流れにのる水運と、南に向かえば鹿児島市、西には薩摩川内市、東は伊佐市、北は出水市にと幹道が集まっている。北薩摩の商業・交通の要所であり、観光・遊興の中心地であったし、旧国鉄時代には宮之城線という地元の足として欠かせぬ路線が、川内駅から薩摩大口駅まで走っていた。
一方薩摩町は、江戸時代から隣の山ヶ野金山とともに永野金山の門前町としてさかえ、明治期には西郷隆盛の子菊次郎の指導で、鉱業と人材育成に重きをおいた一種文化的な雰囲気をもつ賑やかな町であったと聞く。高校時代、宮之城線に乗ると汽車は薩摩永野駅で、大口へ向かう分岐と登り勾配を緩やかするためにスイッチバックをしていたことを思い出す。いまは、駅公園にその軌道が、往時を偲ぶように残されている。
宮之城を後にして、ゆったりとした山あいの国道を東に向かうと、右手の田んぼの向こうに、あぶなく見落としそうなほど控えめに、薩摩薬師寺が見えてくる。九州八十八ヶ所霊場第48番、山号は音泉山、真言のお寺だ。この境内に質素な温泉舎が本堂の手前に建っている。
わたしがここを通るのはきまって日が沈むころで、本堂と温泉舎は、杉山を背にして夕陽に照らされている。稲刈りの終わった田には、電柱の影だけが長く延びる。この時刻、一日の仕事をおえた善男善女がひとっ風呂浴びに来ていることだろう。
さっそく、玄関横にある受付窓式の番台に挨拶して入浴。
壁に大きく掲げられた温泉分析書には、アルカリ性単純温泉、泉温42.5℃とある。掛け流しである。なるほど浴槽には無色透明で無臭、40℃あるかないかのお湯があふれていた。みなさんつるつるのぬるめの湯に、ゆっくりと浸かり疲れを癒している。
二つある湯舟のひとつは、境内の井戸からひいた水風呂で18℃くらいだろうか、ほどほどの冷たさで心地よいばかりだ。蛇口からとくとくと流れ出る水を手ですくって飲むと美味い。自宅用に持参したペットボトルにこの水を汲んで帰る人も多いようだ。
温浴と冷浴を数回繰り返せば、からだは芯から暖まり、浮き世の垢も、煩悩もすっきりと落ちてしまい、どことなく身軽になったような気がする。
浴槽も、洗い場も、脱衣場もきれいに清掃されていて、清潔感がただよっているのがうれしい。
番台の皿に、柿が切っておいてあったので、湯疲れ防止に一切れいただいた。
汗を拭きふき駐車場に出ると、豆腐屋の移動販売車が、夕餉の一品にいかがと停まっていた。薬師如来様の恩恵を受けた手前今宵は精進。奮発して鹿児島産大豆の木綿豆腐と黒胡麻豆腐を買って帰ろう。冷や奴とお湯割りが待ち遠しい。
ここから伊佐市までは長いのぼり坂が続く。夕暮れ時の求名坂(ぐみょざか)である。
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薩摩薬師温泉
住 所 薩摩郡さつま町求名570
入浴料 250円
(M田)
コロナウイルスの緊急事態宣言が日本全国を対象として出されました。もちろんこちら大隅半島も例外ではありませんが、ありがたいことに現段階では、会社には通常出勤できています。
けれども問題はお休みの日。
街にもいけず、山にもいけず、妻にも愚痴の多さにも負けぬ丈夫な心を持ち、いつも静かに笑っている、こともなかなか続くものではありません。
そこで、今回は自宅の窓から外を覗いてみることにしました。
外を覗くというと刑事に追い詰められた犯罪者のようで何かしらうしろめたい感がありますが、そうなるにはそうなるだけの理由があるんです。相手に気付かれてはまずいんです。逃げちゃうんです。
カーテン越しの窓の外、ちょいとした木もあるが、手入れの行き届かない庭に、取ってつけたような小さな水場がしつらえてある。シチュエーションはこれだけです。
ある日曜日のこと。まずこの水場に現れたのはキジバト。ひとっぷろ浴びていきました。
水場は鳥たちにとっては体や羽根を清潔に保つためのいわば銭湯。
「浴来てくれます。」(byヒゲジイ:NHKダーウィンが来た)
つぎに喉カラッカラのヒヨドリが水をチュウチュウ?
くちばしを水に突っ込んでかなり大胆に吸っているように見えますが、ヒヨドリをはじめ一般的な鳥の仲間は、チュウチュウできないそうなんです。水をいったん口にためて上を向いて飲み下すといわれています。あとから来たムクドリもくちばしを水につけた後上を向いてゴックンしているようでした。
ただ、ハトの仲間はチュウチュウ吸えるみたいです。なんでかはわかりませんが。
さらに、カーテンに隠れてじっと待っていると、珍しいお客が現れました。シメです。
からだに似合わない太いくちばしと目の下の隈によって、かなり陰険な表情に見えます。硬い木の実や草の実を主食にしているスズメより少し大きめの小鳥です。はじめてこの庭に来てくれました。
この日、ほかにもいろいろな鳥や昆虫がこの水場のまわりにやってきて、隠れて覗いている変なおじさんの目を楽しませてくれました。
ぶらりもいいけど、家にいてこそわかる良さもあるものだと思うM田です。みなさま楽しみは身近にありますぞ。くれぐれも STAY HOMEで。
(M田)
令和2年3月14日 観測史上最も早く靖国神社のソメイヨシノの開花宣言が発表され、22日には満開とのお噂でした。
しかし、九州南端鹿児島だけは27日になっても開花は発表されていません。「休眠打破」がぼんやりしているのが原因だそうですが、それならこの冬はどこも暖冬だったはずで、少し納得がいかないところであります。地元では、「鹿児島気象台の標本木は遅咲きの性分らしい。」という説がまことしやかにささやかれ始めました。
ただこの春は、新型コロナウイルスの感染拡大対策で、満開となった桜の名所も花見の宴は自粛をうながされているとのこと。憂さ晴らしもままならないでしょう。
身近なソメイヨシノは並木になると美しさが何倍にもふくらむようで、西の造幣局、東の目黒川あたりがその筆頭でしょうか。
こちら大隅にも名所と呼ばれる並木がいくつかありますが満開の予想は4月初旬とのこと。薄紅色の雲のような花群を眺めながらそぞろ歩き、楽しみです。
さて、肝付の南、30分ほどドライブした海沿いに岸良というのどかな集落があります。温暖で霜もない土地柄、路地のバナナには花が咲いて実をつけており、ヘゴがすくすくと伸びている。少なからず亜熱帯に近く、休眠打破の話題とは無縁に思える気候です。
この岸良集落の山手にテコテンというユニークな名前のついた桜があり、山桜がそろそろ盛りを過ぎるころが見頃を迎えるという話はかなり前から聞いていました。しかし、実際に見たことはありません。その昔、このあたりの首領が地元でテコテンドンと呼ばれる北岳から移植したという伝説をもつ大きな桜を一度は見ておきたい。
てことで、時間を見つけて南下ドライブ30分。岸良集落に入るとすぐに「テコテン桜」の小さな看板が消火栓の横に立っています。尋ねる人影もみえないのでそのまんま里道を直進、したもののいつしか林道になっていました。5分ほど走ってもなかなかなかなか目的の木が見えてこない。この道で大丈夫かなと不安になりながらも、さらにうっそうとした混合林のガタゴト道を進むことしばし。林が途切れ明るい場所に出たとたん、林道の左下にその巨木が出現しました。
山間の段々畑に、純白の裾を四方に大きく広げどっしりと構えるその姿には圧倒的な存在感がみなぎっています。桜と言えば女性的な印象を持っていましたが、この樹の清冽な咲きっぷりからは力強い雄々しさを感じます。
林道に降り立つと、さわやかな花の香りとその花々に群れている虫たちの羽音に包まれました。林道から根もとにおりる小路をたどって樹の下へ。
20m近くある樹高をささえる幹回りは3m強、見上げれば四方30m以上に広がる枝振りのたくましさはまさに圧巻です。樹齢は二百年以上とも伝えられる太い幹の胸高あたりには注連縄、根方には榊と塩、米、酒が供えられ、ご神木として祭られているようです。
近づくと5弁の花びらは純白で、花が大きく開くにつれ花心の薄紅がしだいに濃くなっているのがわかります。山桜の仲間のように葉が先に伸びることはなく、花びらはソメイヨシノに比べるとほんの少し大きいようです。花数も多くボリュームも感じられます。
この日訪れる人はわずかでした。もしかするとこの集落のお花見以外でこの桜を見に来る人はほとんどいないのではないかと思われます。いや、地元の人も、かつてこの樹を植えた人も、そしてこの樹自身も、咲かせた花の下に多くの人に来てもらうことを望んでいないのではなかろうかという気もしてきます。ただ咲くのみ。そんな気概を発しているような大樹です。
それにしても、花のいい蜜に誘われるのでしょうか、蜂や甲虫の羽音、それから、メジロやヒヨドリのさえずりも途切れることがありません。
ほとんど訪れる人もいない山間に、真っ白な花を咲かせる孤高の桜。
このところの鬱々とした気分を一気に吹き飛ばしてくれました。
(次はどこかな M田)
森昌子が「ヒュルリー、ヒュルリララー」と情感をこめて歌った「越冬つばめ」。テレビの前で裏声を絞り出しながら口ずさんだムキも多いことでしょう。季節にそむいたために冬の寒さに凍えてしまいそうなはかなさがせつせつと伝わってきて、思わず「大丈夫ですかぁっ?」と声をかけたくなるほどです。
ツバメは、春先3月半ばころに南の国から日本列島に渡ってきて、夏中に子育てをし、秋にはまた南の国へ帰っていく夏鳥です。おおかたは冬を待たずに姿を見せなくなるのですが、本州以南では少数が越冬するそうです。こちら肝付、鹿屋あたりでも真冬に見かけるようになりました。しかしながら、この越冬ツバメたちがどこをねぐらにしているのかは、M田研究不足で知りませんでした。
2月の半ば頃、いつものように西平石油店高山スタンドで会社の車に給油をお願いしていると、メンテナンスピットに飛び入るツバメを何羽か見かけました。「もう、渡ってきたのかな」とも思いましたが、時季としては早すぎます。店のスタッフさんに聞いてみると何年か前から数十羽がピットで冬を越すようになり、ここ2年は150羽を超えているとのこと。なんと、いつも来ているガソリンスタンドが越冬ツバメたちのねぐらのひとつだったというわけです。
ツバメは、昔から農業では害虫を餌とすることから益鳥として大事にされてきましたが、現在では糞の問題とかで、軒先に営巣されるのを嫌がるひとも多いですし、そもそもこのお仕事では車を汚したりすることもあるはずです。それなのに追い出さないのはなーんでか。実はここの社長の深い思い入れに理由がありました。
曰く、「ここに来る一羽いちわに名前を付けたいくらいツバメが大好きなのよ。だから鳩は追っ払ってもツバメは大切に扱うように言っている。天皇陛下もお召しになる最高の礼服を燕尾服というようにとても縁起の良い鳥。迷惑などとは全く思っていない。数が増えてくれるのをとても楽しみしている。」とのこと。恐れ入りました。
ツバメは人に最も近いところに営巣する鳥です。それはかれらの天敵であるカラスから雛を守るためだと言われています。それにしても、このお店では昼間も店員さんたちが働いており、さらには、自動車の出入りも激しいピットです。社長もさることながら、従業員のみなさんも温かく見守っているからこそ、何年も前から居付き、年を経るたびに数を増やしたのだろうと思います。
「夕方になれば、帰ってくるから待ってれば。」と店長さん。日没後、ツバメたちは餌場からこの店の上空に集まって旋回を繰り返し、薄暗くなる6時過ぎには小集団ごとにねぐらに入ってくると言う。見上げれば、エネオスの看板のうえには50羽を超えるツバメが舞っていました。
落ち着いた頃ピットの中をのぞくと、蛍光灯の笠のうえや壁に40箇近い巣が作られており、その中や鉄骨の上あたりに200羽を超えるツバメたちが肩を寄せ合っています。夜にはシャッターがおろされて翌朝まで、凍えるような冷たい風も、恐ろしい猫も入ってはきません。まさに、ここは越冬ツバメのパラダイスなのです。
このブログが配信される頃、鹿児島には南の国から越冬しなかったツバメたちが渡ってきています。その頃から秋まで、このパラダイスは入れ替わり立ち替わりの賑やかな様相を見せてくれることでしょう。
ちなみに、ツバメのさえずりは、力強い声で「虫食って、土食って、渋―い」と聞きなし(※)されるそうです。
(次こそ花かな M田)
(※)聞きなし・・・鳥のさえずりを意味のある人の言葉やフレーズに当てはめて憶えやすくしたもの
ご協力:株式会社鹿屋西平石油店様
参考文献:平凡社『日本の野鳥650』
偕成社『ツバメ観察事典』
新年のご挨拶を交わしてから早1ヶ月。寒中お見舞い申し上げます。
気象庁からは全国的に暖冬傾向にあると予報が出されましたが、いかがでしたか?
こちら南九州大隅では、特有の黒土の畑が真っ白な霜に覆われる朝もあれば、外水道のバケツには薄い氷が張る日もあるにはありましたが、いつもと比べれば冬らしい日の少ないお正月でした。
そんな中、1月25日旧暦での元旦を迎えたとたん、鹿児島県内では南風が吹いて最高気温が20℃近くまで上昇。外での作業は汗ばむくらいで、上着を脱いでTシャツ一枚の人もおりました。さらに、26日の夜から翌日の明け方にかけては、季節外れの暴風雨が吹き荒れ、フェリーや新幹線など交通機関への支障も出るほどでした。
ほんとの意味で初春を迎え、その陽気に応えるように、庭の梅もほころび始めています。
やはり私たちの暮らしは、旧暦(太陰太陽暦)で日を追う方が何かとしっくりくるようで、花や木の開花や成長、昆虫や鳥などの活動・移動時期などはなおさらの感があります。27日未明の暴風雨は、季節外れではなくまさに「春の嵐」と呼ぶにふさわしいものだったのでしょう。
そんなうれしい春になったので、とある日曜日、家人と野に出てみようということになりました。
まずは、日当たりの良い畑の土手。ここは毎年、蕗のとうが一番早く顔を出してくれます。今年も丸くふっくらとした上物を期待通り収穫できました。独特の強い香りが早春を実感させてくれます。
水源地近くの湿地には、柔らかくたけの長い芹が見つかりました。ゴム長を履いて、温んだ水から細い茎をすっと伸ばした新芽を根ごと抜き取ります。緑の葉と白く細い根。すっきりとした感じが食欲をそそるのであります。
最後に、「まだ出てるはずないよ」と訝しむ家人をよそに、いつもの竹山へ。すりすり足で探索していると、ちっちゃいのがころころと転がり出て、そのすぐ近くに手のひらサイズのりっぱな筍を発見!思わずどや顔。ここは慎重に掘り出しました。
その夜、とれたての筍と蕗のとうは天ぷらに、芹はかき揚げにすることにしました。前割りした焼酎「大海」には燗をつけて、準備万端。揚げたてを放りこむとほろ苦さと野の香りが口いっぱいに広がり、初ものをいただく喜びに思わず「わっはっは」と笑いたくなるのです。そして、一献。
(次はあの花か。M田)
前回、ここ大隅の秋は近頃なくなったようだ、というようなことを書いてしまった気がします。しかしながら、四季の国日本で秋が削除される現象が起こってはいけないはずで、11月も末を迎えた頃、それを証明できるものはないのか?コスモス畑とかバラ園とか何となく「秋っぽいなぁ」とは思わされるけれども、どうも印象的すぎて弱い。「大隅の秋はこれです。」と日本中に胸を張って言えるようなものはないのだろうか。と探していました。
そんな思いを知ってか知らずか、大海酒造株式会社 営業の平後園さんから「今年の焼酎の仕込みもほぼ終わりました。工場見学できます。」とのお声かけをいただきました。
大海酒造さんは鹿屋市にあり、地元で収穫されるさつま芋を原料に美味しい焼酎を醸しているメーカーです。ちなみに、M田とその仲間たちの血中には、ほぼ毎日、ここの焼酎が注ぎ込まれている状況なのであります。
9月はじめから、1日あたり約20トン、地元の契約農家さんが春から丹精込めて作った芋が持ち込まれるそうです。原料の芋はここから洗い場を経て、不良部分を切り取られ、醸造の工程へと流れていくのでしょう。3ヶ月にわたって休む間もなく受入に動いていたこのホッパーも、仕込みが終わった今、きれいに掃除され静かに佇んでいるようでした。
二次もろみから蒸留の工程も見せてもらいました。工場の中は、もろみが発酵する音もおとなしく修まっていて、銀色の蒸留器から蒸気が白く上がっており、もろみや原酒のかおりが濃く淡く漂っていました。
原酒は、それぞれの旨み成分を残すように濾過され貯蔵タンクに納め、寝かされたあと、杜氏の味覚の基準に達したところで、割り水をして出荷という段取りとのこと。新焼酎が11月に入ってからになるのもこれで納得。今年もいい焼酎が胃の腑に染みるわけですなぁ。
なぜ、11月の末に、仕込み芋の搬入が終わるのか?
その疑問に平後園さんがあっけカランと答えてくれました。
「それは霜が降り始めるから~!」(芋は霜で凍ると使えなくなるそうです。)
ボーッと生きていたことにはっきりと気づかされました。
ここが秋と冬の境目なのです。9、10、11月は大隅の秋だった。これからが冬なのだと。
これからますます焼酎が美味しくなる季節。蔵人のお話しによると、熱々のお湯で割るよりも、好みで先割りした冷や焼酎に燗をつける方が、香りが飛ぶことがなくまろやかで美味しいそうですよ。
大海酒造の皆様、お忙しいところ、ありがとうございました。お陰さまで、実感できる秋が見つかりました。
(次ははずせない肴かな。 M田)
立冬を迎えると、ここ肝付の最低気温は11℃前後になってきました。このあたりの山肌の木々は紅葉する前に茶色く散ってしまうものが多いようで、南国の少し残念なところです。
そんな山あいの風景にかこまれて、11月10日川上地区の産地直送物産販売所「やまびこ館」で新米祭りが催されるという看板が目にとまりました。地元の農家さんたちが作る季節の旬の野菜やくだものを提供してくれるうれしいお店です。新米祭りでは、地区の人が総出でお米の他、蜜柑や野菜、地元で山太郎がにと呼ばれるモクズガニまでお手頃価格で販売されています。
まつりの呼び物の新米「川上清流米」は、この地区の山から冷たい水を、大きな機械が入らない小さな田んぼに引きいれ、ほとんど手作業で作り上げる美味しいお米です。5Kg入りで用意されていますが、午前中には売り切れてしまうほどの人気があります。
「川上清流米」の「清流」には、山から引く冷水に加え、もう一つ、この地区自慢の滝にも由来するのではないのかとの説(M田推測)もあります。この販売所のすぐ北に川上神社という霊験あらたかなりと噂の高いお社が鎮座されており、その社殿の裏に大きくはありませんが、見事な瀑布と蒼い滝壺を持つ「片野の滝」があるのです。
神社から滝まで続く遊歩道は、地元の皆さんが奉仕作業で整備されており、木の階段や手摺りなど歩く人への心配りを感じさせる、歩きやすい歩道です。神社の鳥居から200mほどで川面に下りることができ、オオタニワタリが自生している大木も左右に。大隅半島の植生の豊かさを実感できます。
明るい冬の木漏れ日を浴びながら、河原でこの滝を眺めつつ、新米で炊いたおにぎりを頬張ってみたいと思うのはM田ばかりではないだろうなと思うところです。
(次は冬真っ盛りだな M田)
10月に入りました。しかし、南国鹿児島はさすがに南国だけあって、昼間は熱中症注意報で「要警戒」が呼びかけられるほどの暑さです。この地方の住人たちから、
A:「こんごろ、あっがねごっなったなぁ。はい、なっ、いっきふいじゃ。」、
B:「まこっじゃ」
C:「じゃっど、じゃっど」
という四季の国NIPPONに暮らす者とは思えない会話が聞こえてくるもの無理からぬことかもしれません。(和訳はページ下。)
ここ肝付で、初秋を体感させてくれるのは、夕方暮れかかる頃に吹く風くらいでしょうか。ビール片手に庭に出て、夕月を見上げながら、涼しい空気に包まれるのいいものです。
天気のいい夕方は、佐藤春夫先生ではないけれど、七輪でも出して秋刀魚など焼いてみようかという気分になってしまう。お隣に気をつかうこともない田舎ならではの気軽さです。
めんどくさがる家人を、おれが焼くからとなだめすかして、秋刀魚やら地元の赤えびやら茸やらを買い出しにやり、自分は七輪のほこりを払って庭に出し、炭をおこして、準備OK。
団扇でぱたぱた七輪に風をやりながら、火相を見ていると、やがてものが届く。まだ明るいうちに焼き始めました。
我が家で愛用の七輪は防油、防水仕様の黒塗り。丈夫なつくりでもう20年は使っているかもしれません。七輪の上に乗っている鋳物の輪っかは「はちりん」と呼ばれています。七の上は八。だからでしょうか?炭火との距離を調節するものです。
火力は、下に見える通風口を風上にむけて、あるいはここから団扇などで風を送って調節する仕組みになっています。脂の少ないものから乗せていく方が煙たくなくていいかもしれません。焼けた順に、はふはふっと口に放りいれて、ビールで流しこめば、それで至福が訪れるのです。厚揚げだのごぼ天だのを乗せる頃には、ビールから焼酎に選手交代しております。最後に秋刀魚の登場で七輪は赤く燃え上がるのでありました。
「あわれ秋風よ」などどこ吹く風。今年も秋刀魚を大変美味しくいただきました。
「やはり秋刀魚は肝付にかぎる」などなどと。
(次は体力を使うぞM田)
A:「こんごろ、あっがねごっなったなぁ。はい、なっ、いっきふいじゃ。」、
B:「まこっじゃ」
C:「じゃっど、じゃっど」
和訳 A:「近頃は、秋がなくなりましたね。春、夏、一気に冬です。」
B:「ほんとですね。」
C:「そうです。そうです。」
処暑も過ぎ南国大隅でも、朝夕は幾分過ごしやすくなりました。近くのスーパーへの買い物も、「ちょいと自転車で行ってみるか。」などという気分にもなってしまうくらいの肌持ち。歩きにはまだまだ暑いけど、自転車に乗って走る風の涼しさはなかなかいいものです。手軽さと、購入費用を除けば経費は0というのも、自動車にはない魅力かもしれません。
鹿児島県では2020年、東京オリンピックが終わった後に国体が開催されます。そして自転車競技は、わが肝付町を通過するコースが設定されており、リハーサル大会を9月8日に実施、しかも時間制限付きの全面通行止めでやるのだ!とのお布令です。
走路を俯瞰してみると、鹿屋市から肝付町そして錦江町まで、つまり北隣から南隣を繋ぐ位置に置かれているわけで、町内会の回覧板なら、わざわざこちらに回り道してくれてありがとね、と軽くお礼でも言いたくなりそうなコース取りです。通常なら、鹿屋市内から西へ直接錦江湾沿いに抜けるコースを選ぶのが順当です。では、なぜ主催者は「わざわざ回り道」を選択したのか。なにか底知れない動機があるのではないか?
その動機を究明したい一心で、そしてちょっと休みの時間を持てあましていたので、犯人の否、主催者の残した地図でいうエリア1からエリア2を自転車に乗って走ってみることにしました。
まずは出発点鹿屋市役所へ向かいますが、肝付町を出たとたんに土砂降りの雨に襲われ、続行か断念か迷いました。が、カッパを持ってきていたので、これを着用し続行(無謀という声もある)、40分ほどで到着。
国体開催の垂れ幕が真ん中に燃える赤で設置され、肝付半島の中心都市「鹿屋市」が来年の国体で担うであろう役割をしっかりと表しているようです。
でも、ここがスタートではなく、商店街を通り北田交差点までみんなでパレードするのだそう。当日商店街に賑やかな応援ができる人通りがあることを祈りながらとぼとぼと走りました。
「北田交差点」。リナシティかのや前あたりがスタートラインになるのでしょう。ここは鹿屋シラス台地の底になります。百台を超える自転車がいっせいに商店街を走り抜け、寿台地への坂をあがる姿は壮観でしょう。
寿地区・笠野地区のアーバンヒルズ地帯を東へ。肝付町境まで。コース予定時間は、スタート後10分と車並みです。(M田タイム:30分)
ここから左折して、台地を下り肝付町内へ。
エリア1からエリア2の途中まで(回り道部分)、川に沿った田んぼと、緩い坂を上ったシラス台地畑の風景が何度もくりかえされる、いわゆる鹿児島の里の風景が続くのです。日頃自動車ではさほど感じない台地と谷地とのアップダウンが自転車を漕ぐことで実感させられます。登りのきつさと、下りの開放感はきっとやみつきになることでしょう。
大姶良町横尾岳峠への長い登りを越えると、錦江湾が見えてきます。急な坂を海岸まで下りきると浜田交差点です。コース予定時間はスタートから50分。(M田170分)
曇りの日、錦江湾の水墨画にも似た風景を右手に見ながら、国道269号線を南下します。
道路はカルデラの縁を通り、街境ごとに何回かアップダウンを繰り返しながら錦江町に。実コースでは栄町交差点を左折し、錦江町田代地区(旧田代町)へ一気に高低差200mを駆け上がりますが、M田の体力では無理と諦めました。コース予定時間はスタートから90分。(M田240分)。これから山に登って走る国体選手はやはりもの凄い人たちです。大会記録はもっと早いのでしょう。
へとへとのM田は、この交差点を直進し、南大隅町役場をめざし、20分後に到着しました。
さて、自転車を漕いでみて分かりました。
「わざわざ回り道」のコースを設定したのは、「全国から訪れる選手たちに鹿児島の里のようすを実感させたかったから~」ではないでしょうか。
自転車の気持ちよさを改めて感じた一日になりました。
(次は楽に行こう。M田)
7月24日頃、気象庁は九州南部の梅雨明けを発表しました。確か北陸当たりまで同じ頃の梅雨明け宣言だったようです。今年の梅雨は長かった、雨も多かった、だから涼しかった。
思えばあの頃はよかった。いまはただ、真っ赤に燃える太陽に夏を乗り切る力を試されている毎日です。
さて、我が町肝付には、あの初代「はやぶさ」を打ち上げたJAXA内之浦宇宙空間観測所があります。ここで暮らしている町民は「全国的に見ても、宇宙に一番近か町の筆頭と威張っても良かくらいだ、種子島とは歴史が違う。」と密かに誇らしく思っている風であります。たとえば、鹿屋市から肝付町への入り口には、イプシロンロケットの実物大模型がトーテムポールのように立って訪問者を見下ろしていますし、内之浦地区に入るとその風はさらに強くなり、小学校の大外壁に宇宙遊泳する子供たちの姿が描かれていたり、ランチの美味しい定食屋さんは「ニューロケット」だったりと、ロケット関連満載の町並みになっているのです。
とある休日、熱中症対策として塩分補給のため、あの「まつわきラーメン」を食べに行きました。旧内之浦町民のソウルフードを美味しくいただき、夏の海をながめながら南にドライブ。橋の親柱の形状が気になっていたのですが、いつもスルーしていました。この日初めてじっくり見てみました。
なんと、観測所で打ち上げた人工衛星をモデルにした親柱でした。大きな花崗岩を成形したうえに、英語・カタカナ・日本語訳をひらがなで橋名を刻むという念の入れようです。。街に一番近い橋がヴィーナス(金星)、その次はマーズ(火星)。
この二つのモデルは同じ衛星のようです。火星がちょっと斜に構えてますが。
次はと見ると、
ジュピター(木星)です。この大胆なデザインはドライバーの目を釘付けにしそうです。
あれあれ、もしかして太陽に近い方から惑星を並べてあるところでしょうか?水星橋はまだ未完成なのですね。地球は、今いるから飛ばしたと。では次は・・・
土星でした。この橋からは、宇宙空間観測所自慢のパラボラアンテナも見えてきます。
銀河系の外へと広がってきました。最後はやはり天王星橋(ユウラナス)です。
5つの橋の名に、街を太陽に見立て惑星を順にならべるとは、感服致しました。
いつも何気なく通り過ぎている道沿いに、街のほこりや思い入れが込められていることを改めて知ることができました。今夜はジュピターでも聞きながら、はやぶさ2に思いを馳せてみましょう。
(次は、山も良いかもね。 M田)
※参考 肝付町ホームページ
7月に入りました。梅雨前線は日本列島の真上を横切って、局地的な大雨など活発な活動を続けています。そんな季節の中で、志布志湾沿岸の浜辺で繁殖を始めたコアジサシたち。その後の報告をすることにします。
5月末、コアジサシ100羽ほどが志布志湾に注ぐ河口近くの砂浜に飛来し、6月初旬には抱卵を確認することができました。その後、コロニーの中の鳥たちは少しずつ種類と数を増やし、6月10日過ぎには、ベニアジサシという岩礁で繁殖するといわれている種類も100羽を越えて加わり、卵を抱き始めたのです。このコロニーで少なくとも4種類200羽以上をカウントしました。
コアジサシは、産卵後20日ほどで雛が孵るとのことです。その日を楽しみに待つことに。
そして、抱卵を確認してから、ちょうど3週間たった夕方、見守っている方たちの一人から雛の写真が送られてきました。早速親鳥が雛に餌を与えている姿もとらえられています。これから次から次に孵化していく時期に入るのでしょう。
ところが、野生の厳しさは、人の手の届かないところにあるようです。
2日後の朝、コロニーが天敵のタヌキかイタチのなかまに襲われて、卵も雛も、親たちすらも姿を見ることができなくなってしまいました。残っていたのは、薄く掘られただけの砂の巣ばかりでした。
この志布志湾岸のなかで、営巣する場所をほかに見つけることができるのか、営巣しても雨や波、そして外敵から卵や雛を守り育てることができるのか。5000kmもの旅をしてこの海岸を選んだ鳥たちに、ここでもう一度子育てを見せてもらいたいものです。
季節は梅雨の真っ只中。こちら大隅半島では、紫陽花の盛りは過ぎ、蓮の花が開き始めました。鹿屋市串良支所の大賀蓮の蕾も雨に似合います。
(次回は悲しい思いはしたくない。 M田)
気象庁HPの「令和元年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)」によると5月31日ごろ、昨年より5日早く、南九州が梅雨入りしたようです。たしかにその日以降曇りか雨、じっとりとした気候になっています。あれほどわがもの顔で青空を泳いでいた鯉のぼりは姿を消し、紫陽花が静かに咲いているのがふさわしい季節になりました。
これから夏にかけて、いろいろな夏鳥たちも繁殖の時季を迎えているようです。
2017年にこのブログで紹介した、コアジサシ(小鯵刺)もはるばる東アジアからオセアニアにかけての地域から5000km近くの旅をして、志布志湾岸にやってきてくれました。今年は、5月末ごろからコロニーを形成し、抱卵を始めており、6月2日現在約100羽をカウントしました。
現在コアジサシは、鹿児島県版レッドリストでは絶滅危惧種Ⅰ類(絶滅の危機に瀕している種)に、位置づけされており、鹿児島県内での繁殖は確認できないとされている鳥です。
・・これまでのコアジサシブログ・・
参照①:2016年4月ぶらり旅(番外編)「帰っておいでコアジサシ ボランティア活動 in 志布志」
参照②:2017年8月ぶらり旅(番外編)「コアジサシが帰ってきました!」
参照③:2017年9月ぶらり旅(番外編)「コアジサシが帰ってきました!(2)」
ペアが成立すると、砂地に簡単なくぼみを作り、メスは1~3個ほどの卵を産みます。そして、雄雌交代で20日ほど抱卵したあと、雛がかえり、子育てが始まるのです。彼らは主に海の小魚を餌としており、求愛のときも子育てのときも、海に真っ逆さまにダイビングして小魚を取ってきては、パートナーや雛に与えている様子を観察することができます。
折りしも梅雨の季節と抱卵の期間が重なりますが、卵をできるだけ雨に濡らさないよう交代を繰り返すひたむきな姿に、しみじみとした感動を覚えずにはいられません。
ただ、砂地には、雨に削られた跡が生々しく残っており、これからの大雨でさらに広く深く浸食されるのは避けられないことでしょう。また、夏に向けて、大風や大波が砂浜を襲います。自然の影響を強く受ける中での子育て。環境省が実施した調査によると雛が飛べるようになる割合は例年1割にも満たない場合が多いそうです。
また、営巣地は、釣り人やレジャーで訪れる人たちが簡単に入ることができる場所で、入ってきた人に親鳥たちが驚いて、子育てを放棄してしまう恐れもあります。
降りしきる雨に翼を濡らしながら、雛がかえるまでひたすら温めつづける親鳥たちを、せめて人が脅かさないように静かに見守ることができればと思いました。
(次もここから報告できるのか M田)
参考文献:環境省「コアジサシ繁殖地の保全・配慮指針」
4月初旬、里の桜が散り終わるころ、肝付町国見山系では、アケボノツツジが開花の時期を迎えます。薄いピンクのその花に魅了されている山好きな人々は数多いようで、町観光協会が「アケボノツツジ群落お花見ツアー」の募集を開始したところ、たちまち定員に達したとのお噂でした。ただ、このツツジの開花時期は気象条件により前後するため予想は難しく、このツアーがドンピシャだったかは不詳です。
4月下旬の休日、アケボノの咲き残りでもあればという下心で、家人と甫与志岳に登ってみました。ポピュラーな姫門登山口から。案内看板には山頂まで60分の表示があります。
ここからの登山道は、よく整備されており、迷うような心配はありません。ただ、尾根道に出るまでは結構急な登りが何箇所かあり、呑みすぎ+運動不足+久々の登山者にとっては息が上がることしきりでした。
アケボノツツジばかりが花ではないぞ、登りながらそこに咲く花々を撮影すると称してしばしば足を止め、息を整えながらの山行となりました。それで今回は出会った花たちを紹介することにします。
登山道の湿った林床に、透明感のある白色をしたギンリョウソウ(銀竜草)。暗い山道に透けるような白さでうつむいて立つ姿から、ユウレイタケとも呼ばれるそうですが、見つけるとなぜかうれしくなる花のひとつです。
フデリンドウ(筆竜胆)。少し日当たりのよい斜面に一輪だけ咲いていました。高さは5~6cm。とても小さな春に咲くリンドウです。落ち葉をどかして撮影。
ヤマルリソウ(山瑠璃草)。花の直径は1cmあまり。花色が薄桃色から瑠璃色に変化するそうです。道脇に何箇所か群生していました。
甫与志岳山頂から国見山方向へしばらく歩いたところに、咲き始めのミツバツツジ(三葉躑躅)を一株見つけました。ゴールデンウイークに見ごろを迎えるツツジです。アケボノツツジは見られなかったけれど、こちらも山に登らないと出会えない花です。
息も切れ切れでしたが、心地よい風の中、楽しいぶらりとなりました。
(次は海が呼んでいるか。M田)
啓蟄が過ぎました。まちを囲む山を見回すと、あちらこちらに白い山桜が咲き、深まる春を実感させてくれます。
さて、今年正月、Hさんにお供して、波見、唐仁地区を歩いて中世のあたりを旅し、歴女ならぬ歴爺の仲間に入ってしまいました。この地をはぐくんできた歴史やその成り立ちを、これまで何も知らなかったことを少し反省しながら、ぶらりを続けております。
前回までの中世から一気に、4~5世紀・古墳時代に遡ります。しかし、場所は前回と同じ東串良町唐仁地区。ここには国指定史跡「唐仁古墳群」として、大小130基あまりの古墳が集中しているのです。その中心に位置し、最大規模を誇るのが大塚神社として祭られている「第1号古墳」(大塚古墳)です。
鳥居のうしろにある森が、長径が185mほどもある県下最大、九州でも3番目に大きな前方後円墳なのです。後円部の高さは現在11mほど、建造時はそれ以上あったといわれています。
海抜5~7mの平地の上に、これほど大きな規模のお墓。このことは、その時代に一大土木事業を実施できる絶大な経済力と支配力を持った一族が存在したことの証でしょう。
などと思いを馳せながら鳥居をくぐり、まずは、古墳の周囲(堀だったのか)をぐるりと歩いてみました。
そこは、大きく枝を張り出した楠や椎の巨木がしっかりと根を張って、隙間なく杜(もり)を形作っています。そして、その林床はみごとに清掃されており、地域の方がたのこの神社(古墳)に対する畏敬の思いが伝わってきます。
参道に戻り、真北に進むと後円部に鎮座する社殿へ登る階段が見えてきます。
この階段がいい。緑の苔に覆われた石段は、長い歴史の中で擦り減り、その踏みしろはわずか15cmと驚くほど狭いのです。これは足元をしっかり見ながらゆっくりと参詣するための仕掛けなのかなと思わずにはいられません。
社殿からは真南に唐仁の目抜き通りを経て、国見連山を望むことができました。その時代海抜13m程度といえば、肝属平野に視界を遮るものは何もなく、この地全方位を見回せる場所であったことでしょう。もちろん、ここには特別な人しか登れなかったはずです。
ここに建つ正月飾りの注連縄は社殿を背にしていることに気づき、何か特別の理由があるのではないかなどと、歴史の妄想にふけってしまうのであります。
今回のお供でこの地域の歴史に触れることができ、旧友Hさんに感謝しつつ、機会があればもっと歴史の想像にふけってもいいなと思いつつ。
(次は山へ行こうか?M田)
2月5日は旧暦の元旦。こちら大隅では梅や緋寒桜が丁度満開となり、さわやかな香りを漂わせています。初春と呼ぶにふさわしい季節を迎えました。
先月Hさんに誘われて、肝付町波見を散策しながら、中世から藩政時代にかけて、この地に日本有数の財力を有する人々が実在していたことを知りました。そして、その人たちは、志布志湾に注ぐ肝属川河口を本拠地として、海を渡り、中国大陸や南方諸島との交易を活発におこなっていたのです。
Hさんが、「今の行政区域が歴史の舞台だったわけがなく、肝属川両岸に広かる地域、さらには志布志湾岸を一帯としてとらえるべき。まずは、対岸の東串良柏原、唐仁あたりに行ってみよう。」と言うので、有明大橋を渡って東串良町に入り、柏原を経て、少し上流に位置する唐仁にやってきました。道のりにして約4Km。
いつもはここは、田んぼの中に広がっているごく普通の集落として通過しています。この日はじめて、むらの真ん中を南北に伸びている道を、車から降りて歩いてみました。
人が設計して造ったに違いないまっすぐな道は、ブロック塀とコンクリート側溝にはさまれています。一見近頃作られた集落道路に見えますが、500mほどの間、十字路はなく左右からの丁字路になっており、突き当たりの壁には文字も判別できないほど風化した「石敢當」(せっかんとう)が丁字路の数だけひっそりと建っていて、この道がただ者ではないことを証しているようです。近年整備はされたものの、この小路の歴史はどれほどなのでしょうか。
Hさんによると「石敢當」は突き当たりの家に魔物が入らないようにするための魔よけの石碑で、中国福建省あたりから発祥し、沖縄、鹿児島に伝わってきたのだそうです。やはり、ここも海を越えて交易をしてきた人々が実在していたのでしょう。あるいは、唐仁と言う名の示すように中国大陸からやってきたり、連れてこられたりした人々が住んでいただろうという推測はできるのかもしれません。(Hさんはそのように確信しているようですが。)
東串良町郷土史を読んでみると、確かにこの地にも、中世から近世にかけて、波見にも劣らない財力をもった幾つかの家系があったことが記されており、今も末裔の方々が居住されているようです。
何気なく通り過ぎている村や小路に、現状では想像できないような人々の暮らしぶりや、豪快な経済活動があったことを、てくてく歩くことで垣間見ることができました。
川を背に北に歩いて大塚神社に向かい歴史の旅のお供は続きます。
(はまったか?M田)
新年明けましておめでとうございます。
平成最後のお正月は、南国の冬としても暖かく穏やかでした。
みなさまのところは如何だったでしょうか。
昨年の暮れ、高校時代からの友人で歴史に深い造詣を持つHさんから、1月はじめに高山、東串良のあたりを見に行きたいので案内してくれないかとの依頼がありました。今年、弊社の年始休暇には、ゆとりがあったので、一日丸まるお供することにしました。
「時代をさかのぼって、古代4~7世紀あたりと、中世14~17世紀のころを現地で想像したい。」というのが、Hさんの来訪目的のひとつ。志布志湾に面する「波見」と「下伊倉」、「唐仁」を、おじさん二人でじっくり歩いてみました。
まずは、波見へ。高山郷土誌(平成9年発行)には、波見港が、柏原港ととともに大隅半島における海上交通の要所であり、中世においては、日本人の海外雄飛への根拠地あり貿易港であったこと(室町時代は和寇として)。江戸時代は密貿易港として琉球を通じて中国や南方からの物資を交易し島津藩の財政を潤し、外来文化の玄関口ともなったこと。豪商重(しげ)家は室町時代からこの地で交易を行い、幕末においては全国長者番付で西の関脇であったこと。などが記されています。
波見浦の屋敷跡は、道沿いに堅牢な長い石積みが続いており、数百年の歴史と、その豊かさが実感として伝わってきます。海外から訪れた人々や、商人、船人、船を建造・修理する人々などのほか、番所に勤める役人たちも、この石垣の道を往来したことを想像すると、当時の賑わいにわくわくしてきます。
いくつか残る倉の窓上のひとつには恵比寿さんが満面の笑顔を浮かべています。この浦町に並々ならぬ冨が集められたことを象徴しているようです。はるか中国や南方からの物資はこの倉に入り、国内のあちこちに財として伝わっていったことでしょう。
さらに、海沿いの通りに歩くと権現山を背に、海に向かって「戸柱神社」が鎮座されています。この神社の石造りの鳥居には、「天保5年8月吉日」(1834年)の文字が刻まれ、交易に携わっていた商人たちの財力がどれほどだったかを示しているようです。
ここの境内から権現山へ登る歩道が整備されているようです。志布志湾を見守ると同時に、山上では航行の監視も行われていたことでしょう。この後、車で権現山に登り、志布志湾岸、下伊倉、唐仁との位置関係を俯瞰して、東串良町へと向かいました。
(続くのか M田)
師走に入りました。上旬は、散歩をすると汗ばむほどの記録的な暖かさでしたが、大雪を過ぎた今日この頃、やっといつもの冬にもどったようです。冬といえばコタツ、コタツといえば宿題しながら聞いていた深夜放送。
我が家には、M田が中学1年の冬に、お年玉と親にねだって買ってもらったラジオが現役で音を出しています。その名も高き「ナショナル2000GXワールドボーイ」。これで「つるこう」とか「ちんぺい」とか「なかじま」とか寝ずに聞いたものでした。もう50年近く、苦楽をともにしていますが、文句ひとついわず付いてきてくれました。まことに見上げたものです。
このラジオから初めてFMバンドを聞いたときは、その音質にびっくりしたのを覚えています。今も少し錆びたアンテナで電波をしっかり拾って放送を聞かせてくれています。
家人がもっぱら選局しているのは「FMきもつき」。町内に基地をもつコミュニティFM局で、弊社の本社工場のすぐ近くの高台に建つ「勤労青少年ホーム」の一室にスタジオを構えています。
朱の鳥居をくぐり、神社の参道を登るというちょいと奇妙な感じの場に建てられている「勤労青少年ホーム」ですが、ここで肝付町の青年たちがいろいろなドラマを繰り広げてきたと噂されています。
このスタジオでは週に3本ほどの収録が行われているそうで、今日は「じじ放談」という、文字通り60歳を超えるおじさんたちが、テーマも決めずに好きなことを話題になるようになるという構成で番組収録の最中でした。とても楽しそうに会話がはずんでいます。
このスタジオは、災害時の停電の中でも3日間放送を継続できるよう非常用バッテリーが備え付けてあるそうです。高台の建物を選んだのもそのような目的があったのでしょう。
ここから肝付町全体に放送を届けるために、国見山、荒西山など3中継局が設置されています。肝付町は国見連山という700mを超える山壁で高山と内之浦が隔てられているので、電波を飛ばすのにもご苦労があるようです。
実はこの放送局は、鹿屋市と志布志市、そして肝付町の2市1町のコミュニティFM局がネットワークを組んで、共同の情報を送れるシステムを構築しているのですが、これは全国でも類を見ない仕組みだということで、総務省もびっくりだったそうです。
もしもの時は補完しあって、さまざまな情報を発信していけるのは、住民にとって、災害への備えとして大いに貢献するものと思われます。
開局10年を超え、小さなアンテナは、今後さらに身近で心強い情報を町民に提供してくれるはずです。
(次は新年 何を見ようかM田)
暦のうえでは立冬を迎えましたが、南国大隅は、最高気温は20℃を上回り、最低気温は10℃あたり。日中は汗ばむ陽気が続いており、服装は長袖シャツに薄手のベストという取り合わせで心地よく過ごしています。
この季節、当地に広がる照葉樹林帯では、樹々を見上げれば、むかご、あけび、こくわ、どんぐりなどがたわわに実をつけ、林床にはきのこの仲間が顔を覗かせているはずです。夏場はすっかり眠っていたはずの狩猟採集民の血が沸々と騒ぎはじめ、山へ山へと視線が向いてしまうのであります。
日曜日の朝、ドリカムの「晴れたらいいね」(26年前のNHK朝ドラ『ひらり』テーマ曲)を口ずさみながら、庭の手入れをしていると、若い友人から「今年は、“ばかまつたけ”が豊作だそうな!」という夢のような情報が飛び込んできました。まつたけの前に「ばか」とは実にひどいネーミングですが、赤松林ではなく広葉樹林にはえるきのこで、香りは弱いながらも姿はれっきとしたまつたけの仲間なのです。20年ほど前この辺りの山中で何本か見つけて、大喜びしたことを思い出しました。
早速、こりゃ山へ行こうと言うことになり、自宅から20分、国見トンネル上部の林道へとドライブ。この辺りは沢沿いに急峻な谷が照葉樹で覆われており、採集の楽しみにあふれています。
路側スペースに車を置き、藪を分け、沢を渡るとすぐに「万滝」の看板が見つかりました。
地元で「万滝」と呼ばれ親しまれている滝へ通じる沢沿いの小径で探索しようという魂胆。
台風の風雨で岩崩れがおきて、上に根を張っていた大きな樹木が横倒しになっています。
倒木にびっしりと生えている白いきのこ。ぬめりたけもどきです。弱々しい姿ですが、火を通すと実に良い食感になり、すき焼きに入れるととても美味しくいただけます。
樫の木の根元にも。
ほうき茸の仲間を発見。菌のひだ先がネズミの足のように見えることから「ねずみ茸」とも呼ばれています。鹿児島では「ねったけ」、煮付けや煮染めにして食べられています。ふっくらとしたおなかのところが美味しいきのこです。
枯れ落ちた枝には、野生の椎茸が良い感じで広がっています。よく似ている有毒の「つきよたけ」を誤食し、中毒する事故が絶えません。注意しましょう。
きのこを探して、下ばかり見ていると、沢の音が大きく聞こえてきました。入り口から上流に300mほども歩いたでしょうか。小径がなくなり沢を登ると、目のまえに大きな岩肌を滑り落ちる万滝が見えてきます。
落差は30mと言われていますが、近づくともっと高いように感じます。花崗岩の一枚岩を三段に流れ落ちる滝は壮観。秋の空に白い流れが良く映えていました。地味だけどしみじみとした風格を感じる滝です。冬には凍ることもあるという万滝。それも一度見に来たいと思いました。
きのこも採れたし、滝を見ながらコーヒーを一杯。ごちそうさま。
(次はばかまつたけの山かな?M田)
秋のお彼岸がすぎると、南国肝付も秋らしさが増してきます。
田んぼの稲の収穫は終わり、シラス台地の上に広がる広大な畑地では、焼酎やデンプンの原料となるサツマイモの収穫が本格的に始まりました。今年は24号、25号と9月末から10月はじめに掛けて立て続けに襲来し、ほかの農作物への被害も出ているようですが、サツマイモはさほどの影響は無かったように聞いています。
台風が過ぎると、九州は大陸からの高気圧におおわれ、澄みきった青空が広がります。この時季になると、夏鳥は日本で生まれた幼鳥を伴って南方へと渡っていくのです。なかでもサシバという鷹の仲間は、おもに大隅半島を通って、佐多岬から南西諸島伝いに、インドネシアやフィリピンへと南下することが知られています。
日が昇り始めるころから発生する上昇気流をとらえて、数十、数百ものサシバが帆翔することで上空へ舞い上がっていきます。その様子は縦長であったり、ボールのようであったりするので鷹柱と呼ばれています。高度を得たものから順に滑空をしながら渡っていくのです。
自宅上空では10月2日、3日の2日間で約1000羽を見ることができました。また、県立大隅広域公園の観察会では10月7日2160羽、8日2350羽をカウントしたそうです。
年々その数が減少していると言われているサシバですが、繁殖地の保全や越冬地での密漁禁止などの活動が広がっており、絶滅危惧種への保護意識は高まっているようです。
サシバの渡りを追いながら、いつまでもこの町の上空で舞ってほしいものだと祈らずにはいられません。
(次は海かな M田)
9月の声を聞いたとたん、風が涼しくなりました。柿も色づきを増し、葛のやぶ奧には紫の花穂も見えております。蝉の声もいつのまにか「カナカナ」に替わっているようです。
月初め、論地工場へ行こうと下住工場を出て、高良(たから)橋を渡り、ふと右手の旧鉄道跡の土手に目をやると、ふだんは全く人気のない桜並木のみちに多くの人影が見えました。馬もいます。
肝付町の秋の大祭「流鏑馬」の練習が、今年も始まったようです。早速右折して、堤防へ。
この地の流鏑馬は、高山「四十九所神社」に毎年10月半ばに奉納される神事で、900年の歴史を持つと言われています。今は射手(騎乗する少年)を、8月に肝付町在住の中学2年生から希望を募り、9月から馬に触れるところから訓練する慣わしになっています。十四歳の少年が、わずか一月半で、手綱を放し疾走する馬上から、弓を引き矢を放つまでに技を磨いていくわけです。
鉄道跡に行ってみると、少年はもう片手だけで手綱を引いて、馬を早駆けさせていました。
大勢の人影は「綱持ち」と呼ばれる加勢人で、今日は高山中学二年生の有志が50人ほど。本番同様、馬の走る方向の右手1.5mくらいに、3町(約330m)にわたってまっすぐに張られた綱をもって立ち、訓練を見守っているところでした。馬にも人に慣れさせる訓練を兼ねているのでしょう。目の前を疾走する馬、綱持ちも結構勇気の要る役割です、みんな良い感じで緊張気味。
指導をし、神事の準備を進めるのは「高山流鏑馬保存会」の方々。この時期からは仕事そっちのけの日々が始まります。疾駆する馬の正面に立って、走りをおさめるのも慣れたものです。が、どちらも大変ですよね。
今年、平成最後の(2018年)の射手は、大園悠馬君。高山中学校の二年生です。バスケット部に所属しているそうで、乗馬の勘は鋭いと保存会のおじさんたちが言っておりますが、まったくそのとおりでしょう。
そして、そのお父さん、健一さんは、昭和最後63年(1988年)の射手なのだそう。しかも流鏑馬の長い歴史の中で、親子での射手は初めてとのことです。何か運命的なものがあるような気もします。
練習は毎夕方、1日四回騎乗。これから本番に向け短い期間の中で、一段ずつレベルを上げる厳しい練習が続きます。
夕焼け空の下お父さんは、毎回息子の無事を祈りつつ、うつむき加減に歩きながら真砂を撒き、馬場を浄めるのです。これを見るだけでもジンとくるものが。そして、お母さんは、あの明子姉さん(※1)のように息子の姿を遠くで見ています。さらにジンとくる。
実は、綱持ちは、練習している馬場に行けば誰でも参加できるのです。近くで見ると、すごい迫力が堪能できるうえに、射手や、お父さんがひとり一人にお礼を言ってくれます。これも感動ものです。近くにおいでの方は参加必見、その価値は十分にあります。
秋がいよいよ深まるこの時期、つるべ落としの夕刻、「やっさん」(流鏑馬祭り)までその準備を見続けるのも、肝付の季節を楽しむひとつの方法かもしれません。
(次は秋空を見るか M田)
※1 梶原一騎原作 川崎のぼる作画「巨人の星」より 明子は主人公星飛雄馬の姉
※2 後射手とは前年の射手で、射手の乗った馬を全力で追走する。射手に事故ある場合は則交代できる技量を持つ。
取材協力 高山流鏑馬保存会
残暑お見舞い申し上げます。
台風12号が去った後、当地でも身体に危険な暑さが続いています。工場内のスポットクーラーや大型扇風機も効果をあらわせないほど気温があがり、熱中症の予防注意が欠かせません。
この時期、大隅半島中南部において、ビールのあてにはもっぱら、塩ゆで落花生が出されます。
この地方の労働者の塩分補給はこれで行われていると言っても過言ではないぐらいの量と頻度で提供されるのです。湯気の上がってる小さなこいつと、冷たくてグッと来るあいつは、まさに永遠の、最強バッテリー。キモツキンリーグ・バンシャクズのサトナカくんとヤマダくんなのであります。
ある日風呂あがりに、こいつらをやっていると、音楽好きの友人から電話がありました。彼もすでに泡をやっているようで「ヨカトコイガ デケタドゥ。ウトデ キッケコンケ。ショチュモ アイヨ。」とのこと。直訳すると「以前建築関連会社だったあの事務所が改装され、ライブハウス風のスペースになった。今度バンドで演奏するから来ないか。音楽を聴きながら酒も飲めるぞ!」となります。
指定された日曜の夕方、うちの本社工場からほど近いところにあるそのスタジオへ。
かなり派手めなおねぇちゃんが横たわる看板には、
「きもつき 街の音楽室 Music Bar & Live House」とあります。つまり、学校の音楽室のように好きな人々が練習できるスペースで、たまにはそんな仲間たちの音楽を聴きながら飲んだり歌ったりするところということでしょうか。なんだかわくわくしながら中に入りました。
すでに、会場は盛り上がっていました。アコースティックな楽曲が演奏される中、50席ほどある客席では、ちょっとお酒がきいているのか意気投合の様子のおじさんたちや、ファンとおぼしき曲に聞き入るお姉さんたちが、普段は見せることない実にいい顔をしています。やはりライブですなぁ。M田も300円で買ったビールを片手に残り少ない客席を探して滑り込むことに。
次は演歌も交えて演奏するグループが登場。その演奏は、観客も思わず話をやめて聞き入るほど。
この時、N崎くんから肩を叩かれびっくり。彼はこのバンドのメンバーをよく知っていて、ビールを飲みながら裏話をいろいろ聞かせてくれました。このバンドのベースをやっているのが、私の年上の友人で、あの「吾亦紅」をしみじみと歌ってくれたのです。古希を迎える彼のしゃがれた声からは、深く温かい思いが伝わってきました。
最後にオーナーの有馬さんとお話しをすることができました。
実は有馬さん自身もプレーヤーでスタジオを作りたいと思っていたそうで、この春に今までの仕事がひと区切りつき、事務所を改装することに。6月にこのスペースができあがり、音楽仲間に声をかけ、7月から本格的にそれぞれのバンドがライブをするようになったとのことです。
本当に、ヨカトコイガデケタど。ありがとうございます。次のライブも楽しみ。
(次は秋の海かな M田)
今日は七夕です。
昨日来の猛烈な大雨で西日本を中心に洪水や崖崩れなどが発生しています。
被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
この時季、肝付では、七夕かざりが商店街を彩っています。商工会の呼びかけで、保育園や幼稚園、小学校が各クラス毎に、また、社会福祉施設や自主的なグループがそれぞれ飾り付けをした笹竿をお店の前の外灯に立てているのです。町並みに手作りの紙鎖や切り紙、短冊などが揺れるのは、派手さはありませんが、しみじみと季節感が伝わってきます。
ところが、新暦の七夕は梅雨のさなか。それぞれが心を尽くした飾り紙は、雨に打たれて落ちてしまうことが多いのです。今年も飾って二、三日はさらさらと揺れていたのですが、このところの雨ですっかり寂しくなってしまいました。なかば今回の取材は諦めていたところ、その筋に詳しいM理さんから、温泉ドームにきれいな七夕かざりが残っているとの情報。
行ってみると、左右対で飾られていました。そうそう、このさらりとした風情がよろしい。むかしむかしの夏の初めがよみがえるというものです。短冊にいろいろな願い事を書きました。「なわとびが上手になりますように」とか「宇宙に行きたい」とか。誰かが書いた短冊の願いごとをちらりと読んでみたいのも人情です。
なるほど直球。M田も同感です。なかには、「世界平和」とか「給与UP」とか。
そういえば、パソコンやスマホを使ってばかりで、紙に思いを書くことから遠ざかっているような気がします。旧暦の七夕にはまだ十分日にちがあるので、短冊におじさんなりの願い事を書いてみたくなりました。書けば叶うような、ほどほどの。
さて、雨が苦手な七夕かざり。雨の似合う花と言えば紫陽花ですが、こちらではもう時期をすぎてしまいました。これからの季節、花にも葉にも雨粒が遊ぶような蓮も楽しみです。鹿屋市の串良支所敷地には、昔の濠が保存されており、そこを利用して蓮が植えられています。
「この蓮は弥生時代そのままの種だそうで、1951年に千葉で発掘された3粒の蓮の実から発芽させたものを株分けで殖やし育てたと説明書きに記されています。開花させた植物学者、大賀一郎博士の姓をとって「大賀蓮」と呼ばれているそうです。なんと天然記念物。
小雨の日にゆっくり見に行きましょう。
(次はやっぱり海へ行きたいな M田)
肝付町の東岸は、太平洋の荒波に洗われて、山裾が削られ白い崖や巨石となって海辺まで迫り、荒々しい海岸線を形づくっています。特に岸良から佐多に掛けては、石鯛釣りのメッカとなっているようで、あの「釣りバカ日誌」にも登場しました。山佐木材の釣り部の面々もかなりの頻度で通っているようですが釣果についてはちらほらとしか聞き及びません。
そんな海岸ですが、「岸良(きしら)」と「辺塚(へつか)」、ふたつの湾の奧にだけ砂浜が横たわり、訪れるものを柔らかく迎えてくれるのです。どちらも花崗岩質の山から川によって運ばれた、石英を多く含んだ白っぽい砂におおわれています。今回は最南の辺塚海岸に行ってきました。
ここは国道448号を船間から県道74号に乗り換えた先に位置しているため、訪れる人はほとんどいないようです。日曜日のお昼過ぎに着いた砂浜には、親子連れらしい足跡が残っているだけでした。私まで入れてこの日3人目ということでしょうか。波打ちぎわを歩くと、踏みしめる音が聞こえてきそうなくらいきれいな砂です。
梅雨空の下、穏やかな波音に包まれながらあっちの端まで行ってみることにしました。歩いて往復しても20分とはかからない距離です。砂浜の一番北の端におもしろい模様を見つけました。
海亀が上陸した足跡です。この亀は上がってはみたものの、何かが気に入らず手前でUターンして海に戻ってしまったようです。
この美しい辺塚海岸に、これから夏に向けて何頭もの海亀が這い上がり、卵を産み、厳しい自然の中で生命を繋いでいくことを祈りたいと思います。
もうひとつ。
この地域の家々に限って、庭先に植えられていた「ヘッカデデ(辺塚だいだい)」と呼ばれる柑橘類があります。
「だいだい」の名は付いていますが、沖縄のシークヮサーや大分のかぼすの仲間だそうで、8月頃の青い実は酸っぱくて、さっぱりとした良い香りがします。
半割にして焼酎にいれると美味しいんです。今はジュースやドレッシングにも加工されて市販されています。青いうち収穫せずにそのまま冬を越す頃には実は黄色く熟して、果汁に甘みが乗ってきます。
もちろんこのまま飲んでも美味しいのですが、刻んだ皮をジュースで煮込み、マーマレードにすると絶品。香りとほどほどの苦みがパンやヨーグルトに良く合います。
大隅半島でもさらに奥まった手つかずの地域。この辺りは、陸路は急峻な細道しかなく、また海路は外洋の荒波が厳しく、昔は人の行き来が容易ではなかったようです。今は時間さえ作れば、その手つかずの魅力を存分に楽しむことができる。
ぜひ足を伸ばしてみられてはいかがでしょうか。
(次も海にいきたい M田)
皆様、4月の終わりからの大型連休、大いに楽しまれたことでしょう。5月5日、6日辺りはまだうっすらと記憶に残っているかも知れませんが、心に残るイベントを組まずに過ごされた方にとっては、4月29日に何をしたかもう思い出すこともできない、忘却の彼方になっちゃったのではないでしょうか。「年かなぁ」などとため息をつきたくもなります。
そんなあなたにお勧めなのが、毎年かかさず同じ日同じ行事に行くこと。これは効く。私の経験では、ほぼ100%忘れることはありません。ぜひ、お試し下さい。
というわけで、今年も4月29日、志布志お釈迦祭りに行ってきました。この前は遅刻して、メインイベントを見逃したので、早起きして参じました。
9時過ぎから稚児行列が始まります。ここのお稚児さんは、自分で歩くのではなく、紅白に飾り付けられた籠に乗せられて進みます。担ぎ手は、たいていお父さんやお祖父さんでお母さんたちは籠の横について歩くのがしきたりのようです。この籠には年齢制限ではなく体重制限が設けられているという噂です。ともあれ、眉と鼻に白粉をつけてもらったお稚児さんがちょこんと座った姿は可愛いこと。1.2kmほど歩くそうですが、担ぎ手は孫子のためならということでしょう。大変そうです。
子供たちが通り過ぎると、その後ろからは、朝早く、お寺で仏前結婚式を挙げた新婚さんがお嫁さんをシャンシャン馬に乗せてやってきます。毎年5組ほどのようです。
黒紋付きに錦の帯、角隠しで装いを整えた花嫁さんの姿は、白無垢とは違う落ち着いた雰囲気を醸し出しています。馬の口を引くのは紋付き袴の新郎たち。なんとも晴れやかな行列です。どうかお幸せにと、祈るばかりであります。
こちらのカップルたちは、メイン会場の宝満寺まで歩いたあと、甘茶をお掛けして、合同披露宴的イベントに臨むそうです。こちらも早朝からお昼まで長時間大変なことでしょうが、一生の思い出には苦労はつきものです。
そもそもを忘れておりました。お釈迦祭りは灌仏会、別名「お花祭り」。屋根を花で飾った花御堂の中に、片手を天に向けて立っておられる生まれたてのお釈迦様の像に小さな竹の杓子で甘茶を注ぎ掛け無病息災を祈願する行事です。年齢の数だけ注ぐのが慣わしになっているようで、高齢者が続くと花御堂の周りは大勢の人垣でいっぱいになります。
傍らには、甘茶が用意されていて、参拝した善男善女たちは、暖かくほろ甘い一杯をいただくことになっております。
ところで、沿道には、焼きトウモロコシ、焼きイカ、りんご飴、たこ焼きなどなどお祭りにつきものの出店が並んでいます。どれも捨てがたい味がありますが、ここは志布志の商店街。いつもの店先に自慢の商品も並んでいます。お寿司屋さんは、押し寿司やちらし寿司を、お魚屋さんは鯵や締め鯖をパックにしてワンコインで売っています。こちらも美味しくいただきました。
(次は夏。海かな M田)
今年の春は、九州大隅半島を駆け足で過ぎていったようです。
3月25日には桜が満開となり、花見をする暇もなく、その後の暖かさの中で立待ち葉桜になってしまいました。早く芽を出せと掘るのを楽しみにしていた筍も、ちょっと油断した間にすくすくと成長して大人の背丈ほどになってしまったものもあります。タラノメなどは、芽ではなくなった掌ほどの若葉をかろうじて天麩羅にすることができました。
そんな悔しい春を過ごす中、年上の友人から曙つつじ鑑賞登山のお誘いが、ショートメールで舞いこみました。
鹿児島県内では、曙つつじを見ることのできる山はどうも限られているようで、肝付町国見山系が数少ないうちの一つにあげられています。登山道周辺に自生地が見られるのは甫与志岳と黒尊岳の中間あたりだそうですが、M田はまだ実物を見たことはないのであります。
とある日曜日早朝、友人、家人と三人で一路、姫門(ひめかど)林道へ。車で横付けできる甫与志岳への登山口はここだけなのです。駐車場にはすでに先客が何台も、宮崎・大分ナンバーも停まっていました。
登山口からちょうど1時間ほど登ると、甫与志岳山頂下の尾根道にでます。ここからルートを北に、黒尊岳方向にとり、なだらかな尾根の起伏をゆったりと。
椿の赤い花が落ちる道を歩くこと40分ほどでつつじの最初の群落が見えてきました。白に近いピンクの花が枝一面に着いています。
少し盛りを過ぎている枝もあれば、まだ蕾の花もありますが、この花色は春の空によく似合います。さらに黒尊岳の斜面に目をやると、新緑のなかでいくつもの群落が咲いているのが見て取れました。この山の曙つつじの樹が太く大きく、その枝々にたくさんの花を咲かせているからでしょう。
つつじの鑑賞を堪能し、甫与志岳頂上(968m)へ向かいました。
馬酔木の花が満開の頂上は、春の日差しで暖かく、ここで昼食を取っているお仲間もいました。青空の下最高のランチだったことでしょう。
山頂からは、もと来た道を「こんなに急だったかなぁ。」などと余裕を見せつつ50分くだり、大満足で曙つつじ鑑賞登山を終えたのでした。
(次こそ海か? M田)
1月の中頃、この九州の南端でも山には雪が積むほどの寒さでした。春と呼ぶにはまだまだ早い。肌で感じる季節としては初春というよりまだ冬です。
それが2月に入り立春を迎えると木々の枝先はやや赤みを帯びてきて、枯れ草の間から緑の芽が見え始めます。それから10日ほどたった2月16日(金曜日)が、今年の旧暦の正月元旦でした。「新春のお慶びを申し上げます。」という挨拶が、老若男女どなたにもしっくりと受け入れてもらえる肌持ちです。新月の闇の濃い夜が過ぎるころ、白々と明るくなっていく山ぎわから昇る朝日には、晴れ晴れとした快さと暖かさが実感できます。
その週の日曜日。陽気に誘われ春とこの時期のおいしいものを探して散策に出かけることに。拙宅の生け垣周りの草も少し伸びてきました。椿の木の下にはみつばが柔らかな若葉をひろげています。スーパーでは水耕栽培のヒョロッとしたものが一年を通して並べられていますが、あれとは香りも歯ごたえもまるで別物。こいつをたっぷり採って、白和えにしていただくことに。当地では白和えは白味噌仕立てです。今時分、焼酎のつまみとしてこれに勝るものは無いでしょう。
昨年12月に友人二人の手を借りてして間伐を行い、日当たりのよくなった竹山へ行ってみました。孟宗竹の筍はまだ地面から顔を出してはいません。でも靴の底で注意深く探りながら歩いていると、いやはや本当に春なのですなぁ、とんがり頭を発見。まだ、中指ほどの長さですが。
1本の根から5本仲良く並んでおりました。こちらは、「掘った・焼いた・食った」の瞬速三段焼き筍にして食べることにします。みなさまお先にはふはふっ。
そういえば去年もこの時期同じような春さがしをしました。二股トンネルの北にある、ねこやなぎの群落。昨年は1月21日(旧暦12月24日)に訪れて、まだ花穂は出始めというところでした。今年は2月18日(旧暦1月3日)。新暦では去年より1ヶ月ほど遅いことになります。1ヶ月違えば花穂は盛りを過ぎてしまうころでしょう。しかし、旧暦ではわずか10日の遅れです。どんなようすなのか気になって、岸良高山線を南にドライブすること20分。人気のない山に入って5分。
群落は一面銀色にふわふわと輝いておりました。堅く赤いさやはなく、ねこやなぎの花、一番の見頃です。いささか乱暴なとらえ方ではありますが、ねこやなぎの花穂に限ってみると、旧暦に近い巡りで旬を迎えているようです。
かく言うM田にしてみても、ねこやなぎ同様旧暦に添って季節を感じる方がしっくり来る。体が無理をしないような気がします。
今日は啓蟄。貫禄のある足高蜘蛛(アシダカグモ)初見、家人は大騒ぎ。いよいよ春たけなわです。
(次は海か?M田)
※参考文献 小林弦彦著『旧暦は暮らしの羅針盤』NHK出版
「初春を探そうか。」などという風流な気持ちも、しょんぼりとしぼんでしまいそうなこのところの寒さです。身をちぢめているせいでしょうか、なんと左の肩胛骨当たりが痛い・・・神経痛になっちゃたようです。しかし、こんなことで挫けてはいられない、今回は全国にも希なイベントが発生するというので気張って出かけることにしました。
わが肝付町には、宇宙航空研究開発機構JAXAのロケット発射場があります。ここから1月18日(木)午前6時6分11秒にイプシロンロケット3号機が打ち上げられるのです。流石に科学の力、宇宙の事情によって、11秒が肝なのでしょう。が、M田にとっては「これなら発射を見てから会社に行けるじゃありませんか。片道1時間の距離まで余裕で往復可能!」の時刻と解釈してしまうのであります。負けじとこちらも秒読みで行動。
当日4時50分22秒に起床、身支度を整えて、5時3分57秒、岸良方向へ向けて発車。普段は通る車もいない経路ですが、さすがに前を走っている車のテールランプが三つ、二つ見え隠れしています。
岸良繁華街中心部には、消防車&救急車も待機、交差点から内之浦方面へは交通規制がかけられ一般車は通行できません。そこで、国道448号を錦江町方向へ右折し、船間方面へ。1㎞ほど行くと岸良海岸の駐車場がやたら明るい。幾台もの投光機が周りを照らし、車両案内係も配置されロケット発射見学場に様変わりしています。
5時52分16秒、ボランティア案内係りのY田君の誘導で車止め完了。すでに駐車場は50台以上で満車となっています。係りの人たちは前の日の午後9時から配置についているとのこと。ご苦労様です。Y田君コーヒーありがとね。おいしかったです。
まだ星が瞬く夜明け前の浜の堤防は、打ち上げを待つ見学者たちが発射場に向かって横一列に並んでいるようです。寒いなかでも、なんだかわくわく感が伝わってきました。
ちょうど60秒前から、町内防災放送の大スピーカーから射場のカウントダウンが中継され、気持ちが高揚してきます。「スリー、ツー、ワン、ゼロ、リフトアップ・・・」閃光が見学者たちの顔をはっきり見えるくらいに輝き、皆さんの歓声の後に爆音が響いてきました。
ロケットの軌跡は、轟音を残しながら南の空高く弧を描いて揚がっていきました。初めて発射場の近場で見学しましたが、その迫力と美しさに恥ずかしながら感動を覚えました。これからロケットはできればこの時間に打ち上げてほしいものです。
岸良見学場を早速後にして、出社の途につきました。峠のトンネルを抜け、明け始めた道を30kmのドライブ。開けた畑の中の一本道で、ふと見上げると、オレンジに柔らかく輝く光のひだが空に舞っています。まさかオーロラ?ではないでしょうが、人生で一度も見たことのないそれはそれはきれいな光景でした。
夜光雲と呼ばれる現象だそうです。やはり早起きはするものです。いやはや大満足の朝でした。この日は春のような暖かさ、夕方自宅の庭の梅がいくつか花を開いていました。
(美しい写真はN野君にまかせて、次は春のおいしい物でも探そうか M田)
皆様、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
さて、新年に入り、当地はお天気に恵まれ、暖かく穏やかなお正月三が日でした。雨や雪でも降れば家の中でお屠蘇と称して、ちびりちびりごろごろ~ちびりちびりぐぅぐぅといきたいところですが・・・。
陽気に誘われた家人たちにはその楽しみは理解してもらえるわけもなく、初詣に引っ張り出されました。たまたま、私が節目の年を迎えたことも神社詣の理由でもあったのです。
まずは、四十九所神社へ。永観2年(986年)の創建と言われているので千年以上の歴史をもつ高山一位の郷社です。
さすがに、出店なども並んで賑やかで、参拝客も多く、年始めの挨拶が忙しいほどでした。社殿前には御神酒(樽酒)も用意されており、一すくいご馳走になりました。家人たちはお札とおみくじ、おまけにアメリカンドッグを購入しておりました。
さて、高山に来られればお気づきになる人はお気づきになるのでしょうが、この地には神社がやたら多いのです。四十九所神社から南へ1丁ごしに、御社神社、八幡神社と並んでおり、北と西には南方、竹田の2社が、東には護国神社、稲荷神社が鎮座されております。郷土誌によると中世に創建された主なものだけでも27社を数えます。
それで、他地区の神社(四十九所神社は新富地区)にも詣でてみようと言うことになり、前田地区代表 南方神社、後田地区代表天岩戸別神社(通称トガンサァ)に参拝しました。
南方神社は14世紀半ばの創建と伝えられ、立派な社殿が再建されています。元々は武神ですが今は縁結び家内繁栄の神様だそう。これはしっかりと祈願させてもらいました。
ここでご注目いただきたいのが、左右柱下の門飾りです。この地方の慣わしで、シラスの盛り土、その上に末広がりに置かれた堅木の割木(薪)3本と笹竹だけ、松とか梅はありませんが、すっきりとして気持ちがいいです。
後田地区白坂の天岩戸別神社(通称戸神様トガンサァ)はこの地区の守り神さま。天の岩戸開けの神々を祭ってあります。右手に大きな椎の木があり、家内は子供のころ、ここでドングリやコジイの実を拾うのが楽しみだったそうです。しみじみと静かな田舎のお社に、家に祭っていたお札を納めさせてもらいました。
3つのお社に詣で、去年の穢れを清めて、晴れ晴れとした気持ちになりました。
皆様にとって本年が素晴らしい年となりますように。
(次は春を探そう M田)
【おまけ】
後田の民家の門飾り(木戸かざい)
割れ木は飾らずへつらわず、堅く無ければならない。
竹は親勝りの竹の子。節がある。
ユズリハは代々譲り受け次ぐ。
シラスは土までも白く新たに。とか
今は残念ながら、この木戸かざいを飾った門口をほとんど見ることは無くなってしまいました。
参考文献 『高山郷土誌』1997年版
師走、年の瀬がいよいよ迫ってきました。
正月を指折り数えて待っていたころがありました。しかし、このところは、正月の準備がなかなかはかどらず、大晦日までの残りの日数がどうも足りないような気がして指を折っています。
生け垣の剪定から始まって、風呂、玄関の掃除までは序の口、破れた網戸、障子の張り替えはどうしても済ませておきたいところ、流しの排水管もすっきりと通るようなどと家人のリクエストが年を追う毎に質量共に充実してきたおかげでしょうか。
それに追い打ちを掛けるのが、暮れや正月にいただく魚などの買い出し、これは楽しみも半分ほどはあるわけで、M田の優先順位はおおかた掃除なんかよりこっちなのです。
当地では正月用に、秋から地元産で捕れるミズイカ(アオリイカ)を冷凍しておく家庭も多いようで、味も良くなるとの説も聞いています。まちの魚屋さんにもおいてあるのですが、今回ひそかに漁協の直販を狙ってみました。
向かったのは地元高山漁業協同組合。ここでは、毎月第三土曜日の午前中「朝どれ市」が開かれ、定置網で捕れた大小のお魚から、養殖もののブリやハマチなどを割安で一般の人に販売しています。
この日はあいにくの雨日よりでしたが、午前10時開店にもかかわらず、9時すぎにはもう30人ほどが並んでいました。傘を広げて大きなクーラーボックスを椅子代わりに腰掛けている人もいます。
ミズイカ、ハマチ、カツオなどちょいと形の良いお魚はあらかじめポリ袋に入れられてテントの中できちんと並んで寝ています。片や、哀れ買い出し人たちは冷たい雨の中、カラーコーンで囲まれた枠に順に並んで立たされ、まんじりともせず開催を待っているのです。
午前10時ちょうどに鐘が鳴り、カラーコーン枠の口が開かれ先着順に20人一組ずつでテントに通され、ひとりいくらでも買ってもらって良いですシステム。二組、三組目まではなんとかお目当てのものを買えたようですが。
開催時刻通りに会場に来た人たちは、思いの魚は売り切れて、南蛮漬け用小アジはポリ袋に詰め放題、塩焼きにちょうど良いカマスが買い放題だったようです。おそらく次は早めに来ようと強く思ったことでしょう。
もちろんM田も取材に集中していたため後者となってしまい、南蛮漬けと塩焼きをもうたくさんというほどいただくことになりました。
12月には内之浦漁港でも直販市が立つようです。こんどこそ、そちらで大きなミズイカを手に入れて年を越したいと決意を新たにしております。
(次はのんびり陸のことにしよう M田)
第22回 鹿児島市 「鹿児島県立博物館 蔵出し企画展『大隅半島』」
これまでの投稿傾向からこのブログで県立博物館の紹介をすることは、皆様の想定範囲には入ってなかったと思う。そこで、わたしが博物館に出入りするようになったきっかけと、現在の状況などをお話ししておこう。
鹿児島県立博物館は、軍服を着て桜島を見つめる西郷隆盛像を正面に見て、国道10号線を左手にちょっと歩いたところ、島津斉彬公を祀る照國神社表参道の右手に静かに建っている。本館はすっきりとした藤色の3階建てだ。鹿児島独特のイヌマキが姿よく植え込まれ、正面と参道側に設けられた水路には緋鯉が泳いでいる。
所属している自然保護団体のボランティアイベントで、この博物館に収蔵されている動物の剥製を展示する目的で、お借りしに来たのがお付き合いの始まりだった。何回か出入りさせてもらっていたが、この7月、秋に「大隅半島」をテーマとする展示を計画されていることをお聞きした。
一方、弊社はその大隅半島の真ん中あたり、東に志布志湾を望む肝付町で起業、現在も本社をそこに置いて、事業活動を続けている。昭和40年代後半(1971年頃)社員総出で明文化した創業以来の行動指針がある。今も月初めの全体朝礼をはじめ入社式などの全社行事でそれを唱和しているのだが、そのひとつに「郷土の発展と繁栄の先導者となる」という文言がある。実は、昭和の終わり頃までこの『郷土』は、『大隅半島』とピンポイントの地域限定だったのである。
学芸員の先生にこの計画をお聞きしたとき、私の中では、長いこと棚の奥に睡っていた大切なものを久しぶりに手にしたような、「原点はここだったんだよなぁ」感に包まれてしまった。
そして、あれこれ話しているうちに、1時間のおはなしをするはめになって、現在その準備に四苦八苦しているのである。加えて、はなしのテーマが、M田ブログで何回か書いた鳥たちについてなので、ただの苦労話になってしまう可能性も否めない。
企画展 「蔵出し大隅半島」は、大地の成り立ち、植物、動物、昆虫、鳥など、13万点に及ぶ収蔵品の中から、選りすぐりの資料や剥製、標本を展示して11月24日まで開催されている。薩摩半島に比べ少しマイナー感のある大隅半島の大いなる魅力を是非堪能されてはいかがだろうか。
そしてきっと、博物館が動物園や水族館にはない魅力にあふれていることを再認識する機会になるはずである。実際、私もこの企画展の打合せに便乗して1階から3階までの常設展示を見学させていただいた。じっくりと一日中でも見ていたいと思うほどの資料の充実と見せ方の工夫に感動した。そして、この鹿児島という大地で生まれ育ったことを実感するのだった。少ないが写真でご紹介したい。
そして、展示を見学しているうちに学生時代に聞いていた歌を思い出した。その詩を書き留めておこうと思う。なつかしい元祖フォークソングであります。
かるかや かやつり草 わきたつ積乱雲 からすうり 月見草 風わたる草原
この土に 私のすべてがある この国に 私の今がある
いくたびか春をむかえ いくたびか夏をすごし
いくたびか秋をむかえ いくたびか冬をすごし
かもめどり くろ松 岩礁 海岸 かつおどり 海つばめ うねる水平線
この国の 歴史を知ってはいない この国の未来を知ってはいない
けれども 私はここに生まれた けれども私はここに育った
わたしがうたう うたではない あなたがうたううたでもない
わが山々が私のうた わが大地が私のうた
「わが大地のうた」詩:笠木透 曲:田口正和
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鹿児島県立博物館の上舞先生、中峯先生に取材のご協力をいただいた。
鹿児島県立博物館
開館時間 9:00~17:00
休館日 毎週月曜日(祝日にの場合は翌平日)・年末年始
入館料 本館 無料
今回の企画展 無料
恐竜・化石展示室 無料
プラネタリウム 年齢により有料
ホームページ 鹿児島県教育委員会/鹿児島県立博物館
(M田)
第21回 霧島市 「なつかしの肥薩線 大隅横川駅から植村駅近くの温泉」
鉄道雑誌の紀行文風にあるようなタイトルになってしまった。
お断りしておくが、私は乗り鉄、撮り鉄、呑み鉄など熱心な鉄道ファンではない。前回嘉例川駅を紹介したところ、読者のお一人から「横川駅もいいですよね。」とご推薦をいただいたので、かの駅と同時期に整備された鹿児島県最古のこの駅を訪れることにしたのだ。そして、遙か昔、高校時代に乗った肥薩線の風景を懐かしく思い出したのである。
あのころ、伊佐方面から霧島山へ登るには、国鉄山野線で栗野駅を経由し、肥薩線に乗り換えて霧島西口駅(現在のJR霧島温泉駅)で下りていた。乗換と言っても、われわれ乗客はそのまま椅子に座っていればよい、車両がスイッチバック方式で山野線から肥薩線のレールに乗り替わってくれるのだった。このとき、景色の流れが今まで見ていた方向とは逆向きになったのを憶えている。栗野駅を出ると、一駅目が大隅横川、すぐに植村駅、次が霧島西口駅だった。ここではじめて下車し、高千穂河原行きのバスに乗り換えて、登山口にたどり着いていた。その時代、山好きの面々はみな横長のキスリングザックを背負っていた、混雑した駅などでの歩き方から蟹族と呼ばれていたなぁ。
商店街に向かって建てられた横川駅舎は秋口の西陽を受けていた。ホームにはちょうど上りの列車が着いたばかりで、隼人、国分方面の学校に通っている高校生が下りてきたところだった。小さな無人駅を利用する人が思いのほか多いことに、わたしはすこし驚き、ほっとした心持ちになった。
明治36年に建てられた駅舎は、木造平屋建て、切り妻屋根、桟瓦葺き、梁間四間(7.2m)、桁行十間(18m)、で、嘉例川駅より梁間、桁行きは一回り大きいが、プラットフォームの上屋や建屋間取りはほとんど同じ規格で造られているようだ。
ただ、こちらのホームの柱には、先の大戦で機銃掃射の弾丸が貫通した痕が補修されずに残っている。山間の小さな駅に残されたこの傷痕は、通学のとき朝夕目にする高校生たちや駅を訪れる人びとに、平和の尊さを伝えてくれる空洞ではないかと思う。
9月に入って少しずつ夕暮れが早くなってきた。人も去って静かになった駅を後にして、横川温泉に向かおう。ひとつ南の植村駅のすぐ近く、県道50号線沿いの田んぼの中にぽつんと建っている2階建て。飾らない、なにも足さない、なにも引けない、三拍子そろった気になる温泉だ。
折しも、霧島山麓やまあいの田んぼは、刈り入れ前の黄金色に染まっていて、その中に彼岸花が赤いリボンのように咲いている。今、この温泉は一年で一番の風景に囲まれている。
まだまだ残暑の厳しい中での仕事を終え、汗を流しに来られた先輩諸氏が四、五人入っておられる浴室は、5坪ほどか、浴槽は熱湯と温湯に分かれていてそれぞれ三畳くらいずつの設えだ。なによりうれしいのは田んぼに面して開け放たれた窓である。そこから見渡せる田園は、開放感にあふれているし、黄金色に輝く水稲の穂波は、絶景とは別な安心・安堵を農耕民族の私たちに与えてくれる景色だ。
さて、刈り払い機の刃と燃費に関する話題で盛り上がっていた先輩たちから、横川温泉について話を聞くことができた。それによると、もともとこの温泉は国鉄の線路の向こう側にあったという。その後、現温泉の南の竹藪に五右衛門風呂が置かれ、地域の人たちに開放されていたそうだ。
「切り傷にはとてもよく効くし、夏場子供にあせもができるとここに連れてくるのが常だった。飲用にもよく、いまでも焼酎の割り水には最高。今日も汲んで持ち帰るところだ。」と常連客ならではの詳しい効能と利用法も教えてくれた。
しっかり温まった身体を田んぼに吹いていく風に当てると汗も少しずつ引いてくる。
ここから、市街地に引き返して、霧島市横川総合支所を見て帰路に着こう。
2014年1月に完成したこの庁舎は、弊社で製材、集成材製造、木材加工、構造体建て方を担当させていただいた。木材をふんだんに使用した室内は、ゆったりと落ち着ける空間が広がっている。町並みに合わせた色合いの外観は、霧島山麓のランドマークにふさわしい存在感をもって、訪れる人々を受け入れてくれる建物になっている。是非、立ち寄ってほしい木造庁舎のひとつである。
薩摩はこれから本格的な秋を迎えて、楽しみの多い時季となっていく。
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横川温泉:入浴料200円 7時から22時 休業日第1、3月曜日 駐車場30台
参考:文化庁 文化遺産オンライン
(M田)
第20回 霧島市 「嘉例川駅から天降川沿いの楽しみ」
お盆も過ぎたのに、南国鹿児島には秋風は吹かず、身体に応える酷暑が続いている。
こんなときは清流沿いの温泉で、涼やかな川風に吹かれながら露天風呂に浸かれば、体調もおおいに整い、明日への活力も湧くに違いなかろうと、日帰りの湯治に出かけることにした。
鹿児島空港から県道56号線を東に10分ほど下ると霧島市隼人町嘉例川の集落だ。県道から少し左に入ると空港の最寄駅、JR肥薩線嘉例川駅がある。せっかくなので、ここに立ち寄ってみよう。
記念碑には、この駅舎は明治36年(1903年)に建てられ、明治期の遺構として、国の登録有形文化財に指定されたと記されている。ホームの木造の軒は深くかけられ、120年余りにわたって、柱や梁、壁、窓やベンチなどを風雨から守ってきた歴史と風格を感じさせる。内部の事務室や操作設備もきれいに保存され、往時の姿が残っている。線路に沿って植えられた桜並木は、春には見事な風景を見せてくれることだろう。
嘉例川駅をあとにして、国道223号線との交差点を右折し、天降川に沿って下るとすぐに今回のメイン「日の出温泉・きのこの里」に到着する。空港から直接来れば15分足らずである。天降川の左岸に母屋が建ち、その下流側に30台はゆったり停められる広い駐車場が設けてある。霧島市観光協会によると泉源は1811年に発見されたというから200年以上の歴史を持つ温泉なのだ。
母屋は木造2階建てで、2階部に玄関、その奥がカフェになっている。天井は丸太を活かした吹き抜けだ。テーブルは窓際に置かれていて、天降川渓谷を見下ろしながら、飲み物を楽しめる。ここで、湯守の永松さんからこの温泉と建屋のお話を聞くことができた。
もともとは川沿いに湯舟があるだけの温泉だったようだ。その後、少し川上側に湯屋が建てられていたが、30年ほど前に今の母屋が新築され、古い湯屋は解体されたそうだ。
永松さんのご案内で、カフェの窓から別棟になっている湯屋を見ると、屋根に長い鳩小屋がしつらえてあり、湯気を逃すガラリになっている。浴室は自然換気が効いているとのことであった。
階段をおりて、湯屋に向かう。成分表を読むと泉質は炭酸水素塩泉。切り傷、やけどに効くとある。上流の塩浸温泉、ラムネ温泉と同じ泉質のようだ。早速浴室に向かう。一坪ほどの湯舟がふたつ、ぬる湯とあつ湯に分けてある。洗い場は広いがシャワー付きのガランは2箇。
窓の外の木製デッキには水風呂が置いてあり、蛇口から地下水が掛け流しになっている。デッキからの渓流の眺めは申しぶんない。川風が入ってくるので浴室内も思いのほか涼しい。あつ湯と水風呂を何度か往復すると、暑さでなえ気味だった気分もしゃんとなり、汗も引いてさっぱりとした心地になってきた。こういう快さを「整う」というのですなぁ。
湯あたりに注意するよう張り紙がしてあったので、ロケーションを堪能しつつ、長湯にならない程度で浴室を出た。
さて、日帰りとはいえ湯治に来たのだから、元気が出るような食べ物を買って帰り、自炊しなければ完結しない。昔からの湯治場で有名な妙見温泉街に下ってみた。ここに、自炊に使う食材を扱っている田代鮮魚店がある。特に川魚の品揃えが素晴らしいお店だ。
外の生けすには鯉、鮎が入っていて、これを見るだけでも気持ちが上がる。店内の冷蔵ケースには、魚の刺身や切り身、薩摩揚げなどがほどよい量のパックに容れて並んでいる。目移りしてしまうのも楽しみなのだが、元気の素と言えば鯉こくははずせないので、まずは鯉のあらを、刺身は鯉の洗いと、ここにしか置いてない鯉の皮を注文した。そして、この時期ならではと奮発して、鮎の背ごしを造ってもらった。
これだけ買いそろえれば、豪華な川魚料理に舌鼓が打てるだろう。包装にも氷を入れてあって持ち帰るにもありがたい。
我が家で湯治を完結、納涼することにしよう。
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日の出温泉・きのこの里:火曜日定休 営業時間10時から20時 大人300円
田代鮮魚店:火曜日定休 営業時間9時30分から17時
参考:霧島市観光協会HP
Wikipedia 他
(M田)
第19回 南大隅町 「真夏の果実と本土最南端 佐多岬」
2024年7月17日、南九州の梅雨明けが発表された。
濃い青の空に薄く絹雲が懸かり、山上にはぽこぽこと白い積乱雲が湧く。戸外は焼け付くような陽射しが照りつけている。この日、鹿児島に慌ただしく真夏がやってきた。
海水浴場の砂浜に、ソルティドッグの用意をして、皆でくり出してみるのも面白いかもしれない。が、今回は大隅半島南端にドライブすることにした。錦江湾沿いの佐多街道(国道269号)を南下する片道65kmのコースだ。
鹿屋市浜田交差点を左折し、国道269号を南へ向かう。錦江湾は、北に桜島、南に開聞岳を蒼くたたずませて穏やかに広がっている。南大隅町役場を過ぎると、左手には阿多カルデラの外縁を彷彿とさせるような鋭い岩山が直立している。むこう岸の指宿、山川の断崖、奇岩と対をなしているようにも感じられる。
2,151mの伊座敷トンネルを抜けると、旧佐多町の中心市街地に入る。港町伊座敷には、おいしいと評判の食堂がいくつかある。ここで、腹を満たしておこう。個人的には海鮮丼なら食事処「時海」(ときみ)、ラーメン、チャンポンといえば「ときわラーメン」がお勧めだ。どちらも県外からのお客も多いので早めに並んだほうがいいかもしれない。
旧役場前の坂を登り切ったところに、国指定史跡「佐多旧薬園」がある。ここは薩摩藩が設置した薬園で、南国由来の寒さに弱い薬草などの植物を育てていた。1687年に家臣の新納氏が藩主に献上した龍眼樹を植えたのが起こりと言われ、かつては龍眼山と称された。
現在でもこの園内では、龍眼(リュウガン)や茘枝(レイシ)など中国南部や東南アジア原産の果樹70本近くが、勢いよく育っている。そのなかで、濃い緑の葉先にたわわに熟した茘枝(レイシ)がひときわ目を引く。真っ赤に色付いた果実は、楊貴妃が華南から都長安まで運ばせたほどの美味しさだというが、園内採取禁止である。ここは目の保養。
レイシ(ライチ)は南大隅町観光交流物産館「なんたん市場」で特産品として陳列されているから、これを年に一度くらいふんぱつしてその味を楽しむのがよいだろう。ぷるぷるとした半透明な果肉は香りよく絶妙の甘さで、飽きることなくいただけるはずである。
旧薬園から南に11km走ると大泊集落だ。太平洋に面した小さな湾奧の港である。海浜公園として、キャンプ場も整備されている。ここに2021年3月に完成した多目的交流施設「みさきドーム」が建っている。
(弊社メールマガジン第93号 大泊海浜公園多目的交流施設「みさきドーム」 )
ちょっと立ち寄って中をのぞいてみた。
広々とした木造大空間を、天窓からの陽射しが明るく照らしている。中は海風もとおって涼しげだった。夏休みには、いろいろな交流事業が計画されていることだろう。
ここから佐多岬公園線という立派な町道を南に進むと、道ばたにはガジュマルや蘇鉄が自生していて、さながら亜熱帯の風景が続いている。5kmほどで観光案内所前の駐車場に到着。駐車している車は、苫小牧、大阪、長崎など県外ナンバーが多い。
熱中症対策をしっかりとして、佐多岬展望所まで片道約600mの遊歩道を歩くのだが、今は先の大雨被害で一部が通行できず、仮階段の迂回路が設置されており、登り下りの少しきついルートになっている。
汗だくになって、白亜の環境省展望所にたどり着くと、絶景が広がっていた。西の錦江湾から東の太平洋に潮が勢いよく流れているそのさきに、硫黄島、竹島、屋久島、種子島などの薩南諸島が見えている。硫黄島は高く噴煙をあげているようだ。
ここからさらに南に奄美群島が、その先には沖縄、華南、東南アジアが続いている。薬園の植物をはじめとした南方の珍品や富がこの岬をとおって、薩摩に運ばれてきたことに思いを馳せながら、夕暮れ近い遊歩道を引き返し、帰路に着いた。
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佐多旧薬園:年中無休 24時間開園 駐車場あり
佐多岬観光案内所:年中無休 9時から17時まで
佐多岬公園展望所:年中無休 8時から17時まで 展望台には時間外でもいける。
南大隅町観光交流物産館「なんたん市場」:年中無休 8時から18時まで
参考:佐多旧薬園説明板など
(M田)
第18回 出水市 「東雲の里」紫陽花に雨 蕎麦に七味唐辛子
今年、南九州は6月9日に梅雨入りした。それ以降地元肝付町でも、雨や曇りの天気が続き、ときには線状降雨帯が発生して激しい豪雨に襲われることもあり、土砂崩れなどの災害も発生している。
雨降りが続いているからだろうか、道ばたに植えられたあじさいは、いつもの年にくらべて、ゆたかに花をつけくれているようだ。あじさいの花々を見ていると、大雨への不安でざわつく気持ちが少し落ち着いてくるように私には思える。あの丸くふんわりとした形がそう感じさせるのかもしれないし、あるいは白に近い花群でさえどこかに柔らかい紫をふくんでいることがそういう気持ちにさせるのかもしれない。
そんな梅雨のさなか、友人から電話があった。出水の東雲の里・草の居への誘いであった。出水市から伊佐市へ向かう山ふところ、ご主人が自ら拓かれ、植樹し、手入れをされている庭園である。
ぶらり薩摩の国「出水市 梅雨のさなか 紫陽花とざる蕎麦 東雲の里草の居」
あじさい祭が開催されている時期なので二つ返事で誘いに乗り、同行することにした。
山間の庭園は、傘をさすのを迷うほどの静かな雨であった。こちらのあじさいも去年からすると花数が大層増えているようだった。遊歩道沿いも、山肌も小雨に濡れた花々でいっぱいである。
あじさいと雨は相性が合うのだろう。去年、青空のもとで見た風景も良かったけれども、そぼ降る雨を含んだ山の空気がわずかにかすんで、花々がよりしっとりと美しく見える。そういえば、渡哲也の歌にも「あじさいの雨」というのがあったなぁ。「じっと咲いてた花に降る 雨 雨 あじさいの雨はー」というフレーズが思い出されるのである。
ところで、東雲の里にはおいしいお蕎麦屋「草の居」があることは先のブログでご紹介した。冷たいざる蕎麦はもちろんさっぱりといただけるのだが、肌寒い梅雨時期には温かい蕎麦も食べたいものだ。
今回は、澄んだおつゆにたっぷりと浸った温蕎麦を注文してみた。つゆ一口目は、薩摩人好みの少し甘めの鰹、昆布だし、香りも良い。三角のお揚げがあつあつで旨い。それから添えられた七味唐辛子をかけていただくと、甘めだったお出汁はとたんに味が引き締まる。麺とおつゆを完食した頃合いを見て、蕎麦湯を持ってきてくれるから、快い満腹感が味わえる。
今回私を誘った友人の目的は、あじさい見物ばかりではなかった。こちらのそば屋「草の居」に自分の工房で製造している七味唐辛子を納めることがどうやらもう一つの目的であったようだ。借りた畑で韓国唐辛子を自ら栽培し、桜島大根や桜島小みかん、柚や胡麻などとブレンドして製造し、いくつかのそば屋さんに卸しているのである。
「草の居」にも定期的に訪問して、料理・蕎麦打ち担当の息子さんともコミュニケーションをしっかりとっているとみえ、長い付き合いのように楽しげに談笑していた。
また、彼は「鳳山七味」というブランド名で小売りもしている。店の名は「三十四商店」。
製造・営業は親父が、小瓶に貼ったラベルは娘さん、ネットショップのデザインは息子さんが担当しているという、まさに家内巻き込みの起業なのだ。
食べてみると辛みはまろやかでブレンドされた柑橘類のかおりが際立ってくる。もちろん蕎麦に合うし、ラーメンにかけても旨みがひきたつ。お勧めの七味唐辛子なのです。
蕎麦と唐辛子はこれまた切っても切れない仲のようだ。蕎麦屋さんに行くと必ず一味か七味の小瓶か竹筒がおいてある。客はそれを自分の好みの量をかけてから、おもむろに麺をすすり始め、おつゆの味変を楽しむのである。中島みゆきの「蕎麦屋」では、「どうでもいいけどとんがらし どうでもいいけどとんがらし」とリフレインされているほど深い関係性が描かれている。
どうやら、あじさいに降る雨は花の色っぽさを引き立てるのに、蕎麦にかける唐辛子はだしの味を引き締めるのになくてはならない存在にちがいないようだ。梅雨の楽しみを深めてくれた小旅行だった。
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東雲の里 入園時間 午前9時30分~午後4時30分
草の居 営業時間 そば 午前11時~無くなり次第終了
喫茶 午前11時~午後4時30分
定休日 木曜日・金曜日(祝日や紫陽花、紅葉時期は休み無く営業)
HP: https://www.nippon-no-ajisai.net/
三十四商店 https://34shouten.base.shop
(M田)
第17回 霧島市 花は霧島 ほどほどの山歩き
鹿児島の代表的な民謡に江戸初期から歌われているという「おはら節」がある。(※1)
出だしが、「花は霧島、煙草は国分、燃えて上がるはオハラハー桜島」で始まるあの歌である。4百年もの昔から薩摩人の自慢は、なによりも霧島山に咲く花々、本霧島と呼ばれる躑躅であったらしい。
また、昭和9年に日本で最初に「霧島国立公園」として、保全、公開されることになったいきさつも、その山容はもちろん、そこに咲く植物の豊かさと美しさあってのことだろう。
霧島山は最高峰韓国岳(1700m)、龍馬とお龍が新婚旅行で登ったことで知られる高千穂峰(1574m)が有名だ。しかし、いざ登山となると体力と時間の余裕がないとなかなかチャレンジするのがむずかしいのが実情だ。そこで、ほどほどの山歩きでそれなりの達成感を得ることができて、「花は霧島」をまわりに自慢できる三拍子そろったコースを歩いてみた。
§1. 大浪の池 まんさくを愉しむ 3月末ころ
まんさくとは花々のなかで一番最初に咲くから「まんず咲く」→「まんさく」だそうな。3月20日過ぎから黄色の毛糸を数本束ねたような可愛い花を咲かせる潅木で、高さは3メートルくらいだ。まんずこれを見に行こう。
霧島温泉郷から県道1号線をえびの高原に向かうと右側に登山口駐車場がある。30台以上停まれる広さだが、すぐに満杯になるので早めに着けるよう計画したほうがいい。登山口からは大樹の森をぬうように石畳の道が続いている。まだ肌寒い季節だが、ゆっくりと歩いても温かくなってくる。左右の樹木の変化や鳥の声を楽しみながら登れば、小一時間もかからずに、分岐点の展望所に着いてしまう。ここには避難小屋が新築整備されていて、長椅子が設えてあり、霧島山や大浪池の説明パネルも展示してある。また、携帯トイレが使える施設もあるから安心だ。
眼下には、お浪という娘の悲しい伝説を秘めた青い池がひろがっている。湖面をながめながら分岐から右手へ。木の階段はこのカルデラ湖の縁を一周する道に続く。ここから10分ほど歩くと、まんさくの群落が花を咲かせていた。黄色のきゃしゃな花々は青空の下、霧島の春を伝えてくれるのである。北に韓国岳、南に高千穂峰をながめながらお茶でも飲んで、来た道を下る。無理せず、ゆとりのある2時間すこしの花山歩きを楽しめるコースだ。
§2.中岳中腹歩道 深山霧島(みやまきりしま) 5月中旬ころ
深山霧島と名付けたのは、1909年、新婚旅行でこの山を訪れた牧野富太郎だった。そして、江戸末期、新婚旅行で高千穂峰に登った坂本龍馬も一面に咲くこの花の美しさを姉に書き送っている。霧島山に初夏を呼ぶ深山霧島の群落は、新婚旅行でなくても見に行けるのである。
霧島神宮から北東に4kmほどく九十九折りの道を行くと広い高千穂峰駐車場に着く。ほぼ9割の人は、天孫降臨伝説をもつ霊峰高千穂の鳥居をくぐって、峰への登山道を登っていくようだ。そちらには背を向けて、ビジタセンターの左、中岳登山口から入っていく。
実は2011年1月の新燃岳噴火後、中岳と新燃岳は入山禁止となっているのだが、中岳中腹までの遊歩道は開放されている。当時の噴石なども両脇に寄せられていて、石畳の道は歩きやすく整備されているのだ。
登山口から15分ほどで深山霧島の群落が現れ始める。遊歩道は中岳登山道とツツジコース、紅葉コースに分岐するが、中岳登山道を登って、ツツジコースを下りてくることにしよう。深山霧島は歩道沿いにも、その向こうにも一面と言っても差し支えないほどの群落を作って咲いている。振り向けば、高千穂峰が圧倒的な迫力でそびえる。登山道の入山禁止看板まで登ると、左から高隈山系、開聞岳、錦江湾に浮かぶ桜島、南さつま野間岳を一望する絶景が広がっていた。
歩道に沿ってあちこちに配置してある休憩用のテーブルでコーヒーでも飲みながら、何度も花と景色を楽しめるコースだ。往復2時間、疲れを感じることはない。
深山霧島の群落と高千穂峰
眼下に広がる薩摩の山々
どちらのコースもタイムスケジュールに余裕ができるのがいい。帰りに寄って一風呂浴びる温泉や、特産品売り場での買い物の楽しみが増えるのもうれしい。
(※1 おはら節のルーツには諸説あります。)
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参考:林 竜一郎著『おてっちき 鹿児島おはら節』国分進行堂
「平成23年霧島山(新燃岳)噴火 国土交通省の対応」国土交通省 九州地方整備局宮崎河川国道事務所
ウィキペディア
(M田)
第15回 姶良市加治木町 椋鳩十文学記念館と龍門司焼
加治木郷土館から仮屋町の通りをさらに西へ200mほど行くと、「椋鳩十文学記念館」と書かれた看板が立っている。案内に従って右に折れたさき、松の木に囲まれた記念館の入り口が見えてくる。
椋鳩十といえば、『大造じいさんとガン』。小学校の教科書に載っていた。主人公のガンの名前は「残雪」だった。どんな展開だったか。はっきり思い出せないなぁ。などと考えているうちに門口に着いてしまった。そこの木陰に、タイル張りの碑が置かれていた。
碑には、銅色の陶板に、椋鳩十が創作する物語の原点と加治木の住まいへの愛着をしたためた随筆「物語のふる里加治木」がとても丁寧な文字で焼成され、はめ込まれてあった。
私は、まず、この随筆を読んで、家の周りにやってくる動物や鳥の名前の多さにうれしくなった。蛇、ネズミ、スズメ、イタチ、カラス、モズ、ヒヨドリ、三光鳥、ムクドリ、レンジャク。短文の中に動物3,鳥7種が織り込んである。椋鳩十というペンネームが表すとおりに鳥の名前にもくわしかったのだろう。動物や鳥をモチーフにした物語が多いのも頷ける。
そして、さらに、この陶板が龍門司焼川原氏の手によって焼かれていることから、まちの歴史の深さと椋文学という加治木の双璧を同時に感じとれるような気がした。
記念館はこの奧に静かに建っている。作品原稿や書斎など内容も豊富で、子供も大人も楽しめる展示がうれしい。児童文学の館で、存分に物語の世界に浸ってみるものよろしいかと。
さて、門口の陶板に「龍門司焼」とあった。郷土館で受けた説明によると、
龍門司焼は1598年(慶長3年)島津義弘が朝鮮の役から帰還する際に連れて来られた陶工たちによって開かれた窯が始まりで、1607年(慶長12年)義弘が加治木館に移城したとき、陶工たちも帖佐から加治木に移っている。そうして、義弘の死後も加治木に留まった陶工の子孫が、1718年(享保3年)頃現存する龍門司古窯を創設した。古窯は、昭和30年4月、龍門司焼企業組合の新窯が築造されるまで、二百数十年間にわたり焼成に使われていたという。前述した陶板制作にあたった川原氏は、藩政時代からこの窯を代々主導してきたと伝えられる川原家の継嗣だろう。
椋文学を堪能したあと記念館を出て、企業組合の窯場に行ってみることにした。地図で見ると県道55号線を鹿児島空港に向け北に4km上ったシラス台地の中腹にある。
裏山の木々に囲まれた敷地の、手前に焼成の燃料となる大量の薪が丹念に積まれた焚き物小屋、正面の切り妻平屋建てには販売所と製陶作業場が配置されている。左の暖簾をくぐると、棚にはたくさんの焼き物が、器の機能やデザインごとに分けられて陳列されていた。釉薬の色も多彩で見飽きることはないが、黒釉に青流しは「黒薩摩」と呼ばれているこの窯のイチオシのようだ。
右奥の作業所では、土間の囲炉裏にくべられた太い焚木がゆっくりと炎をあげている。作業場の基本的な暖房はこの炎なのだろう。さらに奧、ろくろを据えた作業台と絵付けの机がいくつも並んでいた。来場者は職人さんたちの作業のようすや登り窯も見学できる。
横長の建屋の裏側、作業所から出入りがしやすい位置に登り窯が造られている。訪れたのがちょうど春の窯出し祭のあとだったので、空になった窯室にはもう熱は残ってはいなかったが、作業のなごりを見ることはできた。新築されてからおおよそ70年を経た窯は、古窯に比べればまだまだ若いのだろうが、木造の煤けた小屋組は美しく、石積みにも風格を感じさせるものがある。
加治木を散策して、あらためて以前から気になっていたこのまちの魅力や楽しみの原点に触れることができたように思う。やはり世の中知らないことばかりなんです。
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椋鳩十文学記念館:午前9時~午後5時 (月曜日・12月29日~翌1月3日休館)
龍門司焼企業組合窯場:年中無休・午前8時30分から午後5時30分(年末年始休業)
参考・引用:
加治木郷土誌 平成4年11月2日改訂版
加治木郷土館配付資料
姶良市ホームページ
龍門司焼企業組合 パンフレット
(M田)
第15回 姶良市加治木町 仮屋町通りから加治木郷土館・図書館へ
天ぷら蕎麦の大黒屋からひとつ南の交差点を西に折れると姶良市加治木町仮屋町にはいる。
通りの北に加治木高校、柁城(だじょう)小学校と並び、南には大樹に囲まれた家屋敷が残されている。薩摩藩では、主要な城下に麓(ふもと)と呼ばれる武家屋敷群が置かれていた。県内では出水市や知覧などの麓は古い景観を保存しながら、観光地化されたまちには大型バスで訪れる人も多くなっているようだ。
加治木の麓、仮屋町を通り沿いに西へと歩いてみよう。
まず、目に飛び込んでくるのは、学校の通りに面する石垣である。その組み方は豪快でしかも緻密だ。県内にあるほかの武家屋敷群の石垣が四角い切り出し石や、丸石で積まれているのに比べ、ひとつひとつ異なる形の切り石が一分の隙もなく組み積まれているのである。たしか鹿児島市鶴丸城跡の石垣もこんな感じだった。西南の役で放たれた無数の砲弾痕が残るあの石組みに似ている。どちらにも、なにか特別な格の高さを感じさせるものがあるなぁ。
興味は湧いてくるものの、その品格の高さを裏付ける理由はまだわからない。
このみごとな石垣を日々見ながら登下校する学生や子供たちは個々の大切さや、ワンチームとなることの力強さを知らず知らずのうちに身につけていくのではないだろうかなどと思いつつ、積み石の手触りを確かめながら歩くのであった。
柁城小学校の正門を過ぎるとすぐに「加治木郷土館」と表札のかかった石門が見えてくる。この町の歴史や風物の資料が展示されているだろう。左奧にはおもむきのある木造の図書館も隣接している。早速訪ねてみた。
郷土館に入ると最初に藩政時代の加治木を表すジオラマが置いてある。それをのぞき込んでいると学芸員のかたが来て、加治木の伝説や戦国時代から藩政時代の歴史的なできごとについて、展示資料を見ながら実に丁寧に説明をしてくださった。
いわく、「さっき通ってきた加治木高校、柁城小学校、図書館が置かれている地所を居城として選び、城としての性能を満たすための堀や城壁を整備したのち、御殿を建てたのは、関ヶ原の戦において、撤退に家康軍の中央突破を敢行した島津義弘なのです。その後彼は1607年11月に引っ越してから、1619年85歳で亡くなるまでの12年間、17代目島津家当主として、ここ加治木屋形に住み、執政したのです。」
なんと、義弘公は73歳で新居城の設計と工事を指揮したのだ。しかも遡ること7年前、66歳で合戦場を命からがら駆け抜けたことになる。恥ずかしながら始めて知りました。同い年であるわたしは、その超人的な身体能力と胆力に、驚き恐れ入るしかない。
義弘公亡き後、藩政時代を通して、この屋形は島津本家に次ぐ家格を持つ加治木島津家の居城となっていたとのこと。なるほど、ここの石垣と鹿児島のあの石垣がよく似ているのも腑に落ちた。
三百年以上続く加治木龍門司焼の歴史や資料を始め興味深い展示を堪能させてもらった。
せっかくなので、隣の図書館で郷土誌などをお借りして、教えてもらった歴史のページをめくってみたくなった。図書館と左手に続く研修室(旧郷土館陳列館)は、国の有形文化財に登録されている洋風の木造平屋建て、高い床下、漉きガラスの窓が年代を感じさせる。
母屋からせり出して設けられている玄関で靴をスリッパに履き替えて、加治木石で積まれた階段を数段上がると、穏やかな光量のなかに静かな空間が広がっている。板の間の床は温かさも心地よく、木製のテーブルでゆっくりと閲覧することができた。そして、授業を終えた小学生や高校生が学校の図書館とはひと味違った空気感を持つこの図書館を愉しんでいる雰囲気も伝わってくるような気がした。
郷土誌の伝説欄から、どうも気になっていた「柁城」小学校の訓読みとその由来を知ることができた。柁は「かじ」、城は「き」と読めるのだ。これを「だじょう」と音読みさせるのは、やはりこの町の成り立ちに根付いているようだ。
図書館を出て、もう少し西へと歩いてみよう。
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加治木郷土館:火~日曜日 午前9時~午後5時 (祝日・年末年始休館)
加治木図書館:火~日曜日 午前9時~午後5時 (祝日開館)
参考・引用:
・加治木郷土誌 平成4年11月2日改訂版
・加治木郷土館・加治木図書館ホームページ
・文化庁文化遺産オンライン
(M田)
第14回 姶良市加治木町 知足の極み 天ぷら蕎麦「大黒屋」
姶良市加治木は鹿児島空港の南に隣接する町である。高速道路やバイパスが整備されて景観は昔とは変わってきたのだろうが、町全体から深い歴史が伝わってくるような興味の尽きないまちだと思う。特に、加治木高校から柁城(だじょう)小学校に続く通りの石垣と家並みは鹿児島県内のほかの武家屋敷群とは一線を画す格調の高さを感じるものがある。
そのような加治木を見て廻りたい。
溝辺鹿児島空港から、県道55号線の坂を下り、高速道路の高架をくぐると加治木市街である。東には加治木工業高校の校舎が見えている。この往還の左手に大黒屋の暖簾がゆれている。油断をすると見落としてしまいそうなほど歩道からすこし奥まった位置に掛かっている暖簾である。車で訪れる人には店の裏手にある駐車場をしめす案内板がよい目印になるだろう。
掃除の行き届いた間口と店軒に掛けられた鶯色の暖簾に白抜きの文字が快い。これをくぐって店に入ると左手に開けひろげの厨房がある。
蕎麦を茹でる大釜が白い湯気をあげ、それが載っているかまどは、薪を燃料として使っていたころの煤あとがそのままのこっているし、色取りあざやかなタイル張りの流しも現役を誇っているようだ。そして、手前の水甕にはご主人が毎日仕込むつゆが容れられているようだ。かぶせられた木蓋は渋く色を重ね、この店の歴史を伝えてくれる。つゆは流しの右に置かれた小鍋で温められるのか。
なにも足さない、なにも引かない厨房。できれば、この厨房で流れていく調理作業をずっと見ていたい。
店は奥行きのある木造で、手前の土間席と奧に小あがりがしつらえられている。太い上がり框の土台には鹿児島で加治木石と呼ぶ象牙色の火砕流凝灰岩が使われているようである。
小あがりに上がるとすぐ右の柱は囲炉裏で黒く燻されている。そして、その胴には、ほぞ穴がいくつか開いているが、どの穴も煤で燻された黒だ。開業した頃から天井を支えてきたのだろう。
ご主人にそこら辺のところをうかがってみた。
開業された先代(ご主人の父上)は昭和19年に加治木に大阪からやってきた。この店は、大きな造り酒屋の北はずれにあった麹藏を「そば屋をやる腕を活かす店として使えばよろしい。」と蔵主がゆずってくれた棟だという。それを先代が自分の手で改修して店に模様替えした。開業、昭和29年。ご主人は、その頃南側に続く酒蔵の広い建物を覚えているそうだ。ただ、今残っているのは、この店のところだけになってしまった。おそらくこの棟の構造体は戦前のものだろう。と。
土間には厨房を囲むようにテーブルが、小あがりには厚板の食台がおかれている。くつろぎたい、雰囲気を楽しみたいという向きは小あがりの厚板食台を好まれるようだ。この町に住んでいた作家の椋鳩十と島尾 敏雄も一番奥の食台を定位置として良く話し込んでいたし、海音寺潮五郎もよく来ていたらしいよとサラッと話してくれたのはご主人の奧様。
さて、品書きはと言うと、天ぷらうどん900円、天ぷら蕎麦1000円、めし200円のみ。知足の極みですなぁ。やはりここは、暖簾の白抜き文字通り天ぷら蕎麦を注文。
ふつうの蕎麦どんぶりより広くてやや浅いどんぶりに、透き通ったつゆにゆるりと浸かった太めの田舎蕎麦、その上には野菜が主役の大きなかき揚げと色鮮やかなネギが盛られて運ばれてきた。どんぶりの横には、小皿に真っ白な大根の甘酢漬けが添えられている。
つゆはすっきりとしているが薩摩人好みにほんの少し甘めに仕立ててられているようだ。蕎麦は太いがもっさりとはしていない歯触りのよい麺。そして、かき揚げにはたっぷりと混ぜてある黒胡麻が香ばしく、しゃりしゃりとした衣の軽い食感を拡げてくれる。箸休めに冷たい大根をいただけば言うことはございません。たちまち完食となる。
つゆまで飲みおえた平たいどんぶりには、大黒屋の屋号が釉薬でいれてある。聞けば、加治木町内の知り合いの窯で焼成してもらっている、「新納」と言う姓の窯元ですよ。とご主人。
見ると厨房の店側の壁に、ゴンドラを主体に配した四つ切りの古いモノクローム写真が貼られ、台紙に「ベニスにて 撮影 新納先生」とメモ書きがある。先の窯元との繋がりを訪ねると、窯元のお父さんです。という。県立歴史博物館黎明館の初代館長をされた新納教義先生です。と付け加えてくれた。
食後のお茶と漬け物を愉しんでいる間にも、お客さんが次々と入ってくる。まだまだお話を聞いていたいところだが、席を空けて勘定を済ます。また、今度。
店の外に出ると春先の暖かい日和だった。腹ごなしもかねてもう少しこのまちを歩いてみようと思う。
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大黒屋:定休日 日曜・祝日
営業時間 9時から16時
参考・引用:姶良市デジタルミュージアム・Wikipedia
(M田)
第13回 曽於市財部 県境の駅構内にある食堂「麺処桂庵」
曽於市は大隅半島の北に位置している。北端の曽於市財部町は宮崎県都城市と県境で接する。というより、薩摩人としては、都城盆地の西側にある財部のまちといったほうがぴんと来る。もともと都城市は島津氏発祥の地といわれており、藩政時代の島津三州、いわゆる薩摩、大隅、日向のうち日向の要衝であった。
さらに現在の都城市庁舎は都城島津邸に近接している。もちろん住民の話し言葉は薩摩語である。いまでも、都城市や小林市、えびの市を語るとき、その地と一つ国であるという意識が、私も含め薩摩人の心の底にはあるように思えてならない。
したがって、古来国境を挟んで対峙し、往来を厳しく制限していた熊本との県境にくらべると、行政の境を除けば、「けんざかい」の意味はあってないほどに薄いように感じている。
まして、曽於市本庁舎より都城市庁舎のほうがずっと近いのだから、経済圏としてもこちらに属しているといっても過言ではないだろう。
そして、JR日豊本線も通っていて、都城・宮崎方面行きと鹿児島・隼人方面行きのホームが対面で設置されている。
構内の時刻表をみると下り上りとも一日10本に届かないようだ。乗客数は2015年のデータで一日平均75人だから、いまではさらに減っているのではないだろうか。
駅舎は木造で、向かって右側に多目的ホール「曽於市やまびこ館」として食堂が併設されている。それが麺処桂庵なのです。
どのメニューも食べきれないくらいの量が出てくるという、噂のめし屋だ。なるほど、ここで昼食を終えて、駐車場でたばこなど燻らせながら、談笑している男たちはみな屈強な体格の持ち主ばかりだ。ぺろりとたいらげたに違いない。満足、満足と顔に出ている。
入り口は外にはなく、駅舎の中にいったん入るシステムだ。よくあるサッシ戸を引くと2~4人掛けのテーブル席が6つ、カウンター席が8箇ほど並んでいる。天井も吹き抜けでゆったりとした造りだ。
早速カウンターの中ほどに腰を据え、メニュー表に目を通しながら、隣の席にすわる40代ダンディの食べている料理を横目でチェック。山のように盛られた唐揚げのふもとをスプーンですくって口に運んでいる、大きな皿のよこのどんぶりは蕎麦かうどんだ。こいつを一人で食べきるとはいい男っぷりである。メニュー表下から2段目の唐揚げカレーセットに違いない。
私にこれを完食せよとは無理な注文というものだ。いいかげん分別のある年だし控えめにいこう。海老てんぷら定食ご飯少なめで注文してみた。
なんと大皿にはエビ天と野菜かき揚げが8つずつのっている。ごはんとそばのどんぶりは通常サイズだ。これで1500円は安い。大盤振る舞いに深く感謝しつつ、箸を進める。
天ぷらは揚げ具合もよく、衣もさくっとして良い歯触りだ。最初は塩で、それから天つゆ、おわりに蕎麦の出汁と味を変えながらチャレンジしてはみたが、残念ながらメインの天ぷらは半分食べるのがやっとだった。つくづく寄る年波を感じた次第です。でも大丈夫、プラパックが1箇10円で用意されている。
「今夜は、卵でとじて天丼だなぁ。」とためいきをつきながら、鹿児島行きのホームに出て風にあたるのだった。
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噂のもと:Aさん、Moさん
麺処桂庵:定休水曜日
参考・引用:JR九州HP・Wikipedia
(M田)
第12回 指宿市 温泉郷の大衆浴場(3) 浜児ヶ水区営温泉「浜ん湯」
砂蒸しで有名な指宿温泉郷で、地元の人々は、どんな温泉ライフを満喫しているのかが気になって、大衆浴場を訪ねている。
「弥次が湯温泉」と「区営鰻温泉」、どちらもそれぞれの地域に根ざした味わい深さがあった。
鰻温泉からさらに6㎞ほど南に下ったあたりに、岡児ヶ水と浜児ヶ水という地域がある。難読、「おかちょがみず」と「はまちょがみず」と読むそうだ。大字名だから郵便番号もそれぞれについている。
岡児ヶ水は、18世紀のはじめ、前田利右衛門が琉球から持ち込んだ甘藷の種子芋を植え付けたところだと伝えられ、300年前に立てられたという利右衛門の墓石もこの集落の墓地に現存している。
薩摩の国にあって、甘藷の栽培がいまなお盛んで、うまい芋焼酎をいただけるのは利右衛門さんの功績があったればこそなのだ。日頃の感謝をこめて瞑目合掌させてもらいました。なお、ここは鹿児島県内では西瓜の名産地としても古くから有名で、夏場「徳光スイカ」のブランド名で店先に並びはじめるとつい買ってしまうほどおいしさは極上だ。
さて、岡児ヶ水の東隣が浜児ヶ水だ。地区に入ると「浜ん湯」への小さな案内板が何ヶ所か民家のブロック塀に貼り付けてある。これを見逃さないように狭い集落道を進んでいくと温泉まで行き着く。駐車場は温泉の手前と奧に20台ほどのスペースが設けてある。
温泉棟は集落奧、海端の崖の上に防風林に包まれるように建っていた。そして、入り口の軒より高い蘇鉄が、南国の暖かさと、「浜ん湯」の歴史を感じさせてくれる。
温泉に入る前に、建屋を右手に見ながら、その先に続いている細道を200mほど下りてみた。ゆったりと弧を描く海岸線に東シナ海の穏やかな波が寄せ、すこし冷たい風も吹いている。
この浜には昔から温泉が湧いていて、昭和初期には露天風呂が地区の人々によって造られ、他所からの客も多く賑わったというが、なるほど、このこころ静まる風景に、当時のひとたちも惹きつけられたことだろう。昭和26年に、屋内に浴室を備えた棟屋が建てられ、その後今から40年ほど前に、そのままの形で浜から上がった現在の場所に移築されたそうだ。
「浜ん湯」は、この浜で湧いている源泉を崖の上の貯湯槽に汲み上げて、そこから浴槽に掛け流している。手前に見える四角い木箱がその泉源ではないかと思う。
「干潮時に広がった砂浜から湧きでる湯気が見たいものだ。」などと考えながら、とぼとぼと坂をあがる。温泉の入り口には、営業時間は9月から5月までは15時から19時半まで、その右に入浴料金は現金130円、回数券(20枚)2,000円を案内する紙が張ってある。これは地区外の人への案内で、区民の負担は現金70円だそうだ。区民回数券は推して知るべし。区営温泉は本物の区民ファーストで運営されているが、一見の私たちにもうれしいお湯である。
浴室は腰壁までタイル張りで、そこから上は木造だ。浴槽は2つあって、向こうがぬる湯、手前があつ湯に設定され、塩泉質の透明なお湯が掛け流しされている。洗い場は6ヶ所だが、使う人はまれなようだ。
湯舟から見上げると、浜の建物として、海から襲いかかる強風に耐えるための太い木材と強固な構造が、そして、40年前の移築の痕跡が現しになっている。頬杖や火打ちの入れ方、梁桁の継ぎの巧みさはもちろん、空いたままのほぞ穴まで、のぼせるまで見ていたくなる。
このような地区で運営されている浴場では、どなたも、きちんと「こんにちは」と挨拶の言葉をかけて入って来られる。会話もそこから始まり、つながっていく。地区外の一見の私たちにも同様である。今回ここでは、建屋の話を詳しく聞くことができた。
区営温泉を誇りに思う浜児ヶ水の人々の温かさと歴史が伝わる、清楚な良い温泉である。
賑やかな温泉郷には、さらに深く、つながりの温泉ライフが営まれているのだ。
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浜児ヶ水区営温泉「浜ん湯」
入湯料 小学生以上130円、小学生未満無料
営業時間 9月~5月 15:00~19:30 / 6月~8月 15:30~20:00
休み 毎月第2及び第4木曜日
参考・引用
公益社団法人 指宿市観光協会HP
いぶすき観光ネット
南日本新聞 2021年11月7日号 12ページ(「浜ん湯」の管理人の方に提供いただきました。)
(M田)
第11回 鹿屋市祓川 山寺鉱泉(標高74m)から高隈山 御岳(標高1,182m)を目指す
10月を迎えたとたん、大隅半島は急に秋めいてきた。肝付町から眺める高隈山も、澄んだ空気の中コントラストの効いた引き締まった山容を見せている。
そういえば夏のはじめに、山寺鉱泉湯守の谷本さんから「うちの駐車場に車を置いて、瀬戸山神社から高隈に登ってみれば」と勧められたのだった。タカクマホトトギスの花季は過ぎてしまったけれど、山頂を目指すのには申し分ない季節になってきた。指宿温泉郷シリーズはひとつお休みにして、谷本さんのお勧めに乗ってみようと思う。
朝7時。山寺鉱泉から集落にはいると、あたりは金木犀の香りに包まれている。二人並んで歩くのにちょうどよいくらいの通りをぬけて、瀬戸山神社へ向かってまっすぐにのびる寺街道にでた。朱の鳥居と高隈山の上には、少し雲はあるものの山歩きには申し分ない青空がひろがっている。
鳥居ごしに登山の無事を祈願して、左へ1km近く、よく手入れされた杉林のなか、大きな登山案内板が建っていた。足下にはアルファベット表記で左右ふたつのルートが示されている。「IREIHI」は、かつてこの山に墜落した自衛隊機を忍ぶのための慰霊碑への道筋を、「CLASSIC」は、昔から使われている登山道を示しているのだろう。ここは右のルートへ。
ところが、このクラシックルートは歩きやすいふつうの登山道ではなかった。木の幹や枝に巻かれたピンクのテープを頼りに、倒木を乗り越え、沢の浮き石を踏み渡る、キング・オブ・オフロードだった。頂上までの体力を温存するためには休み休み登るしかない。
息も切れ切れになった標高400mあたりで緩やかな小尾根にでた。スダジイなどの巨木も混じる照葉樹林の中、敷積もった落ち葉のうえを歩くのはなんとも心地よい。息も整い、ふくらはぎも緩んでくる。道すがらヤッコソウやツチトリモチも枯れ葉の間から可愛い姿をあらわしてくれた。特にヤッコソウは「頑張れーっ」と両手を振ってくれているようだ。これはこれは。この森からのご褒美ですな。ありがとう!元気をもらったよ。
出発から80分を過ぎたころ、慰霊碑コースとの合流点の看板が見えてきた(標高約460m)。ここから登山道は急勾配を維持しながら、桧の植栽林を抜けたあと、雑木二次林のなかを一気に標高を上げていく。足もとはしっかりしているが、振り向いて景色を見る余裕など与えてはくれない。ひたすら無心に足を進めるしかない。
合流点から60分ほど、暗い林のさきに、明るい光が射し込んできた。山腹を横切る峰越林道までなんとかたどり着けたところだ。安堵しながら平場に出ると林道沿いに5合目を示す立派な看板が立っている(標高約680m)。
しかし、まだ半分しか登ってないじゃないか。残りの体力で頂上まで行けるだろうか。案内板の先に延びる登山道を見上げながら、気持ちは下りに傾いてしまう。
イヤイヤイヤイヤ、時間だけはたっぷりあるぞ。
ここで、大休止。樹々の間からは、眼下に鹿屋市から志布志湾までの肝属平野を見渡せた。爽快な眺めだ。コーヒーをたて、おやつをゆっくりといただきながら、しぼみはじめた登頂達成への気力を奮い起こすのだった。
5合目をあとにして、再び登山道に取り付く。山肌をおおう樹木は低くなり明るい小径に変わってきた。そして、登山道の傾斜も5合目までを遙かにしのぐ厳しさになっている。木の根や設置されたロープを頼りによじ登るために、ストックは使えなくなった。
急峻な山径を這うように登っていると、その昔ここを飛ぶように歩いた修行僧の高笑いが聞こえてくるようだ。「5合目までは人の道、これが修験の道よ!ふわっふぁっふぁ」と。思わず「懺悔、懺悔、六根清浄」と繰り返し大声で唱えてはみるけれど、登り道の厳しさは増すばかりで、しまいには小声も出なくなってしまう。しかし、登るしかない状況は続くのであった。
取り付くこと70分ほど。青息吐息で見晴らしのよい岩場にでる(標高約950m)。切り立つ岩壁からは志布志市、そのさきの都井の岬あたりまでの景観がひろがっていた。標高差を実感として捉えることができる風景だ。
岩壁から更に40分ほど登ると鳴之尾牧場からの登山道と出合う。ここが9合目。このあたりから橅(ブナ)が見え始める。風が強いためか樹高は低く、幹も太くはない。自生の南限といわれている。
踏ん張って20分で御岳頂上にたどり着いた。12時45分。登山口から5時間の登りがやっと終わった。(標高1,182m)
頂上からのパノラマは360度。北から反時計回りに桜島、鹿児島市内、開聞岳、南大隅の山々、霧島までぐるりと見回すことができる。圧巻の絶景であった。恥ずかしながら、しばし登頂の実感を味わうのであります。
山頂の昼食は格別だったことはいうまでもない。
ゆっくり休憩して帰途についた。滑らないよう気を抜けない小径が続く。急な下りに膝が笑い出すが、こちらは登り同様緊張して歩を進めるしかない。
約3時間ひたすら下って、登山口の看板に到着できた。
山寺鉱泉の谷本さんに登頂したことを報告したところ、自分のことのように喜んでいただいた。至福のお風呂で標高差約1,100m、山行8時間の疲れをじっくりと癒す。登り甲斐のある地元の山が、まさに身近になった一日だった。
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参考:山寺鉱泉湯守 谷本久雄さん製作「高隈山・御岳登山ルート」
(M田)
第10回 指宿市 温泉郷の大衆浴場(2) 指宿温泉郷 「区営鰻温泉」
指宿温泉郷で気になる大衆浴場を訪ねている。
指宿市は、2006年に旧指宿市、山川町、開聞町の三市町が合併して新設された。前回の弥次ヶ湯温泉の所在は旧指宿市街である。そこから車で20分ほど山手に行くと池田湖と鰻池という大小二つのカルデラ湖が並んでいる。池田湖は九州一の大きさで、昔「ネッシー」ならぬ「イッシー」存在の噂が流れたこともある観光スポット。一方、鰻池は直径約1.3km周囲を緑がふちどるこぢんまりとした火口湖である。かつては、水質もよく鰻の養殖も行われていたという。
鰻池の北東、鰻地区の奥まったあたりに「区営鰻温泉」が、これまたこぢんまりと建っている。ここは旧山川町に位置し、指宿市街からは10km近く距離を置いた場所だ。温泉郷にはいるのかどうか迷ってしまうほど、まったく静かな大衆浴場である。
西郷隆盛も来ていたと伝えられており、湯屋の壁には「西郷どんゆかりの湯」と大きく書かれている。西郷隆盛は薩摩の温泉郷のあちこちに訪れているけれど、どうやら、うさぎ狩りができる山と、切り傷や筋肉痛に効能のある温泉がそろったところが特にお気に入りだったように思われる。
この泉源は、指宿地区では唯一の単純硫黄泉で、そちらの効能もそろっている。ただ、脱衣場の壁に貼られている史料を読むと、明治7年正月、この温泉に逗留していた西郷のもとを、佐賀の乱で敗れた江藤新平が訪れ、初日談笑し翌日は何か懇願したが、ついには声を荒げて叱りつけるように帰って行ったという記録が残っており、しかもそのことを、西郷が宿主に対して念入りに口止めしたことが記されている。
西南の役を前にした時期のエピソードとして、なんとも興味深い。
さて、湯屋に入ると軽い硫黄の香りがする。タイル張りの浴室は清潔で、洗い場が3つほど並んでおり、楕円形の浴槽には透明度の高い澄んだお湯が満たされている。少し熱めだがゆったりと入ることができる肌あたりのよい温泉だ。
お湯に浸かって、見上げると天井は木造で架けられている。硫黄を含んだ蒸気に対応するための配慮がなされているのだろう。
ゆっくりと硫黄泉を堪能して外に出ると、湯上がりに湖面から吹く風が心地よい。
そして、駐車場の横に、鰻温泉の特徴を体験できる工夫が設けてある。この地区では昔から、家々の庭先に「スメ」という、噴き上がる蒸気を使って野菜や魚などの食材を蒸して料理するかまどが作り付けられている。その「スメ」で作る蒸し卵を入浴者に提供しているのだ。生卵をいくつか購入して係のひとに託し、7分も待てば美味しい温泉卵ができあがる。塩も付けてくれるので、すぐさま熱々をほおばれる寸法である。(やけどに注意!)
静かな湖畔に地元の人々が建てた清楚な湯屋で、その土地ならではの「温泉」を楽しめること請け合いである。
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区営鰻温泉 大人(中学生以上)200円、小学生100円、乳幼児50円
営業時間 8:00~20:00(受付終了19:30)
休み 毎月第1月曜日
卵 1個60円(2個以上で「スメ」サービス)
参考・引用
公益社団法人 指宿市観光協会HP
いぶすき観光ネット
ウィキペディア(Wikipedia)
(M田)
第9回 指宿市 温泉郷の大衆浴場(1) 指宿温泉郷 「弥次ヶ湯温泉」
新型コロナ感染症が5類に移行されてから、国内の観光地や温泉地をめぐる番組が増えてきた。そのなかでも砂蒸し温泉をメインにした指宿の紹介が多いように感じる。
指宿は、霧島とならぶ鹿児島県内有数の温泉郷である。指宿市観光課のデータでは、令和元年は、入込観光客数は年間370万人を超えていた。市の人口3万7千人のおよそ100倍にあたる人々が国内外からここを訪れていたのは、数多い老舗の温泉旅館やホテル、絶景の海岸線がひろがる露天風呂、そして、世界で唯一ここでしか体験できないといわれる天然の砂蒸し温泉など観光資源の豊かさからだろう。コロナ禍の影響で、令和3年、観光客は年間220万人まで減少してしまったが、温泉郷としての魅力は衰えてはいないはずだ。ウィズコロナとなったこれから、観光客数も回復し街に以前の活気がもどってくることを願いたい。
ところで、指宿市という一大湯の町に暮らしている地元の方々は、普段どんな温泉ライフを過ごしているのか気になるところだ。毎日砂風呂に埋められるわけにもいくまい。手軽で身近な、入り心地のよいお湯があるに違いない。インターネットで「指宿 大衆浴場」と検索してみると17の浴場が掲載されているページが現れる『いぶすき観光ネット』。
入浴料はだいたい300円から350円、なかには150円で入れる浴場もある。この価格なら毎日だって銭湯感覚で利用できる手軽さはある。けれども、湯屋のおもむき深さやお湯の入り心地などについては、やはり実際に行ってみないことには、パソコン画面からは伝わっては来ない。ということでまず、ネットに掲載されている大衆浴場、弥次ヶ湯温泉を訪ねてみた。
鹿児島市内から南に向かって国道225号線を経て国道226号線を南下。車は左手に波静かな錦江湾を、さらに対岸には桜島、大隅半島の山並みを観望しながら走る。国道のすぐ右横を並走しているのはJR指宿枕崎線だ。ディーゼルカーに揺られながら、缶ビールを置いた車窓から見る南国の景色もきっといいものだろう。
指宿市内に入るとすぐに「道の駅いぶすき」が見えてくる。ここで販売されているソフトクリームは、オクラが練り込まれているクリームの横に、寄り添うように塩ゆでオクラが乗っていて、けなげで健康的においしい。
市街地に入ると、田口田交差点から左折して「なのはな通り」に入る。JR指宿枕崎線を越えると正面に海に向かって平地がひろがっている。この道を直進すれば、老舗温泉やホテル、砂蒸し温泉などが建ち並ぶ指宿温泉街に通じているのだが、すぐに左折して市役所方向にむかう。
市役所を過ぎると300mほどで左手に「♨創業明治25年弥次が湯温泉」と書かれた茶色の看板が見える。矢印にしたがって小径にはいるとすぐに駐車場、その奧に2棟の木造の湯屋が建っている。温泉街からはほどよく離れていて、田んぼに面した静かな立地である。
参考にした三国名勝図会に「水田の間に湧出す、(中略)、往昔 弥次といふ者掘出せり。故に其の名を得たり。」とあることからも、いま目にしている風景は昔のままなのだろう。
二つの建屋はどちらも明治からの百年を経たおもむきを醸し出している。右の湯屋の妻面に「弥次ヶ湯温泉」、2階建ての方の軒下には「やじがゆ温泉大黒湯」と表札が掛かっている。
受付で初めて来たことを告げると、ふたつの湯の違いと使い方を教えてくれた。
・弥次ヶ湯は源泉のまま薄めてないし、ちょっと熱いが決して薄めないこと。
・大黒湯は泉源が別で高温のため水で薄めて少し入りやすい温度にしてあること。
・入り口は別々だけれど、中でふたつがつながっているので交互に入浴できること。
・大黒湯2階の風情の残る休憩室にも上がって休めること。
ここはやはり源泉100%の弥次ヶ湯温泉の方から入ってみよう。
脱衣場から天然竹の壁で囲われた浴室までは、蹴上げ15cmほどの階段を4、5段おりる。石造りで一坪ほどの広さの湯舟に、素晴らしく透明な温泉をたたえており、松か桧の底板が敷かれてある。掛け流しの吐出し口も洗い場の蛇口もない。Simple is Best!
お湯は熱めだが、少し気張って入り慣れてしまえば、あとはどうということはない。落ち着ける入り心地を堪能できる。浴場を移動するにはいったん脱衣場に上がって、向こう側の大黒湯の浴室にまた下りる。
造りは弥次ヶ湯とほぼ同じだが、石張りの壁の洗い場には鏡と水の蛇口、階段には手摺りも設置されている。お湯は淡い濁りがあり、説明通り幾分低い温度に薄めてある。老若問わずゆっくりのんびり入るのに申し分ない浴室がしつらえてある。
どちらの泉質も、参考にした資料には「塩化土類含有弱食塩泉」と記載されている。塩味のついたミネラル温泉ということだろうか。なめてみると塩辛く感じ、肌触りはいたって滑らかだ。さらにその本には、指宿温泉のほとんど泉源の成因は、海水と池田湖・鰻池などの湖水とが混合し、それが地下にあるマグマの熱によってあたためられて湧出していると書かれている。火山活動と海のなせる技なのだろう。
資料の温泉利用状況(昭和58年3月現在)に、弥次ヶ湯地区の顕著な特徴が見られた。それは、園芸への熱利用だ。ここでは、全地区で199箇所あるうちの82箇所の農場で植物栽培の加温に使われているという。すでに大正時代には温泉熱を新たな農業に活かそうという試験場が設立され、そこで様々な植物の栽培実験が実施されていたと記されている。その成果が現在まで引き継がれているのだ。
湯屋の窓ごしに、今まで見たことのない美しいピンクの花が青空に映えて咲いていた。この花が弥次ヶ湯温泉の歴史を物語っているようだ。
次に訪れるときには、ここの自炊棟に宿をとり、2階の休憩室でゆったりとひろがる田んぼを眺めてみようと思っている。
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弥次が湯温泉 定休日木曜日 大人350円
参考・引用:
公益社団法人 指宿市観光協会HP
いぶすき観光ネット
三国名勝図会
指宿市史
鹿大農場研報 指宿の温泉熱利用農業の振興 石畑清武(1999年10月10日受理)
(M田)
第8回 鹿屋市 落花生と双子の木橋
台風6号が迷走しながら通過しているうちに、暦の上では秋になってしまった。この時期、肝属鹿屋の笠之原台地の畑では落花生の収穫の真っ最中である。水が乏しく、台風の風が激しく吹きさらすシラス台地の畑作は、草丈が低く土の中に収穫の対象が埋もれているサツマイモと落花生が風害リスクの少ない作物として生産されてきた歴史があるようだ。
酒造用、デンプン用の甘藷を主体とすれば、落花生の作付けはさほど多くはなく、その収穫はほとんど手作業でおこなわれている。夏のはじめ頃から、広い畑に腰をかがめて、株を引き抜いては子房柄(しぼうへい)に付いているたくさんの鞘(さや)をひとつひとつ根気よくちぎっている姿をあちこちで目にするようになる。
収穫された鞘は、生落花生として、スーパーや直売所にならんでいる。今は1kgで1,000円くらいが相場のようだ。新鮮なものを塩ゆでにして熱いままどんぶりに盛り、冷えたビールといただくのが、最速、大満足の調理法だ。
だが、生落花生には時間と手間のかかる至高の調理法がある。それは薩摩語で「だっきしょ豆腐」(ピーナツ豆腐)と呼ばれている。生落花生の絞り汁をくず粉もしくは甘藷デンプンと混ぜて煮固めた純白のゼリーで、つるりのあとねっとりとした食感を味わえる一品だ。
家庭の味として作られていたが、夏の暑い時期に火にかけた鍋をかき回し続ける手間が災いしてか、家でつくられることはまれのようだ。ちかごろではスーパーなどで既製品を買ってきて味わうのがふつうになってきた。
そのような中、大隅半島で最高の「だっきしょ豆腐」(※1)を提供してくれるのは、国道269号線を北田交差点から200mほど西に歩いたところにある「小松食堂」だろう。ここは、チャンポンで有名な大衆食堂だが、すぐ隣で「和魂洋菜」という惣菜店もやっているのだ。この店のだっきしょ豆腐は鹿屋産の落花生で作られていて、透き通るような白さととろりとした食感が特徴の逸品である。口に入れたとたんにふわっと広がる落花生の香りもたまらない魅力だ。お値段も手頃なのがうれしい。
さて、小松食堂から北田交差点にもどろう。ここは東西に国道269号線、北に向かう国道504号線が交る要衝だ。東北角にリナシティかのやという複合施設が建っている。リナシティの東には鹿屋川が流れており、施設建屋と川向こうの駐車場をつなぐ木橋が2本架かっている。どちらも曲線橋で、幅員5.2m、橋長は上流側が21.5m、下流側が23mと、見た目もサイズも双子のような人道橋である。両方の親柱とも「ふれあいばし」「平成18年3月」の橋名板が埋め込まれている。
対岸から広角で施設全体を撮影してみた。リナシティの前庭で、両岸の野外ステージが二つの橋によってつながり、円形の回廊ができあがっているのがよくわかる。この双子の曲線橋は、施設全体のデザインの中で、人と人、人と水とがふれあうためになくてはならないアイテムなのではなかろうか。
湾曲集成材を含む材料と架橋を弊社で納めさせていただいた。弊社が納材・施工を担当した木橋の中でも代表的な一つだと思う。川面近くの遊歩道から全体を見上げると橋の構造もよくわかることだろう。近くにお越しの際は是非ご覧いただきたい。
(※1)M田の個人的感想です。
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小松食堂・惣菜屋 和魂洋菜
鹿屋市北田町9-5
定休日 不定休
営業時間 10時~14時
参考:サカタのタネ園芸通信 ラッカセイの育て方・栽培方法
木橋資料館 福岡大学工学部社会デザイン工学科
(M田)
第7回 鹿屋市 夏空の高隈山と山寺鉱泉
大隅半島の中央部、錦江湾よりに位置する高隈(たかくま)山地。最高峰大箆柄岳(おおのがらたけ 標高1,236m)を含め、標高1,000m超の7峰が連座する山塊は、四季を通して、あるいは眺める者の位置によって、それぞれに違う姿を見せてくれる。
また、古くから修験道の霊山として知られ、それぞれの山頂には、祠が残っていて、修験の荒行が行われていた昔をしのばせる。
わたしも友人や家人と、あるいは単独で登ってみたが、どの登山道も整備されてはいるものの易々とはいかない厳しさが印象的だった。しかし、山頂からの眺望はすばらしく、垂水側の大箆柄岳からは桜島の噴火口を眼下に見おろし、運がよければ錦江湾のはるか南に屋久島をとらえることもできる。また、鹿屋側の御岳(標高1,181m)からは鹿屋、肝属平野の広さのさきに、ゆったりと弧を描く志布志湾を望めるのである。登り甲斐のある山々だと思う。
ふもとに住まう人々も、この山の特別な存在感を感じているように思う。わたしの子供たちが通った地元高校の校歌を見てみよう。
鹿屋農業高校 「仰げば高し 高隈の むらさき匂う峯の色~」
鹿屋高校 「山高隈に月影落ちて 北斗消えゆくあけぼのの空~」
どちらも「高隈」の二文字が、畏敬と愛着をこめて読み込まれている。きっとほかの高校も、このあたりの小学校や中学校の校歌にも、同様の思いを伝えるためのこの二文字が入っているのではないだろうか。
梅雨の時期なかなか全貌を見せることのなかった高隈山が、夏空のもとくっきりと姿を見せてくれるようになった。わたしには翼を大きく広げた鷹のように見えるのだが、鳥の見過ぎだろうか。
国道504号線は鹿屋市街地から高隈山地の東麓を北へ輝北・霧島に向かっている。鹿児島交通のバス路線が通っていて、「上祓川」、「寺街道」という名前の停車場が続き、その先に「山寺鉱泉入り口」の黄色い看板が見えてくる。「源泉掛け流し湯」の文言も見て取れる。
ここを左折するとすぐ右手に広い駐車場が案内される。車を停めて一段上がったところに受付と休憩所があり、その奧に浴室棟が設けてある。脱衣場には歴史を感じる木製の大きな椅子が置かれ、背もたれに「ヤマサハウス」のロゴが入っていた。
清潔に管理されている脱衣場から浴室にはいると、左に3畳ほどの浴槽、その手前に半畳くらいの水風呂、右手に4個の洗い場。五角形の浴槽には薄い黄金色の鉱泉が満たされている。42℃を保つようにとの注意書きがあるから、少し熱めだが、気持ちよく浸かれるお湯だ。夏だけど肩まで浸かり、吹き出すほどの汗をかいたら、水風呂に。16℃・キンキンの地下水が身を引き締めてくれる。
先客は、無駄な肉をそり落とした、ブルース・リーのような体つきの先輩だった。聞けば今年80歳になられたという。背筋の鍛え方を実地で示してもらったが、わたしには到底できない動作だった。
止まらない汗をタオルで拭きながら、湯守の谷本さんから高隈山にかかわる興味深いお話を聞かせていただいた。曰く、
『ここの鉱泉は高隈山の山腹に湧く水を塩ビ管で2kmも引いていて、湯ノ花がたまるのでパイプや溜め桝の管理も大変なんだ。成分として多くの鉄分と特殊なミネラルを含んでいるので、昔から切り傷や肌のトラブルによく効くと言われている。
三代ほど昔は、水源に近い「瀬戸山神社」の参道に湯屋があって、竹を割った樋で引水していたらしい。その頃は、修験道や岳詣りの客も多くて、500m近くあるまっすぐな参道には宿屋や僧坊がならんでおり、賑やかだったという。
「瀬戸山神社」は、室町時代から江戸末期まで、修験道の拠点としての「五代寺」と神仏混淆の寺社であった。だから、バス停に「寺街道」の名が残っているのだろう。』と。
夕方ではあったが、夏の陽はまだ高い。「瀬戸山神社」の参道に向かった。
国道は谷川に沿って北上している。地名の「祓川」とは、霊山に入る前に、この清流にはいって、世俗の身を祓い清めた名残なのではなかろうか。
参道は神社に向かって、北西に延びている。鳥居の向こう本殿はうっそうとした杉木立に囲まれているようだ。背後には夏雲に覆われた高隈山地が横たわっている。湯守の谷本さんは、御岳への登山道はこの鳥居から直登するように続いていて、その途中に泉源があると話してくれた。
歩いてみると参道の傍らの公園には五代寺を守っていた仁王像や、梵字の刻まれた石碑と五輪の塔も残されている。薩摩で明治時代にはいって激しく実行された廃仏毀釈まで、長く真言仏教の寺として信仰を集めていた証しだろうと思う。
何百年もの間、修験道に出立する山伏や岳詣りの人々を見守ってきたに違いない。
高隈山地は、その険しさと歴史によって、今を生きる地元の人々に、畏敬と愛着の念を抱かせる魅力を抱かせているのだろう。
谷本さんから、山寺鉱泉の駐車場に車を置いて、「瀬戸山神社」から高隈に登ってみればと勧めていただいた。鹿児島では「夏山には犬(いん)も入らん。」という。
9月の彼岸を待ってお勧めのコースで登ってみようと思っている。タカクマホトトギスの薄黄色の花が咲いている頃だ。もちろん下山後、山寺鉱泉で汗を流すことを楽しみにして。
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山寺鉱泉
営業時間 13時から20時30分
定休日 火曜日・水曜日
入浴料 420円
※参考:鹿屋市史、吉川満著「鹿児島県の山歩き」
(M田)
第6回 出水市 梅雨のさなか紫陽花とざる蕎麦 東雲の里草の居
薩摩半島西岸の最北に位置する出水市。鶴の飛来地として名高い町だ。2006年に旧出水市と野田町、そして高尾野町が合併してあらたな出水市となった。旧3市町ともそれぞれ「麓(ふもと)」と呼ばれる武家屋敷群が大切に残され活かされている。
そのような町並みにしっくりと落ち着く木造の支所が、2019年に野田、2020年に高尾野に新築された。両方の構造体を弊社で施工させていただいたのでご紹介したい。
どちらも木の温もりで包み込まれるようなすっきりとした建物で、訪れるかたも働くかたもきっと心地よい役所だろうと思う。出水市街地から長島や阿久根への道すがら、懐かしい町並みをとぼとぼと歩いてみるのも楽しい。
さて、市役所本庁のある出水市街地から国道447号線を伊佐市に向かって10kmほど走ったところに大川内という集落がある。清流が自慢の村で、秋祭りで売り出される新米と鮎の甘露煮は格別のおいしさだ。梅雨に入ったこの時期、北薩では田植えが始まっている。水の張られた田んぼに映る里山がきれいだ。
このあたりの国道沿いに「東雲の里 生そば草の居」の入り口看板が立っている。ここからさらに北へ6km、細い道を登っていく。途中不安になるが「信じて登ってください」と親切な案内板が立っているから大丈夫、迷うことはない。つづれ織りの道は伊佐市に続いている。
夏を前にした道は、進むほどに山の緑が濃くなっていく。渓流も雨を集め水量も豊かだ。初夏の風景に気を取られているとお店への別れ道が案内されているから、右折してさらに細道を登れば駐車場に着く。ここには不思議なギャラリーが建っている。中をのぞくとこれまた不思議な雰囲気の絵画が集められており、目を楽しませてくれるだろう。
石畳の坂道を、両手に咲く紫陽花をめでながら少し歩くと「生そば草の居」の建屋が見えてくる。話し好きのご主人によれば、古民家を移築した建物で、木構造部分は大工さんにまかせたが、土壁や内装はご主人手作りのものだという。
食事の前に、園内約2kmの遊歩道をめぐってみよう。40年ほど前に入手した4万坪を超える森林や耕地跡を開墾して、一本ずつ植えていった紫陽花や楓、満天星(ドウダンツツジ)など手入れの行き届いた山道は、進むほどに感嘆の思いが湧いてくる。
石を積んだ田畑を耕し、沢から水をひいて米を作った人々の思いを、ご主人が受けとめて拓かれた風景が山全体に広がっている。紫陽花のひとむらひとむらがその気持ちの繋がりをのせた風船のように見えてくるようだ。一番高いところにある展望所までの往復は1時間ほどかかるけれども、山の姿は見飽きることはなく、たちまちに過ぎてしまうことだろう。お腹もいい具合にすいてくる。
食堂棟に入って、十割蕎麦をいただくとしよう。初夏にはやはり冷たいざるそばが合う。
焼き物の器はすべてご主人の作品だそうで、蕎麦は、跡継ぎのご子息が朝から打っているものだ。申し分などあろうはずがない。仕上げの蕎麦湯まで飲み干してしまった。6月中は紫陽花祭りで少し品書きが変わるが、四季をとおしてその時期にあった蕎麦をお出しします。とのこと。
「東雲の里」は、国道から6kmも入ったところにあっても、人々を惹きつけてやまない魅力に溢れている。紫陽花の時期が過ぎても標高400mの涼しさを満喫できそうだ。
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東雲の里 生そば草の居
定休日 木曜日・金曜日
※祝日や紫陽花、紅葉時期は休み無く営業
参考:東雲の里ホームページ
(M田)
第5回 霧島市牧園町 ラムネ温泉 千寿の里で龍馬をおもう
鹿児島県内には温泉が多い。錦江湾岸、薩摩半島、霧島から北薩摩、大隅半島、離島まで、温泉と名のつく入浴施設がない町があるのだろうか。指宿温泉や霧島温泉のような収容人数の大きな温泉旅館から、集落でよりあって運営しているようなところまで多種多様な「温泉」に行く先々でお目にかかれる。
そもそも錦江湾が巨大なカルデラだというのだから、そのまわりに温泉が湧くのは不思議ではないのだが、実際の数はどれくらいだろうか。
調べてみると環境省のデータでは、源泉数は2,745、42℃以上の高温源泉が1,806もある。利用されている源泉でみると1,198。国内では大分県に次ぐ源泉数を誇っているという結果だ。まったく実態が予想を上まわってしまった。(環境省自然環境整備課温泉地保護利用推進室 令和3年度温泉利用状況より抜粋)
そんなわけで、薩摩の国では、犬も歩けば棒に当たる前に温泉に当たるようだ。今後とも有名無名にとらわれず、個人的に気に入っているか、気になっている温泉を取り上げていくことにしようと思っている。
国道223号線は、宮崎県小林市から霧島市まで、霧島山の南麓に沿っていくつもの温泉地をめぐりながら蛇行して南下している。国立公園の森や渓谷を左右に見ながらその道を走れば、四季折々の美しい風景と温泉を楽しむことができるだろう。道筋は、鹿児島県側領域はすべて霧島市で、かつ旧牧園町内を通過している。国道沿いのランドマークとして、2021年3月に完成した霧島市役所牧園総合支所をご紹介したい。
集成材とCLTパネルを使った木構造平屋建ての落ち着いた庁舎である。杉構造材の製造と建て方を弊社で施工させていただいた。室内には杉材の表しが多く、この町の自然と調和するように、来訪者を暖かなイメージで迎え入れる建物となっている。
ここから北に上ると霧島温泉郷へ、南に下ると妙見温泉を経て旧国分市街地へと向かうことになる。
話は幕末に飛ぶ。1866年春、坂本龍馬が新婚の妻お龍とともに京都から鹿児島を訪れている。寺田屋事件で負った手傷の湯治が主な目的だったが、西郷隆盛と小松帯刀に奨められたこともきっかけとなったようだ。大阪から鹿児島まで、薩摩藩の蒸気船「三邦丸」に西郷、小松も一緒に乗船しているから、警護付きのVIP待遇だったにちがいない。
龍馬夫婦が旧暦3月16日から4月11日まで、塩浸温泉、硫黄谷温泉、栄之尾温泉など牧園に現存する温泉場で過ごした記録が残っている。よほど気に入ったとみえて、塩浸温泉には合わせて18泊もしている。この旅が、日本の新婚旅行第一号といわれていることをご存じの方も多いだろう。
塩浸温泉は、牧園総合支所から南へ3kmほど下った川沿いにある。2010年に「塩浸温泉龍馬公園」として改称・改装され、資料館もあり、龍馬とお龍の銅像も建っている。大河ドラマでも紹介されたので、いつ通っても観光客で賑わっているようだ。資料館には、龍馬が姉の乙女に宛てた書状などが展示してあるので、じっくり読んでみるのもおもしろい。
温泉棟もあるが、残念ながら、あのころ龍馬夫妻がはいった湯治場のイメージとは、かなりかけ離れた印象を受けてしまう。
さて、ここから国道223号線を牧園総合支所方向に1㎞ほどあがった右手に「ラムネ温泉 仙寿の里」の電光看板が立っている。気にはなっていたが、訪れたことはなかった。看板から200mほど細い坂道を行った先に駐車場と建屋が現れる。遊歩道を廻らせた緑豊かな広大な敷地に温泉棟と家族風呂、宿泊棟が建てられている。
受付をすませて、温泉棟に向かうと飲泉のための四阿があって、コップなども用意されているから、まずはここで水分補給をしておこう。炭酸水素イオンがたっぷり含まれているお湯は飲んだあと口がすっきりと感じる。硫黄臭さなどはもちろんない。
効能書きによると飲用は、つい暴飲暴食がすぎて、胸焼けやγGTPを気にしがちなこの身体にぴったりあっているようだ。ただし、有効成分が飲みすぎないようにと注意書きがついている。過ぎたるは及ばざるがごとしか。
温泉棟の正面に「仙寿の湯」と効能書き、男湯の入り口が案内されている。浴用は老人性の諸症状から切り傷ややけどにもいいらしい、これはからだの内と外から健康になりそうである。
建屋の中に入ると、桁と梁が丸柱で支えられた浴室は素晴らしく明るい。正面には壁はなく、虫除けの網が張ってあるばかりで、開放感に溢れた造りになっている。ご主人の話では、材料はすべてこの敷地に立っていた杉を使っているという。梁の加工も大胆だが手が込んでいる。
6畳ほどの浴槽には少し白濁したお湯が惜しみなく掛け流されていて、床などは濃い温泉成分が石化した独特のざらつきが心地よい。正面から右手に少し長い階段を降りたさきに、内湯よりずっと広いつくりの露天風呂が、新緑の中で満々とお湯をたたえていた。
手前に湯源があって滝のように流れて「あつい」、むこうは自然に冷めて少し「ぬるい」湯舟になっているので、交互に浸かってからだの芯から温まろう。
この日はやさしい春雨が火照った肌を冷やしてくれた。露天ならではの楽しさである。そして、お湯の中から見まわせば、四季折々に訪れてみたくなる鹿児島らしい風景が広がっている。きっと龍馬もお龍とともにこんな温泉で、こんな風景を眺めたのかしれない、などと想像もふくらんでしまう。
あがり心地もさわやかな「ラムネ温泉」で、身もこころもスカッとした。少し遠回りして、龍馬夫妻も立ち寄ったという和氣神社で、満開の藤を堪能してみよう。
参考 塩浸温泉龍馬公園のパンフレット
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仙寿の里 ラムネ温泉 鹿児島県霧島市牧園町宿窪田3549
定休日 毎月第3火曜日
(M田)
第4回 南さつま市加世田 かあちゃんのお昼ご飯 辻食堂
国道270号線は、日置市を南に抜けて、南さつま市金峰町にはいる。
この町の東、大坂地区にある「金峰2000年橋」をまずご紹介したい。山佐木材が施工し、2000年1月に竣工した木橋だ。上を走る車道を湾曲集成材のアーチで支える形式では最大級で、幅8.5m、長さは42m、設計荷重は25t。ダンプカーも通行している現役の県道である。橋、その向こうの大鳥居、その奧に見えるご神体の金峰山、この3つがつながる風景にはなかなか出会えない。ぜひご覧になっていただければと思う。
さて、国道270号線、車は金峰山を左手に眺めながら、広大な田んぼの中を南に向かって走る。ここは3月末には田植えがおわり、7月中頃収穫する「超早場米コシヒカリ」を特産としている。春先、田起こしをしているトラクターのうしろをたくさんの鷺たちがついて歩く姿に、つい気を取られそうになるかもしれないが、くれぐれもよそ見は禁物、安全運転で行きましょう。
ゆったりとした田園風景をあとにして万之瀬川を渡ると、市役所の置かれている加世田市街地にはいる。
南さつま市は、旧加世田市、金峰町、大浦町、笠沙町、坊津町が平成の大合併で新設された。どの地区にも歴史の教科書に登場しているようなエピソードが残されているので、訪れたときを機会にして、あれこれ調べてみたいところだ。
市役所に行くと一般向け向けのマガジンラックに「島津日新公(じっしんこう)いろは歌集」という薄水色の折り冊子が置かれていたので一冊もらってみた。最終ページに
日新公とは、名を島津忠義、髪を剃って「入道日新斉」と称した。「いろは歌集」は人間として社会に生
きる道(中略)を説いたもので、四百余年以来子弟教育の教典となった。
という説明書きが付いている。
日新公・忠義は、伊作(現在の吹上町)生まれ、伊集院駅の騎馬武者銅像のモデル島津義弘の祖父に当たる人で、島津家の内紛で勝利をおさめ「島津中興の祖」といわれているという。晩年加世田に隠居して、現在の竹田神社にまつられている。神社の左手に延びる小径には、いろは歌四十七首を一つひとつに刻んだ石碑が「い」から順に並んでいる。
せっかくなので、歌集の最終「す」の諫めを読んでみよう。
(大意)まだ少し足りなくても満足するがよい。月も満月になれば翌日からは十六夜(いざよい)の月となって欠け始
める。
なにごとも、足を知るべし。欲深の身に染みてくる教えだ。春盛りの木漏れ日を浴びながら小径を歩くのは実に心地よい。
加世田の町に、この教えどおりの食堂がある。「辻食堂」といい、スマホで検索すれば、場所は知ることができるが、看板は出ていない・・・。というより看板には間口を同じくする電気店の名前がはいっているのだ。おもてに食堂らしいのれんがかけてあるだけ。
藍色ののれんをくぐると、右手に厨房とカウンター、左手と奧に二間のテーブル席。ひとりなのでカウンターについて、メニューはと壁を見回すと、あの はらたいらのモンローちゃん付きのサインが架かっている。これはいいなぁと見ていると、まだ注文していないのに入店後1分でご飯とおかずが目の前に並ぶ。
辻食堂の昼食は、日替わりの単品一色。これしかない、これでいいのだ。まさにいろは歌「す」の教えの通り、足を知る店としての矜持というものが現れている。
だけど、料理はまったく素朴で飾り気なしのおいしさだ。なんだか懐かしい味。そうだこれは昔、土曜の半ドンで家に帰り着いて食べた母ちゃんの昼ごはんの味だ。
それもそのはず、料理を作っているのは、ほんとのお母ちゃんなのだ。「今年6月で86歳になるんだよー」と厨房の中から明るく笑ってくれる女将さんだ。
お客は、地元のひと、工事関係の人、役所関係らしいひとなど次々に訪れ、ささっと食べては満ち足りた顔で出て行く。常連さんもいて、二人と楽しげに話がはずんでいる。
この日は、かき揚げうどんに蓮根のきんぴら、白ご飯に昆布の佃煮がのせてあった。手作りの浅漬けもさっぱりと旨い。
美味しさと懐かしさ、元気をいただきました。ご馳走さまでした。
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辻食堂
昼定食 600円
営業:土・日定休
住所:南さつま市加世田本町39-2
電話:0993-52-3018
(M田)
第3回 吹上町 透き通る碧の湯 もみじ温泉
日吉からさらに南下し旧吹上町にはいると「温泉のやど」などと書かれた看板が目につくようになる。鹿児島市街からも県道22号線で伊作峠を越えれば30kmほどの距離だから、疲れを癒したい人にとっては、日常生活からしばし離れてゆっくりと休める湯治の里といったところだろう。
鹿児島県内には霧島や指宿のように全国的にも有名な温泉街のほかに、ひなびた湯のまちが多い。そこには地元の人たちが毎日通っても飽きないほどの魅力にあふれた立ち寄りの温泉がある。ここにもいいお湯が湧いているはずだ。期待を胸に看板の案内のまま車をすすめてみるとしよう。
国道270号線から県道を山の手に1.5㎞ほどはいったあたり、湯之浦川という小さな川沿いに5軒ほどの温泉宿があつまる「吹上温泉」はある。
まちへの入り口に建て替えが終わって間もない「吹上温泉郵便局」が見えてきた。郵便局の名前に地名ではなく、わざわざ「温泉」の文字がついているのは、往時、なじみの宿に長逗留して、便りや送受金をする湯治客が多かったことの証しだろう。しかし今、かつての温泉街に向かう道は人通りもわずかで、営業している店も多くはないようだ。
通りを進んでいると左手に「西郷南州翁来遊の碑500m→」と白塗りの板に一行筆書きのみの札が立っていた。矢印は、温泉のある方から右に180°の方向を指している。まずはこちらからご覧なさいと言うことか。その先に続いている林道は、道幅もせまく急な登りである。ありきたりな石碑にがっかりさせられることがよくある。そんな気もしないではないが、行ってみることにした。林道の途中に、今度は踏みあともうすい山道をさして、「徒歩80m」の札が立っている。ここまできたら見て帰らぬわけにはいかない。落ち葉と枯れ枝を踏みながら短い坂を登ったさきに、杉と楠のうっそうとした林に囲まれて、2m四方、高さ3m以上はあろうか、立派な石碑が建っていた。上段の天然石には「西郷南州翁来遊之碑」と刻字されている。その碑名にそえて「元帥伯爵 東郷平八郎 畫」とある。
日露戦争において、日本海戦でロシアバルチック艦隊に完勝した東郷平八郎が揮毫しているのだ。元帥まで登りつめ軍神といわれるほど崇敬された彼がどのような思いで、「西郷さんが来て遊んだ」と書いたのだろうか。大いに興味をそそられるものがある。
下段の碑文には昭和2年建立と記している。ちょっと調べてみると、この年は西郷隆盛が西南の役に敗れ鹿児島城山で自刃して、ちょうど50年の時が流れていることになる。半世紀という節目の年の意味もあるのかも知れない。
明治維新、日清、日露戦争の勝利をへて大正、そして昭和まで海軍軍人として生きた東郷平八郎は、西郷より20歳年下、同じ鹿児島城下加治屋町で育っている。そして、この碑名を揮毫したのは彼がかぞえで80歳の時であった。年を重ねた東郷元帥が、明治政府を下野して帰郷した時期にしばらくここで過ごした西郷に対するさまざまな思いと、その後西南の役で50歳にならない若さで逝ってしまったことへの哀悼の意を込めて筆を執ったことは想像して差しつかえはないと思う。
ふたりの偉人を刻した碑は、当時の吹上温泉街の誇りとして、まち全体を見おろすことのできる丘の頂上に建てられたのだろう。そのころは周囲の樹木は払われていて、まちから歩いて登れるような小径もあったかもしれない。
想像を切りあげて、西郷南州翁が何度も訪れたという伊作温泉に浸かってみよう。
坂を下りて通りの交差点を直進すると「もみじ温泉」が右手に見える。木造の白壁に「源泉かけ流し」と書かれてある。今回はここに決めた。
向かって左に島津の宿、右に島津の隠し湯と二棟。奧には家族湯もあるようだ。
さっそく棟間のせまい通路にはいり、右手の受付で勘定を済ます。そのむかいが温泉の入り口になっていて、暖簾がかかっている。木床の脱衣室はきちんと清掃され、素足に心地よい。壁の適応書には硫黄泉、疲労回復、切り傷にも効能有りとある。先の碑文に、西郷は戊申戦争後と、征韓論に敗れたとき鹿児島に帰り、伊作の霊泉を訪れたと書いてあった。傷つき疲れた心身をこの淡い硫黄の香りする源泉で癒したのだろう。
濁りのない碧色のお湯で溢れた三畳ほどの広さの湯舟が二槽、少し熱めとちょうどいい熱さに仕切られている。赤銅色のタイルで覆われた壁床に暖かみを感じる。
大きな窓からの陽射しで浴室全体が明るく、木造の天井も湯気を逃すためのがらりが光を通し梁や桁、天井板などを明るく見せてくれている。快い開放感のある風呂場である。
先客は、地元の知り合い同士らしい、かなりの先輩が二人、年金の話で盛り上がっていた。
この澄んだ温泉に毎日浸かっているからだろう、声も大きくて元気、そして気さくである。
先の碑文に「翁(西郷隆盛)は常に愛犬を牽きて萬山を渡り衆人と混じて霊泉に浴し」とあった。うさぎ狩りを好んだ西郷が山々を駆け回ったあと、温泉に浸かりながら伊作の人々と語り合うようすが浮かんでくるようだ。
ふたつの湯舟に交互に浸かって、身もこころも芯から暖まった。
外に出ると、まだ浅い春の川風がほてりをほどよく冷ましてくれる。
日置市を吹上海岸に沿って南下してきた。伊集院は関ヶ原の戦いで敵陣中央突破し敗走した島津義弘。東市来は朝鮮出兵時に連れてこられた陶工たち。日吉は明治維新十傑の小松帯刀と、それぞれの町に時代の主役がいた。そして、吹上では、西郷隆盛と東郷平八郎が現れた。
あらためて薩摩の歴史は奥深く、路は楽しみで満たされていると思う。
さらに南へと足を伸ばしてみよう。
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もみじ温泉
入浴料 400円
営業時間 午前6時~午後9時(立ち寄り湯)
定休日 水曜日
日置市吹上町湯之浦2503
(M田)
第2回 手作りバイキング 味処正ちゃんで昼ご飯
鹿児島県の地図を広げると、西側が薩摩半島、東側が大隅半島、南に薩南諸島が続いている。その地図を右に90度回転すると、薩摩半島は子牛の首頭のように見えてくる。きれいに弧を描く首のあたりが吹上浜、47kmにおよぶ砂丘である。海岸線に沿って、国道270号線がいちき串木野市から日置市をへて南さつま市まで、南へゆったりと延びている。
日置市は、2005年に伊集院、東市来、日吉、吹上の4町が合併して誕生した平成大合併のまちである。東シナ海を望む薩摩半島の西に位置し、ちょうど鹿児島市と背中合わせに隣接している。
鹿児島市からはまず市役所のある伊集院にはいる。この町には、関ヶ原の戦いで徳川家康軍の中央突破を果たした戦国武将島津義弘公の菩提寺が置かれている。毎秋、義弘公の遺徳を偲ぶため鹿児島市を起点に、大勢の人々が甲冑を装して歩き参拝する「妙円寺詣り」は、町の一大行事となっている。武将姿もさることながら、実は、歩きながら謳われる「妙円寺詣りの歌」こそが次代に伝えたい肝心のところなのだと思う。
JR伊集院駅前に建つ、島津義弘公の像は、歴史好きならずとも、一度見ておくのも悪くはなかろう。
ここから国道3号線に乗って西へ20分ほど移動すると東市来のまちが見えてくる。
東市来町といえば、司馬遼太郎著「故郷忘じがたく候」で描かれた沈寿冠窯をはじめとする薩摩焼の窯元が集まる苗代川美山が有名である。高台の美山から海のほうに下ると、東市来の市街地だ。町に入るとすぐに、湯之元温泉という泉質のよい立ち寄りの湯がいくつも軒を並べている。温泉はしごを好む向きにはたまらないところだ。
そこから国道270号でさらに南へ向かうと旧・日吉町だ。道沿いに、明治維新の十傑のひとりといわれる「小松帯刀」ゆかりの看板が目につくようになる。彼は、養子としてこの地にはいり、22歳で日吉城領主となった。薩摩の小松として大政奉還を成し遂げた後、病により36歳の若さで世を去った帯刀は、いまは小松家歴代の墓所円林寺跡にねむっている。
そろそろ昼食でもと思いながら日吉町吉利の広い畑地の一本道を走ると右手に「味処 正ちゃん」の大きな看板が立っている。先客も多いようだが、駐車場は広い。
軒下には、日替わりランチ(サラダバー、コーヒー付き)890円の文字。よく見ると8の字が上書き修正してある。物価高の波はここにも押し寄せているのだ
この店のランチは、主菜に加えて、取り放題のバイキングがついている。
サラダはもちろんだが、焼きそばもナポリタンスパゲッティもある。麻婆豆腐もカレーもあるし、野菜炒めも蕪の酢の物もある。ありふれたバイキングメニューではあるが、よく見ると料理の一つひとつに手作り感があふれている。決して豪華さはないが、産直の野菜が調理されて並んでいる安心感が伝わってくる。しかも、どれも美味しそうだ。
しかし、昔のようにはいかない。今日の主菜は天ぷらの盛り合わせだ。冷静に自制心をもって、みあった料理を選び適量を皿に盛ること。特に、仕上げにカレーライスなどもってのほかなのである。
思い留まることができずに多すぎる昼飯をすませて、駐車場に出ると海からの心地よい風が吹いてきた。 松林のむこうは吹上浜、そして東シナ海が広がっている。
おおいに元気をもらった。これから、さらに南へ、旧吹上町から南さつま市にむかって車を走らせよう。
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味処正ちゃん
営業時間11:00~14:00 休み日曜・月曜
日置市日吉町吉利1589
(M田)
みなさま、素晴らしいご新年をお迎えのことと存じます。
ご無沙汰しておりました。M田です。
気分も新たに、さつまの国の道々で立ち寄った、じわりといい感じのところをご紹介できればと思います。本年もよろしくお願い申し上げます。
第1回 夕日がにあう癒しの湯 薩摩薬師温泉
平成の大合併は、中央や県から見れば自治体の数が減った分だけ事務などの負担は減少したかもしれないが、さつまの国をあちこちと移動しているわたしには広くつかみどころのない境界線が引かれたうえに、合併前にその町がもっていた由緒ある名前や独特の魅力を無理やり剥奪してしまったように思えてならない。
さて、鹿児島市郡山町(旧日置郡郡山町)あたりから伊佐市へと向かうには、薩摩川内市入来町を経てさつま町で国道328号から267号へと乗り換えて走ることになる。現さつま町は、薩摩郡宮之城町と薩摩町が合併して誕生した町である。
宮之城は地元では「みやんじょ」と発音され、薩摩言葉にはめずらしく語感は穏やかで豊かな土地の印象が伝わってくるように思う。大河川内川の流れにのる水運と、南に向かえば鹿児島市、西には薩摩川内市、東は伊佐市、北は出水市にと幹道が集まっている。北薩摩の商業・交通の要所であり、観光・遊興の中心地であったし、旧国鉄時代には宮之城線という地元の足として欠かせぬ路線が、川内駅から薩摩大口駅まで走っていた。
一方薩摩町は、江戸時代から隣の山ヶ野金山とともに永野金山の門前町としてさかえ、明治期には西郷隆盛の子菊次郎の指導で、鉱業と人材育成に重きをおいた一種文化的な雰囲気をもつ賑やかな町であったと聞く。高校時代、宮之城線に乗ると汽車は薩摩永野駅で、大口へ向かう分岐と登り勾配を緩やかするためにスイッチバックをしていたことを思い出す。いまは、駅公園にその軌道が、往時を偲ぶように残されている。
宮之城を後にして、ゆったりとした山あいの国道を東に向かうと、右手の田んぼの向こうに、あぶなく見落としそうなほど控えめに、薩摩薬師寺が見えてくる。九州八十八ヶ所霊場第48番、山号は音泉山、真言のお寺だ。この境内に質素な温泉舎が本堂の手前に建っている。
わたしがここを通るのはきまって日が沈むころで、本堂と温泉舎は、杉山を背にして夕陽に照らされている。稲刈りの終わった田には、電柱の影だけが長く延びる。この時刻、一日の仕事をおえた善男善女がひとっ風呂浴びに来ていることだろう。
さっそく、玄関横にある受付窓式の番台に挨拶して入浴。
壁に大きく掲げられた温泉分析書には、アルカリ性単純温泉、泉温42.5℃とある。掛け流しである。なるほど浴槽には無色透明で無臭、40℃あるかないかのお湯があふれていた。みなさんつるつるのぬるめの湯に、ゆっくりと浸かり疲れを癒している。
二つある湯舟のひとつは、境内の井戸からひいた水風呂で18℃くらいだろうか、ほどほどの冷たさで心地よいばかりだ。蛇口からとくとくと流れ出る水を手ですくって飲むと美味い。自宅用に持参したペットボトルにこの水を汲んで帰る人も多いようだ。
温浴と冷浴を数回繰り返せば、からだは芯から暖まり、浮き世の垢も、煩悩もすっきりと落ちてしまい、どことなく身軽になったような気がする。
浴槽も、洗い場も、脱衣場もきれいに清掃されていて、清潔感がただよっているのがうれしい。
番台の皿に、柿が切っておいてあったので、湯疲れ防止に一切れいただいた。
汗を拭きふき駐車場に出ると、豆腐屋の移動販売車が、夕餉の一品にいかがと停まっていた。薬師如来様の恩恵を受けた手前今宵は精進。奮発して鹿児島産大豆の木綿豆腐と黒胡麻豆腐を買って帰ろう。冷や奴とお湯割りが待ち遠しい。
ここから伊佐市までは長いのぼり坂が続く。夕暮れ時の求名坂(ぐみょざか)である。
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薩摩薬師温泉
住 所 薩摩郡さつま町求名570
入浴料 250円
(M田)
コロナウイルスの緊急事態宣言が日本全国を対象として出されました。もちろんこちら大隅半島も例外ではありませんが、ありがたいことに現段階では、会社には通常出勤できています。
けれども問題はお休みの日。
街にもいけず、山にもいけず、妻にも愚痴の多さにも負けぬ丈夫な心を持ち、いつも静かに笑っている、こともなかなか続くものではありません。
そこで、今回は自宅の窓から外を覗いてみることにしました。
外を覗くというと刑事に追い詰められた犯罪者のようで何かしらうしろめたい感がありますが、そうなるにはそうなるだけの理由があるんです。相手に気付かれてはまずいんです。逃げちゃうんです。
カーテン越しの窓の外、ちょいとした木もあるが、手入れの行き届かない庭に、取ってつけたような小さな水場がしつらえてある。シチュエーションはこれだけです。
ある日曜日のこと。まずこの水場に現れたのはキジバト。ひとっぷろ浴びていきました。
水場は鳥たちにとっては体や羽根を清潔に保つためのいわば銭湯。
「浴来てくれます。」(byヒゲジイ:NHKダーウィンが来た)
つぎに喉カラッカラのヒヨドリが水をチュウチュウ?
くちばしを水に突っ込んでかなり大胆に吸っているように見えますが、ヒヨドリをはじめ一般的な鳥の仲間は、チュウチュウできないそうなんです。水をいったん口にためて上を向いて飲み下すといわれています。あとから来たムクドリもくちばしを水につけた後上を向いてゴックンしているようでした。
ただ、ハトの仲間はチュウチュウ吸えるみたいです。なんでかはわかりませんが。
さらに、カーテンに隠れてじっと待っていると、珍しいお客が現れました。シメです。
からだに似合わない太いくちばしと目の下の隈によって、かなり陰険な表情に見えます。硬い木の実や草の実を主食にしているスズメより少し大きめの小鳥です。はじめてこの庭に来てくれました。
この日、ほかにもいろいろな鳥や昆虫がこの水場のまわりにやってきて、隠れて覗いている変なおじさんの目を楽しませてくれました。
ぶらりもいいけど、家にいてこそわかる良さもあるものだと思うM田です。みなさま楽しみは身近にありますぞ。くれぐれも STAY HOMEで。
(M田)
令和2年3月14日 観測史上最も早く靖国神社のソメイヨシノの開花宣言が発表され、22日には満開とのお噂でした。
しかし、九州南端鹿児島だけは27日になっても開花は発表されていません。「休眠打破」がぼんやりしているのが原因だそうですが、それならこの冬はどこも暖冬だったはずで、少し納得がいかないところであります。地元では、「鹿児島気象台の標本木は遅咲きの性分らしい。」という説がまことしやかにささやかれ始めました。
ただこの春は、新型コロナウイルスの感染拡大対策で、満開となった桜の名所も花見の宴は自粛をうながされているとのこと。憂さ晴らしもままならないでしょう。
身近なソメイヨシノは並木になると美しさが何倍にもふくらむようで、西の造幣局、東の目黒川あたりがその筆頭でしょうか。
こちら大隅にも名所と呼ばれる並木がいくつかありますが満開の予想は4月初旬とのこと。薄紅色の雲のような花群を眺めながらそぞろ歩き、楽しみです。
さて、肝付の南、30分ほどドライブした海沿いに岸良というのどかな集落があります。温暖で霜もない土地柄、路地のバナナには花が咲いて実をつけており、ヘゴがすくすくと伸びている。少なからず亜熱帯に近く、休眠打破の話題とは無縁に思える気候です。
この岸良集落の山手にテコテンというユニークな名前のついた桜があり、山桜がそろそろ盛りを過ぎるころが見頃を迎えるという話はかなり前から聞いていました。しかし、実際に見たことはありません。その昔、このあたりの首領が地元でテコテンドンと呼ばれる北岳から移植したという伝説をもつ大きな桜を一度は見ておきたい。
てことで、時間を見つけて南下ドライブ30分。岸良集落に入るとすぐに「テコテン桜」の小さな看板が消火栓の横に立っています。尋ねる人影もみえないのでそのまんま里道を直進、したもののいつしか林道になっていました。5分ほど走ってもなかなかなかなか目的の木が見えてこない。この道で大丈夫かなと不安になりながらも、さらにうっそうとした混合林のガタゴト道を進むことしばし。林が途切れ明るい場所に出たとたん、林道の左下にその巨木が出現しました。
山間の段々畑に、純白の裾を四方に大きく広げどっしりと構えるその姿には圧倒的な存在感がみなぎっています。桜と言えば女性的な印象を持っていましたが、この樹の清冽な咲きっぷりからは力強い雄々しさを感じます。
林道に降り立つと、さわやかな花の香りとその花々に群れている虫たちの羽音に包まれました。林道から根もとにおりる小路をたどって樹の下へ。
20m近くある樹高をささえる幹回りは3m強、見上げれば四方30m以上に広がる枝振りのたくましさはまさに圧巻です。樹齢は二百年以上とも伝えられる太い幹の胸高あたりには注連縄、根方には榊と塩、米、酒が供えられ、ご神木として祭られているようです。
近づくと5弁の花びらは純白で、花が大きく開くにつれ花心の薄紅がしだいに濃くなっているのがわかります。山桜の仲間のように葉が先に伸びることはなく、花びらはソメイヨシノに比べるとほんの少し大きいようです。花数も多くボリュームも感じられます。
この日訪れる人はわずかでした。もしかするとこの集落のお花見以外でこの桜を見に来る人はほとんどいないのではないかと思われます。いや、地元の人も、かつてこの樹を植えた人も、そしてこの樹自身も、咲かせた花の下に多くの人に来てもらうことを望んでいないのではなかろうかという気もしてきます。ただ咲くのみ。そんな気概を発しているような大樹です。
それにしても、花のいい蜜に誘われるのでしょうか、蜂や甲虫の羽音、それから、メジロやヒヨドリのさえずりも途切れることがありません。
ほとんど訪れる人もいない山間に、真っ白な花を咲かせる孤高の桜。
このところの鬱々とした気分を一気に吹き飛ばしてくれました。
(次はどこかな M田)
森昌子が「ヒュルリー、ヒュルリララー」と情感をこめて歌った「越冬つばめ」。テレビの前で裏声を絞り出しながら口ずさんだムキも多いことでしょう。季節にそむいたために冬の寒さに凍えてしまいそうなはかなさがせつせつと伝わってきて、思わず「大丈夫ですかぁっ?」と声をかけたくなるほどです。
ツバメは、春先3月半ばころに南の国から日本列島に渡ってきて、夏中に子育てをし、秋にはまた南の国へ帰っていく夏鳥です。おおかたは冬を待たずに姿を見せなくなるのですが、本州以南では少数が越冬するそうです。こちら肝付、鹿屋あたりでも真冬に見かけるようになりました。しかしながら、この越冬ツバメたちがどこをねぐらにしているのかは、M田研究不足で知りませんでした。
2月の半ば頃、いつものように西平石油店高山スタンドで会社の車に給油をお願いしていると、メンテナンスピットに飛び入るツバメを何羽か見かけました。「もう、渡ってきたのかな」とも思いましたが、時季としては早すぎます。店のスタッフさんに聞いてみると何年か前から数十羽がピットで冬を越すようになり、ここ2年は150羽を超えているとのこと。なんと、いつも来ているガソリンスタンドが越冬ツバメたちのねぐらのひとつだったというわけです。
ツバメは、昔から農業では害虫を餌とすることから益鳥として大事にされてきましたが、現在では糞の問題とかで、軒先に営巣されるのを嫌がるひとも多いですし、そもそもこのお仕事では車を汚したりすることもあるはずです。それなのに追い出さないのはなーんでか。実はここの社長の深い思い入れに理由がありました。
曰く、「ここに来る一羽いちわに名前を付けたいくらいツバメが大好きなのよ。だから鳩は追っ払ってもツバメは大切に扱うように言っている。天皇陛下もお召しになる最高の礼服を燕尾服というようにとても縁起の良い鳥。迷惑などとは全く思っていない。数が増えてくれるのをとても楽しみしている。」とのこと。恐れ入りました。
ツバメは人に最も近いところに営巣する鳥です。それはかれらの天敵であるカラスから雛を守るためだと言われています。それにしても、このお店では昼間も店員さんたちが働いており、さらには、自動車の出入りも激しいピットです。社長もさることながら、従業員のみなさんも温かく見守っているからこそ、何年も前から居付き、年を経るたびに数を増やしたのだろうと思います。
「夕方になれば、帰ってくるから待ってれば。」と店長さん。日没後、ツバメたちは餌場からこの店の上空に集まって旋回を繰り返し、薄暗くなる6時過ぎには小集団ごとにねぐらに入ってくると言う。見上げれば、エネオスの看板のうえには50羽を超えるツバメが舞っていました。
落ち着いた頃ピットの中をのぞくと、蛍光灯の笠のうえや壁に40箇近い巣が作られており、その中や鉄骨の上あたりに200羽を超えるツバメたちが肩を寄せ合っています。夜にはシャッターがおろされて翌朝まで、凍えるような冷たい風も、恐ろしい猫も入ってはきません。まさに、ここは越冬ツバメのパラダイスなのです。
このブログが配信される頃、鹿児島には南の国から越冬しなかったツバメたちが渡ってきています。その頃から秋まで、このパラダイスは入れ替わり立ち替わりの賑やかな様相を見せてくれることでしょう。
ちなみに、ツバメのさえずりは、力強い声で「虫食って、土食って、渋―い」と聞きなし(※)されるそうです。
(次こそ花かな M田)
(※)聞きなし・・・鳥のさえずりを意味のある人の言葉やフレーズに当てはめて憶えやすくしたもの
ご協力:株式会社鹿屋西平石油店様
参考文献:平凡社『日本の野鳥650』
偕成社『ツバメ観察事典』
新年のご挨拶を交わしてから早1ヶ月。寒中お見舞い申し上げます。
気象庁からは全国的に暖冬傾向にあると予報が出されましたが、いかがでしたか?
こちら南九州大隅では、特有の黒土の畑が真っ白な霜に覆われる朝もあれば、外水道のバケツには薄い氷が張る日もあるにはありましたが、いつもと比べれば冬らしい日の少ないお正月でした。
そんな中、1月25日旧暦での元旦を迎えたとたん、鹿児島県内では南風が吹いて最高気温が20℃近くまで上昇。外での作業は汗ばむくらいで、上着を脱いでTシャツ一枚の人もおりました。さらに、26日の夜から翌日の明け方にかけては、季節外れの暴風雨が吹き荒れ、フェリーや新幹線など交通機関への支障も出るほどでした。
ほんとの意味で初春を迎え、その陽気に応えるように、庭の梅もほころび始めています。
やはり私たちの暮らしは、旧暦(太陰太陽暦)で日を追う方が何かとしっくりくるようで、花や木の開花や成長、昆虫や鳥などの活動・移動時期などはなおさらの感があります。27日未明の暴風雨は、季節外れではなくまさに「春の嵐」と呼ぶにふさわしいものだったのでしょう。
そんなうれしい春になったので、とある日曜日、家人と野に出てみようということになりました。
まずは、日当たりの良い畑の土手。ここは毎年、蕗のとうが一番早く顔を出してくれます。今年も丸くふっくらとした上物を期待通り収穫できました。独特の強い香りが早春を実感させてくれます。
水源地近くの湿地には、柔らかくたけの長い芹が見つかりました。ゴム長を履いて、温んだ水から細い茎をすっと伸ばした新芽を根ごと抜き取ります。緑の葉と白く細い根。すっきりとした感じが食欲をそそるのであります。
最後に、「まだ出てるはずないよ」と訝しむ家人をよそに、いつもの竹山へ。すりすり足で探索していると、ちっちゃいのがころころと転がり出て、そのすぐ近くに手のひらサイズのりっぱな筍を発見!思わずどや顔。ここは慎重に掘り出しました。
その夜、とれたての筍と蕗のとうは天ぷらに、芹はかき揚げにすることにしました。前割りした焼酎「大海」には燗をつけて、準備万端。揚げたてを放りこむとほろ苦さと野の香りが口いっぱいに広がり、初ものをいただく喜びに思わず「わっはっは」と笑いたくなるのです。そして、一献。
(次はあの花か。M田)
前回、ここ大隅の秋は近頃なくなったようだ、というようなことを書いてしまった気がします。しかしながら、四季の国日本で秋が削除される現象が起こってはいけないはずで、11月も末を迎えた頃、それを証明できるものはないのか?コスモス畑とかバラ園とか何となく「秋っぽいなぁ」とは思わされるけれども、どうも印象的すぎて弱い。「大隅の秋はこれです。」と日本中に胸を張って言えるようなものはないのだろうか。と探していました。
そんな思いを知ってか知らずか、大海酒造株式会社 営業の平後園さんから「今年の焼酎の仕込みもほぼ終わりました。工場見学できます。」とのお声かけをいただきました。
大海酒造さんは鹿屋市にあり、地元で収穫されるさつま芋を原料に美味しい焼酎を醸しているメーカーです。ちなみに、M田とその仲間たちの血中には、ほぼ毎日、ここの焼酎が注ぎ込まれている状況なのであります。
9月はじめから、1日あたり約20トン、地元の契約農家さんが春から丹精込めて作った芋が持ち込まれるそうです。原料の芋はここから洗い場を経て、不良部分を切り取られ、醸造の工程へと流れていくのでしょう。3ヶ月にわたって休む間もなく受入に動いていたこのホッパーも、仕込みが終わった今、きれいに掃除され静かに佇んでいるようでした。
二次もろみから蒸留の工程も見せてもらいました。工場の中は、もろみが発酵する音もおとなしく修まっていて、銀色の蒸留器から蒸気が白く上がっており、もろみや原酒のかおりが濃く淡く漂っていました。
原酒は、それぞれの旨み成分を残すように濾過され貯蔵タンクに納め、寝かされたあと、杜氏の味覚の基準に達したところで、割り水をして出荷という段取りとのこと。新焼酎が11月に入ってからになるのもこれで納得。今年もいい焼酎が胃の腑に染みるわけですなぁ。
なぜ、11月の末に、仕込み芋の搬入が終わるのか?
その疑問に平後園さんがあっけカランと答えてくれました。
「それは霜が降り始めるから~!」(芋は霜で凍ると使えなくなるそうです。)
ボーッと生きていたことにはっきりと気づかされました。
ここが秋と冬の境目なのです。9、10、11月は大隅の秋だった。これからが冬なのだと。
これからますます焼酎が美味しくなる季節。蔵人のお話しによると、熱々のお湯で割るよりも、好みで先割りした冷や焼酎に燗をつける方が、香りが飛ぶことがなくまろやかで美味しいそうですよ。
大海酒造の皆様、お忙しいところ、ありがとうございました。お陰さまで、実感できる秋が見つかりました。
(次ははずせない肴かな。 M田)
立冬を迎えると、ここ肝付の最低気温は11℃前後になってきました。このあたりの山肌の木々は紅葉する前に茶色く散ってしまうものが多いようで、南国の少し残念なところです。
そんな山あいの風景にかこまれて、11月10日川上地区の産地直送物産販売所「やまびこ館」で新米祭りが催されるという看板が目にとまりました。地元の農家さんたちが作る季節の旬の野菜やくだものを提供してくれるうれしいお店です。新米祭りでは、地区の人が総出でお米の他、蜜柑や野菜、地元で山太郎がにと呼ばれるモクズガニまでお手頃価格で販売されています。
まつりの呼び物の新米「川上清流米」は、この地区の山から冷たい水を、大きな機械が入らない小さな田んぼに引きいれ、ほとんど手作業で作り上げる美味しいお米です。5Kg入りで用意されていますが、午前中には売り切れてしまうほどの人気があります。
「川上清流米」の「清流」には、山から引く冷水に加え、もう一つ、この地区自慢の滝にも由来するのではないのかとの説(M田推測)もあります。この販売所のすぐ北に川上神社という霊験あらたかなりと噂の高いお社が鎮座されており、その社殿の裏に大きくはありませんが、見事な瀑布と蒼い滝壺を持つ「片野の滝」があるのです。
神社から滝まで続く遊歩道は、地元の皆さんが奉仕作業で整備されており、木の階段や手摺りなど歩く人への心配りを感じさせる、歩きやすい歩道です。神社の鳥居から200mほどで川面に下りることができ、オオタニワタリが自生している大木も左右に。大隅半島の植生の豊かさを実感できます。
明るい冬の木漏れ日を浴びながら、河原でこの滝を眺めつつ、新米で炊いたおにぎりを頬張ってみたいと思うのはM田ばかりではないだろうなと思うところです。
(次は冬真っ盛りだな M田)
10月に入りました。しかし、南国鹿児島はさすがに南国だけあって、昼間は熱中症注意報で「要警戒」が呼びかけられるほどの暑さです。この地方の住人たちから、
A:「こんごろ、あっがねごっなったなぁ。はい、なっ、いっきふいじゃ。」、
B:「まこっじゃ」
C:「じゃっど、じゃっど」
という四季の国NIPPONに暮らす者とは思えない会話が聞こえてくるもの無理からぬことかもしれません。(和訳はページ下。)
ここ肝付で、初秋を体感させてくれるのは、夕方暮れかかる頃に吹く風くらいでしょうか。ビール片手に庭に出て、夕月を見上げながら、涼しい空気に包まれるのいいものです。
天気のいい夕方は、佐藤春夫先生ではないけれど、七輪でも出して秋刀魚など焼いてみようかという気分になってしまう。お隣に気をつかうこともない田舎ならではの気軽さです。
めんどくさがる家人を、おれが焼くからとなだめすかして、秋刀魚やら地元の赤えびやら茸やらを買い出しにやり、自分は七輪のほこりを払って庭に出し、炭をおこして、準備OK。
団扇でぱたぱた七輪に風をやりながら、火相を見ていると、やがてものが届く。まだ明るいうちに焼き始めました。
我が家で愛用の七輪は防油、防水仕様の黒塗り。丈夫なつくりでもう20年は使っているかもしれません。七輪の上に乗っている鋳物の輪っかは「はちりん」と呼ばれています。七の上は八。だからでしょうか?炭火との距離を調節するものです。
火力は、下に見える通風口を風上にむけて、あるいはここから団扇などで風を送って調節する仕組みになっています。脂の少ないものから乗せていく方が煙たくなくていいかもしれません。焼けた順に、はふはふっと口に放りいれて、ビールで流しこめば、それで至福が訪れるのです。厚揚げだのごぼ天だのを乗せる頃には、ビールから焼酎に選手交代しております。最後に秋刀魚の登場で七輪は赤く燃え上がるのでありました。
「あわれ秋風よ」などどこ吹く風。今年も秋刀魚を大変美味しくいただきました。
「やはり秋刀魚は肝付にかぎる」などなどと。
(次は体力を使うぞM田)
A:「こんごろ、あっがねごっなったなぁ。はい、なっ、いっきふいじゃ。」、
B:「まこっじゃ」
C:「じゃっど、じゃっど」
和訳 A:「近頃は、秋がなくなりましたね。春、夏、一気に冬です。」
B:「ほんとですね。」
C:「そうです。そうです。」
処暑も過ぎ南国大隅でも、朝夕は幾分過ごしやすくなりました。近くのスーパーへの買い物も、「ちょいと自転車で行ってみるか。」などという気分にもなってしまうくらいの肌持ち。歩きにはまだまだ暑いけど、自転車に乗って走る風の涼しさはなかなかいいものです。手軽さと、購入費用を除けば経費は0というのも、自動車にはない魅力かもしれません。
鹿児島県では2020年、東京オリンピックが終わった後に国体が開催されます。そして自転車競技は、わが肝付町を通過するコースが設定されており、リハーサル大会を9月8日に実施、しかも時間制限付きの全面通行止めでやるのだ!とのお布令です。
走路を俯瞰してみると、鹿屋市から肝付町そして錦江町まで、つまり北隣から南隣を繋ぐ位置に置かれているわけで、町内会の回覧板なら、わざわざこちらに回り道してくれてありがとね、と軽くお礼でも言いたくなりそうなコース取りです。通常なら、鹿屋市内から西へ直接錦江湾沿いに抜けるコースを選ぶのが順当です。では、なぜ主催者は「わざわざ回り道」を選択したのか。なにか底知れない動機があるのではないか?
その動機を究明したい一心で、そしてちょっと休みの時間を持てあましていたので、犯人の否、主催者の残した地図でいうエリア1からエリア2を自転車に乗って走ってみることにしました。
まずは出発点鹿屋市役所へ向かいますが、肝付町を出たとたんに土砂降りの雨に襲われ、続行か断念か迷いました。が、カッパを持ってきていたので、これを着用し続行(無謀という声もある)、40分ほどで到着。
国体開催の垂れ幕が真ん中に燃える赤で設置され、肝付半島の中心都市「鹿屋市」が来年の国体で担うであろう役割をしっかりと表しているようです。
でも、ここがスタートではなく、商店街を通り北田交差点までみんなでパレードするのだそう。当日商店街に賑やかな応援ができる人通りがあることを祈りながらとぼとぼと走りました。
「北田交差点」。リナシティかのや前あたりがスタートラインになるのでしょう。ここは鹿屋シラス台地の底になります。百台を超える自転車がいっせいに商店街を走り抜け、寿台地への坂をあがる姿は壮観でしょう。
寿地区・笠野地区のアーバンヒルズ地帯を東へ。肝付町境まで。コース予定時間は、スタート後10分と車並みです。(M田タイム:30分)
ここから左折して、台地を下り肝付町内へ。
エリア1からエリア2の途中まで(回り道部分)、川に沿った田んぼと、緩い坂を上ったシラス台地畑の風景が何度もくりかえされる、いわゆる鹿児島の里の風景が続くのです。日頃自動車ではさほど感じない台地と谷地とのアップダウンが自転車を漕ぐことで実感させられます。登りのきつさと、下りの開放感はきっとやみつきになることでしょう。
大姶良町横尾岳峠への長い登りを越えると、錦江湾が見えてきます。急な坂を海岸まで下りきると浜田交差点です。コース予定時間はスタートから50分。(M田170分)
曇りの日、錦江湾の水墨画にも似た風景を右手に見ながら、国道269号線を南下します。
道路はカルデラの縁を通り、街境ごとに何回かアップダウンを繰り返しながら錦江町に。実コースでは栄町交差点を左折し、錦江町田代地区(旧田代町)へ一気に高低差200mを駆け上がりますが、M田の体力では無理と諦めました。コース予定時間はスタートから90分。(M田240分)。これから山に登って走る国体選手はやはりもの凄い人たちです。大会記録はもっと早いのでしょう。
へとへとのM田は、この交差点を直進し、南大隅町役場をめざし、20分後に到着しました。
さて、自転車を漕いでみて分かりました。
「わざわざ回り道」のコースを設定したのは、「全国から訪れる選手たちに鹿児島の里のようすを実感させたかったから~」ではないでしょうか。
自転車の気持ちよさを改めて感じた一日になりました。
(次は楽に行こう。M田)
7月24日頃、気象庁は九州南部の梅雨明けを発表しました。確か北陸当たりまで同じ頃の梅雨明け宣言だったようです。今年の梅雨は長かった、雨も多かった、だから涼しかった。
思えばあの頃はよかった。いまはただ、真っ赤に燃える太陽に夏を乗り切る力を試されている毎日です。
さて、我が町肝付には、あの初代「はやぶさ」を打ち上げたJAXA内之浦宇宙空間観測所があります。ここで暮らしている町民は「全国的に見ても、宇宙に一番近か町の筆頭と威張っても良かくらいだ、種子島とは歴史が違う。」と密かに誇らしく思っている風であります。たとえば、鹿屋市から肝付町への入り口には、イプシロンロケットの実物大模型がトーテムポールのように立って訪問者を見下ろしていますし、内之浦地区に入るとその風はさらに強くなり、小学校の大外壁に宇宙遊泳する子供たちの姿が描かれていたり、ランチの美味しい定食屋さんは「ニューロケット」だったりと、ロケット関連満載の町並みになっているのです。
とある休日、熱中症対策として塩分補給のため、あの「まつわきラーメン」を食べに行きました。旧内之浦町民のソウルフードを美味しくいただき、夏の海をながめながら南にドライブ。橋の親柱の形状が気になっていたのですが、いつもスルーしていました。この日初めてじっくり見てみました。
なんと、観測所で打ち上げた人工衛星をモデルにした親柱でした。大きな花崗岩を成形したうえに、英語・カタカナ・日本語訳をひらがなで橋名を刻むという念の入れようです。。街に一番近い橋がヴィーナス(金星)、その次はマーズ(火星)。
この二つのモデルは同じ衛星のようです。火星がちょっと斜に構えてますが。
次はと見ると、
ジュピター(木星)です。この大胆なデザインはドライバーの目を釘付けにしそうです。
あれあれ、もしかして太陽に近い方から惑星を並べてあるところでしょうか?水星橋はまだ未完成なのですね。地球は、今いるから飛ばしたと。では次は・・・
土星でした。この橋からは、宇宙空間観測所自慢のパラボラアンテナも見えてきます。
銀河系の外へと広がってきました。最後はやはり天王星橋(ユウラナス)です。
5つの橋の名に、街を太陽に見立て惑星を順にならべるとは、感服致しました。
いつも何気なく通り過ぎている道沿いに、街のほこりや思い入れが込められていることを改めて知ることができました。今夜はジュピターでも聞きながら、はやぶさ2に思いを馳せてみましょう。
(次は、山も良いかもね。 M田)
※参考 肝付町ホームページ
7月に入りました。梅雨前線は日本列島の真上を横切って、局地的な大雨など活発な活動を続けています。そんな季節の中で、志布志湾沿岸の浜辺で繁殖を始めたコアジサシたち。その後の報告をすることにします。
5月末、コアジサシ100羽ほどが志布志湾に注ぐ河口近くの砂浜に飛来し、6月初旬には抱卵を確認することができました。その後、コロニーの中の鳥たちは少しずつ種類と数を増やし、6月10日過ぎには、ベニアジサシという岩礁で繁殖するといわれている種類も100羽を越えて加わり、卵を抱き始めたのです。このコロニーで少なくとも4種類200羽以上をカウントしました。
コアジサシは、産卵後20日ほどで雛が孵るとのことです。その日を楽しみに待つことに。
そして、抱卵を確認してから、ちょうど3週間たった夕方、見守っている方たちの一人から雛の写真が送られてきました。早速親鳥が雛に餌を与えている姿もとらえられています。これから次から次に孵化していく時期に入るのでしょう。
ところが、野生の厳しさは、人の手の届かないところにあるようです。
2日後の朝、コロニーが天敵のタヌキかイタチのなかまに襲われて、卵も雛も、親たちすらも姿を見ることができなくなってしまいました。残っていたのは、薄く掘られただけの砂の巣ばかりでした。
この志布志湾岸のなかで、営巣する場所をほかに見つけることができるのか、営巣しても雨や波、そして外敵から卵や雛を守り育てることができるのか。5000kmもの旅をしてこの海岸を選んだ鳥たちに、ここでもう一度子育てを見せてもらいたいものです。
季節は梅雨の真っ只中。こちら大隅半島では、紫陽花の盛りは過ぎ、蓮の花が開き始めました。鹿屋市串良支所の大賀蓮の蕾も雨に似合います。
(次回は悲しい思いはしたくない。 M田)
気象庁HPの「令和元年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)」によると5月31日ごろ、昨年より5日早く、南九州が梅雨入りしたようです。たしかにその日以降曇りか雨、じっとりとした気候になっています。あれほどわがもの顔で青空を泳いでいた鯉のぼりは姿を消し、紫陽花が静かに咲いているのがふさわしい季節になりました。
これから夏にかけて、いろいろな夏鳥たちも繁殖の時季を迎えているようです。
2017年にこのブログで紹介した、コアジサシ(小鯵刺)もはるばる東アジアからオセアニアにかけての地域から5000km近くの旅をして、志布志湾岸にやってきてくれました。今年は、5月末ごろからコロニーを形成し、抱卵を始めており、6月2日現在約100羽をカウントしました。
現在コアジサシは、鹿児島県版レッドリストでは絶滅危惧種Ⅰ類(絶滅の危機に瀕している種)に、位置づけされており、鹿児島県内での繁殖は確認できないとされている鳥です。
・・これまでのコアジサシブログ・・
参照①:2016年4月ぶらり旅(番外編)「帰っておいでコアジサシ ボランティア活動 in 志布志」
参照②:2017年8月ぶらり旅(番外編)「コアジサシが帰ってきました!」
参照③:2017年9月ぶらり旅(番外編)「コアジサシが帰ってきました!(2)」
ペアが成立すると、砂地に簡単なくぼみを作り、メスは1~3個ほどの卵を産みます。そして、雄雌交代で20日ほど抱卵したあと、雛がかえり、子育てが始まるのです。彼らは主に海の小魚を餌としており、求愛のときも子育てのときも、海に真っ逆さまにダイビングして小魚を取ってきては、パートナーや雛に与えている様子を観察することができます。
折りしも梅雨の季節と抱卵の期間が重なりますが、卵をできるだけ雨に濡らさないよう交代を繰り返すひたむきな姿に、しみじみとした感動を覚えずにはいられません。
ただ、砂地には、雨に削られた跡が生々しく残っており、これからの大雨でさらに広く深く浸食されるのは避けられないことでしょう。また、夏に向けて、大風や大波が砂浜を襲います。自然の影響を強く受ける中での子育て。環境省が実施した調査によると雛が飛べるようになる割合は例年1割にも満たない場合が多いそうです。
また、営巣地は、釣り人やレジャーで訪れる人たちが簡単に入ることができる場所で、入ってきた人に親鳥たちが驚いて、子育てを放棄してしまう恐れもあります。
降りしきる雨に翼を濡らしながら、雛がかえるまでひたすら温めつづける親鳥たちを、せめて人が脅かさないように静かに見守ることができればと思いました。
(次もここから報告できるのか M田)
参考文献:環境省「コアジサシ繁殖地の保全・配慮指針」
4月初旬、里の桜が散り終わるころ、肝付町国見山系では、アケボノツツジが開花の時期を迎えます。薄いピンクのその花に魅了されている山好きな人々は数多いようで、町観光協会が「アケボノツツジ群落お花見ツアー」の募集を開始したところ、たちまち定員に達したとのお噂でした。ただ、このツツジの開花時期は気象条件により前後するため予想は難しく、このツアーがドンピシャだったかは不詳です。
4月下旬の休日、アケボノの咲き残りでもあればという下心で、家人と甫与志岳に登ってみました。ポピュラーな姫門登山口から。案内看板には山頂まで60分の表示があります。
ここからの登山道は、よく整備されており、迷うような心配はありません。ただ、尾根道に出るまでは結構急な登りが何箇所かあり、呑みすぎ+運動不足+久々の登山者にとっては息が上がることしきりでした。
アケボノツツジばかりが花ではないぞ、登りながらそこに咲く花々を撮影すると称してしばしば足を止め、息を整えながらの山行となりました。それで今回は出会った花たちを紹介することにします。
登山道の湿った林床に、透明感のある白色をしたギンリョウソウ(銀竜草)。暗い山道に透けるような白さでうつむいて立つ姿から、ユウレイタケとも呼ばれるそうですが、見つけるとなぜかうれしくなる花のひとつです。
フデリンドウ(筆竜胆)。少し日当たりのよい斜面に一輪だけ咲いていました。高さは5~6cm。とても小さな春に咲くリンドウです。落ち葉をどかして撮影。
ヤマルリソウ(山瑠璃草)。花の直径は1cmあまり。花色が薄桃色から瑠璃色に変化するそうです。道脇に何箇所か群生していました。
甫与志岳山頂から国見山方向へしばらく歩いたところに、咲き始めのミツバツツジ(三葉躑躅)を一株見つけました。ゴールデンウイークに見ごろを迎えるツツジです。アケボノツツジは見られなかったけれど、こちらも山に登らないと出会えない花です。
息も切れ切れでしたが、心地よい風の中、楽しいぶらりとなりました。
(次は海が呼んでいるか。M田)
啓蟄が過ぎました。まちを囲む山を見回すと、あちらこちらに白い山桜が咲き、深まる春を実感させてくれます。
さて、今年正月、Hさんにお供して、波見、唐仁地区を歩いて中世のあたりを旅し、歴女ならぬ歴爺の仲間に入ってしまいました。この地をはぐくんできた歴史やその成り立ちを、これまで何も知らなかったことを少し反省しながら、ぶらりを続けております。
前回までの中世から一気に、4~5世紀・古墳時代に遡ります。しかし、場所は前回と同じ東串良町唐仁地区。ここには国指定史跡「唐仁古墳群」として、大小130基あまりの古墳が集中しているのです。その中心に位置し、最大規模を誇るのが大塚神社として祭られている「第1号古墳」(大塚古墳)です。
鳥居のうしろにある森が、長径が185mほどもある県下最大、九州でも3番目に大きな前方後円墳なのです。後円部の高さは現在11mほど、建造時はそれ以上あったといわれています。
海抜5~7mの平地の上に、これほど大きな規模のお墓。このことは、その時代に一大土木事業を実施できる絶大な経済力と支配力を持った一族が存在したことの証でしょう。
などと思いを馳せながら鳥居をくぐり、まずは、古墳の周囲(堀だったのか)をぐるりと歩いてみました。
そこは、大きく枝を張り出した楠や椎の巨木がしっかりと根を張って、隙間なく杜(もり)を形作っています。そして、その林床はみごとに清掃されており、地域の方がたのこの神社(古墳)に対する畏敬の思いが伝わってきます。
参道に戻り、真北に進むと後円部に鎮座する社殿へ登る階段が見えてきます。
この階段がいい。緑の苔に覆われた石段は、長い歴史の中で擦り減り、その踏みしろはわずか15cmと驚くほど狭いのです。これは足元をしっかり見ながらゆっくりと参詣するための仕掛けなのかなと思わずにはいられません。
社殿からは真南に唐仁の目抜き通りを経て、国見連山を望むことができました。その時代海抜13m程度といえば、肝属平野に視界を遮るものは何もなく、この地全方位を見回せる場所であったことでしょう。もちろん、ここには特別な人しか登れなかったはずです。
ここに建つ正月飾りの注連縄は社殿を背にしていることに気づき、何か特別の理由があるのではないかなどと、歴史の妄想にふけってしまうのであります。
今回のお供でこの地域の歴史に触れることができ、旧友Hさんに感謝しつつ、機会があればもっと歴史の想像にふけってもいいなと思いつつ。
(次は山へ行こうか?M田)
2月5日は旧暦の元旦。こちら大隅では梅や緋寒桜が丁度満開となり、さわやかな香りを漂わせています。初春と呼ぶにふさわしい季節を迎えました。
先月Hさんに誘われて、肝付町波見を散策しながら、中世から藩政時代にかけて、この地に日本有数の財力を有する人々が実在していたことを知りました。そして、その人たちは、志布志湾に注ぐ肝属川河口を本拠地として、海を渡り、中国大陸や南方諸島との交易を活発におこなっていたのです。
Hさんが、「今の行政区域が歴史の舞台だったわけがなく、肝属川両岸に広かる地域、さらには志布志湾岸を一帯としてとらえるべき。まずは、対岸の東串良柏原、唐仁あたりに行ってみよう。」と言うので、有明大橋を渡って東串良町に入り、柏原を経て、少し上流に位置する唐仁にやってきました。道のりにして約4Km。
いつもはここは、田んぼの中に広がっているごく普通の集落として通過しています。この日はじめて、むらの真ん中を南北に伸びている道を、車から降りて歩いてみました。
人が設計して造ったに違いないまっすぐな道は、ブロック塀とコンクリート側溝にはさまれています。一見近頃作られた集落道路に見えますが、500mほどの間、十字路はなく左右からの丁字路になっており、突き当たりの壁には文字も判別できないほど風化した「石敢當」(せっかんとう)が丁字路の数だけひっそりと建っていて、この道がただ者ではないことを証しているようです。近年整備はされたものの、この小路の歴史はどれほどなのでしょうか。
Hさんによると「石敢當」は突き当たりの家に魔物が入らないようにするための魔よけの石碑で、中国福建省あたりから発祥し、沖縄、鹿児島に伝わってきたのだそうです。やはり、ここも海を越えて交易をしてきた人々が実在していたのでしょう。あるいは、唐仁と言う名の示すように中国大陸からやってきたり、連れてこられたりした人々が住んでいただろうという推測はできるのかもしれません。(Hさんはそのように確信しているようですが。)
東串良町郷土史を読んでみると、確かにこの地にも、中世から近世にかけて、波見にも劣らない財力をもった幾つかの家系があったことが記されており、今も末裔の方々が居住されているようです。
何気なく通り過ぎている村や小路に、現状では想像できないような人々の暮らしぶりや、豪快な経済活動があったことを、てくてく歩くことで垣間見ることができました。
川を背に北に歩いて大塚神社に向かい歴史の旅のお供は続きます。
(はまったか?M田)
新年明けましておめでとうございます。
平成最後のお正月は、南国の冬としても暖かく穏やかでした。
みなさまのところは如何だったでしょうか。
昨年の暮れ、高校時代からの友人で歴史に深い造詣を持つHさんから、1月はじめに高山、東串良のあたりを見に行きたいので案内してくれないかとの依頼がありました。今年、弊社の年始休暇には、ゆとりがあったので、一日丸まるお供することにしました。
「時代をさかのぼって、古代4~7世紀あたりと、中世14~17世紀のころを現地で想像したい。」というのが、Hさんの来訪目的のひとつ。志布志湾に面する「波見」と「下伊倉」、「唐仁」を、おじさん二人でじっくり歩いてみました。
まずは、波見へ。高山郷土誌(平成9年発行)には、波見港が、柏原港ととともに大隅半島における海上交通の要所であり、中世においては、日本人の海外雄飛への根拠地あり貿易港であったこと(室町時代は和寇として)。江戸時代は密貿易港として琉球を通じて中国や南方からの物資を交易し島津藩の財政を潤し、外来文化の玄関口ともなったこと。豪商重(しげ)家は室町時代からこの地で交易を行い、幕末においては全国長者番付で西の関脇であったこと。などが記されています。
波見浦の屋敷跡は、道沿いに堅牢な長い石積みが続いており、数百年の歴史と、その豊かさが実感として伝わってきます。海外から訪れた人々や、商人、船人、船を建造・修理する人々などのほか、番所に勤める役人たちも、この石垣の道を往来したことを想像すると、当時の賑わいにわくわくしてきます。
いくつか残る倉の窓上のひとつには恵比寿さんが満面の笑顔を浮かべています。この浦町に並々ならぬ冨が集められたことを象徴しているようです。はるか中国や南方からの物資はこの倉に入り、国内のあちこちに財として伝わっていったことでしょう。
さらに、海沿いの通りに歩くと権現山を背に、海に向かって「戸柱神社」が鎮座されています。この神社の石造りの鳥居には、「天保5年8月吉日」(1834年)の文字が刻まれ、交易に携わっていた商人たちの財力がどれほどだったかを示しているようです。
ここの境内から権現山へ登る歩道が整備されているようです。志布志湾を見守ると同時に、山上では航行の監視も行われていたことでしょう。この後、車で権現山に登り、志布志湾岸、下伊倉、唐仁との位置関係を俯瞰して、東串良町へと向かいました。
(続くのか M田)
師走に入りました。上旬は、散歩をすると汗ばむほどの記録的な暖かさでしたが、大雪を過ぎた今日この頃、やっといつもの冬にもどったようです。冬といえばコタツ、コタツといえば宿題しながら聞いていた深夜放送。
我が家には、M田が中学1年の冬に、お年玉と親にねだって買ってもらったラジオが現役で音を出しています。その名も高き「ナショナル2000GXワールドボーイ」。これで「つるこう」とか「ちんぺい」とか「なかじま」とか寝ずに聞いたものでした。もう50年近く、苦楽をともにしていますが、文句ひとついわず付いてきてくれました。まことに見上げたものです。
このラジオから初めてFMバンドを聞いたときは、その音質にびっくりしたのを覚えています。今も少し錆びたアンテナで電波をしっかり拾って放送を聞かせてくれています。
家人がもっぱら選局しているのは「FMきもつき」。町内に基地をもつコミュニティFM局で、弊社の本社工場のすぐ近くの高台に建つ「勤労青少年ホーム」の一室にスタジオを構えています。
朱の鳥居をくぐり、神社の参道を登るというちょいと奇妙な感じの場に建てられている「勤労青少年ホーム」ですが、ここで肝付町の青年たちがいろいろなドラマを繰り広げてきたと噂されています。
このスタジオでは週に3本ほどの収録が行われているそうで、今日は「じじ放談」という、文字通り60歳を超えるおじさんたちが、テーマも決めずに好きなことを話題になるようになるという構成で番組収録の最中でした。とても楽しそうに会話がはずんでいます。
このスタジオは、災害時の停電の中でも3日間放送を継続できるよう非常用バッテリーが備え付けてあるそうです。高台の建物を選んだのもそのような目的があったのでしょう。
ここから肝付町全体に放送を届けるために、国見山、荒西山など3中継局が設置されています。肝付町は国見連山という700mを超える山壁で高山と内之浦が隔てられているので、電波を飛ばすのにもご苦労があるようです。
実はこの放送局は、鹿屋市と志布志市、そして肝付町の2市1町のコミュニティFM局がネットワークを組んで、共同の情報を送れるシステムを構築しているのですが、これは全国でも類を見ない仕組みだということで、総務省もびっくりだったそうです。
もしもの時は補完しあって、さまざまな情報を発信していけるのは、住民にとって、災害への備えとして大いに貢献するものと思われます。
開局10年を超え、小さなアンテナは、今後さらに身近で心強い情報を町民に提供してくれるはずです。
(次は新年 何を見ようかM田)
暦のうえでは立冬を迎えましたが、南国大隅は、最高気温は20℃を上回り、最低気温は10℃あたり。日中は汗ばむ陽気が続いており、服装は長袖シャツに薄手のベストという取り合わせで心地よく過ごしています。
この季節、当地に広がる照葉樹林帯では、樹々を見上げれば、むかご、あけび、こくわ、どんぐりなどがたわわに実をつけ、林床にはきのこの仲間が顔を覗かせているはずです。夏場はすっかり眠っていたはずの狩猟採集民の血が沸々と騒ぎはじめ、山へ山へと視線が向いてしまうのであります。
日曜日の朝、ドリカムの「晴れたらいいね」(26年前のNHK朝ドラ『ひらり』テーマ曲)を口ずさみながら、庭の手入れをしていると、若い友人から「今年は、“ばかまつたけ”が豊作だそうな!」という夢のような情報が飛び込んできました。まつたけの前に「ばか」とは実にひどいネーミングですが、赤松林ではなく広葉樹林にはえるきのこで、香りは弱いながらも姿はれっきとしたまつたけの仲間なのです。20年ほど前この辺りの山中で何本か見つけて、大喜びしたことを思い出しました。
早速、こりゃ山へ行こうと言うことになり、自宅から20分、国見トンネル上部の林道へとドライブ。この辺りは沢沿いに急峻な谷が照葉樹で覆われており、採集の楽しみにあふれています。
路側スペースに車を置き、藪を分け、沢を渡るとすぐに「万滝」の看板が見つかりました。
地元で「万滝」と呼ばれ親しまれている滝へ通じる沢沿いの小径で探索しようという魂胆。
台風の風雨で岩崩れがおきて、上に根を張っていた大きな樹木が横倒しになっています。
倒木にびっしりと生えている白いきのこ。ぬめりたけもどきです。弱々しい姿ですが、火を通すと実に良い食感になり、すき焼きに入れるととても美味しくいただけます。
樫の木の根元にも。
ほうき茸の仲間を発見。菌のひだ先がネズミの足のように見えることから「ねずみ茸」とも呼ばれています。鹿児島では「ねったけ」、煮付けや煮染めにして食べられています。ふっくらとしたおなかのところが美味しいきのこです。
枯れ落ちた枝には、野生の椎茸が良い感じで広がっています。よく似ている有毒の「つきよたけ」を誤食し、中毒する事故が絶えません。注意しましょう。
きのこを探して、下ばかり見ていると、沢の音が大きく聞こえてきました。入り口から上流に300mほども歩いたでしょうか。小径がなくなり沢を登ると、目のまえに大きな岩肌を滑り落ちる万滝が見えてきます。
落差は30mと言われていますが、近づくともっと高いように感じます。花崗岩の一枚岩を三段に流れ落ちる滝は壮観。秋の空に白い流れが良く映えていました。地味だけどしみじみとした風格を感じる滝です。冬には凍ることもあるという万滝。それも一度見に来たいと思いました。
きのこも採れたし、滝を見ながらコーヒーを一杯。ごちそうさま。
(次はばかまつたけの山かな?M田)
秋のお彼岸がすぎると、南国肝付も秋らしさが増してきます。
田んぼの稲の収穫は終わり、シラス台地の上に広がる広大な畑地では、焼酎やデンプンの原料となるサツマイモの収穫が本格的に始まりました。今年は24号、25号と9月末から10月はじめに掛けて立て続けに襲来し、ほかの農作物への被害も出ているようですが、サツマイモはさほどの影響は無かったように聞いています。
台風が過ぎると、九州は大陸からの高気圧におおわれ、澄みきった青空が広がります。この時季になると、夏鳥は日本で生まれた幼鳥を伴って南方へと渡っていくのです。なかでもサシバという鷹の仲間は、おもに大隅半島を通って、佐多岬から南西諸島伝いに、インドネシアやフィリピンへと南下することが知られています。
日が昇り始めるころから発生する上昇気流をとらえて、数十、数百ものサシバが帆翔することで上空へ舞い上がっていきます。その様子は縦長であったり、ボールのようであったりするので鷹柱と呼ばれています。高度を得たものから順に滑空をしながら渡っていくのです。
自宅上空では10月2日、3日の2日間で約1000羽を見ることができました。また、県立大隅広域公園の観察会では10月7日2160羽、8日2350羽をカウントしたそうです。
年々その数が減少していると言われているサシバですが、繁殖地の保全や越冬地での密漁禁止などの活動が広がっており、絶滅危惧種への保護意識は高まっているようです。
サシバの渡りを追いながら、いつまでもこの町の上空で舞ってほしいものだと祈らずにはいられません。
(次は海かな M田)
9月の声を聞いたとたん、風が涼しくなりました。柿も色づきを増し、葛のやぶ奧には紫の花穂も見えております。蝉の声もいつのまにか「カナカナ」に替わっているようです。
月初め、論地工場へ行こうと下住工場を出て、高良(たから)橋を渡り、ふと右手の旧鉄道跡の土手に目をやると、ふだんは全く人気のない桜並木のみちに多くの人影が見えました。馬もいます。
肝付町の秋の大祭「流鏑馬」の練習が、今年も始まったようです。早速右折して、堤防へ。
この地の流鏑馬は、高山「四十九所神社」に毎年10月半ばに奉納される神事で、900年の歴史を持つと言われています。今は射手(騎乗する少年)を、8月に肝付町在住の中学2年生から希望を募り、9月から馬に触れるところから訓練する慣わしになっています。十四歳の少年が、わずか一月半で、手綱を放し疾走する馬上から、弓を引き矢を放つまでに技を磨いていくわけです。
鉄道跡に行ってみると、少年はもう片手だけで手綱を引いて、馬を早駆けさせていました。
大勢の人影は「綱持ち」と呼ばれる加勢人で、今日は高山中学二年生の有志が50人ほど。本番同様、馬の走る方向の右手1.5mくらいに、3町(約330m)にわたってまっすぐに張られた綱をもって立ち、訓練を見守っているところでした。馬にも人に慣れさせる訓練を兼ねているのでしょう。目の前を疾走する馬、綱持ちも結構勇気の要る役割です、みんな良い感じで緊張気味。
指導をし、神事の準備を進めるのは「高山流鏑馬保存会」の方々。この時期からは仕事そっちのけの日々が始まります。疾駆する馬の正面に立って、走りをおさめるのも慣れたものです。が、どちらも大変ですよね。
今年、平成最後の(2018年)の射手は、大園悠馬君。高山中学校の二年生です。バスケット部に所属しているそうで、乗馬の勘は鋭いと保存会のおじさんたちが言っておりますが、まったくそのとおりでしょう。
そして、そのお父さん、健一さんは、昭和最後63年(1988年)の射手なのだそう。しかも流鏑馬の長い歴史の中で、親子での射手は初めてとのことです。何か運命的なものがあるような気もします。
練習は毎夕方、1日四回騎乗。これから本番に向け短い期間の中で、一段ずつレベルを上げる厳しい練習が続きます。
夕焼け空の下お父さんは、毎回息子の無事を祈りつつ、うつむき加減に歩きながら真砂を撒き、馬場を浄めるのです。これを見るだけでもジンとくるものが。そして、お母さんは、あの明子姉さん(※1)のように息子の姿を遠くで見ています。さらにジンとくる。
実は、綱持ちは、練習している馬場に行けば誰でも参加できるのです。近くで見ると、すごい迫力が堪能できるうえに、射手や、お父さんがひとり一人にお礼を言ってくれます。これも感動ものです。近くにおいでの方は参加必見、その価値は十分にあります。
秋がいよいよ深まるこの時期、つるべ落としの夕刻、「やっさん」(流鏑馬祭り)までその準備を見続けるのも、肝付の季節を楽しむひとつの方法かもしれません。
(次は秋空を見るか M田)
※1 梶原一騎原作 川崎のぼる作画「巨人の星」より 明子は主人公星飛雄馬の姉
※2 後射手とは前年の射手で、射手の乗った馬を全力で追走する。射手に事故ある場合は則交代できる技量を持つ。
取材協力 高山流鏑馬保存会
残暑お見舞い申し上げます。
台風12号が去った後、当地でも身体に危険な暑さが続いています。工場内のスポットクーラーや大型扇風機も効果をあらわせないほど気温があがり、熱中症の予防注意が欠かせません。
この時期、大隅半島中南部において、ビールのあてにはもっぱら、塩ゆで落花生が出されます。
この地方の労働者の塩分補給はこれで行われていると言っても過言ではないぐらいの量と頻度で提供されるのです。湯気の上がってる小さなこいつと、冷たくてグッと来るあいつは、まさに永遠の、最強バッテリー。キモツキンリーグ・バンシャクズのサトナカくんとヤマダくんなのであります。
ある日風呂あがりに、こいつらをやっていると、音楽好きの友人から電話がありました。彼もすでに泡をやっているようで「ヨカトコイガ デケタドゥ。ウトデ キッケコンケ。ショチュモ アイヨ。」とのこと。直訳すると「以前建築関連会社だったあの事務所が改装され、ライブハウス風のスペースになった。今度バンドで演奏するから来ないか。音楽を聴きながら酒も飲めるぞ!」となります。
指定された日曜の夕方、うちの本社工場からほど近いところにあるそのスタジオへ。
かなり派手めなおねぇちゃんが横たわる看板には、
「きもつき 街の音楽室 Music Bar & Live House」とあります。つまり、学校の音楽室のように好きな人々が練習できるスペースで、たまにはそんな仲間たちの音楽を聴きながら飲んだり歌ったりするところということでしょうか。なんだかわくわくしながら中に入りました。
すでに、会場は盛り上がっていました。アコースティックな楽曲が演奏される中、50席ほどある客席では、ちょっとお酒がきいているのか意気投合の様子のおじさんたちや、ファンとおぼしき曲に聞き入るお姉さんたちが、普段は見せることない実にいい顔をしています。やはりライブですなぁ。M田も300円で買ったビールを片手に残り少ない客席を探して滑り込むことに。
次は演歌も交えて演奏するグループが登場。その演奏は、観客も思わず話をやめて聞き入るほど。
この時、N崎くんから肩を叩かれびっくり。彼はこのバンドのメンバーをよく知っていて、ビールを飲みながら裏話をいろいろ聞かせてくれました。このバンドのベースをやっているのが、私の年上の友人で、あの「吾亦紅」をしみじみと歌ってくれたのです。古希を迎える彼のしゃがれた声からは、深く温かい思いが伝わってきました。
最後にオーナーの有馬さんとお話しをすることができました。
実は有馬さん自身もプレーヤーでスタジオを作りたいと思っていたそうで、この春に今までの仕事がひと区切りつき、事務所を改装することに。6月にこのスペースができあがり、音楽仲間に声をかけ、7月から本格的にそれぞれのバンドがライブをするようになったとのことです。
本当に、ヨカトコイガデケタど。ありがとうございます。次のライブも楽しみ。
(次は秋の海かな M田)
今日は七夕です。
昨日来の猛烈な大雨で西日本を中心に洪水や崖崩れなどが発生しています。
被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
この時季、肝付では、七夕かざりが商店街を彩っています。商工会の呼びかけで、保育園や幼稚園、小学校が各クラス毎に、また、社会福祉施設や自主的なグループがそれぞれ飾り付けをした笹竿をお店の前の外灯に立てているのです。町並みに手作りの紙鎖や切り紙、短冊などが揺れるのは、派手さはありませんが、しみじみと季節感が伝わってきます。
ところが、新暦の七夕は梅雨のさなか。それぞれが心を尽くした飾り紙は、雨に打たれて落ちてしまうことが多いのです。今年も飾って二、三日はさらさらと揺れていたのですが、このところの雨ですっかり寂しくなってしまいました。なかば今回の取材は諦めていたところ、その筋に詳しいM理さんから、温泉ドームにきれいな七夕かざりが残っているとの情報。
行ってみると、左右対で飾られていました。そうそう、このさらりとした風情がよろしい。むかしむかしの夏の初めがよみがえるというものです。短冊にいろいろな願い事を書きました。「なわとびが上手になりますように」とか「宇宙に行きたい」とか。誰かが書いた短冊の願いごとをちらりと読んでみたいのも人情です。
なるほど直球。M田も同感です。なかには、「世界平和」とか「給与UP」とか。
そういえば、パソコンやスマホを使ってばかりで、紙に思いを書くことから遠ざかっているような気がします。旧暦の七夕にはまだ十分日にちがあるので、短冊におじさんなりの願い事を書いてみたくなりました。書けば叶うような、ほどほどの。
さて、雨が苦手な七夕かざり。雨の似合う花と言えば紫陽花ですが、こちらではもう時期をすぎてしまいました。これからの季節、花にも葉にも雨粒が遊ぶような蓮も楽しみです。鹿屋市の串良支所敷地には、昔の濠が保存されており、そこを利用して蓮が植えられています。
「この蓮は弥生時代そのままの種だそうで、1951年に千葉で発掘された3粒の蓮の実から発芽させたものを株分けで殖やし育てたと説明書きに記されています。開花させた植物学者、大賀一郎博士の姓をとって「大賀蓮」と呼ばれているそうです。なんと天然記念物。
小雨の日にゆっくり見に行きましょう。
(次はやっぱり海へ行きたいな M田)
肝付町の東岸は、太平洋の荒波に洗われて、山裾が削られ白い崖や巨石となって海辺まで迫り、荒々しい海岸線を形づくっています。特に岸良から佐多に掛けては、石鯛釣りのメッカとなっているようで、あの「釣りバカ日誌」にも登場しました。山佐木材の釣り部の面々もかなりの頻度で通っているようですが釣果についてはちらほらとしか聞き及びません。
そんな海岸ですが、「岸良(きしら)」と「辺塚(へつか)」、ふたつの湾の奧にだけ砂浜が横たわり、訪れるものを柔らかく迎えてくれるのです。どちらも花崗岩質の山から川によって運ばれた、石英を多く含んだ白っぽい砂におおわれています。今回は最南の辺塚海岸に行ってきました。
ここは国道448号を船間から県道74号に乗り換えた先に位置しているため、訪れる人はほとんどいないようです。日曜日のお昼過ぎに着いた砂浜には、親子連れらしい足跡が残っているだけでした。私まで入れてこの日3人目ということでしょうか。波打ちぎわを歩くと、踏みしめる音が聞こえてきそうなくらいきれいな砂です。
梅雨空の下、穏やかな波音に包まれながらあっちの端まで行ってみることにしました。歩いて往復しても20分とはかからない距離です。砂浜の一番北の端におもしろい模様を見つけました。
海亀が上陸した足跡です。この亀は上がってはみたものの、何かが気に入らず手前でUターンして海に戻ってしまったようです。
この美しい辺塚海岸に、これから夏に向けて何頭もの海亀が這い上がり、卵を産み、厳しい自然の中で生命を繋いでいくことを祈りたいと思います。
もうひとつ。
この地域の家々に限って、庭先に植えられていた「ヘッカデデ(辺塚だいだい)」と呼ばれる柑橘類があります。
「だいだい」の名は付いていますが、沖縄のシークヮサーや大分のかぼすの仲間だそうで、8月頃の青い実は酸っぱくて、さっぱりとした良い香りがします。
半割にして焼酎にいれると美味しいんです。今はジュースやドレッシングにも加工されて市販されています。青いうち収穫せずにそのまま冬を越す頃には実は黄色く熟して、果汁に甘みが乗ってきます。
もちろんこのまま飲んでも美味しいのですが、刻んだ皮をジュースで煮込み、マーマレードにすると絶品。香りとほどほどの苦みがパンやヨーグルトに良く合います。
大隅半島でもさらに奥まった手つかずの地域。この辺りは、陸路は急峻な細道しかなく、また海路は外洋の荒波が厳しく、昔は人の行き来が容易ではなかったようです。今は時間さえ作れば、その手つかずの魅力を存分に楽しむことができる。
ぜひ足を伸ばしてみられてはいかがでしょうか。
(次も海にいきたい M田)
皆様、4月の終わりからの大型連休、大いに楽しまれたことでしょう。5月5日、6日辺りはまだうっすらと記憶に残っているかも知れませんが、心に残るイベントを組まずに過ごされた方にとっては、4月29日に何をしたかもう思い出すこともできない、忘却の彼方になっちゃったのではないでしょうか。「年かなぁ」などとため息をつきたくもなります。
そんなあなたにお勧めなのが、毎年かかさず同じ日同じ行事に行くこと。これは効く。私の経験では、ほぼ100%忘れることはありません。ぜひ、お試し下さい。
というわけで、今年も4月29日、志布志お釈迦祭りに行ってきました。この前は遅刻して、メインイベントを見逃したので、早起きして参じました。
9時過ぎから稚児行列が始まります。ここのお稚児さんは、自分で歩くのではなく、紅白に飾り付けられた籠に乗せられて進みます。担ぎ手は、たいていお父さんやお祖父さんでお母さんたちは籠の横について歩くのがしきたりのようです。この籠には年齢制限ではなく体重制限が設けられているという噂です。ともあれ、眉と鼻に白粉をつけてもらったお稚児さんがちょこんと座った姿は可愛いこと。1.2kmほど歩くそうですが、担ぎ手は孫子のためならということでしょう。大変そうです。
子供たちが通り過ぎると、その後ろからは、朝早く、お寺で仏前結婚式を挙げた新婚さんがお嫁さんをシャンシャン馬に乗せてやってきます。毎年5組ほどのようです。
黒紋付きに錦の帯、角隠しで装いを整えた花嫁さんの姿は、白無垢とは違う落ち着いた雰囲気を醸し出しています。馬の口を引くのは紋付き袴の新郎たち。なんとも晴れやかな行列です。どうかお幸せにと、祈るばかりであります。
こちらのカップルたちは、メイン会場の宝満寺まで歩いたあと、甘茶をお掛けして、合同披露宴的イベントに臨むそうです。こちらも早朝からお昼まで長時間大変なことでしょうが、一生の思い出には苦労はつきものです。
そもそもを忘れておりました。お釈迦祭りは灌仏会、別名「お花祭り」。屋根を花で飾った花御堂の中に、片手を天に向けて立っておられる生まれたてのお釈迦様の像に小さな竹の杓子で甘茶を注ぎ掛け無病息災を祈願する行事です。年齢の数だけ注ぐのが慣わしになっているようで、高齢者が続くと花御堂の周りは大勢の人垣でいっぱいになります。
傍らには、甘茶が用意されていて、参拝した善男善女たちは、暖かくほろ甘い一杯をいただくことになっております。
ところで、沿道には、焼きトウモロコシ、焼きイカ、りんご飴、たこ焼きなどなどお祭りにつきものの出店が並んでいます。どれも捨てがたい味がありますが、ここは志布志の商店街。いつもの店先に自慢の商品も並んでいます。お寿司屋さんは、押し寿司やちらし寿司を、お魚屋さんは鯵や締め鯖をパックにしてワンコインで売っています。こちらも美味しくいただきました。
(次は夏。海かな M田)
今年の春は、九州大隅半島を駆け足で過ぎていったようです。
3月25日には桜が満開となり、花見をする暇もなく、その後の暖かさの中で立待ち葉桜になってしまいました。早く芽を出せと掘るのを楽しみにしていた筍も、ちょっと油断した間にすくすくと成長して大人の背丈ほどになってしまったものもあります。タラノメなどは、芽ではなくなった掌ほどの若葉をかろうじて天麩羅にすることができました。
そんな悔しい春を過ごす中、年上の友人から曙つつじ鑑賞登山のお誘いが、ショートメールで舞いこみました。
鹿児島県内では、曙つつじを見ることのできる山はどうも限られているようで、肝付町国見山系が数少ないうちの一つにあげられています。登山道周辺に自生地が見られるのは甫与志岳と黒尊岳の中間あたりだそうですが、M田はまだ実物を見たことはないのであります。
とある日曜日早朝、友人、家人と三人で一路、姫門(ひめかど)林道へ。車で横付けできる甫与志岳への登山口はここだけなのです。駐車場にはすでに先客が何台も、宮崎・大分ナンバーも停まっていました。
登山口からちょうど1時間ほど登ると、甫与志岳山頂下の尾根道にでます。ここからルートを北に、黒尊岳方向にとり、なだらかな尾根の起伏をゆったりと。
椿の赤い花が落ちる道を歩くこと40分ほどでつつじの最初の群落が見えてきました。白に近いピンクの花が枝一面に着いています。
少し盛りを過ぎている枝もあれば、まだ蕾の花もありますが、この花色は春の空によく似合います。さらに黒尊岳の斜面に目をやると、新緑のなかでいくつもの群落が咲いているのが見て取れました。この山の曙つつじの樹が太く大きく、その枝々にたくさんの花を咲かせているからでしょう。
つつじの鑑賞を堪能し、甫与志岳頂上(968m)へ向かいました。
馬酔木の花が満開の頂上は、春の日差しで暖かく、ここで昼食を取っているお仲間もいました。青空の下最高のランチだったことでしょう。
山頂からは、もと来た道を「こんなに急だったかなぁ。」などと余裕を見せつつ50分くだり、大満足で曙つつじ鑑賞登山を終えたのでした。
(次こそ海か? M田)
1月の中頃、この九州の南端でも山には雪が積むほどの寒さでした。春と呼ぶにはまだまだ早い。肌で感じる季節としては初春というよりまだ冬です。
それが2月に入り立春を迎えると木々の枝先はやや赤みを帯びてきて、枯れ草の間から緑の芽が見え始めます。それから10日ほどたった2月16日(金曜日)が、今年の旧暦の正月元旦でした。「新春のお慶びを申し上げます。」という挨拶が、老若男女どなたにもしっくりと受け入れてもらえる肌持ちです。新月の闇の濃い夜が過ぎるころ、白々と明るくなっていく山ぎわから昇る朝日には、晴れ晴れとした快さと暖かさが実感できます。
その週の日曜日。陽気に誘われ春とこの時期のおいしいものを探して散策に出かけることに。拙宅の生け垣周りの草も少し伸びてきました。椿の木の下にはみつばが柔らかな若葉をひろげています。スーパーでは水耕栽培のヒョロッとしたものが一年を通して並べられていますが、あれとは香りも歯ごたえもまるで別物。こいつをたっぷり採って、白和えにしていただくことに。当地では白和えは白味噌仕立てです。今時分、焼酎のつまみとしてこれに勝るものは無いでしょう。
昨年12月に友人二人の手を借りてして間伐を行い、日当たりのよくなった竹山へ行ってみました。孟宗竹の筍はまだ地面から顔を出してはいません。でも靴の底で注意深く探りながら歩いていると、いやはや本当に春なのですなぁ、とんがり頭を発見。まだ、中指ほどの長さですが。
1本の根から5本仲良く並んでおりました。こちらは、「掘った・焼いた・食った」の瞬速三段焼き筍にして食べることにします。みなさまお先にはふはふっ。
そういえば去年もこの時期同じような春さがしをしました。二股トンネルの北にある、ねこやなぎの群落。昨年は1月21日(旧暦12月24日)に訪れて、まだ花穂は出始めというところでした。今年は2月18日(旧暦1月3日)。新暦では去年より1ヶ月ほど遅いことになります。1ヶ月違えば花穂は盛りを過ぎてしまうころでしょう。しかし、旧暦ではわずか10日の遅れです。どんなようすなのか気になって、岸良高山線を南にドライブすること20分。人気のない山に入って5分。
群落は一面銀色にふわふわと輝いておりました。堅く赤いさやはなく、ねこやなぎの花、一番の見頃です。いささか乱暴なとらえ方ではありますが、ねこやなぎの花穂に限ってみると、旧暦に近い巡りで旬を迎えているようです。
かく言うM田にしてみても、ねこやなぎ同様旧暦に添って季節を感じる方がしっくり来る。体が無理をしないような気がします。
今日は啓蟄。貫禄のある足高蜘蛛(アシダカグモ)初見、家人は大騒ぎ。いよいよ春たけなわです。
(次は海か?M田)
※参考文献 小林弦彦著『旧暦は暮らしの羅針盤』NHK出版
「初春を探そうか。」などという風流な気持ちも、しょんぼりとしぼんでしまいそうなこのところの寒さです。身をちぢめているせいでしょうか、なんと左の肩胛骨当たりが痛い・・・神経痛になっちゃたようです。しかし、こんなことで挫けてはいられない、今回は全国にも希なイベントが発生するというので気張って出かけることにしました。
わが肝付町には、宇宙航空研究開発機構JAXAのロケット発射場があります。ここから1月18日(木)午前6時6分11秒にイプシロンロケット3号機が打ち上げられるのです。流石に科学の力、宇宙の事情によって、11秒が肝なのでしょう。が、M田にとっては「これなら発射を見てから会社に行けるじゃありませんか。片道1時間の距離まで余裕で往復可能!」の時刻と解釈してしまうのであります。負けじとこちらも秒読みで行動。
当日4時50分22秒に起床、身支度を整えて、5時3分57秒、岸良方向へ向けて発車。普段は通る車もいない経路ですが、さすがに前を走っている車のテールランプが三つ、二つ見え隠れしています。
岸良繁華街中心部には、消防車&救急車も待機、交差点から内之浦方面へは交通規制がかけられ一般車は通行できません。そこで、国道448号を錦江町方向へ右折し、船間方面へ。1㎞ほど行くと岸良海岸の駐車場がやたら明るい。幾台もの投光機が周りを照らし、車両案内係も配置されロケット発射見学場に様変わりしています。
5時52分16秒、ボランティア案内係りのY田君の誘導で車止め完了。すでに駐車場は50台以上で満車となっています。係りの人たちは前の日の午後9時から配置についているとのこと。ご苦労様です。Y田君コーヒーありがとね。おいしかったです。
まだ星が瞬く夜明け前の浜の堤防は、打ち上げを待つ見学者たちが発射場に向かって横一列に並んでいるようです。寒いなかでも、なんだかわくわく感が伝わってきました。
ちょうど60秒前から、町内防災放送の大スピーカーから射場のカウントダウンが中継され、気持ちが高揚してきます。「スリー、ツー、ワン、ゼロ、リフトアップ・・・」閃光が見学者たちの顔をはっきり見えるくらいに輝き、皆さんの歓声の後に爆音が響いてきました。
ロケットの軌跡は、轟音を残しながら南の空高く弧を描いて揚がっていきました。初めて発射場の近場で見学しましたが、その迫力と美しさに恥ずかしながら感動を覚えました。これからロケットはできればこの時間に打ち上げてほしいものです。
岸良見学場を早速後にして、出社の途につきました。峠のトンネルを抜け、明け始めた道を30kmのドライブ。開けた畑の中の一本道で、ふと見上げると、オレンジに柔らかく輝く光のひだが空に舞っています。まさかオーロラ?ではないでしょうが、人生で一度も見たことのないそれはそれはきれいな光景でした。
夜光雲と呼ばれる現象だそうです。やはり早起きはするものです。いやはや大満足の朝でした。この日は春のような暖かさ、夕方自宅の庭の梅がいくつか花を開いていました。
(美しい写真はN野君にまかせて、次は春のおいしい物でも探そうか M田)
皆様、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
さて、新年に入り、当地はお天気に恵まれ、暖かく穏やかなお正月三が日でした。雨や雪でも降れば家の中でお屠蘇と称して、ちびりちびりごろごろ~ちびりちびりぐぅぐぅといきたいところですが・・・。
陽気に誘われた家人たちにはその楽しみは理解してもらえるわけもなく、初詣に引っ張り出されました。たまたま、私が節目の年を迎えたことも神社詣の理由でもあったのです。
まずは、四十九所神社へ。永観2年(986年)の創建と言われているので千年以上の歴史をもつ高山一位の郷社です。
さすがに、出店なども並んで賑やかで、参拝客も多く、年始めの挨拶が忙しいほどでした。社殿前には御神酒(樽酒)も用意されており、一すくいご馳走になりました。家人たちはお札とおみくじ、おまけにアメリカンドッグを購入しておりました。
さて、高山に来られればお気づきになる人はお気づきになるのでしょうが、この地には神社がやたら多いのです。四十九所神社から南へ1丁ごしに、御社神社、八幡神社と並んでおり、北と西には南方、竹田の2社が、東には護国神社、稲荷神社が鎮座されております。郷土誌によると中世に創建された主なものだけでも27社を数えます。
それで、他地区の神社(四十九所神社は新富地区)にも詣でてみようと言うことになり、前田地区代表 南方神社、後田地区代表天岩戸別神社(通称トガンサァ)に参拝しました。
南方神社は14世紀半ばの創建と伝えられ、立派な社殿が再建されています。元々は武神ですが今は縁結び家内繁栄の神様だそう。これはしっかりと祈願させてもらいました。
ここでご注目いただきたいのが、左右柱下の門飾りです。この地方の慣わしで、シラスの盛り土、その上に末広がりに置かれた堅木の割木(薪)3本と笹竹だけ、松とか梅はありませんが、すっきりとして気持ちがいいです。
後田地区白坂の天岩戸別神社(通称戸神様トガンサァ)はこの地区の守り神さま。天の岩戸開けの神々を祭ってあります。右手に大きな椎の木があり、家内は子供のころ、ここでドングリやコジイの実を拾うのが楽しみだったそうです。しみじみと静かな田舎のお社に、家に祭っていたお札を納めさせてもらいました。
3つのお社に詣で、去年の穢れを清めて、晴れ晴れとした気持ちになりました。
皆様にとって本年が素晴らしい年となりますように。
(次は春を探そう M田)
【おまけ】
後田の民家の門飾り(木戸かざい)
割れ木は飾らずへつらわず、堅く無ければならない。
竹は親勝りの竹の子。節がある。
ユズリハは代々譲り受け次ぐ。
シラスは土までも白く新たに。とか
今は残念ながら、この木戸かざいを飾った門口をほとんど見ることは無くなってしまいました。
参考文献 『高山郷土誌』1997年版
師走、年の瀬がいよいよ迫ってきました。
正月を指折り数えて待っていたころがありました。しかし、このところは、正月の準備がなかなかはかどらず、大晦日までの残りの日数がどうも足りないような気がして指を折っています。
生け垣の剪定から始まって、風呂、玄関の掃除までは序の口、破れた網戸、障子の張り替えはどうしても済ませておきたいところ、流しの排水管もすっきりと通るようなどと家人のリクエストが年を追う毎に質量共に充実してきたおかげでしょうか。
それに追い打ちを掛けるのが、暮れや正月にいただく魚などの買い出し、これは楽しみも半分ほどはあるわけで、M田の優先順位はおおかた掃除なんかよりこっちなのです。
当地では正月用に、秋から地元産で捕れるミズイカ(アオリイカ)を冷凍しておく家庭も多いようで、味も良くなるとの説も聞いています。まちの魚屋さんにもおいてあるのですが、今回ひそかに漁協の直販を狙ってみました。
向かったのは地元高山漁業協同組合。ここでは、毎月第三土曜日の午前中「朝どれ市」が開かれ、定置網で捕れた大小のお魚から、養殖もののブリやハマチなどを割安で一般の人に販売しています。
この日はあいにくの雨日よりでしたが、午前10時開店にもかかわらず、9時すぎにはもう30人ほどが並んでいました。傘を広げて大きなクーラーボックスを椅子代わりに腰掛けている人もいます。
ミズイカ、ハマチ、カツオなどちょいと形の良いお魚はあらかじめポリ袋に入れられてテントの中できちんと並んで寝ています。片や、哀れ買い出し人たちは冷たい雨の中、カラーコーンで囲まれた枠に順に並んで立たされ、まんじりともせず開催を待っているのです。
午前10時ちょうどに鐘が鳴り、カラーコーン枠の口が開かれ先着順に20人一組ずつでテントに通され、ひとりいくらでも買ってもらって良いですシステム。二組、三組目まではなんとかお目当てのものを買えたようですが。
開催時刻通りに会場に来た人たちは、思いの魚は売り切れて、南蛮漬け用小アジはポリ袋に詰め放題、塩焼きにちょうど良いカマスが買い放題だったようです。おそらく次は早めに来ようと強く思ったことでしょう。
もちろんM田も取材に集中していたため後者となってしまい、南蛮漬けと塩焼きをもうたくさんというほどいただくことになりました。
12月には内之浦漁港でも直販市が立つようです。こんどこそ、そちらで大きなミズイカを手に入れて年を越したいと決意を新たにしております。
(次はのんびり陸のことにしよう M田)