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★役員からのメッセージ 取締役 神田 稔
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戦後70年・スギならば14齢級
今年は戦後70周年の区切りの年ということで、各地で追悼行事や新聞特集等いろいろな企画が実行されている。小生には戦死した母方の伯父が二人いる。次男伯父はボーゲンビル島・カイノ(Kunua)にて戦死(27歳)。三男は台湾高雄にて戦死(26歳)。今年は第十回戦没者等特別弔慰金が支給されるということを知り、その関係の法文を読み、生存している叔母二人の為に幾ばくかでも弔慰金を貰えればと考え支給申請を終えたところであるが、法文の読み解き不足とF県K市の勘違いがあり書類を取り下げ再度提出するように準備している所である。
昭和12年(17歳)から軍人として生活した父は、物持ちが良かったらしく昭和20年10月4日解員されたとき、軍人としての履歴表(写真右)を大切に持ち帰っていた。
幼少の頃それを目にすることもなかったが、老親と同居し始めて実家からオヤジの鞄を持ってきて中の書類を見たらそれがあった。
それによると昭和14年5月仏領印度支那に行っている。昭和17年2月からパプアニューギニア・ウエワークに行っている。昭和20年5月第31突撃隊(鹿児島特攻基地)に赴任し、その任務を遂行すべく準備していたようである。
水が有るからこそ生きとし生けるものは成長していくことが出来るのであるが、もしやと思い実家の倉庫をかき回したら探していたオヤジの軍隊時代の水筒があった。
幼少の頃は、頑丈な水筒入れもありバンドに通せるようになっていたし、鎖につながった蓋もあった。そういえば軍隊時代の毛布もあった。おそらく最後の地・川辺から帰郷することになった昭和20年10月身辺のものをリュックに入れ背負って吾平の実家まで陸行したのであろう。
集成材事業を始めたとき、宮崎大学の故中村徳孫先生のご指導を受けたのだが、その時、「戦前の飛行機のプロペラは木製の集成材であった」ということを教わったことがあり、鹿屋航空基地資料館(で検索)に行ってみた。
そこにはタブノキで造った実物(直径3.18m)のプロペラが展示してあった。山佐の前身は九州樫材株式会社高山工場であったことは創業者故佐々木亀蔵社長の「執念」の本にも出てくるが、国見連山からはタブノキも伐採されそれに利用されたのではないかと思うところである。
話は変わり、今日の目覚ましい情報社会は時として他人を貶めようとする、あるいは悪者をつくろうとする記事もあるのではないかと危惧するところである。
鬼怒川の決壊の映像は記憶に新しいところであるが、あたかも太陽光発電設備のために決壊をしているのが原因みたいな報道をしている所がある。国土地理院も発表しているが、その箇所は堤髙が低く越水しているだけで、事業者は法に則ってその土地を開発していて、掘削箇所は大きな土嚢で補強してあったようだ。決壊したのは越水した箇所の下流で、中洲が川中にあり川幅が狭くなり流速が早くなるところで、左岸堤体の水掘もあったと思うところである。また、砂質土の堤体で水に弱い土質でもあるように思える。翻って肝属川の河川改修(小生も昭和50年頃工事に関与)は昭和13年の洪水以降、急速に進んで堤防は完成した。
少々危惧する所は、堤体表土は黒土(50cm厚)で張芝施工をしているが堤体内部はシラスであり水に弱い性質を持っている。しかしながら近年想定外洪水等を考慮した箇所等は堤体補強工事が始まっていて安心するところであるが、ちなみに住居を構えるときには高山の高台上之馬場に土地を求めその他の地も高台に求めている。そのうち爆弾洪水が起こらないことを祈るばかりであり、記事にするにはもっとリテラシーのあるものにしてほしいと思うのは年寄りの冷や水かと。
(取締役 神田 稔)