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★【稲田顧問】タツオが行く!(第8話)
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7.関東大震災後改修以降の旧丸ビルの変遷
補修工事完了後の旧丸ビルが、その後どのような変遷を辿ったのか、ここではその経緯を振り返る。
まず旧丸ビルの外観についてであるが、関東大震災前の完成当初の旧丸ビルの外装は上品なタイル貼りであったと記録には残っている。写真は存在するが、モノクロであるので本当の色合い、雰囲気は今となってはわからない。しかし、淡いピンク色の磁器質タイルとあるから、かなり繊細な色合いのものだったのではないかと思われる。
それが関東大震災により破損した後、補修を経て、旧丸ビル外装はモルタル塗りに変更された。当初のタイル貼りの時は、頂部と1階は色合い質感ともに異なる3層構成の外観となっていたが、モルタル塗りになってからは、写真で見る限りは、1階から最上層まで同一の色合い質感となっており、かなり簡素なものとなっている。
それが時代を経て、やや経済的復興を見た昭和10年代になると水平のラインが強調された、モダンなイメージのタイル貼りに改められる。同じ頃、地下の大食堂「花月」には、戦前としては珍しい冷房設備が設置される。
戦時中になると、軍からの金属供出の呼びかけに応じ、旧丸ビルのエレベータが軍に供出される。このことは、丸ビルが率先して軍の呼びかけに応じたということで、大々的に新聞等でも報じられたが、金属供出をより円滑に進めたい軍の宣伝としての意味合いも強かったのではないかと思われる。
しかしその後東京は、米軍による空襲を何度も受けたにもかかわらず、旧丸ビルが被弾したという記録は一切無い。一説には、米軍が将来占領した際の、進駐軍用の施設として、旧丸ビルを使用することを想定し、空襲の標的からははずしたのだという説もある。
終戦直後には、旧丸ビルの低層の供用部が、駐留先より東京駅に帰還した復員兵の臨時宿泊所として開放されたという記録が残っている。旧丸ビルは、関東大震災の時もそうであったように、常に災害等の緊急時の避難所としての役割を担ってきたが、このときも立派にその役割を果たしたのであった。旧丸ビルが永年に亘り多くの人々に愛されてきた一因は、このような所にも在ったのではないかと思われる。
経済が徐々に復興し始めた昭和30年代後半になると、大部屋オフィスのニーズの高まりに応えるために、関東大震災後に増設された耐震壁の一部が撤去された。しかし勿論、その結果として耐震性が損なわれることを危惧して、耐震壁を補完する鉄骨アーチが新たに新設された。
新耐震基準が制定された昭和50年代後半以降になると、新耐震基準が制定される以前に建設された建物の耐震性を確認するため耐震診断基準が整備され、耐震診断が一般に行われるようになった。旧丸ビルも耐震診断が行われたが、結果は必ずしも芳しいものではなかった。土日のテナントが居ない時間を見計らって、一部特に問題ありと思われる個所にH型鋼によるブレース補強が施された。しかし、関東大震災直後の「丸ビルは地震に強い」とする迷信もあって、幾度か建て替えが検討されながらも20世紀末まで、激動の時代を大過なく存続し続けることとなった。
8.旧丸ビルの建替え
時代は移り、1995年(平成7年)1月17日未明に起こった阪神淡路大震災は、人々に大きな衝撃を与えた。横倒しになった高速道路や、基礎底をさらけ出して横たわるビルの光景は、いずれも従来の地震では経験したことのないものであった。
また、神戸市役所を始めとする、大規模な鉄骨鉄筋コンクリート造の建物の倒壊は、それまでの常識を大きく覆すものであり、皆目を疑った。それまで、関東大震災以降、旧丸ビルの耐震改修以来、我が国の耐震建築の主流となった、鉄骨鉄筋コンクリート造の建物は、地震に対しては極めて頑丈であり、倒壊することはありえないものとして信じられてきた。その代表格である神戸市役所のような優良な公共建築物が倒壊したのであるから、多くのビル所有者が大変な衝撃を受けたことは間違いの無いことであった。
一般に、耐震規定のような災害を想定した規制を設ける場合、再現期間という考え方を採ることが通常である。100年に一度、あるいは500年に一度起こるような災害に対しどう対処するか、というような考え方である。しかし、実際には災害記録の検証が行える期間には限界があり、古い記録になれば情報も不明確である。そのような限られた情報の基で、地震像を想定しようというわけであるから、想定外のことが起こるのもやむをえないことかもしれなかった。極めて短時間に、一撃で建物に大きな損傷をもたらすような地震の出現は、現代の工学技術の限界を白日の元にさらけ出した。人知では計り知れないようなことが起こりうることを改めて知らしめたという意味で、阪神淡路大震災の教訓は、それなりに有益なものと言えた。
さて、そのような事態を契機として、旧丸ビルも再度耐震診断調査が行われることとなったが、その結論としては、近い将来首都を襲うであろう東京大震災には到底耐えることはできないとの判定が下された。様々な補強方法についても検討が試みられたが、いずれも商業ビルとしての機能を著しく損なうとの判断から、ついに70年を超える年月を、東京の顔として人々に親しまれてきた旧丸ビルは建替えられることになった。旧丸ビルが解体されたのは1999年秋のことであった。
9.後日談
丸ビルの建て替えが決定されると、直ちに三菱地所会社内に「丸ビル改築設計室」が組織され、新しい丸ビル建設に向けての様々な活動が開始された。新ビルの設計はもちろんのことであったが、当時旧丸ビルには百を超えるテナントが入居しており、その移転交渉もまた新しい丸ビル建設のための重要な活動の一つであった。
移転交渉もほぼ完了し、旧丸ビルも閉館となり、新ビルの設計がいよいよ佳境に入りつつあったある日のこと、設計室に一通の手紙が舞い込んだ。手紙には以下のようなことが書かれていた。
「父が他界してからもう随分になりますが、父はかつて三菱合資会社に技師としてお世話になっており、旧丸ビルの設計にも関わったことがあると聞いておりました。その父が亡くなる前、丸ビルには1体の観音像が安置されているので、もし何か有るときには必ずそれを地所会社に申し出て、観音様が失われることのないように、気をつけて欲しいと繰り返し申しておりました。
先日新聞で、旧丸ビルが解体されることを知りましたが、是非その観音像を見つけ出して頂きたいというのが、お願いの内容でございます。」とあり、川元某との署名があった。かつて、三菱合資会社の技師として活躍した川元良一氏のご遺族からの手紙と思われた。
観音像のレリーフが、旧丸ビルのペントハウスの西側の壁面に安置されているというのは、昔からよく知られたことであった。しかし新たに判明した観音像の存在については、それがどこに安置されているのか全く手がかりがなかった。設計室のメンバーはそれぞれの立場と考えから、その捜索を開始したが、しかし、どこに観音像が鎮座ましましているのか全く手がかりが掴めぬままに、いたずらに時が経過するのみであった。
観音像が安置されているのが建物の頂部なのか基部なのかというような所でも、意見が分かれた。ある者は、そんな大事なものであるから、多分一番頂部の柱の上に、埋め込まれているに違いない。神棚を考えても自明なはずではないかと主張した。一方、観音像は建物の足元の基部に置かれているに違いないとする意見を主張するものもあった。
何しろ、観音像の大きさも全く手がかりがない。しかし、いずれにせよ観音像というからにはある程度の大きさがあることは間違いが無いであろう。従って、壁内に埋め込むというのはそれから考えても無理があり、やはり柱の中に違いないというのが一つの結論となった。
そこで、とりあえず何箇所か柱のコンクリートをハツリ取ってみようということになったが、何本もある柱を全てハツリ取るというわけには行かない。頂部であればまだしも、柱の基部となると、コンクリートをハツルこと自体が危険であり、容易には作業が進まない。RCレーダー及び超音波探傷機による非破壊調査も検討されたが、調査コストが膨大となり現実性が無いということになった。
そのようにして、無為に時間が経過していく中で、徐々に設計室には暗澹とした雰囲気が漂い始めたある日のこと、工事監理の担当者が、
「観音像が見つかりました。」と大きな声を上げながら、設計室に駆け込んできた。
「本当か。どこにあった。」と誰かが尋ねると、
「レリーフの取り付け状況を調べようと、ペントハウスの壁のコンクリートを、反対側からそっとはつり取っていたところ、壁の中から木の箱が出てきました。それを開けて見ると、観音像が出てきたのです。大きさは20cmくらいでしょうか。全く傷はありません。」
「今、どこにあるんだ。」と、また誰かが尋ねると、
「今しがた、工務部に移送されてきたところです。」
その言葉を聞くと、誰からとも無く一斉に、設計室員は工務部に向かって走り出した。
観音像は箱の中から取り出されて工務部の打ち合わせ机の上に置かれていた。
「よかった。よかった」と喜ぶ者。
「考えてみれば、レリーフがあるのだから、そのそばにあるに決っているではないか。」としたり顔で話す者。
しかしいずれもの顔が、安堵感に満ちていた。70年以上の年月に渡り、旧丸ビルを守り続けてくれた観音像の穏やかな顔を見ている内に、観音像に対する感謝の念が、何か暖かいものとなってこみ上げてくるように感じられた。
確かに、観音像が安置されてからは、戦争を始めとする激動の時代を通りすぎてきたにも関わらず、旧丸ビル自身にとっては、殆ど事件らしい事件も無い平穏な日々のくり返しであった。観音像の周りに集まった技術者達は、この像にビルの安全を託した大正時代の技術者のビルに込める熱い思いに打たれ、また先人から引き継がれてきた建築文化の重みを実感した。そして、やがてそれらの思いは、新しい丸ビル建設計画の成功に向けての、新たな決意へと結実して行ったのである。
次回予告
本号で、旧丸ビルの物語は終了となります。次号からは、同じく大正時代の名建築と言われる日本工業倶楽部会館の歴史についてお話しします。
(稲田 達夫)
参考文献)
1)三菱地所社史編纂室編:丸の内百年のあゆみ「三菱地所社史」、1993年
2)三菱地所編:丸ノ内ビルヂング技術調査報告書、1998年
3)武内文彦編:丸ビルの世界、かのう書房、1985年