夏が来れば思い出す~♪
山佐木材メルマガファン?の皆様、残暑お見舞い申し上げます!!
さて、唐突に始まりましたメルマガ第70号記念、特別企画「山佐思い出座談会」
今年は山佐の創業者である佐々木亀蔵さんが亡くなって32年、7月30日に33回忌法要が行われました。思い出話を通して、今も当社に残る「企業使命観」や「10の誓い」に込められた想いを少しでも想像できないか?そんな目論見もありつつ、それぞれの入社経緯や、強烈な?体験など、この際、色々聞いてみようと企画しました。
話の内容によっては全部ボツになる危険をはらんだこの企画。参加メンバーは、佐々木会長、釣り好きA社長、ぶらり名人M田さん、K田監査役、急に参加させられたY営業部長、同じく急に参加させられたN総務部長。編集4年目みすずちゃん、編集6ヶ月の森さん、そしてメルマガ編集長M理の9名でお届けします。
(M理)
えー、皆様お忙しい中、お集まりいただきましてありがとうございます。本日は「座談会」ということで、メンバーは勝手ながら私の方で選ばせていただきました。どうぞよろしくお願いします。
それでは最初に、それぞれ自己紹介ということで、入社時期、入社の経緯、当時の状況、入社してみてどうだったかなど、一言ずつお願いします。
(佐々木会長)
昭和43年に山佐産業に入社しました。時代は高度成長が始まる頃でした。山佐産業は、製材業を行っていましたが、昭和27年頃に土木事業を始めます。そのきっかけとなったのは建設省肝属川工事事務所(当時)の工事が直営から請負に変わったことです。建設省は大事な木材の売り先であったので、始めることにしたのだろうと思います。
私が入社した頃、国は国土基盤整備のため土木事業に力を入れているときでした。親父から「今から土木が伸びそうだから土木部に行って勉強しなさい」と言われ、自宅や現場で勉強しながら必死でした。実際、土木は非常に伸びました。売上が数千万から数年で10億ほどになるという成長期でした。
(K監査役)
昭和48年4月に山佐産業に入社しました。同期入社が何人かいまして、今も仲良くしていて連絡を取ったりしています。最初、土木部に配属されました。入社してすぐに部長制ができることになり、総務部長だったW口さんが土木部長になり、かわいがっていただきました。土木部には3年半ほどいました。
入社してすぐ、仕事は出来ませんでしたが、ソフトボール部とか、バレーボール部をつくり、特にバレーボールでは、大隅半島の大会で優勝しました。アタッカーがT田君と私の二人、180センチを超える鹿屋市農協のチームを、我々ちびっこチーム(笑)が準決勝で破ったことが話題になり、南日本新聞にのったりしました。個人的には昭和50年に九州青年の船で400人ほどで中国に行き、九州農業の人たちと交流もできたことが若い時代の貴重な経験でした。
(A社長)
昭和59年4月に山佐産業に入社しました。当時、私は鹿児島大学の院を出て、どこに行こうかなぁと考えておりましたら、大学の恩師である赤井先生と亀蔵社長のつながりがあり、山佐を紹介されました。赤井先生は鹿児島大学で、林業の発展のために、流域を単位として川上から川下までの担い手が互いの連携の下、一体となって取り組むことが大切であると教えてくださった先生でした。はじめて大隅半島に来て、山佐産業を見たとき、林業を起点にしながら、製材、土木、住宅と、地域で木材産業をやっている会社だ、大学で習ったことを生かせるのではないかと感じました。あとは個人的な理由ですが、自分は三男で長男が水産、次男が工学部、私はこの二つは選びたくないということで(笑)、農学部を選び、林業を選んだということがあります。
これから話が出ると思いますが、入社して最初に驚いたのは、いきなり寮に入らされたことです。良知塾で亀蔵社長と2年間の共同生活を送ったことは、短かったですが濃縮されていて自分の精神的な基盤になっていると思います。
(M田)
昭和56年4月に山佐産業に入社しました。最初、総務部に配属されたのですが、当時の上司は、総務部長が佐々木会長、総務係長がK監査役という、今とあまり変わらない状況で(笑)
入社2年目から良知塾の前身である研修所で亀蔵社長と暮らすという、当時は人体実験と呼ばれていましたが(笑)、一緒に朝礼をして、朝食を作って、弁当を作って、会社に出勤して、研修所に帰るという生活が始まりました。昭和58年からは良知塾という独身寮ができて、約2年間、亀蔵社長とは同居に近い形で生活をしました。
(M理)ここまでは山佐産業時代からの方々で、ここからは山佐木材に入社した皆さんです。
(Y部長)
平成2年11月に山佐木材に入社しました。私が入社したとき、下住工場には現在の2号棟しかありませんでした。事務所はプレハブでした。色々な受注があって2号棟で作りながら出していたのを覚えています。台風があっても何があっても仕事をするしかなくて、みんなで頑張っていたのを思い出します。同期入社はM寄さんです。
(N部長)
去年の4月に入社して1年たちました。山佐木材との関わりは大学3年生のときが最初です。京都大学名誉教授の神崎先生が鹿児島の出の方で、ご自身のルーツ探しをしたいということで佐々木会長に連絡を取られて、学生だった私もそのルーツ探しの旅に同行しました。夜に会長宅で美味しいものをごちそうになったのが印象に残っています。その1年後、大学のゼミ旅行でも来ました。それからご縁あって、鹿児島にUターンするタイミングで山佐木材に入社しました。
昨年からリーダー研修をして、世代交代の時期であることを感じます。これから会社の運営をどうしていこうかというときに、亀蔵さんの書かれた「執念」を一番最初にみんなで読んで確認するところから始めました。私は亀蔵さんという方を直接は知らないのですが、会社に写真があったり、各場面で亀蔵さんの教えが染みついていると感じるので、今日は直接接した皆さんから色々聞いてみたいです。
(M理)
平成25年3月に山佐木材に入社しました。メルマガ編集長をつとめています。入社の経緯としては父から誘いを受けたことによります。小さいころから家の隣が製材工場でしたので、雰囲気は分かっていましたが、父親と一緒に働くとなると迷いもありました。亀蔵さんは私の祖父であり、私にとっては優しいおじいちゃんでしたが、厳しかったという話もよく聞くので、今日は色々な話が聞けるとよいと思っています。
(みすず)
平成28年4月に山佐木材に入社しました。短大卒業後は地元に戻って就職したいと思っていました。山佐木材のホームページを見て、楽しそうだなと思ったことと、卒論で研究開発費について調べていましたので、ホームページでSAMURAI集成材の研究開発をしているという記事を見て、「あ、研究開発で一緒じゃん!(笑)」と思って応募しました。今日は知らないことばかりなので、たくさん聞けるのを楽しみにしています。
(森)
この中で一番最近ですが、今年の2月に入社しました。応募するとき、ホームページを一番最初に見ました。前の会社でもホームページを担当していましたので。見栄えのよいホームページはたくさんありますが、山佐木材のホームページは会社の雰囲気をあらわしていて、フランクで楽しいというか、ちょうどM田さんのラジオの話が出ていて、自分も共感する話で(笑)、なかなか普通の会社でこんなホームページは無いよなと思いました。いま自分も仕事の一つとしてホームページに関われているのは良かったと思っています。
少し前に「執念」をいただいて読みました。今日は紙で見るだけではなく、先輩方を通して会社のことを知ることができるのを楽しみにしています。
(M理)
昭和62年7月30日に、私の祖父である佐々木亀蔵が亡くなって今年で32年になります。これまで年忌は毎年自宅でやっていましたが、33回忌の節目ということもあり、斎場で実施して、ご縁のあった方々に出席していただこうということになりました。
K田監査役、A社長、M田さんにもご参加いただきました。ありがとうございました。
改めて何か思うことはありましたでしょうか。先ほどから出ている良知塾での話なども教えていただきたいです。
(K監査役)
山佐に入ったのは恩師の春田先生の家に正月遊びに行ったことがきっかけでした。高校・大学を中退していたので、「もうお前は行くところはない。山佐学校に行け」と言われました。当時、家具、土木、建築、製材、木工の部門がありましたが、亀蔵社長から、「お前が好きなところへ行けばよか」と言われて、土木を選びました。
亀蔵社長とは、土木部から総務に移ってから関わることが多かったです。当時、総務が製材の経理も見ていましたので、「材料を知らないといけない」とよく言われていました。製材の場合、同じ60角でも使う場所によって名前が違ったりするんですね。朝礼では、材料置き場に連れていかれて、指し棒をもって、一つ一つ、これは何か?これは何か?と質問されて、知識を試されていました。仕事に対して厳しい方でしたが、自分にとっては父親のようでもあり、総務係長時代に薫陶を受けました。今振り返れば充実していて楽しかったです。
良知塾では、作文の書き方教室や経理についての授業を受け持ったりしていました。
(M田)
私が入社したのは、M木材に勤めていた兄の紹介でした。私も、「もう他にどこも行くところはない。亀蔵社長に会いに行け」と言われて面接に来ました。初めてで道がわからず、製材所の前で自転車に乗っていたおじさんに道を尋ねて丁寧に教えてもらったのですが、面接に行ったら、その人が前に座っていて驚いたのを覚えています。
入社して1年後には、亀蔵社長と研修所で同居することになったのですが、基本的なこと、「自立する」ということを教えていただきました。料理にしても、掃除にしても、すべて自分たちでやるということを体を張って教えていただいたことが一番の思い出です。私たちのときはそれほど厳しくはなかったのですが、若者が朝5時頃に起きて生活を続けることができるのか?というのを試されたのだと思います。それが一応出来たので、良知塾というのを始めることになりました。
(A社長)
M田さんをはじめ諸先輩方の研修所時代の「やんちゃな」生活のおかげで(笑)、私たち二代目からは、非常に厳しい亀蔵社長の教えを賜りました。朝5時にぴしゃっと起きて、弁当を作って会社に行き、残業はしなくていいから、塾に帰ったらニワトリの世話をしなさい。寝る前には読書して体操をしなさいと。とても規則正しい生活を送らせていただきました。
実は、33回忌の前日の夜、私の社長就任祝いということで、良知塾のメンバー10数名で集まって飲み会をしました。ヤマサハウスのM常務が、あの当時のメンバーは誰かなと名前を書きだしてみたところ、良知塾時代で80数名のメンバー表になりました。もちろん事情があって辞めた人もいますけれども、大半の人が残っていて、今の山佐のそれぞれの部門で中堅で頑張っており、会社発展の大きな力になっていると感じました。10年20年会っていなくても、飲み会の席になると昔の先輩後輩に戻って楽しい話ができて、これは厳しかった共同生活が基になっているのだなと思います。
昔を懐かしむことも大事だが、これからの世代の山佐を考えようという意見も出たりしました。また、これからも集まろう、次はOBにも声をかけよう、辞めたOBの人も入れれば100人位いるんじゃないか、きっとほとんどの方が来てくれるだろう、最後になってそんな話にもなりました。
当時の山佐は「山佐学校」などと言われていましたが、その中心的な役割を担ったのが「良知塾」だったと思います。あの中で、先輩方が色々なことを教えてくれました。私も今ある基本中の基本は、この良知塾で教えてもらったと思っています。良知塾の2年間は、毎日どうやって逃げようかと、逃げ出す方法を考えておりまして、最後は結婚するしかないと思っていましたが(笑)、人と人のつながりというか、部門を超えて心底話せる関係性ができたのは、塾が厳しかったからこそだと思います。