メールマガジン第75号>西園さん

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★【寄稿】木への想い~地方創生は国産材活用から(55)

 「首里城火災焼失と忠実な復元再建の切望」(後編)

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 今回の火災焼失に懲りて、再建計画では木造再建を取り止めて防火対策優先の考えを優先して、鉄筋コンクリート造で検討することは止めで欲しい。今回は使用された木材が悪いのでは無く、管理していた人間の配慮不足だったのは間違いないのだから、「元国宝の建物は以前の建物を忠実に復元する事こそ、琉球文化の継承と保存になる」事を忘れずに再建に取り組んで欲しい。初期防火体制の基本と義務の再チェックを忘れて、「再建だけを急ぐように」と、国へ要望する様な権利優先の意識では順序が逆だと言いたい。文化財指定の物件の完全復建には、天然資源の木材を利用する資材調達は困難な時代となっているからこそ、「二度と火災で焼失させる様な管理ミスや過ちを犯してはならない」のである。

 

 昨年末の鹿児島の地元新聞に、「鹿児島県知事は首里城再建支援のため、鹿児島県産杉材を支援提供すると表明した」との記事が大きく掲載された。しかし今回の復建事業で調達困難な木材は、「大径材で長尺物の500年生級の台湾桧クラスの世界の銘木」であるのに。 災害支援の基本は「相手が困っているか、望んでいる支援品を届ける」事であるはずだ。あまりにも「今後の首里城復建に必要な木材とは、径級の大きさや質とは違い過ぎる低レベルの発想からの申出」であり、被災側が望まないレベルの商品での支援や提供内容を、殊更大きく報道するとは関係者の考えはお粗末過ぎるし、鹿児島県人の一人として残念な思いがした。まさか志布志港土場に積まれている杉丸太からの支援を考えているとしたら、被災者への配慮不足も酷い話だと感じたのは私だけでは無いだろう。

 

 鹿児島県で現在復建中の御楼門建設岐阜県から寄贈されたのは「入手困難で高価な長尺大径のケヤキ材」だった。だから鹿児島県人は「岐阜県人は凄い。270年も昔の美濃国時代の薩摩義士への感謝と恩義を忘れず、遠いご先祖様からの気持を受け継いでいる律儀さと、真っ先に提供を申し出た行動に大いに感動した」後だっただけに、今回の発表はお粗末過ぎた支援提供話だと情けない気持になった。少しでも木材業界の事情を知っている人なら言い出し難い話で、今回の支援申出の木材評価額を金額換算してみれば、私の主張は判って貰えるはずだ。

 

 首里城の「南殿」だけは、琉球文化の建築様式と異なる和風建築様式となっていたのは、当時実行支配していた薩摩藩の役人を歓待するための琉球国の配慮による設計だったと伝わるだけに、「鹿児島県人は見せ掛けの形だけの支援ではなく、過去の両県の歴史と関係に思いを馳せ、首里城の完全復建に本気で協力する気概が必要だ」と申し上げたい。

 

首里城正殿(火災前)
首里城正殿(火災前)

 ところで1715年の首里城復建の時に、薩摩藩(4代藩主吉貴)が20,000本を支援した木材には「大径材の屋久スギ」も伐採されて送られていたと伝えられる。また今春に落成する鹿児島城の御楼門の昔の建物に使われたケヤキ材(推定)も薩摩藩産材と言われている。(首里城復建時に、琉球王国から薩摩藩へ謝礼として贈られたのが、磯公園の孟宗竹や望岳楼等だと伝わる。)

 

 更に世界最大の木造建築物として名高い東大寺大仏殿に使われている木材の中で、最大の木材の「紅梁」は、霧島の白鳥神社の山から切り出されていた事は、昔の鹿児島は大きな森林に覆われていたことを示す証拠である。

大仏殿の紅梁について少し付記しておく:東大寺は永禄10年(1567)の戦国大名達の戦災で焼失。それから120年後の元禄元年(1688)僧公慶の勧進で再建に着工。東大寺の柱間は7尺7間なので、その3倍23.1m)の長尺梁が必要となり全国を探した。霧島白鳥山の霧島松の高さ18丈(54m)の大木2本を探し出し、1本は末口3.4尺(1m)元口4.3尺と、もう一本も末口3.8尺(1.2m)元口4.1尺、長さ13間(23.6m)に採材された。普通の伐倒では幹が傷付くことを避けるため根周りを掘って倒してから出材し、天降川口の浜の市港から積み出し日向灘を運搬、淀川から木津川を奈良まで10万人が参加し9カ月掛けて運んだ。宝永9年1709上棟し落成。)

 

 戦前までは鹿児島県も全国有数の木材産地であった。しかし太平洋戦争では国策から、重要資材として木材が大量に切り出された。残こされた大径の木材は戦後の復興に徹底的に利用されたから、山は丸裸同然の状態となった。戦後は治山治水の目的もあり、全国的に大植林作戦が営々と遂行されて現状に至っている。しかし日本中がそうであるように、鹿児島県内も今の所は50~70年生の杉山が殆どである。

 焼失前の首里城には「樹齢500年の台湾桧の長さ10m・直径1.5m」の大径材が大量に使用されていた訳だから、今の鹿児島県内の50~70年生の山林しか無い状況からは、支援提供できそうな杉材は、神宮材以外は全く見つけられないのが実態である

 

 今度の首里城復建工事では「直径1.5mの大径材を、無垢木材で調達するのは超困難」と心配される。その場合は次善の策として、集成材の使用の可能性が出て来るかもしれない。その時は「鹿児島県産材の出番の可能性も出てくるかもしれない」と考えておきたい。

 

 最近の報道には、一部の人の意見として「正殿だけでも木造にとの意見もある」の記事が見られるが、「首里城は元国宝で世界文化遺産指定の建物だから、今回も琉球王国の伝統文化を何としても守るとの気概が欲しい」と、国民皆から声を上げて貰いたいものだ。「木造で復建してこそ、元国宝の文化財の再建」である。戦後復興期の我が国が未だ貧しかった時代に、RC造で再建された大阪城みたいな話になれば、それは見せ掛けのハリボテと同じで、単なる観光用施設としての建物に過ぎなくなる。世界中からインバウンド客が押し寄せる時代に相応しく、日本の伝統的文化財の価値を継承し日本人の心の伝統を大切に伝える木造建築物で、首里城は復建して欲しいものである。(江戸時代に建造された日本の伝統木造の象徴である城郭は12城が残るが、そのうちで国宝指定の城は姫路城・彦根城・松本城・犬山城・松江城の5城のみである。RC造の大阪城天守閣は復興天守閣と、熊本城天守閣は外観復興天守閣と分類されていて普通の建物扱いである。名古屋城の復建計画が高額予算と非難を受けながらも木造に拘るのは、「戦災焼失前までは国宝だったことへの拘りから」だと聞く。名古屋市民の心意気に敬意を表したい。)

 

 12月11日に首相官邸で、首里城復元のための関係閣僚会議が開かれた。そして「首里城復元に向けて、1925年に国宝へ指定された際の正殿に復元するとの基本方針を確認した。沖縄独特の赤瓦を製造し手伝統技術を守る。今回の火災ではスプリンクラーが設置されていなかった問題が指摘されている。基本方針に防火対策を取り入れて強化する」、更に「世界文化遺産登録に影響しない様に、国際連合科学文化機関(ユネスコ)と緊密に連携して、地元の要望を踏まえて国営公園事業の首里城復元に責任をもって取り組む」と報道された。

 

 政府の発言はまさに期待する所であるが、「木造で全てを完全復元するとの文句が見えない」のが気掛かりだ。そして今回の方針通りに「貴重な木造文化財を守るための防火対策に万全を尽くして」もらいたい。国民は政府の声明内容と今後の実行状況を完成するまで注視し続けよう。後期高齢者の私が未だ元気で、新しい首里城を訪ねられるうちに完成して欲しいものである。

 

追記:今年1月末に、首里城火災原因調査委員会から「火災発生の原因は電気系統と推測されるが、特定できなかった」と発表されたが、防火対策の不備の調査がされた様な内容は見られなかった。発生原因が曖昧に処理されることなく、私からすれば「せめて防火体制の不備だった理由と原因追及」に取り組んで欲しかった。それが木材振興の一助になったはずと思う。 

 

                                         (西園 靖彦)