M田部長のぶらり肝付町の旅・歴史の旅にお供する その2

 2月5日は旧暦の元旦。こちら大隅では梅や緋寒桜が丁度満開となり、さわやかな香りを漂わせています。初春と呼ぶにふさわしい季節を迎えました。

 先月Hさんに誘われて、肝付町波見を散策しながら、中世から藩政時代にかけて、この地に日本有数の財力を有する人々が実在していたことを知りました。そして、その人たちは、志布志湾に注ぐ肝属川河口を本拠地として、海を渡り、中国大陸や南方諸島との交易を活発におこなっていたのです。

 Hさんが、「今の行政区域が歴史の舞台だったわけがなく、肝属川両岸に広かる地域、さらには志布志湾岸を一帯としてとらえるべき。まずは、対岸の東串良柏原、唐仁あたりに行ってみよう。」と言うので、有明大橋を渡って東串良町に入り、柏原を経て、少し上流に位置する唐仁にやってきました。道のりにして約4Km。

 いつもはここは、田んぼの中に広がっているごく普通の集落として通過しています。この日はじめて、むらの真ん中を南北に伸びている道を、車から降りて歩いてみました。

 

肝属川を背に北を見る。最奥に大塚神社、朱の鳥居。
肝属川を背に北を見る。最奥に大塚神社、朱の鳥居。

 

 人が設計して造ったに違いないまっすぐな道は、ブロック塀とコンクリート側溝にはさまれています。一見近頃作られた集落道路に見えますが、500mほどの間、十字路はなく左右からの丁字路になっており、突き当たりの壁には文字も判別できないほど風化した「石敢當」(せっかんとう)が丁字路の数だけひっそりと建っていて、この道がただ者ではないことを証しているようです。近年整備はされたものの、この小路の歴史はどれほどなのでしょうか。

 

丁字路の突き当たりに鎮座する石敢當
丁字路の突き当たりに鎮座する石敢當

 

 Hさんによると「石敢當」は突き当たりの家に魔物が入らないようにするための魔よけの石碑で、中国福建省あたりから発祥し、沖縄、鹿児島に伝わってきたのだそうです。やはり、ここも海を越えて交易をしてきた人々が実在していたのでしょう。あるいは、唐仁と言う名の示すように中国大陸からやってきたり、連れてこられたりした人々が住んでいただろうという推測はできるのかもしれません。(Hさんはそのように確信しているようですが。)

 東串良町郷土史を読んでみると、確かにこの地にも、中世から近世にかけて、波見にも劣らない財力をもった幾つかの家系があったことが記されており、今も末裔の方々が居住されているようです。

 何気なく通り過ぎている村や小路に、現状では想像できないような人々の暮らしぶりや、豪快な経済活動があったことを、てくてく歩くことで垣間見ることができました。

 川を背に北に歩いて大塚神社に向かい歴史の旅のお供は続きます。

 

唐仁地区大塚神社へ
唐仁地区大塚神社へ

(はまったか?M田)