メールマガジン第20号>役員挨拶

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★役員からのメッセージ   専務取締役 神田 稔

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木材は貨幣であったという推説とROOTS

私の父は大正9年生まれの次男で、95歳にして健在であり、所謂認知症ではないようであるが、記憶には覚束ないものがある。

その父には8人の兄妹がいる。大正5年生まれの長男は旧制鹿屋中学(昭和9年卒・佐々木亀蔵創業社長は同級である)、大正12年生まれの長女は高山高女、大正15年生まれの3男は旧制鹿屋中から台湾にある師範学校、昭和7年生まれの4男は旧制鹿屋中のそれぞれの卒業生である。

ここで疑問に思えることは、田畑も広くない山奥の里で、祖父がその学費をいかにして工面していたかということである。

昭和11年生まれの末っ子の叔父に聞いたところ「木(スギ)を売った金で学費を捻出し、その一部にした」という話があった。事実、幼少の頃、庭の隅にスギの大きな切り株があり、荷馬車を通すために抜根作業を手伝った記憶がある。また裏山には植林され大きく育った杉山もあった。戦前のその頃はスギの大木は相当な価格がしたようであるが伐採や搬出、製材方法を考えるとまた解決しなければいけない難問が立ちはだかるのでそこは軽く受け流す。


では、そのようなスギはどのようにして育てられたのか推測する必要がある。

神田家は吾平町麓、麓といっても吾平山稜の4Km上流にあり、風光明媚な地で吾平町の水瓶になっている集落にある。小生は明治以降の壬申戸籍によると6代目であるが、戸籍にのる初代は嘉助という。神田家の祖父、曾祖父には血族の親戚が吾平町麓にはいない。不思議である。幼少の頃は祖母方の親戚があり付き合いがあったので不思議と思わなかったが、近年になりROOTS探しを始めるきっかけとなる葬儀に参列してから不思議に思うようになった。

それをきっかけに内之浦町史を読んだ。そこに神田姓の歴史が記されていた。それによると関ヶ原の合戦で島津義弘は中央突破で薩摩国に帰ってきたそうであるが、その時活躍したのが吉田氏である。その賞賜として吉田氏は大浦以東の土地をもらい、その土地の管理かたがたに田中(のちに神田改姓)氏を岸良に遣わしたものと想像されるとある。

 

吾平町麓の土地持ち屋敷の山には、植林された杉の木の大木はほとんどなかったような記憶があり、山守の子孫であった神田家の初代嘉助か2代目袈裟八が、岸良の神田家からスギの実あるいは苗を分けてもらいスギを植林し、その大きくなったスギを4代目嘉吉は売却し学資に充てたのではないかと推説するところであり、前号でスギのホギを採取したと書いているが、家の前の畑ではスギの苗が育てられていたことも山守の血が脈々と流れていたのではないかと思うところである。が時代背景にはフィクションも。

 

さて、それぞれの家庭を持った娘3人は肝付町の家で生まれここが古里である。オヤジの実家の土地は将来至極迷惑をかける無用の長物らしい。2011年の東日本大震災から自然・再生可能エネルギーの活用は国家施策にもなっているが、とりわけ太陽光発電は土地活用の有効な手段となっている。山奥の耕作放棄地や設備整備可能な土地はもっとも適しているのではないかと思う。

小生は知人友人に頼まれ貸地を後輩の太陽光発電事業者に紹介し喜ばれている。父親等の土地も2.6メガの事業地として計画可能か測量に入った。将来可能ならばその資金を元手にして里山再生を計画しているがどうなることだろうと思う日々である。

現在、再生可能エネルギーの固定価格買取が行われているが、各家庭は「再生可能エネルギー賦課金」を負担している。オール電化の我が家の場合、再エネ賦課金はおおよそ月1,200円である。1年に14,400円、20年でおおよそ30万円。国家がいろいろな自治体・事業体に補助金を出しているがその税負担率からすると軽微なものであると思うのは小人の至らざる所かなと。 

(専務取締役 神田 稔)

写真 おひさま発電前田 東京・奈良の方の土地を乞われて購入 喜ばれました