メールマガジン第33号>西園顧問

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★【西園顧問】木への想い~地方創生は国産材活用から(15)

  「木造建築の法制度や政治の変遷」

      ~木造苛めの歴史を知り、今や木造推奨時代への転換に気付こう

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 日本は明治時代の前半までは「木材利用や木造建築が当り前」の社会で、城郭や神社仏閣等の大型建築物は当然に木造だった。又我が国は世界一の木材加工技術の国であった。

 そこに昨年指定された、明治日本の産業革命世界遺産の製鉄・製鋼製品等が出現した。その転換期の施設や設備等を評価し保存しようとの動きが世界遺産である。鉄製品の長所を活かした大型戦艦や機関車等や機械類等が出現し、木材の弱点を補う新技術の開発が始まった。又セメント製品等の開発と改良も同時期に始まった。

 

 しかし太平洋戦争前までは、我が国の建築物はマダマダ木造中心であったし、それを実現するだけの「質の良い大径木」も、国内で十分に確保出来ていた。所が太平洋戦争で日本が敗色濃厚となる頃に米軍機による本土空襲が始まり、空襲警報下での延焼被害のトラウマが「木造建物の評価」を落とす事となった。

 米軍は日本の木造住宅密集地が火災に弱い点を見つけ出して、徹底的に火炎戦法で攻めた。焼夷弾を雨アラレのごとく投下した延焼作戦で、ほとんどの市街地は焼き尽くされ、木造住宅で出来ていた日本の町々は壊滅的な被害を受けた。しかも日本軍が「一億玉砕とか徹底抗戦」を唱え対抗し、長期戦となった事から主要都市は焼け野原となった。 

寺社仏閣は大型木造建築。円覚寺山門(神奈川県鎌倉市)

 

江戸時代の街並みが保存されている中山道「妻籠宿」(長野県南木曽町)

 

 敗戦を迎え、焼夷弾で焼き尽くされた町並みの復興に取り掛かった時に、まず考えられたのが、今後の市街地整備計画では「一番先に防火対策を考えた街造り」が重視された。木造施設の長所や文化性を評価する事なく、「木は燃え易い」と言う一面的弱点から否定され、木材使用そのものが制限された。現在から戦争批判をする事は簡単だが、戦争末期の空襲による被災状況を思い返せば、当時としては止むを得ない政策だった。

 

 そして終戦と同時に、南方や中支及び満洲等の外地から、300万人もの復員兵が大量帰国した事で、住宅確保の緊急性も問題となった。そのため残った資源の「木材を徹底利用」する事となり、結果として山はハゲ山となり荒れ、国土は風水害に見舞われる状態になった。

 国土保全や災害予防のための森林保全対策から、木材伐採を制限する事となり、一方街中では「火災に弱かった木造建築」でも木材利用が制限された。当時の日本は「木造建築物の防火性や耐久性を向上させる工夫や対策」を考える余裕も財政も無かったのである。

 

戦後焼け野原となったあとにバラックが建つ(名古屋市栄町)

 

 昔の日本は「森林国家とか、木造文化の国」と称されたが、今では欧米諸国に比べ木造住宅シェアーが低く、高層の木造建築物が少ないのは何故なのか。何時からそうなったのかを考える事が重要である。今後の木造復活運動を進めるには、「木材不振となった時期と、その原因を徹底的に分析」する事が、これからの林材振興対策を考えるのに役立つと思う。

そこで「木造苛めとなった戦後の歴史」を下記の通りに整理する。

 

 戦後昭和25年(1950年)建設省が設置され、街造りの法整備と復興計画が動き出した。その過程で衆議院では「建築物の不燃化の促進」が決議され、そして官公庁建築物の不燃化と、戸建住宅の耐火性能の向上を目指した「建築基準法」が制定された。

 木造建築物の耐火対策に「モルタル壁や布基礎」が規定された事が、「木造建築物の耐久性能を著しく劣化させ、木造の耐久性への不信感を生ませた原因」となった。

 

 日本の「夏場の高温高湿の気象条件の中で、木造住宅の要である土台角や壁下地材は、通風が遮られ乾燥し難い湿潤な環境」におかれた事で、シロアリ被害が戦後急拡大した。「布基礎とモルタル壁」工法が、木造住宅の弱体化を早めたと私は思う。

 更に昭和26年「木材需給対策」が閣議決定され、「都市建築物等の耐火構造化と、木材消費の抑制」が方向付けられた。

 昭和30年(1955年)には、「木材資源利用合理化策」が閣議決定されたが、それは「国も地方公共団体も、建築物の不燃化を促進する」との決意表明であり、結果的に「木材の使用を抑制」した。建築資材は不足時代だった事から低質木材の利用が始まり、更に木材高騰の抑制対策として外材輸入の道も開かれた。木材の質や強度等は後回しにされるほど、国民の住宅確保への要望へ対処するのが優先された時代で有った。

 昭和34年に、日本建築学会が「建築防災に関する決議」を行ったが、それは「防火と耐風水害対策から、木造は禁止する」との宣言でもあった。

 当時は、政治も学会も業界も行政と一体となって「木材をなるべく使わない。木材に替る新建築資材や工法を、積極的に開発するのが国策」と考えられ、木材苛め政策が推進された。

 山林に囲まれた田舎の市町村でも、公営住宅も学校建築も非木造とする国の指導が、「新しい時代の建築」と思い込まれたのである。その様な環境が国民の「木材離れ」を招いた訳で、その影響が今でも国民の意識の奥深く残っている。木材軽視の教育はされなかったのだが、使用制限が環境や生活に影響を与えた事例である。

 

 大学の林科でも森林へ施肥する促成栽培の授業が行われ、目粗木材の生産が取組まれた。当時は食糧不足も深刻で、増産が全てに優先され、生産性の低かった黒豚は、絶滅寸前にまで追い込まれた様に、生産効率が優先された時代だった。

 低質木材が取引される様になり、更に製材では歩切れ品とか、寸法の小径化も行われた。「目粗材の断面積の小さい木材」の強度低下は、木造住宅の質の低下となった。更に簡素化とか合理化住宅が売り出され、木材が腐朽し易い工法の「価格優先の見てくれの良い低コスト住宅」も現れた。「低コストだが低品質」では、当然の結果として木造住宅の耐久性への不信感を招いた。

 更に大蔵省発行の減価償却一覧表には、RC造に比べて「木造は短命」と思われる様な基準数字が掲載され、木造住宅の火災保険では、フランス等とは逆に高額な保険料が設定される等で、日本では国民の「木造住宅の耐久性への期待」を失う様な状況となっている。

 一時的に木材業界は盛況を博した事で、「木造住宅の基本条件である、耐久性と防火面への対策」が先送りされ、其の後の木造住宅への不信感につながった。「質を重視する商売こそ持続経営の基本」である事を、木材業界は得た教訓として今後二度と忘れてならない。 

 

 昭和50年代に入ると、日米貿易摩擦交渉で「日本では何故木造3階建ては建てられないのか。300m2以上の木造住宅制限を解除せよ。木材輸入量を増やせ」との圧力が起きた。米国レーガン大統領の来日時に合せ、日本で初めて300m2を越えた木造2階建だが、小屋裏の中2階の部屋設置が認められた住宅モデルが、ニュースとしてテレビで流されたほどだった。

 同時に北米の大型木造建築事例も数多く見せられて、「木材へも工学的加工技術を活用する」事の大切さに気付かされ、日本の木材業界でも「木材の弱点の改善提案」が出る様になった。又RC建築の弱点も見つかり始めた事で、「木材と、コンクリートや鉄骨等の建築資材」の夫々の長所短所を良く見直し、適切に組み合わせて使おうとの機運が生まれた。

 木材資源も昭和30年代の緊迫事態を脱し、50年代に入ると地方の産業再生には「地元木材の利用促進」や、「国民の健康問題」を考えての木材の長所を活かした建物こそが、「人間の生活環境の整備」には重要だと見直される時代となった。

 昭和56年度の耐震構造の見直しで木造建築物の耐震基準も強化され、同時に木造建築物の高耐久性への改善対策も始まった

世界最大級の木造ドーム「大館樹海ドーム」(秋田県大館市/平成9年)

 

 

 紆余曲折を経て平成22年(2010年)5月、宮路和明前代議士等の努力も有り「公共建築物等木造利用促進法」が、全会一致で決議された。この法律の制定こそが戦後長く続いた、「木材抑制から、需要拡大への大転換」となった。 珍しく「国会で全会一致で決議」された事こそが、国民待望の政策転換だった証明でもある。

 早速に埼玉県秩父市で木造消防署の建設が施工され、「消防署は木造では造れないとの誤解」を解く事になった。(法規制を読めば、「木造禁止」とは書かれていないのに、何故か駄目だと思いこまれていた不思議な事例で、行政指導の行き渡った我が国では時々見かける話だ。)  

木造で建てられた消防署(埼玉県秩父市/平成23年)

 

 平成27年6月(2015年)に、「3階建学校や3000m2を越える木造建」の建物建築が解禁された。それと前後して東京都内の市街地の防火規制地区でも、土地の有効利用から4~5階建て木造建築が建ち始めた。そして今年1月には、東京オリンピックのメイン会場となる「国立陸上競技場」でも、「日本らしさを表現する」ために、大量の木材設計(国際認証林に限定付き)が取り入れられた。

 4月には「CLT(直交集成板)の告示が施行」され、今後は特認申請をしなくとも高層建築物への木材利用の可能性が大きく広がる事になった。東京ではCLT活用の20階建ビルが検討され、宮崎県庁では10階建てCLT採用の庁舎計画が進んでいる。鹿児島県内では肝付町の福祉施設で、CLT採用の建築が検討されている。

 木材は「戸建住宅」の利用する事なく、大断面集成材による大型木造施設や、更にCLT利用による非住宅建物や高層建築物への木材活用が全国的に始まっている。此の気運を鹿児島県内にも広める事が今後の課題である。

 

 「木材利用の苦難の歴史」を縷々述べて来たが、戦前の「木材利用が当然」の時代から、昭和25年から30年代の「木造建築物の抑制時代」(今思えば木材苛めに近い苦難の時代だった)を経て、平成22年の公共建築物等木造利用促進法には「公共建築は原則全ての木造化を」と記された。最近の国の方針を見ると木材復権を通り越し、木造建築物の推奨時代となっているのに、鹿児島県内の設計や建築の現状を見ると、多くの人々は努力しているが、それでも隣県の宮崎・大分・熊本に比べ、「大型木造やユニークな木造建築物」の事例(特に駅や空港)では、一歩も二歩も出遅れていると思う。

 県や市町村関係でも十分に認識されて、「地材地消」や「公共建築物の木造化」が推進される事を期待する。

熊本県産材を使用した木造が採用された熊本駅(熊本市)

 

 地域間競争が激しくなる時代だからこそ、特徴ある地域を作り上げるために、「地方こそ木造建築物で都会との差別化に取組む」必要性が高いと思う。木材使用へ厳しかった時代から、復権に50年を要した苦労を木材業界は忘れずに、RC建築物や木材利用と競合する鉄鋼やアルミ製品、化成品との開発競争と営業努力で負けない努力を続けて欲しいものである。

(西園)