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★【稲田顧問】タツオが行く!(第5話)
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「これまでのタツオが行く!」(リンク)
5.浦賀水道沖地震被災への対応
竣工まで半年後と迫った大正11年4月26日、浦賀水道付近を震源とする大きな地震に見舞われ、旧丸ビルは大きな被害を受けた。
予てより、フラー社の提案する柱梁接合部ディテールに疑念を抱いていた山下寿郎(三菱合資会社副技師長)は、この機を捉えてプロジェクトからフラー社を排し、三菱合資会社独自で被災した建物の改修にあたることを決意したのである。
5.1 固有周期測定
山下はビルの被害状況を正確に把握するために、東京帝大地震研究所の大森房吉と今村有恒の2人を訪ねた。
「先生にお願いがあります。工事中の丸ビルの地震による被害の状況を把握するために、現況の固有周期測定を至急お願いしたいのですが。」
「被害状況はどのようなものなのでしょうか。」
「煉瓦造の外壁および内壁にかなりの亀裂が入っています。その亀裂が表面的なものなのか、建物の剛性低下に関わるような深刻なものなのか、判断することが必要です。それにより、補強・補修の考え方も大きく変わると思います。それで、思い出したのですが、先生に工事中、固有周期測定をして頂いていたので、それと現状の比較をしてみようと、思い立ったのです。御協力頂けますでしょうか。」
「なるほど。そういうことであれば了解しました。至急執りかかりましょう。」
今村は直ちに作業に着手した。その結果、旧丸ビルの固有周期は両方向ともに1.1秒と、煉瓦で固める前の周期に戻っていることが判明した。山下は、結果を桜井に報告した。
「予想以上に被害は深刻です。殆ど煉瓦が剛性を失っているものと思われます。どうも私の危惧が的中したようです。フラーの工法は、日本の地震にはあまり有効では無かったようです。」
「そうですか。そんなに事態は深刻なのですね。確かに貴方からは、フラー社の技術に問題があることは聞いていましたが、こんなに簡単に問題が生じてしまうとは。実は君の提案については、大いに気にはしていたのですが、工事請負契約を急ぐあまり、最後のつめが甘くなってしまいました。完全に私の判断ミスです。君には本当に申し訳ないことをしたと思います。しかし、これから具体的にはどうしたら良いと、君は思いますか。」
「すぐに補強設計にとりかかる必要があります。今回の設計は、フラーには任せず、全て私に任せて頂きたいと思いますが宜しいでしょうか。」
「もちろんだが、しかし、どの程度工事に影響が出ると思うかね。当然工期の遅延は避けられないだろうね。」
「工期も然る事ながら、建設費の増額も心配です。いずれにせよ、どの程度のことになるか、至急検討して報告します。」
5.2 補強計画立案と改修設計
山下は工期の遅延を最小限に止めるために、極めて迅速に作業を進めた。その結果、山下の立案した 補強計画は以下のようなものであった。
① 1~5階外柱の内側半分を鉄筋コンクリートで覆う(図5-1)
② 2~7階の内柱を鉄筋コンクリートで包む(図5-2)
③ 1~5階の内柱の柱頭に鉄筋コンクリートの持ち送りを付ける(図5-3)
④ 1~8階にアングルまたは丸鋼のブレースを新設する(図5-4)
図5-1) 外柱の内側半分を鉄筋コンクリートで覆う
図5-2) 内柱を鉄筋コンクリートで包む
図5-3) 柱頭に持ち送りを付ける
図5-4) アングルブレースを新設する
この補強による予想される工事期間の遅延は4ヶ月。被害の割には短工期であったが、それについては、山下の工夫があった。山下は補修計画にあたり、同僚の川元と充分な議論を尽くしていた。
「やはり、大地震時に煉瓦では建物の剛度を維持することは難しいようだ。煉瓦を全てコンクリートに置きかえるのが得策だと思うのだがその場合、工期はどうなるだろう。」
「詳細にはもう少し検討の必要があると思いますが、少なくとも1年の遅延は避けられないと思います。」
「1年か。冷静に考えれば、1年ビルの稼動が遅れた場合の損失がどうなるかということになるが、経済情勢の悪化した今の時点では、それを提案しても理解を得るのは難しい。もう少し工期を短縮することを考えた場合、最も工程に影響を及ぼす工事はどの部分になるのだろうか。」
「外装工事だと思います。外装を完全にコンクリートに置き換えるとなると、雨仕舞いをどうするか、窓枠の取替え、仕上げ工事の追加と、工事が極めて煩雑になります。今の外装を多少とも活かして、外装工事の負担を最小限に止めることができれば、かなりの工期の短縮が可能となるはずです。」
「なるほど。それでは外装については、現状積まれている煉瓦は極力活かすことにして、外部はタイルの補修程度に止め、外壁内部の煉瓦のみをコンクリートに置きかえるということにしたらどうだろう。それならば、雨仕舞いの心配もないし、窓枠などにも手を付けずに済む。それから本格的な耐震補強は、建物内部で行うことにして、内部の柱回りの煉瓦は少なくとも下層部についてはコンクリートに置き換えることにする。後は、例えば内藤先生のアドバイスを入れて、耐震ブレースを内部架構に追加することにしたらどうだろう。それと、これは僕の拘りもあるので、柱と梁の接合部の剛度確保のために、梁端部にコンクリートのハンチをつけたいと思うがどうだろう。」
「それは山下さんの最初からの持論ですね。柱と梁は剛接というのは、そういうことだったんですか。」
「いや、必ずしもそうではない。鉄骨のディテールとしても剛接にすることは可能だったはずだからね。最初からそうしていたら、別の形になっていたはずだ。」
補強案を造るまでの合資会社の活動は、極めて精力的なものがあった。特に山下と川元はほとんど会社に泊まり込みでこの作業にあたった。補強の最終案ができるまでに要した時間は、わずかに1ヶ月程度であった。
5.3 補強改修工事
補強案ができあがると、桜井等は直ちに補強工事に着手した。補強工事は昼夜にわたる突貫工事で進められ、わずか数ヶ月で工事は完了した。
当時の工事の様子が伺える興味深い写真があるので、紹介しておく。(図5-5)
【大正11年(1992年)1月15日撮影】
吊り足場にて外壁タイル張り中である。
【大正11年(1992年)4月1日撮影】
外壁工事をほぼ完了している。
【大正11年(1992年)8月1日撮影】
震災による外壁補修工事中である。
図5-5) 震災改修工事の様子
今日では工事現場は、建物外周に足場を架け、その周りを仮囲いで覆い、工事の様子が外からは見えないのが通常である。しかし、旧丸ビルの工事では、そのような工法はとられておらず、吊り足場という方法を採用されていた。この工法は、工事の様子が外からでもよく分かるのであるが、浦賀水道沖地震が起こるまでは順調に足場が上階に向かっていたのが、地震後吊り足場が下階に下がり、その上で大勢の作業員が補修工事をしているのが、よく見えるのである。当時工事現場の大慌ての様子が伺え、大変興味深い。
さて、工事が完了すると、山下は大森と今村に改めて固有周期を測定するよう依頼した。その結果、丸ビルの固有周期は、補強工事によりその剛度は著しく向上し、両方向共0.65秒であった。このようにして、旧丸ビルの耐震性は大幅に向上し、結果として翌年起こる関東大震災でも、かろうじて倒壊を免れることになるのだが、そのようなことは山下達が知る由もなかったのである。
次回予告
次回は、山下等の精力的な働きにより、わずか数か月の工事の遅れで竣工した丸ビルの開業について、初めての本格的ビルヂングの出現に沸き立つ東京丸の内の様子を紹介する。
(稲田 達夫)
参考文献)
1)三菱地所社史編纂室編:丸の内百年のあゆみ「三菱地所社史」、1993年
2)三菱地所編:丸ノ内ビルヂング技術調査報告書、1998年