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★【稲田顧問】タツオが行く!(第15話)
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15.柔剛論争と鋼材生産
前回述べたように柔剛論争は、佐野利器に代表される剛派の主張が通る形で決着し、特に大規模ビル型建築においては、鉄骨鉄筋コンクリートによる重厚な建築が主流となった。柔派を率いた真島健三郎の念頭にあったのは、米国の鉄骨造による超高層ビル群だったのかもしれないが、震災復興をできる限り少ない予算で貫徹したい佐野と、海軍という経済的には比較的恵まれた環境に居た真島の論争として見れば、決着点としてはやむを得ない所であったのでは無いかと思われる。
ここでは、少し視点を変えて、鋼材生産の推移から日本の建築構造の在り方を見てみたい。1900年に、米国ではUSスチールが、日本では官営八幡製鉄所が機を同じくして操業を開始する。しかし、八幡製鉄所は文字通りの創業であったのに対し、USスチールはカーネギースチールの歴史を引き継いだこともあって、その後の推移は大きく異なる。
図1に古い鉄鋼統計資料を示す。何度もコピーを重ねて字がよく読めないので、数字等は書き直している。ニューヨークで超高層ビルの建設が本格化するのは、1913年のウールワースビルが竣工した頃であるが、その頃の米国の鋼材生産量は約3000万tonに達していた。一方、柔剛論争が勃発したのは、その約10年後の1924年のことであるが、その頃の日本の鋼材生産量は、殆ど0に近い数値に留まっている。これから見る限りにおいては、当時の事情として鋼材がまず軍備に最優先されることを考えれば、建築で使える鋼材量は、高が知れていたと見るべきであろう。1930年、世界大恐慌が勃発し米国の鋼材生産も激減するが、その直前の米国の鋼材生産量は実に6000万tonに達していた。一方、この頃の日本の鋼材生産量は、50万ton程度に過ぎなかった。ちなみにこの頃、その後永く世界一の高さを誇ることになるエンパイアステートビルが竣工している。
図1)20世紀前半の各国の鋼材生産の推移
この頃の日本の鋼材生産技術が米国に対し大きく劣っていたかと言えば、必ずしもそうでは無い。
図2に、日本工業倶楽部会館の解体調査において行った、当時の鋼材の日米比較のデータがある。これによれば、日本の鋼材には代表的な不純物である燐(P)と硫黄(S)の量が米国のそれに比べ圧倒的に多いにも関わらず、鋼材の構造性能を示すシャルピー衝撃値は日本の鋼材の方が優れている。その理由としては、日本の鋼材の結晶粒の方がはるかに緻密なことによるものではないかと思われるが、これはわが国の鋼材圧延技術のレベルの高さを示しているものと見ることができる。
米国製の鋼材の結晶
(P:0.021%、S:0.023%、衝撃値:8.8~12.7J)
日本製の鋼材の結晶
(P:0.088%、S:0.160%、衝撃値:45.1~55.9J)
図2)20世紀初頭の日米鋼材の性能比較
その後我が国の鋼材生産量が上昇に転じるのは、終戦も間近の1944年のことであるが、これは丸ビルのエレベータや工業倶楽部会館の階段の手摺など、日本中から集められた鋼材を融かして、軍需用に転用したことによるものである。その結果として生産された鋼材量は約700万tonであるが、一方その年の米国の鋼材生産量は8000万tonであった。いかに当時の日米決戦が、無謀な戦いであったかが分かるであろう。
戦後、1950年あたりを境として、わが国の鋼材生産は徐々に立ち上がり始める。当初は建築用の鋼材は、ビル事業者等に対し国の管理の元、支給材として提供される所から始まる。それが、1960年代となり鋼材生産が3000万tonを超える頃になると、建設業界は主として経済的理由から、新たな鋼材の重要な需要先として再評価されるようになる。それと機を同じくして、技術的側面を背景として、超高層建物を中心とした、柔構造建物の耐震性の見直しの気運が高まる。その主役となったのが、柔剛論争の剛派の立役者であった佐野利器の後継者武藤清である。建物が竹のように柔軟に揺れることにより、大きな地震力の入力を抑制することができるというのが、その根拠であった。まず1961年に建築基準法の改正が行われ、31mの高さ制限が撤廃され、超高層建物の設計を可能とする法整備が整うと我が国も、遅巻きながら超高層ビルの建設ブームが訪れる。そして1965年我が国初の100mを超える超高層建物である霞ヶ関ビルが竣工すると、いよいよ、我が国にも本格的な摩天楼建設ラッシュが始まる。この霞ヶ関ビルの建設は、関東大震災以降の剛構造の呪縛から我が国の建築界が解き放たれ、新しい都市計画が可能となった第1歩として、極めて貴重なイベントと言えた。
(稲田 達夫)