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★【稲田顧問】タツオが行く!(第16話)
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「これまでのタツオが行く!」(リンク)
16.建築基準法制定
第14話でも述べたように、我が国初の建築法規である市街地建築物法(大正8年制定)に耐震規定が盛り込まれたのは、大正13年10月のことである。その後の建築法規の大改正と言えば、建築基準法の制定ということになるが、同法が公布されたのは、昭和25年5月のことである。
建築基準法の特徴を挙げると、
①羈束性
②最低の基準
の2つが重要と思われる。
①の「羈束性」(きそくせい)とは、「全国津々浦々で、分け隔てなく公平な法運用が行われるようにする」ということであるということを聞いたことがある。そのために、法律で基準を定め、それに適合していることを建築主事が確認するという法運用が行われることになった。所謂、確認行政というものである。別の言い方をすれば、行政の裁量を認めないということである。それまでの法運用が、行政の裁量に基づく許認可を基本としていたことを考えると、大きな大転換ということになる。民主国家の実現を目指す当時の日本としては、正にそれに相応しい法改正を行ったと見ることができるだろう。
もう一つの建築基準法の特徴である、②の「最低の基準」ということであるが、建築基準法第1条には、以下のような記述がある。
「この法律は、建築物の敷地、構造、設備及び用途に関する最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もって公共の福祉の増進に資することを目的とする。」
この法案の検討が始まったのは、公布の1年前の昭和24年春からとのことである。公表された検討案は第5版であったが、「最低の基準」という言葉が入るのは、最終段階に近い第4版からである。この辺の経緯については、建築雑誌2004年12月号に掲載された、都市計画家の岡辺重雄氏(現福山大学教授)による「法制史からみた最低の基準」に詳しく書かれている。
それによれば、建築基準法の起案にあたって、内外の2つの基準の影響を大きく受けたとの指摘がある。一つ目は、「アメリカ合衆国標準建築規則(1946年)」である。
「この規則は市の区域内の総ての建築物、工作物及び特に規定する設備の設計、構造、材料の品質、使用、占用、位置等に維持管理を規制、監督することにより、生命、身体、健康、及び公共の福祉を保護するために最小限度の基準を定めることを目的とする。」
もう一つは、昭和22年に制定された、労働基準法第1条である。
「(労働条件の原則)
第1条
労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。
この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者は、この基準を理由として労働条件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように努めなければならない。」
岡辺氏の記述から類推すると、建築基準法の法案の検討に携わった方々の、この「最低の基準」という言葉に込めた意味としては、以下のようなものであったのではないかと思われる。
「法律で定める基準は一つの標準にすぎないのであって、地方自治体の自主性によってこの基準を再検討する機会を与えることで、地方自治推進を指向する意味をもたせることも意義がある。」
しかし、実際の建築基準法の運用は、「地方自治体の自主性によってこの基準を再検討する」というようなことにはならなかった。むしろ、建築基準法は、建物を設計・建設する際の規制の原点となる、絶対的な基準として重く存在し続けることになった。
例えば、法案の検討を行った方々の意図が、世の中に正しく伝わるためには、建築基準法第1条に、労働基準法に倣って、以下のような記述があれば良かったのではないかと思う。
「この法律で定める建築条件の基準は最低のものであるから、建築関係の当事者は、この基準を理由として建築条件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように努めなければならない。」
しかし、当時の状況を考えれば、基準法制定の直前まで、臨時建築制限令(1945-50 年)が布かれ、建設できる住宅の規模は15坪(49.5㎡)に制限されていたとある。そのような時代に、「その向上を図る」というような意識が受け入れられるかは、はなはだ疑問である。
しかし、今や戦後70年以上を経過し、状況は大きく変わったはずである。そのような中で未だに建築基準法が絶対的な基準として重く存在し続けて良いものか、ここは思案の必要があるのではないかと思っている。
参考文献)
1)岡辺重雄:「法制史から見た最低の基準」、建築雑誌vol.119 No.1526 2004.12、日本建築学会
(稲田 達夫)