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★【稲田顧問】タツオが行く!(第17話)
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「これまでのタツオが行く!」(リンク)
17.コンピュータの出現と進化
第16話で、戦後の建築分野に大きな影響を及ぼしたイベントとして、「建築基準法の制定」を取り上げた。しかし、戦後の建築分野、あるいは我々の社会全般に大きな影響をもたらしたもう一つの大きな要因として、「コンピュータの出現」が上げられると思う。
個人的な話になるが、私が博士論文に挑戦したのは、1993年から1996年にかけてのことである。当時三菱地所に在籍しており、「横浜MM21ランドマークタワーの構造解析」や「丸ビルの構造設計」など著名な建物の仕事に関わったことから、論文のテーマも、多分そのような建物に関するものではないかと思っておられる方が多いようであるが、実は全く異なる。私の博士論文の題目は「コンピュータによる建築構造設計支援のあり方に関する研究」というものである。
さて、博士論文を書き始めた当初、コンピュータの発展の過程をまず辿ろうと随分関連する書籍を読んだことがある。当時は丁度運の良いことに、「メック情報開発」という三菱地所の情報系子会社に出向していたこともあって、比較的自由に時間を融通することができた。確かその子会社のすぐ近くに富士通が経営する情報専門の図書館があり、暇があるとそこに入り浸っては資料集めをしていたのを覚えている。
世界最初のコンピュータは、1946年に開発された米国製の「ENIAC」と呼ばれるマシーンである。長さ約30m、幅(厚み)は約90cm、高さは約3m、重さは約30tonという巨大なものであった。ENIACは軍用として開発されたコンピュータであり、熟練した計算技術者でも24時間かかる弾道計算を30秒足らずで計算できたとある。太平洋戦争を終結に導く切り札として開発が進められたが、開発が遅れ、日本が予想より早く降伏してしまったこともあって、遂に実用に供されることは無かったようである。
実用的な商用コンピュータを世に送り出したのは、米国のレミントン・ランド社であり、1951年のことである。名称は「UNIVAC」という。これに対しIBM社は、2年遅れの1953年に「IBM701」を世に送り出す。この頃のコンピュータは、論理素子として真空管を使用しており、この段階のコンピュータのことを「第一世代コンピュータ」と呼ぶ。
1958年レミントン・ランド社から発展したスペリ・ランド社が、トランジスターを使用した中型コンピュータ「UNIVAC Solid State」を世に送り出す。「第二世代コンピュータ時代」の幕開けである。IBM社は2年遅れの1960年、オールトランジスタコンピュータ「IBM7070」を世に送り出す。
1964年、IBM社は論理素子に初めて集積回路を使用した、本格的な汎用ビジネスコンピュータ「IBM360」を世に送り出す。「第3世代コンピュータ」時代の幕開けである。1970年、IBM社は同社を世界に冠たる巨大企業へと押し上げることになる「第3.5世代コンピュータ」、「IBM370」を発表する。その後IBM社は1980年代中頃まで、コンピュータ業界の巨人として永く君臨することになる。
コンピュータ業界の巨人IBM社の牙城に最初に風穴を開けることになるのは、DEC社(デジタル・イクイップメント社)である。私は、1984年のある日、晴海で開催されたデータショーで、デザイン的にも優れたミニコンピュータを目撃する。スペックを確認すると当時私が会社で使用していた汎用コンピュータと大差無い。半信半疑で値段を確認すると買取価格で1500万円とのことである。当時、三菱地所が使用していた汎用コンピュータの月額レンタル料は、確か2000万円程度であったと思う。驚いて、カタログと価格表を手に入れると直ちに会社に戻り、このコンピュータを買って呉れるよう上司に切望した。2~3週間後、そのミニコンピュータ「マイクロ・バックス」が私の元に届けられることになる。1984年と言えば、日本経済は世界最強と呼ばれた時代である。横浜MM21ランドマークタワーの解析が佳境に入り始めたのもその時期であった。
(稲田 達夫)
参考文献)
1) 稲田達夫:「コンピュータによる建築構造設計支援のあり方に関する研究」、東京大学学位論文、1996年3月
2) ハワード・ラインゴールド著:「思考のための道具(異端の天才達はコンピュータに何を求めたか)」、パーソナルメディア、1987年12月