メールマガジン第62号>社長連載

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★【社長連載】 Woodistのつぶやき(29)

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かごしまCLTシンポジウム

 去る10月20日、かごしま県民交流センターで、「かごしまCLTシンポジウム」が行われ、聴講した。

 内容は塩﨑常務の報告が詳しいので省略する。

 稲田氏の講演では「超高層ビルに木材を使用する研究会」が出来たいきさつが報告され、往事を思い出し懐かしかった。

 パネルディスカッションでは重要なテーマがあぶり出された。泉高森プロジェクトの元請け竹中工務店の麻生部長、当社担当の星子課長、コーディネーターの稲田会長の掛け合いの中で明らかになった。

 鉄骨骨組みにCLT床を敷く場合、鉄骨の施工図・加工図が作成され、その承認が出されないと、CLTの施工図・加工図も最終的には書けない。往々にして鉄骨の最終承認もぎりぎりまで掛かることが多く、そのあおりでCLTの加工図承認が遅れ、CLTの製作、加工、そして現場作業の進捗に大きな障害が起きる可能性があるということである。双方認識し合うきっかけになったと思う。

 


山小屋設置場所の選定

 本欄2018年1月号2月号で紹介した山林のことである。暑い夏に山に入ることは願い下げだったが、あの暑い夏もどこへやら、随分涼しくなった。11月3日休みにもかかわらず、A馬部長、N時課長、M田リーダーのご協力を得て、半日山中に山小屋設置の好適場所を探した。

 

目的は、

1.山小屋建設適地があるか。道路から車を入れ、駐車場数台分を確保できるか。

2.水場。

3.海までの遊歩道。

 

 幸い他の人たちの協力も得て、何回か事前に調査してくれていた。進入口としてポイント1,2,3の候補が上がっており、順番に確認。1,2はすぐにアウト。候補3にチェンソー、造林鎌等を持って入っていく。

 山小屋建設予定地は適地を絞り込めたし、前面を切り払えば、内之浦湾の眺望は素晴らしいはずだ。海への降り口もある程度見当がついたようだ。

 そして何よりなのは、山の境界域に渓流があってかなりの水が流れているのだ。これは大変に嬉しかった。水中ポンプを据えれば五右衛門風呂の水は心配なさそうだ。

 それから昼飯。家内が握ってくれた握り飯3個、何ともうまい。

 

 出来上がれば私の念願であるから、大いに活用したい。同行の3人も子供たちと、或いは職場の仲間と泊まりに来たいという。皆が喜んで使ってくれるようだと作りがいがあるというものだ。

 

山好き、そして 釣り好きの面々
山好き、そして 釣り好きの面々
渓流発見!
渓流発見!


思い出に残る風景(昭和40年代中頃)

 土木現場である。堤防の補強工事現場。現場歴3年くらいで、不器用な私も少しは慣れてきた。

 現場作業に従事するのは地元の農家兼業の人が多い。皆10年20年の現場キャリアがある。根が好きなので夜のお誘いは断ったことがない。もっともその頃のお誘いは、「イノシシが捕れたから」、「新そばをとった(収穫した)から」、「牛が良か値で売れたから」など、素朴なものであった。

 焼酎の一升瓶2本くくりをぶら下げてお宅に伺うのである。父のアドバイスで決して手ぶらでは行かない。同じ現場の人や近所の人など10人くらい集まって、賑やかな酒盛りである。猟期であれば、イノシシ、ウサギ、カモ、ハト、キジなど。猟期でなければ放し飼いの丸々太ったニワトリ。その刺身と、骨と大根、揚げ豆腐などの煮染め。

 川魚もある。冬だと寒ブナ。真冬の川に入って手づかみで20㎝以上もあるフナを次々に川船に放り込むのは私と同年のS君、H君である。真冬の時期フナは卵で腹がはち切れんばかりである。鱗だけ落として丸ごと20匹も大鍋に放り込み、味噌で煮込むと卵が金色に弾け、その汁は何とも濃厚で滋味深い味わい。

 夏だとボラの子。川が数㎝のもので黒々としているのを川船から投網でとる。3,4回網を打てば十分である。背越し(骨ごと切る)にしてどんぶりに山のように盛り、酢味噌で食べる。

 

 現場にFさんという人がいた。私より20歳くらい上か、40代中頃。あの頃大隅地区では地方相撲が人気で、年に何回か各地で素人相撲の大会があるものだった。Fさんは大会荒らしのような存在だったのではないか。まあ整った顔立ちで、肥満体ではなくがっちりタイプ。温厚に見えたし、柔和で皆ともうまくやっている。ただ、「この人は怒らしてはならない」と私も思ったし、皆もそう思っていただろう。

 生コンがまだ始まったばかりの頃で、セメントは現場で常備品だった。セメントの一袋は今は何㎏入りだろう、25㎏か。あの頃は一袋50㎏入りだった。

 何のきっかけだったろうか、ある時力比べのようなことが始まった。Fさんがそのセメント袋を3袋、右肩に重ねて2袋、1袋を左腕で左腰にかかえ込んで、堤防の土手を駆け上がって見せたのである。唖然として見守るしかない。なぜそんなことになったか記憶は曖昧だ。誰かがそれに挑戦したんだったろうか、多分いなかっただろう。

 

 やはり力自慢のHさんという人がいた。元とび職で、鋼索を張る、人肩による重量物の運搬など、文句を言いながらでもこの人がいないと始まらない。ある時Hさんが突然身を翻し、とっさに手近な棒切れをつかんで草原に飛び込んだ。一匹の野ウサギをめざとく見つけて狩ろうとしたのである。まるで野犬のようだ。捕れていればその夜はウサギを肴にのんかた(酒盛り)になっていただろう。

 半年くらい前だったか、会社で町のシルバーセンターに数人の派遣を依頼した。やってきた作業者の中に、何とそのHさんがいた。顔を合わすなりお互い指さし合って、双方がすっかり爺さんになったと大笑いしあった。聞けば94歳という。まだ子供でも作れそうな目つき、体つき、身のこなしである。そういえば助平話の好きな人だった。

 

 あの頃河川工事が多かった。昭和10年代当地に大きな水害があって多くの死人が出たという。戦前から内務省の土木出張所のようなものが旧高山町(合併して肝付町)に置かれ、内務省の直轄工事で大々的な河川工事が行われた。

 戦後は建設省の所管となり、引き続き築堤工事はこの河川事務所と呼ばれていた役所で行われていた。当社は木材等の資材を納入していたという。ある時父は、工場から歩いても20分くらいのここの事務所に呼ばれた。「これまで直轄工事だからお宅から木材を直接買っていた。新しい国の方針で直轄制が廃止されることになった。請負制に変わって、入札により土建会社に発注することになる。従って来年からは事務所直接の購入は無くなる」と知らされたという。

 これが父が土木請負工事を始めたきっかけになったのだった。

 (代表取締役 佐々木 幸久)