メールマガジン第63号>稲田顧問

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★【稲田顧問】タツオが行く!(第20話)

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「これまでのタツオが行く!」(リンク

20.構造一貫計算システムの開発

  第18話、第19話と2回にわたり、私とコンピュータとの関わりについて述べた。私が大学を卒業した1974年当時、コンピュータは行列演算等、技術計算分野でやっと実用的に成果を上げることができるようになった時期でもあった。入社するとすぐに取り組んだ新青山ビルの構造設計で、構造解析プログラムを自作したことは、第18話で述べた通りである。その後の私の仕事とコンピュータとの関わりは、好むと好まざるに関わらず、さらに深まることになる。

 

 三菱地所に入社して3年半が経過した1977年10月、私は技術開発室に人事異動の辞令を受けた。技術開発室は、三菱地所のコンピュータプログラム開発のために設けられた部署で、意匠、構造、設備、電気、積算の各専門分野から、入社3年前後の若手社員が集められた。

 リーダーには、それまで池袋のサンシャイン60の構造設計の責任者であった山田周平氏が池袋の仕事が一段落したのを受けて、技術開発室に赴任されることになっていた。私が異動になったのは、山田周平氏の強い推薦があったからだという説明を、上司からは受けていたが、しかしその当時、建築技術者がコンピュータプログラムの開発部署に異動するというのは、かなり奇異な人事として受け止められた。実際、それまで所属した部署の同僚に人事異動の挨拶をすると、殆どの人から、異口同音に「大丈夫だよ。3年我慢すれば戻れるから。」というような反応であった。

 後日談になるが、私は人事異動の内示を受ける直前、約1週間の東北旅行を計画し、やや長めの有給休暇を取って実行に移したのであるが、数年経ってある後輩から、「稲田さん。三菱地所では、1週間の有給休暇を取ると左遷されるとの噂を聞きましたが本当ですか。」と聞かれたことがある。少なくとも、私の当時の人事異動は、世の中からは栄転とは受け止められていなかったのは、確かなようであった。

  

 しかし私個人の心境で言えば、第19話でも述べたように、何しろコンピュータ大好き人間であった私にとっては、決して苦痛を伴うような異動ではなかった。まして、同僚が言うように、3年我慢していれば戻れるというようなことを期待するような状況でも無かった。私が技術開発室に異動して取り組んだ仕事は、「構造一貫計算プログラム」の開発であった。構造一貫計算プログラムとは、それまで手計算で行っていた構造計算の全プロセスをコンピュータ化することにより自動化し、著しい効率向上を図ろうというものであった。構造一貫計算プログラムの開発は、既に電信電話公社(現在のNTTデータ)と日建設計が先行しており、ゼネコンの大手5社も続々開発完了の名乗りを上げている所であった。開発に関して大きく後れをとっている状況に、リーダーである山田氏は、先発する各社の開発に直接関わったソフトウェアハウスに外注することによりシステムの開発効率を上げることを提案したが、私はそれには全面的に反対した。三菱地所に蔓延る外注依存体質を断ち切らなければ、この会社に未来は無いとする直観が、私には働いていたからである。

 構造一貫計算プログラムは、フォートラン言語で組むとして総ステップ数は4万ステップ、開発期間は4年以上かかると見積もられた。今思えば、山田氏の提案は、極めて合理的でありまた常識的なものであったが、私としては新青山ビルでの実績もあったことから、この程度のプログラムの開発は大したことではないと主張し、山田氏を説得した。

 

 結果として構造一貫計算プログラムの開発には、外注のソフトウェアハウスは一切使用せず、三菱地所の若手構造技術者5名で当たることになった。機能的には、既に発表されていた他社のスペックを全て調査し、落ちが無いようにした。また、最も拘った点としては、プログラムの使い易さであった。時代は、未だグラフィック端末は高価すぎて使い物にならず、またWindowsやマウス等も存在しない時代であった。入力データは、コーディング用紙に記入する必要があったが、データの記述形式は、極力視覚的にも分り易い形式となるよう配慮した。また出力形式については、当時実用化し始めていたA1図面まで出力可能なバーサテック高速プリンターを駆使して、そのままで計算書に転用できるよう配慮した。最後に拘ったのは、システムの中で発生する様々な構造データの取り扱いであった。これらデータについては、計算終了後も活用できるよう、データベースとして格納保存されるようにした。

 

 システムに以上述べたような機能を盛り込んだ結果、プログラムは複雑化し、プログラムステップ数は25万ステップに及び、開発期間も最終的には、建築センターのプログラム評定を取得するまで、8年を要することとなった。会社の業務の進め方としては、決して好ましいやり方とは言えなかったが、結果として私は、内部まで知り尽くした構造設計専用のデータベースシステムを手に入れることとなった。このことは、私のその後の構造技術者としての人生に対し、大きな力を齎すこととなったのである。

 

 さて、完成した構造一貫計算プログラムの名前を、私は「ASTS」と命名した。「A STructural System」の略であるが、「The」とせずに「A」とした所に、私のプログラムに込めた熱く謙虚な気持ちが表れている。「ASTS」の建築センターの評定を取得した際の、建築センターのビルディングレターが残っている。その第1章「プログラムの開発思想・特徴」に私がプログラムに込めた気持ちが、熱く語られているので、添付しておく。

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ASTS010.pdf
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(稲田 達夫)