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★【西園顧問】木への想い~地方創生は国産材活用から(48)
「世界一長い木造橋 静岡県大井川の蓬莱橋」
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私は以前から、静岡県島田市に在る「大井川に掛かる 世界一長い木造歩道橋・蓬莱橋」を自分の足で渡ってみたいと思っていた。東京へ出る機会があれば「静岡を訪ねて来いよ」と言われていた鹿児島出身の橋口武敏先輩の誘いにのって足を延ばした折に、時間をやりくりし念願を果たす事が出来たので報告記とする。
大井川渡河の歴史を振り返れば、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝つと、江戸から京都までの東海道に宿駅傳馬の制を定め街道整備を行った時に行き着く。しかし当時の土木技術では、大きな川には橋が掛けられなかったので、旅人は渡船か徒歩で渡るしかなかった。大井川は深くはなかったが流れが急で、駿河国島田宿と遠江国金谷宿の間に流れる防衛の要衝地区として渡船が禁止された。だから不慣れな旅人が渡るには危険でもあったから「川越の人々」の手助けを借りるしかなかった。街道の通行客が増えると「渡渉の方法や料金を統一」する事となり、徳川幕府は元禄9年(1696年)に川越制度を設け代官所を置き、川床屋の役職の拠点となる川会所を島田宿に設けた。そしてその日の水深に応じて川越料金を定めて、大名から庶民までの通行人の割振りや運送等を取り仕切った。川越制度は明治維新まで続けられたが、明治3年(1870年)に大井川の渡航船が許可された事で廃止となった。
当時の資料を調べると面白いので下記の通りに纏めてみる。
『寛政時代の大井川の川越賃銭は、水深より異なる料金体系となっていた。現在の相場に凡そ換算すると、肩車による渡渉では、①股通(一番浅い時の常水の水深が、股下で2尺5寸の場合)1,500円。②帯下通(水深が帯下までの場合)1,600円。③帯上通(水深が帯上までの場合)2,000円。④乳通(水深が胸までの場合)2,400円。⑤脇通(水深が肩まで4尺5寸の場合)2,800円と決められて、更に荷物は別に一人分を要した。』
『連台を使うと一人乗りの場合では川越衆4人が担ぎ、更に小荷物や控として2名分を要した。二人乗りの場合は担ぎ手が6人と更に2名分。大名等が乗る四方に手摺が付いた大高欄連台は、担ぎ手16人の他に控え人足を含めて合計52人分の渡渉料となっていた。 』
女性は肩車での利用は嫌だろうから蓮台を使う事になったので、大井川の渡河では大変な出費を要した。更に脇通(水深4尺5寸=135㎝)を越すと「川留め」、即ち水が引き川が浅くなるまで通行不可とされ、両岸待機の通達となっていた。馬子歌で「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われた様に、江戸時代には東海道の最大の難所であった。しかも川越衆は定足数が定められ同じ格好をした褌姿であったので、威勢の良い独特の町衆意識が育っていた。長雨になると両岸の宿に旅人皆が留まる事から特に島田宿は賑わい、「川留め文化」が育ち今にも残っているそうだ。中でも島田の遊女が考案した「島田髷」は若い女性の間に流行り、今でも「高島田」として伝わっている。
明治2年(1869年)に、最後の将軍徳川慶喜を護衛して来た幕臣達が、新しい生業として大井川右岸の牧之原台地を開拓し、茶の栽培を開始したのが「静岡茶」の始まりである。当初は大変厳しい環境の中での武士階級からの生活転換であったので脱落者も多く出た。そこに明治3年の大井川にも渡航船許可が出たので、川越衆の働き場所が無くなり茶の生産に加わるようになる。やがて茶の生産が軌道に乗って生活が安定してくると、対岸の島田宿へ生活用品や食料の調達に出掛ける事が増えてきた。同時に島田宿方面からも山林や原野を開拓する者も出て来て、両地区の往来が増えて来る。当初は渡船組合所有の3艘で往来していたが、大井川は水量も多く小舟で渡るには危険で不便でもあった。増水時には船の運航はできず生活面からも困った事から、牧之原開拓者の開墾人総代は「農業一途使用仮橋嘆願書」を時の県令(今の知事)に陳情し、農業用橋として許可を受け、共同出資により明治12年に初代橋が完成している。地元民の出資で完成した木造橋だから開拓関係者は無賃としたが、以外の者達からは「5厘」の通行料を徴収する「賃取り橋」として、入口には番小屋が在ったそうだ。
初代の橋の写真を見ると、地元民の手造り木造橋だったので、太井川の増水のたびに被害を受けたことから度々改修されて来た。昭和40年の大々的改修で橋脚だけはコンクリート製に取り替えられたが、橋桁部分や踏板は地元産国産材が使用され、人と自転車の専用橋として今も使用されている。(原動機付自転車以上の車両は通行禁止)
現在の渡橋料は大人100円、小学生10円とは、負担感の少ない格安な公共料金である。
所で橋の名称の「蓬莱橋」は、静岡県藩主となった徳川亀之助(後の徳川家達)が明治3年に牧之原を訪れた際に、開拓に励む幕臣達に「ここは蓬莱・宝の山だ」と激励したとの言い伝えから命名されたとの事である。
蓬莱橋の幅は2.4mで、長さ897.4mの語呂合わせから「厄無しの橋とか、長生き(長い木)の橋」と呼ばれ、縁起の良い橋としての渡橋者が多いそうだ。更に平成9年12月には「木造歩道橋として世界一の長さ」としてギネスブックに認定登録されて、その記念碑が入口に建てられ、格好のインスタ映えの場所となっている。
日本には蓬莱橋よりも長い橋として、日本一の「東京湾アクアラインのアクアブリッジ4,384m」を始め、1,000mを越す橋は50を超える。その中でギネスブックに登録されているのは「木造で世界一長い・蓬莱橋」だけである。何故蓬莱橋だけなのかは「それは木造橋だから」である。それだけ木造の構築物は世界的にも注目を集める証明になるのだと考える。
今回は小雨の中での夕方の訪問だったので、背景の富士山と茶畑を一緒に堪能する事は出来なかったが、晴天の日の絵葉書を見ると「うっとりする」ほどの見事さで、見学者は普通の日は多く年間10万人を超えるほどとの事だ。しかも小雨の夕方だったので見学者は私一人だったおかげで、橋の往復を独り占めできたのは幸運だった。橋の長さ897.4mの語呂合わせ通りに、「私は厄が落ち、長生きできる」はずだと一人納得した次第である。縁起を担ぎたい人には、お勧めの木造建築物と思うので、お出かけ頂きたい。
参考までに日本の長い橋の2位は明石海峡大橋で、世界最長の吊り橋であり3,911m。3位は岩手県の第一北上川橋梁(鉄道橋)で3,868m。4位は昨年の台風で被害を受け話題となった、関西国際空港連絡橋スカイゲートブリッジでトラス橋としては世界最長の3,750m。
5位は2015年に開通した沖縄県宮古島に掛かる伊良部大橋3,540m(通行料を徴収しない橋では日本最長)。6位の香川県に掛かる瀬戸大橋2,939mは着工してから10年掛けて、昭和年代最後63年(西暦1988年)に開通している。
ついでに日本の三奇橋も記すといずれも木やカズラなどの自然素材で造られている。岩国の錦帯橋は5径間木造アーチ橋。長野県上松町の木曽の桟(かけはし)。甲斐大月の初代猿橋は室町時代の木造架橋で、長さ31m・谷高31m・幅3.3mで国名勝に指定されている。他にも徳島県の平家落人が使った祖谷渓かずら橋等も話題性が高い。
石橋では熊本県の通潤橋。最近できた富士山の背景が素晴らしいと評判の、静岡県の夢の吊り橋・三島スカイウォークは歩行者専用では日本一長い鉄製の吊り橋で400m。他にもゴジラ橋とも呼ばれる話題性の高い東京湾ベイブリッジは2,618m。芥川龍之介の作品に登場した事で有名になった、木造の長野県松本市上高地の奥穂高岳をバックにして架かる河童橋はカラマツ材で建造されている。石造の皇居の二重橋(施工を担当したのは薩摩藩出の大工棟梁・阿蘇鉄也)も渡橋や見学をお勧めする。
私が何を言いたいかは、地方の活性化対策には「都会に無い特徴と地方らしい特色を、護り造り上げる事が最適策である」と申し上げたいのである。人口減少の激しい我が国の地方活性化策には、交流人口を増やす事が近道である。他地区から訪ねて来てお金を落として貰うだけの地域の価値としては「故郷の生活環境と特色ある景観」に勝るものはなかなか無い。都会の人工的な近代建築物の街並を真似ても、地方ではボリューム的には幾ら頑張っても勝てない。ならば地方らしい街造りに徹する事が大事と言いたい。総合的計画を作り振興する役目の国や県等のお役人、実際の工事建設を担当する建設業者や設計担当者、地方の特徴ある材料を供給する木材関係者等が協力して、そして地方に住む国民皆が「木造建築物こそ、地方復活の宝」と考えて取り組んで欲しいと願うものである。
所で世界の話題性の高い橋を記しておくと 昨年完成した香港~厦門間の海上大橋は、全長が50kmもあるそうだ。長さ2位は中国丹陽昆山特大橋で16,480m。3位は台湾高速鉄道八卦山橋で15,731mと桁違いに大きい。サンフランシスコの霧で有名な金門橋(ゴールデン・ゲート・ブリッジ)は長さ2,737mで海面高さは227m。1937年完成当時は世界最大だった訳だが、既に82年を経過している。
(西園)