メールマガジン第74号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(3)

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追想  昭和20年から35年(1945~1960) その3

 

工場の情景 その2

平木(ひらぎ)作りの情景  機械割平木と手割平木

 台風は毎年何回かは来るのだが、2~3年に一回というような大嵐の翌日、台風一過の朝には工場には木材を求める大勢の人が列をなす。風被害の修復に必要な木材を求めに来られるのである。その需要の最も多いものが、屋根材に使われている平木であった。 

 当時の屋根は、瓦葺、古い家は茅葺き、そして平木葺き(こけら葺き)の家も多かった。屋根の平木は猛風で吹き飛ばされる。向かい側の営林署高山事業所の寮はこの辺りでは少ない二階建てで風の当たりが強く、平木葺きの東面の屋根からは何百枚とも知れない平木が猛烈に吹き飛んでいくのが自宅の窓から見えた。

 

 平木には機械割と手割とがあった。機械割はモーターの駆動をクランクシャフトで前後運動に変換して、大きなギロチンのような斜めの刃で一定の長さに切った丸太を削る。恐ろしいような機械であるが、気持ちいいように刃の下から平木が落ちてくる。これを数十センチのわっかに回し、針金でくくって「何坪入り」と表示してあるので、お客は被害数量を見積もって必要量を購入していくのである。

 機械割は伸びが良い(表示数より何割増しかの屋根面積を貼れる)し、安いので人気が良い。効率よく大量の製品が作れるのでかねてそんなに在庫を持たない。その日出来た分ずつを渡していくのだが、昼過ぎまで待たせるということもあった。

 

 一方、手割平木は職人が手仕事で一枚ずつ割って作るので、一時に大量の供給は出来ない。かねがね経常的にずっと作って、ある程度の量は作りこんである。台風の後はこの在庫を先着順に販売し終えたらそれで終了となる。
 手割平木は工場とは少し離れた、多分2間×3間くらいの小屋で、武元さん親子が二人で一日中、淡々と平木割を続けていた。お父さんは真っ黒に日焼けして、子供の目には老けて見えたが実際には40歳代だったろう。息子さんはハンサムで色白で、背もお父さんよりかなり高い。道具は専用の鉈と、木づちである。木の台の上に50cmくらいの丸太を置き鉈で割る。機械割よりもずっと丈夫な、厚みのあるごつごつした平木ができる。お父さんの方は木づちは使わず掌で鉈の頭をトンと叩く。その手は肥厚して触るととても固い。遊びに行くと仕事の手を休めて相手をしてくれる。キセルに刻みたばこを詰めて一服、たばこの火を掌に受けて、新しい刻みを詰めて掌の火でまた一服。目を丸くしている私、3~4服吸って仕事が再開される。

 機械割平木は本来瓦葺の下に敷くものであって、瓦を乗せない平木葺き(こけら葺き)の場合は耐久性、耐風性、雨仕舞の観点から、手割平木でなければならなかった。災害復旧として、値段や供給能力の観点からやむを得ず機械割平木を選択せざるを得なかったものだろう。武元さんの息子さんは後年木工場ができた時に、工場長を務められた。

 

木挽き職人小山さんのいる情景

 直径70~80cmを超えるような丸太が搬入されると、そのまま製材機械には掛けられない。静岡出身の木挽き職人小山さんの出番である。小山さんはよく日に焼けて、小柄で寡黙、腰に狸皮の尻当てをいつもぶら下げている。

 大きな丸太を手前を高めにして斜めに固定し、木口の鋸入れ場所を見定めると、自分の背ほどもある大鋸の鋸目を入れて鋸を落ち着かせると、地面に尻当てを敷いて座り込む。この時点で、丸太の最頂部は自分の頭より数十cm上にある。長さ2~3mもある丸太を半割にするのであるから仕事は長時間になる。

 小山さんのそばにしゃがんで見ていると、切手の四つ割りくらいの大きな鋸屑がしゃらしゃらと落ちてくる。最後まで鋸で割るのではなく、鋸目にくさびを打ちこんでばさりと割るのである。

  

年末の自宅の情景

 年が押し詰まってのこと、夜中にふと目が覚めるとふすま越しに茶の間から父と母のひそかな声が聞こえる。よくわからないが何か会社のお金の繰り廻しの事のようだった。ああ、家(うち)は大変なんだなとしみじみ思った。
 ずっと後年のことだが、もう既に死期が近づいていた父のベッドのそばに座っていた私に、「幸久は学校にいる間一度も金を送れと言ってこなかったな」とぽつりと言った。長男の私にはそれだけきちんと送金してくれていた事も確かであった。ただ手紙は書いてもお金はねだるまいとはっきり思っていたことは事実で、それはこの時の年末の越年資金を案ずる両親の声が胸に刻まれたことによる。

 

尺貫法の廃止

 5年生の頃か、先生から尺貫法が近く廃止され使えなくなるとのお話があって衝撃を受けた。この頃の私たちの生活は全くの尺貫法であり、私はこれが興味深くておおむね掌握していた。

 

 ご馳走のすき焼きは肉が5人家族で100匁(もんめ、ひゃくめと発音していた)か、これが200匁もあると子供たちは喜んで大騒ぎである。1匁は3.75グラムで100匁は375グラム、200匁は750グラムである。1,000匁が1貫、ちなみに16貫がちょうど60キログラムで、切りが良いし大人の体重の基準としてもわかりやすいので頭に入れていた。

 何かの挨拶や頼み事があるとき、「白砂糖1斤」もしくは2斤を持参する。これが当時最もなじみのある手頃な手印(おみやげ)であった。1斤は160匁、すなわち600グラム。

 

 面積は坪、1間(1.8m)×1間(1.8m)で、概ね3.3m2、建物や宅地に使う。田畑になると、畝(せ)か反(たん)で、1畝=30坪、1反=10畝で300坪。山林になると町歩となるが、1町歩が10反で3,000坪、すなわち約10,000m2、1haと符合するので便利である。当時の父の工場の敷地が5,000坪くらいと聞いていた。

 

 長さは寸、10寸が1尺、6尺が1間、10尺が1丈。木材の長さに丈物と言うのがあったがこれはすなわち3m材。丈5寸は3.15m。
 父から鹿児島人の心がまえとしてかねがね聞かされる言葉が色々あったが、そのうちの一つに「小便1町、○そ3町」と言うのがあった。1町は60間、すなわち108m。3町は180間、すなわち314m。小はともかく、大はかねてきちんと済ませておけ、いざという時それだけ遅れを取るぞ、というわけである。トイレの長い私には耳に痛い言葉だった。

 

 お酒や米麦などを量るのは合、升。これは今でもよく使われている。1合は180㏄。10合は1升、10升は1斗、10斗は1石。毎日3合食べれば、年におおよそ1石。米1合は概ね150グラムなので、1石は150キログラム、すなわち千石船は150トン。

 なお木材の材積も石で表示され事務所でも売買共に単位は石であった。今でも年寄りは石でないとわからん、と言う人が少なからずいる。これも聞いて頭に入れた。木材の1石は10立方尺、すなわち30cm×30cm×30cm×10で、0.27m3。お米の石(0.18m3)とは少し量が違う。なおお米の1石は10斗だが、木材の1石は10才。

 

 尺貫法の廃止で衝撃を受けたが、大人の言葉でその時の心象を表現するならば、人々になじんで体得している言葉や習慣に、国が口を出して無理矢理変えさせようとしている事に激しい困惑を感じたということだろう。

 工場の隣に鹿屋営林署の貯木場があって、そこを基地に川上の奥地まで森林鉄道が運営されていた。私たち兄弟は夏休みにこの森林鉄道に何度か乗車させてもらったことがある。次回、それの記述を以てこの時期の追想編を閉めようと思う。 

(佐々木 幸久)