メールマガジン第74号>稲田顧問

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★【稲田顧問】タツオが行く!(第30話)

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「これまでのタツオが行く!」(リンク

30.丸ビル建て替え計画

 前報で、メック情報開発から三菱地所に復職した1995年(平成7年)は、公私ともに様々な出来事・事件が重なった年であったと述べたが、実はこの年の暮れ、私にとって忘れられない大事件があった。それは、丸ビルの建て替えの決定と、その建て替えチームの構造チーフに私が抜擢されたことである。

 

 大きな人事異動があることは、事前に噂で知っていたし、複数の先輩から酒の席で近々おめでたいことがあるから楽しみにしているようにというようなことを言われていたので、薄々は知っていたことにはなるが、本当に辞令を受け取るまでは半信半疑であった。
 それまでにも丸ビルの建て替え計画は、立ち上がっては、いつの間にか立ち消えるというようなことが何度か繰り返されてきた。しかし今回は、阪神淡路大震災で、例えば神戸市役所のような立派な建物が倒壊した事実を目の当たりにして、来るべき首都圏直下型地震に対し丸ビルはとても持ちこたえられないであろうことは、誰の目にも明らかであった。

 この建て替え計画が、本気であることは、言うまでもないことであった。


 三菱地所に入社した技術者にとって、丸ビルというのは特別の存在であり、是非担当したい建物であることは間違いのないことであった。私もことに触れて先輩社員や、デザインのチーフに対し、丸ビルプロジェクトが始まったら、ぜひ私に構造設計を任せてくれるようお願いするようにしていた。そのような際には、具体的にどんなことをやりたいかということについても提案するようにしていた。そのような努力がついに報われたのかというような希望的な観測はあったが、実際に人事部に呼ばれて辞令が渡されるまでは、どうなるのか、はらはらしたのを今でも覚えている。


 人事部長から「丸ビル設計室で構造のチームリーダーをお願いします。」と言われ辞令を渡された時は、本当にうれしかったが、正式に辞令を受け取ってから明らかになったこともいくつかあった。まず、設計室長(プロジェクトマネージャー)は岩井光男さんであったが、岩井さんとは私は一緒に仕事をしたことが一度もないという間柄であった。当然、事前にどんなことをしたいか話をするというような機会も一度もなかった。

 岩井さんは、「稲田君とは、今までほとんど接点がなかったので、どんな設計をするのか少し心配なんだが、まあ小川君もついていることだし、何とかなると思っている。ちょっと危ない奴だとの噂もあるが、まあこのようなプロジェクトは、少し危ないくらいの人間でないと務まらないと思っているので、頑張ってくれ。」というようなことを快活に言われたのを覚えている。

 確かにメンバーを見てみると、三菱地所の技術の精鋭を集めたとは、言い難い人選であった。例えば、設備担当の林君と原田君は、私と同世代であったが、私と一緒に地所がコンピュータを導入するときに技術開発室に集められたメンバーであった。従来であれば、経歴から見て実務経験が足りないというようなことを理由に最初からはずされても不思議ではないところであったが、今回はそのような特殊な経験が買われたということもあるのだろうかと、少しうれしくもあったのである。


 年末も押し迫った、12月28日の朝、設計室まで社長がこられてお話があった。そこで言われたのは、
「このプロジェクトでは、例えば横浜ランドマークタワーの時のように外部の建築家に設計を委託するようなことはないので、是非三菱地所設計しかできないような建物を造ってほしい。」というようなことを言われた。社長の話を直々に伺って身の引き締まる思いをしたのを今でもよく覚えている。

 

(稲田 達夫)