メールマガジン第74号>西園さん

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★【寄稿】木への想い~地方創生は国産材活用から(54)

 「首里城火災焼失と忠実な復元再建の切望」(前編)

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 昨年の10月31日午前2時半ごろ、「沖縄の象徴である首里城の正殿(1200m2)から出火し、黄金御殿・奥書院(1,048m2)書院・鎖之間(636m2)南殿・番所(609m2)二階御殿(603m2)そして北殿(473m2)」へと燃え広がり合計5棟が全焼し、更に奉神門(513m2)と女官居室(188m2)へも延焼した。(全焼面積合計4,570m2と損焼面積合計741m2)

 

 私は昭和40年代の米軍統治時代に、未だ琉球大学の一部校舎が首里城跡に建っていた頃から沖縄と縁があり、サンゴ礁を積み上げた石垣に囲まれた坂道を汗を拭き拭き何度も教室を訪ねた事を思い出す。その頃は未だ首里城の大手門にあたる守礼門が、米軍統治下の1958年に大柱4本に二重の屋根の上に琉球赤瓦を被せて再建されていただけだった。それでも沖縄観光の目玉として訪ねる人が絶えなかった時代が思い出される。(首里城全体の復建後は訪れる観光客が急増した。だから今回の焼失による当分の間の沖縄観光に与える影響は大きいと心配する。)

 

 戦後の日本復帰運動に合わせて首里城復建の声が高まり、琉球大学をニューキャンパスへ移転させ、山中貞則初代沖縄開発庁長官の尽力もあり1972年の復帰に当り一挙に盛り上がった。(因みに山中貞則氏は沖縄県の名誉市民に指名されており、晩年は石垣島で過ごされたそうだ。)計画から7年を掛け、沖縄本土復帰20周年記念の1992年に正殿等の主要な建物が竣工した。私は沖縄を訪れる機会があれば何度も訪ねて見学し歩き回った首里城だけに、突然の出火による焼失の報道を聞いても信じられない気持になった。また日本復帰の年にはNHK大河「琉球の風」の放送もあり、セット用材料も含めて鹿児島から「イヌマキ材」や「奄美の板椎材」の送材手配や白蟻予防対策等で手伝いした建物だっただけに残念極まりない。

 

首里城正殿(火災前)
首里城正殿(火災前)

 ニュースを聞いて何よりも驚いたのは、「歴史的にも貴重な大型木造建築物だったのに、消防予防の初歩的対策が誠におざなり状態が明らかになった」事だ。大正14年(1925)国宝指定された貴重な大型木造建築物は、大変な労力と資材調達に難渋しながらの復建だっただけに、初期消火設備のスプリンクラーさえも設置されていなかったとは信じられない。

 設置されていた4機の放水銃のうち1機の専用工具は警備員が保管している等、初期消火には何の役にも立たなかった。「防火対策は初期消火が全て」と言われるのに、沖縄最高の文化財への防火意識は、基本認識から欠けていたとは何たる事だと言いたい。

 グループホーム等の介護施設では、災害や事故が起きた都度に規制が上積みされ、現在では「200m2を越す施設には全て、初期消火対策用の自動消火設備やスプリンクラー等の設置が最低条件」となっているのに。元国宝で世界文化遺産の登録物件の防火対策がお粗末だったとは、沖縄県の消防関係者も霞が関の文化財保護指導官庁も、今回の出火焼失まで「防火対策のイロハ」を考えていなかったとは呆れるばかりである。

 

 14世紀の創建以来の首里城の焼失の歴史を調べれば、1453年の内乱による焼失から再建され、そして薩摩藩による琉球征伐から50年後の1660年にも出火焼失してから、復建までに10年を要している。3度目の1709年に失火で焼失した時には、薩摩藩の支援も得て1715年に復建されたとのことだ。1879年の明治政府による琉球処分により琉球王国が消滅し、首里城は国有財産となり大正14年に国宝指定されている。そして太平洋戦争末期に日本軍が首里城内に地下壕司令部を設けた事から、米軍の徹底的な攻撃を受けて焼失した。(武士道精神に反する様な文化財を防衛の盾にした、当時の陸軍の愚策は誠に残念である。それに反して1609年に薩摩藩が兵3,000人を引き連れての琉球征伐事件では、那覇港から正面上陸すれば首里城を巡る長期戦となる事を懸念し、北部沖縄に上陸し破竹の勢いで南下して裏から首里城に一機に迫り、城に損傷を与えること無く制圧した話が残っている。)

 

 沖縄本土復帰20周年を記念し、長い間米軍統治下にあった事への特別な配慮と、戦後復興の象徴として1992年に正殿等の主要な建物が、戦災から47年目にして4度目の復元となった訳だ。

 

 私が訪ねた時代の琉球大学の建物は戦後の安普請だった上に、当時の国立大学は全国的な学生運動の煽りを受けて、学内の施設は今では想像できないほど荒れていた。その様な戦後のマイナスな歴史を一掃し、往年の琉球時代の美しい中核施設となる首里城が復建されたのである。そして首里城復活に合わせて那覇市にも活気が生れ始め、沖縄県全体の復興が段々と進む状況を眺めながら、私は沖縄を訪ねる度に首里城を見て行ったものだ。

 

 2000年7月に開催された「小渕恵三総理が議長を務めたG8九州・沖縄サミット」では、世界のリーダー達の夕食会場として使用され、その年には「守礼門をデザインした記念紙幣2000円札」も発行された。(沖縄では普通に流通していて土産に持ち帰る人も多い)

 

 そして同年12月には「琉球王国の城(グスク)および関連遺産」として世界文化遺産に登録された。沖縄県民の努力と日本政府による大型予算の投入で、首里城の復建に合わせ沖縄の復興は目を見張るばかりとなった。現在の沖縄の一新された街並みや観光産業を中心とした経済復興状況は、50年前の戦災跡の街並が未だ残っていた那覇の街を知る私から見れば別世界かと感じるほどの大改造となっている。一方でその格差を知らない世代も多くなっているのも時代の流れなのか。(戦後の昭和28年までは、沖縄同様に米軍統治下にあった奄美大島の現在の経済力との格差を比べれば一目同然である。)

 

 当に「今回焼失した首里城は沖縄の戦後復興のシンボルとなり、沖縄文化発信の中核」であった。しかし焼失した事実を幾ら悔やんでも始まらない。一日も早い復建を期待するのは私も沖縄県民と同じ気持である。

 

 焼失翌朝には沖縄県知事が「本土復帰50年となる2022年5月までに再建案を纏める」と発表し、安倍首相も「一日も早く復元できるように必要な財源を含め、政府として責任をもって取り組む」と、国を挙げての再建支援の動きが始まったのは喜ばしい限りである。

 前回は建物群建設に73億円、総額で260億円を費やしているとの事だが、おそらく次の再建には倍する費用でも足りないと予想される。しかし復建資金は日本国の威信にかけても集められるだろうが、「超大型の木造建築物の復建」で主要資材となる木材調達が最大の難題になると思う。

 

 前回の計画時でも旧国宝時代の建物を忠実に再現したいと木造に拘った訳だが、主要な柱類には「長さ10m、直径1.5mの大木が百数十本も必要」だと判ってからは、木材調達では想定以上に苦戦したそうだ。材料調達の調査を始めたら国内での調達は難しいと判って、台湾を訪れ台湾桧が目的に適う適材だと知る事になった。しかし台湾桧は既に当時から森林保護対策から伐採規制されていたので、台湾政府に特別許可を相談した。日台間の友好関係から理解を示してもらい、樹齢500年を越す400m3もの貴重な台湾桧が伐採される事となり、沖縄へ移送されて今回焼失した建物の中核材料となっていた。最近は環境保護の意識や規制が一段と厳しくなっているから、同様に台湾桧が調達できる可能性は次回計画では非常に難しくなるのは間違いなく、絶望に近いと考えておかなければならない。

 また琉球赤瓦の調達でも前回も苦労しており、55,000枚の使用枚数を確保するには、その倍の数の瓦を制作しなければ、「使える製品」を確保出来なかったとの事だ。現在は特殊技能を持つ製造職人は半減しており、人手不足が騒がれる現状から考えると前回以上に人材確保は難しいと心配される。この様に「金だけでは解決できない問題が山積み」しているのだから、文化財の保存や防火対策では「絶対に焼失を起こしてはならない細心の注意が必要だった」のである。

 

 今回行われていた正殿内での伝統行事開催の会場設営工事での電源工事は、火災発生場所の反対側の電源から取っていたとの事だが、出火1時間半前までの午前1時まで作業していた。しかし警備員の安全確認の見回りは、前日夜9時が最終巡回だったとの報道を聞くと、「作業終了後の30分の出火であり、作業後は必ず厳重点検をするとの警備上の常識」からも大失態と言える。

  更に「警備員が出火に気付き現場に駆け付けたが、施錠を外すために再度鍵を取りに戻った」そうで、「消火活動開始前には既に火柱が上がっていて、初期消防は出来無かった」との報道の通りなら、広い敷地内を考えれば全てが手遅れに等しかったと推定できる。防火区画壁が無い、広い空間造りの超大型木造建築物の防災管理としては不適切極まりない対応である。 

 警備員が「手作業で消火器を使ったが、火の勢いは止められなかった」とは、まるで個人住宅の子供だまし程度の火災予防対策程度しか訓練していなかった事が判る。設置されていた防犯カメラや熱感知センサーは、不法侵入者の発見だけが目的だったとしか考えられず、「火災発生時の緊急対策は何も考えていなかった」と言われても反論出来ないレベルだ。

 

 また琉球建築特有の特殊塗料桐油)は防水対策には有効だが、「燃え易い特徴がある」との報道が気になる。首里城の大半は「漆の下塗りに桐油と顔料を混ぜた塗料が上塗りされていたから火勢が強まった可能性が高く、延焼を早めたと推定される」と報道されている。本当に「専門家達が推測出来たのなら、何故事前に厳重な対策を取らなかったのか?」と不思議でならない。

 次の復建計画の前に、今回の防火対策と設備状況の徹底的な検証がなされなければ、今後の再発防止対策は始まらない話で、原因追跡と責任体制の在り方が疎かにされているのが気掛かりだ。建物と土地は国有財産だが、管理は沖縄県に任されていたそうで、更に指定管理者は県の外郭団体「きょらむん財団」だったと聞くと、お役所仕事になっていたのではと思われてならない。先々同じ轍を踏む事にならないか心配は尽きない。

 

                                        (後編につづく)

 

                                         (西園 靖彦)