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★【稲田顧問】タツオが行く!(第31話)
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「これまでのタツオが行く!」(リンク)
31.丸の内再開発計画始動
1995年12月、三菱地所が「丸ノ内ビルヂング」の建て替えを発表したことにより、第三次丸の内開発計画は始動した。第一次は、明治から大正にかけての一丁ロンドンと呼ばれた煉瓦街の開発、第二次は昭和30年代から40年代にかけて行われた高さ31mの丸の内ビジネス街の開発である。
私は丸ビル改築設計室への異動を命じられたということで、何とか第三次丸の内再開発計画の一員に潜り込めたことになる。
丸ビル改築設計室に異動して暫くは、前に所属した部署との兼務の時期が暫く続いたが、頭の中が丸ビルの構造設計一本に集中するのには、多くの時間はかからなかった。
丸ビルの構造設計を進めるに当たり、無視できない事象・背景が2つあった。
一つは、阪神淡路大震災で得た教訓である。神戸市役所のような立派な建物を倒壊させた「直下型地震」とは一体何者なのか、あるいは直下型地震を構造設計の中でどのように位置づけるかは、当時としては大きな課題であった。もう一つ、阪神淡路大震災から得た教訓として、芦屋浜の超高層マンション群の柱の鋼板の脆性破断があった。何しろ柱幅600mm、板厚60mmの柱スキンプレートが脆性破断を起こしたのである。超高層ビルとなるであろう改築丸ビルの、構造設計者としては必ず説明が求められる重要な課題であった。
もう一つ、世の中の大きな流れとして、建築基準法の性能規定化に向けた流れというのがあった。昭和25年、戦後の混乱の中で定められた建築基準法は、その後多くの技術革新等の進む中で既に様々な綻びが目立ち始めていた。確かに経済的にも疲弊した昭和25年の段階では、せめてもの最低基準を定めた建築基準法は、我が国の建築物の品質確保の観点からは重要であったのは間違い無いことであろう。しかし、経済発展を遂げた1996年当時の我が国においては、新しい構造設計に関する基準・規範が是非とも必要と思われた。
当時の私は、丸ビルの構造設計を進める上での建築主が望む耐震性能を、建築主から如何に引き出すかが重要と考えていた。あるいは、「建築主」を「三菱地所」と言い換えた方が分かり易いかもしれない。何しろ三菱地所は、東京丸の内という同一のエリアに28棟のビルを所有するビル事業会社である。経営的に考えても、リスクマネジメントの観点から建築基準法の定める最低基準で良いわけがないということは明白であった。基準法の求める通常の耐震性を確保しただけでは、企業の存続を考える上で、充分なわけが無いということをどのようにして分かってもらうかが重要な課題と考えていた。
それを理解して頂くためには分かり易く建築構造を語ることができる手法が是非とも必要と考えていた。その方法として、私は「エネルギー法」を利用することに決めていた。「エネルギー法」は私の恩師である秋山宏先生が考案された構造設計法であるが、実は私の大学時代の卒業論文もそれに纏わるものであった。
大学を卒業後も、私が構造設計を担当する場合には、必ずそれを活用していた。当時性能規定化の議論が行われる中で、他の様々な手法の提案もあったが、私としてはその点に関しては一切迷いは無かった。
次に、建築主が望む高い耐震性をどのようにして実現するかも、重要な課題であった。しかし当時は既に、「免震構造」や「制震構造」といった有効な手段が開発されており、それを応用すればそれほど難しいテーマでは無いように思われた。
最後に、そのような複雑な構造システムを解析・検証するためには、複雑な構造モデルに対し迅速・柔軟にプログラミングを行うことが可能なコンピュータ利用技術が必要と思われた。それについては、私の博士論文のテーマであった、「FACT法」が有効と考えていた。
それまで、私がずっと心の中に温めてきた建築構造に関する様々な方法・考え方をこの建物に全て反映すれば、自分の目的を達成することはそれほど難しいことでは無いように思われた。
私が丸ビル改築設計室に異動した翌年の1996年3月、東京大学より博士(工学)の学位記を正式に頂いたが、その頃の私は、人生で最も高揚した気分の時であったのではないかと、今でも思っている。
(稲田 達夫)