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★【連載】山佐木材の歩み(4)
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森林鉄道のある風景
山佐産業購買部
会社の一角(自宅の隣)に、従業員向けの日用品や食品などを扱う、「購買部」と名付けた10坪前後の小さな店があった。昭和二十年代から三十年代前半は、圧倒的な物不足の時代であったことと、インフレも庶民を苦しめていただろう。従業員向け専用だから、仕事中は閉まっていて昼時間と終業後に事務所の人が対応していたと思う。
仕事場で必要なものが買えて、翌月の給料で精算というのは当時としては有り難い制度だったかもしれない。ただ当時の従業員数50人という会社の規模で、採算面はどうだったのだろう。父と母の間でこの店を巡って時に応酬があったのもそれが元だったかもしれない。
世の中が落ち着いてくる三十年代後半には閉鎖された。ちなみにその後この建物は改装され応接間になった。学校の先生や警察、営林署、国や県の出先など単身で田舎に赴任した人たちが、余り気にせずとも良い気軽なもてなしに連れだってよく来られたようである。
もてなすと言っても夜は手伝いの人もおらず、母が出来る範囲で、出すものも精々チーズや煎った落花生など、あとはビール、ウィスキーなど。そしてステレオ。私も学生時代帰省すると両親と一緒にそのような方々のお相手をしたことがある。
鹿屋営林署二股川事業所購買部
山佐産業の敷地に隣接して、鹿屋営林署高山事業所があって広大な敷地の「貯木場」があった。この中に貯木の為の池や、森林鉄道の機関車車庫やディーゼルエンジンの機関車を旋回させる手動の「転轍装置」などがあった。小学生から中学生の頃の私たちの無類の遊び場だった。ここの森林鉄道は、今の肝付町川上の「二股川事業所」との間を運行していたのである。
二股川事業所では国有林から樫、椎、たぶ、さくらなどを伐採、これらを積んで降りてくる。トロッコ一両に一本、二本しか積めないような大径材もあり、十数両が連結されている。そして山への登りは米、味噌、醤油や焼酎その他日用品を満載するのである。
二股川事業所には100人を超える職員や伐採作業員、家族が集落を為していて、子弟専用の小学校もあった。そしてそこに一軒だけの店「購買部」があって、その運営を会社が引き受けていたのである。会社内に「購買部」もあることだし、恐らくは近所のよしみでと父が営林署から頼み込まれたものだろう。
集落に一軒の店なので、酒類や煙草の販売が不可欠で、その為の販売免許も必要と言うことで、その許可を取るための難しくて煩雑な手続きや準備で家庭が一時期騒がしかった。
店にはまだ独身だった若い叔母(母の妹)が単身赴任していた。何ヶ月に1回か帰ってくるのだが、川上の二股川がそんなに遠かったのだと驚く。今は車で20分余りの距離である。
夏休みなどには兄弟3人、二股川の叔母の所に遊びに行く。そんな時父の依頼たったろうか、森林鉄道の最後尾に木製の客車を連結してくれる。屋根はついているが、窓はなく、ベンチが両側についている。大人なら数人(か詰めて10人くらい)乗れるだろうかという大きさに私たち小学生の兄弟3人が乗せて貰う。美しい「田布尾井堰」のそばを通り、道中2時間くらいかかって到着する。
九州の森林鉄道
矢部三雄氏(元林野庁東北森林管理局長)の労作に、「近代化遺産国有林森林鉄道全データ(九州・沖縄編)」がある。東北編に続く二作目である。
九州森林管理局(現在・当時は熊本営林局)は、沖縄を含む九州内国有林、面積53万haの管理経営を行っている。この本によると、九州の森林鉄道の建設は明治39年(1906年)度、宮崎県延岡から大分県の宇目に至る「赤水森林鉄道」が最初であるという。
それからも盛んに建設は進み、昭和25年(1950年)度には最大に達し115路線、総延長961kmに達しているが、それ以降トラックの進展に伴い、急速に廃止されていく。私たちに縁の深かった高山(こうやま)林道は、大正13年(1924年)度に10.8km開設、最大延長は18.2kmであったようである。昭和33年(1958年)度に全線用途廃止、とされている。
同書に掲載されている九州各地管内の写真だが、機関車や丸太を積んだ風景は確かにこのようなものであった。
写真左上に、安房林道の「花婿花嫁を乗せた運材台車」がある。花婿花嫁ではないが、一回だけ私たち兄弟もこの運材台車に乗せてもらったことがある。ブレーキだけが付いたトロッコで、二股川から高山事業所まで一気に駆け下るのだ。さぞかし顔を引きつらせていたことだろう。
(佐々木 幸久)
参考文献
矢部三雄氏著:『近代化遺産 国有林森林鉄道全データ 九州・沖縄編』( 熊本日日新聞社)