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★【連載】山佐木材の歩み(5)
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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク)
追憶番外編
昭和35年(1960年)から鹿児島で6年、福岡で2年の都合8年間、家を出て過した。この間の会社の様子や動向は体感しておらず、今でもいわば不連続感として少しばかり違和感をかすかに感じることがある。
追憶編を前回で終わり、この時期を飛ばして8年ぶりに帰って会社の沸き立つような好況感のただ中に飛び込んだ昭和43年(1968年)から、実体験(山佐産業)編の記載を始めることも考えた。
そもそも本シリーズは会社の歴史であって、佐々木幸久の個人史ではないコンセプトでスタートしている。しかし8年の時の、佐々木個人と社会の時の経過を無視もできない。もちろんこれまで会社の歴史の記載について、若い人たちの理解を得やすくするために、当時の時代風景も相当に書き込んできた。
そのようなことからこの8年間の私個人と、私の見て感じた社会の情景の一端を追憶番外編として本欄2回分を使って、端折って記述することにしたい。
鹿児島ラ・サールでの生活
昭和35年に、ラ・サール中学2年生に編入入学した。鹿児島ラ・サール学園はカトリックの教育修道会ラ・サール会(カトリックラ・サール修道会)によって、鹿児島市(当時谷山市)に、昭和25年(1950年)に高等学校、昭和31年(1956年)に中学校が開設された。まだサンフランシスコ講和条約が締結(昭和27年発効)されていない、我が国は占領下にあった時期である。初めての入学式の際国旗掲揚を行った事が、画期的なこととして大きく報道されたということである。
県内はじめ各地の秀才が集まり、中高一貫の優位性を生かした教育手法、校庭から松林、砂浜を経て、桜島を映す錦江湾の遠浅の海、まことに良い教育環境であった(遠浅の海は私たちが卒業した昭和40年から埋め立て工事が始まった)。また何よりも人格識見共に優れた立派な先生方に恵まれた。
学校のもう一つの特色として、フランス系カナダ人(ケベック州出身)を中心とした修道士たちが7、8名おられたことであろうか。生涯独身を保ち、修道院で禁欲の生活のなか神に心身を捧げる生活。あわせて実務者として学校長、寮舎監、あるいは教師として英語や倫理の授業も受け持たれた。魅力的な方も多く、情熱的で熱心に事に当たられたから得るものが多かった。
修道院長、学校長、舎監はそれぞれの持ち場においては、運営等すべての権限と責任を負っている。学校長も修道院においては一介の修道士として修道院長の指揮命令に従うし、修道院長や舎監も学校にあっては一教師として学校長の指揮命令に従う、という体制であるということは生徒にも広く理解されていた。
入学してしばらくたった頃の若いカナダ人による英語の時間、手紙の書き方の授業があった。書き終わった手紙を封筒に入れるために折る、その折り方の指導として、開く際に開きやすいように2mm位ずらして折る気遣いが必要だというのだ。「特に校長先生や修道院長先生など偉い人に手紙を出すときは私も特にこのことに気を付けている」。「偉い人」には敬意を払う、という当たり前のことを聞いて驚いたほどに、地方の公立小中学校では「偉い人(校長、教頭)」に敬意が払われておらず、それが普通に思われていた。その時の驚きを60年たった今でもいまだに鮮明に覚えている。
ずっと後年のことだが、鹿屋市ご出身の体育・生徒指導の平山忍先生が亡くなり、鹿屋市でのお葬式に参列した。カナダ人の修道士の方が2名参列しておられた。神式のご葬儀で玉ぐしを捧げる時、修道士の方々がどうなさるものか見ていたのだが、いかにも不器用にではあったものの、二礼し、しのび手での二拍、そして一礼と、神道の作法通りの拝礼をなさった。故人が最も喜ぶ作法でお見送りすると聞いたことがある。
キリスト教でも宗派が違えば考え方、行動は違う。やはり後年のことだが父が亡くなった時、親戚だという私には初対面の女性が訪ねて来られた。遠路わざわざの弔問、丁寧なお悔やみの言葉に恐縮した。キリスト教徒であるというこの方は、仏式の祭壇の位牌に対する拝礼は固辞され、その謹厳な挙措に目を見張ったもである。
たくさんの先生方に大変お世話になったが、山口隆男先生と佐々木雄爾先生お二人のことを書いて、私のラ・サール時代の締めくくりとしたい。
山口隆男先生のこと
山口先生とは卒業後も年に1、2回はお目にかかり食事を共にすることができた。定年で熊本大学をおやめになっても、自宅隣に資料室を兼ねた研究室を作って、現役時代と変わらぬ研究活動を続けておられた。
オランダには何十度も渡って、ライデン大学に保管されているシーボルトが日本で収集した膨大な資料を記録、分類整理して出来た分を出版された。この仕事は未完に終わり、お心残りであっただろう。出版社と一般向けの科学書を準備しておられたようだったがこれも途中で終わった。
本物の学識と、とても洒脱なユーモアのある文章を書く方であったから、出版できていればさぞ有益なものになっただろう。
平成25年(2013年)5月27日逝去の報があり、驚愕した。そのほんの一ヶ月ほど前に以下のようなメールを戴いていたのである。
ご自宅でのお通夜の席で、奥様にご葬儀の時弔辞を述べるようにご依頼を受けた。
弔 辞
山口隆男先生、これまで永きにわたりご厚誼賜りましたことに、まず厚くお礼申し上げます。
私は中学校2年生から3年生まで、教室で先生の授業を受けました。先生の授業は新鮮で、とても魅力的でしたから、放課後は自然に理科好き少年達が先生の部屋に集まるようになりました。
先生の肝いりで「科学クラブ」が発足したのは翌年のことです。先生が学校に掛け合ってくれて、少なからぬ活動費も付きました。約20名の部員達は、先生の配慮の元伸びやかで知的興奮にあふれた環境で、思う存分その好奇心を満たすことが出来ました。私にとってもこの1年は人生の中で、最も生き生きとした時期の一つです。
驚くべき事に、先生は中学生の私達を一個の大人として遇して下さいました。
その後先生のお立場は中学校の先生から、高校へそして大学へと変わっていきました。そして退官後も合わせても、いつお会いしてもいつも変わりなく山口隆男先生そのものでした。
先生は透明で合理的なものの考え方をなさる方でしたが、そこには恐らく先生の強い信念があって、必ず優しさと温かみが裏打ちされていました。これは私達が初めてお会いした先生が22、3歳のころから、今年の1月私が最後に夕食を共に出来た時までの五十余年の間終始変わらぬ一貫した先生の姿がありました。
ところが一方で、先生の探求心、研究心は止まることを知らず、フィールドも次々に広がり、あるいは変わり、お会いするたびに驚いたものです。
先生の全く替わらない生き方の姿勢と、年々変化と広がりを続ける研究の分野とのギャップは、時に先生にお会いする私の最大の楽しみでした。
先生は専門の分野で沢山の成果を上げられたものと思います。それに対して十分な評価も受けられたものとは思いますが、先生の真価はもっともっと広く知られて、そして評価されても良いのではないかと、教え子としては若干の不満が残ります。しかしながら名利を求めることを良しとされなかったのも事実であり、私の不満は筋違いなのかもしれません。
弟子が師を評するのは不遜の極みと思いますが、山口隆男先生の75年の人生、「おみごと」と申し上げるのみです。
先生、どうぞゆっくりお休み下さい。本当にご苦労様でした。
平成25年5月29日(水)
教え子 佐々木 幸久
(佐々木 幸久)