メールマガジン第80号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(7)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

追憶番外編 その3

福岡での暮らしを選ぶ

 東京と福岡での生活の選択肢があった。東京は私大の文系、福岡は国立大の理系(理学部)。その私大の校風は自分のような田舎育ちの不器用な人間には務まらないように思えた。博多の街の暮らしやすそうな雰囲気と学費の安さもあり、福岡での生活を選んだ。こちらの合格は間違いないと判断、数日の不安と引き換えに、安からぬ私大への入学金支払いはしなかった。
 生活そのものの福岡という選択には間違いが無かったと思う。暮らしやすく今はまた少し違うかもしれないが、街の人たちの気風も肌合いが合った。

 

大学

 古い木造校舎や図書館と、出来立ての新しい鉄筋コンクリート造の校舎とが併存していた。旧制福岡高等学校時代の建物を、一刻も早くという感じで壊して、新しい建物の建設が進んでいて学内は騒然としていた。工事現場の材料置き場から鉄パイプが盗まれて、学生たちの内部抗争の乱闘に用いられたなどと物騒な話があった。現に松葉杖姿の大けがをした者が、学生食堂で仲間たちに取り囲まれているのを見たこともあった。
 授業で驚いたのは、先生が教室に入るなり古ぼけたノートを読み上げ始める、学生はそれをひたすら書き写す。これを毎年やっているらしいから、読み上げを終わって一息すると鐘が鳴るという名人芸も見た。
 時に教室で突然活動家たちが演説を始めることがあった。先生の中にも唆のかしているように見える人もいた。聞いていても議論は粗雑で論理が通っているようにも思えないのだが、それが結構なエネルギーを伴う激しい行動につながる筋道を共感しなかった。

 

 図書館では学生に購入希望書籍の募集をしていた。わら半紙の4枚切りの用紙が準備されていて、希望の書籍名、著者、出版社など書いて箱に入れて置くと翌週採否を記入して掲示された。20回くらい、全集もあったから、冊数でいえば恐らく200冊以上の希望投票をしたが、否決のことはなかった。それだけ書籍不足だったとも言えるし、大学が図書館の充実を急いでいたともいえる。実際に本が届くのはかなり先だったように思う。ただ図書館に坐っていると、開け放してある窓から活動家達の拡声器の音が騒々しく、まさに耳を弄するばかりだった。

 

福岡での暮らし

 授業料を別にして生活費として、当時家から毎月16,000円送金してくれていた。現金書留を開いたら、まず階段を下りて一階に住んでいる家主さんに部屋代(電気・水道料含め)4,000円を支払う。残りを食費に4,000円、本購入代4,000円、小遣い(その大半が飲み代)4,000円と、使途を仕分けしていた。酒はよく飲んだが、金銭的にはこの大枠からはみだすことはほぼ無かった。本の購入量は当時から多いほうだったと思う。

 

 六本松周辺では様々な食事の店があった。路地裏には小さな店が並んでいて、例えばクジラの尾の身、百ヒロ(腸)、さえずり(舌)など様々な調理でうまくて比較的安い。つまみながら覚えたての酒を飲むのは、実に新鮮な感覚で楽しかった。昼食では学割がきく店があって、寿司屋で120円のところ学生であれば90円に、天ぷら屋では定食150円のところ120円にしてくれる店があった。

 

 飲み仲間とよく行ったのは天神や中洲の屋台で、おでん一個20円、コップ酒一杯60円で、一回一人頭300円から400円くらいのものだった。
 鹿児島市の鶴丸高校から医学部に入った下野さんという人がいて、飲みに誘うと良く付き合ってくれた。店に入ったらもちろん楽しく食べ飲みするのだが、行きの電車の中では、「ニューロンが・・・」とかつぶやきながら勉強している。
 後年なんと家内と親戚だと分かって、法事の機会に再会したときは双方世の中の狭さ、不思議さに驚愕したものだった。研究者、医師として大成し、福岡県の医学・医療の進展に相当の貢献をされたものと思う。法事の際出会った県内に住んでいる二人の弟さんとは仕事等でのお付き合いがある。

 

郷里へ帰る 

 あんなに好きで生涯その道で過ごして良いと思っていた化学にも熱意が薄れ、授業にも出席の意欲がわかず、当然学部へ進む単位は足りずといってもう1年六本松で過ごす意味も見いだせなかった。
 両親に申し出たのが晩秋の頃だったろうか。あんなにきちんと月初にはあった送金が、退学を申し出た後暫く途絶えた。送金依頼の電話も手紙も出さなかったから理由はわからないものの、親の気持ちを考えるとさもありなんとも思われた。幸い下宿のおばさんには信用があったのでしばらく待ってもらい、生活は切り詰めて二ヶ月余りを過ごした。事情を聞いた会社の幹部二人が一度下宿に訪ねてきた。

 

 その後幸い送金があったので大学の事務所に休学届を出して、帰省の準備をした。こうして六本松での2年の生活に終止符を打って、8年ぶりの郷里高山での生活が始まる。

(佐々木 幸久)