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★【連載】山佐木材の歩み(9)
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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク)
良いコンクリートを打つ
発展の機運に乗ったこの頃の山佐産業土木部幹部で、先述の橋口岩夫さんと双璧をなすのが金山義男さんだった。「良いコンクリート、丈夫な構造物を作る」が鞏固な信念であった。生コン車が到着したら、何はおいても直ちにコンクリートを打ち込む。それは生コンは時間をおくと「ねまる」からだ。工場で適切に配合した生コンに、現場では決して水を混ぜない。配合比=水セメント比が不適切になるからだ、など部下の現場監督や班長達に辛抱強く、しつこいほどに指導した。
コンクリート打ちの現場があると、朝から終わるまで必ず現場にいる。届いた生コンの固さを試験し、手で握ったりにおいをかいだりして確かめる。生コン車が間が悪く食事時に到着すると、箸をバシッとテーブルにたたきつけるように置き、さっと立ち上がる。全員右に倣えで、弁当にふたをするや現場に向かって一斉に走り出す。生コンの運転手が、扱いにくい(固い)コンクリートに、サービスのつもりで水を混ぜようとでもすると、「ないすっとか(何をするのか)!」と怒号が起こる。現場は最良の状態でコンクリートが打ち込めるよう、作業員一人一人まで張り詰めて殺気立つほどの緊張感だ。コンクリートは漢字で書くと混凝土で、土の一種と昔の人は考えたようだ。しかし品質の高い材料を丁寧に仕事をすれば、青光りするような石のように堅いコンクリートが出来るのだ。
ハナって何?
会社に入ってほどないある日の土木現場、その日かなりの量のコンクリートを打つ日だった。
「ハナを持っけ(持ってこい)」と現場監督の、切迫した怒鳴り声がする。見回してみて、つったっているのは私くらい、私に言われているのだ。はい、と慌てて取りに走り始めたものの、走りながら必死で考える。「ハナ? 花?
まさか。はて、ハナとは?」。幸い事務所にはお茶沸かしのおばさんがいて、わら縄の束を指さす。「なんち、こいがハナな?」。「ハナ」をひっつかんで現場に走ると、「今頃か、も済んだ」。あの頃は、何かとわら縄をよく使ってはいたのだが、それにしてもあの緊迫した現場で、わら縄を何に使うつもりだったのだろう。
あとからこのハナについて、つらつら考えてみた。旧仮名で育った世代は、「縄=なわ」は、「なは」と表記し、また喋るときもそう認識しているだろう。そして、例えばすしだねのタネをネタと呼ぶごとくに、ナハをハナと呼んだのではないか。きっとそうだと一人得心した。しかしまあ、縄をハナとは。
県庁出先の土木技術者
当時会社で請け負っていた県の仕事は、砂防工事、道路工事、治山工事、林道工事が主で、砂防、道路を受け持つのが土木事務所、治山、林道は農林事務所だった。後に高山町でも広範な土地区画整理事業が始まった。こちらを担当する県の出先は耕地事務所で、いずれの事務所も鹿屋市にある鹿児島県の合同庁舎内にあった。
ちなみに砂防と治山は同じような仕事である。急流の河川や渓谷に大小の土留め堰堤(えんてい=ダム)を造り、様々な付帯工事をすることが多い。砂防は下側の人々の安全を守るのが主目的、治山は文字通り山を守るのが主目的(もちろん結果的には人の安全を守ることになる)である。従って砂防工事は一定の住民が下流にいることが条件で、これは建設省(当時)の管轄である。一方治山工事は住民が比較的少なくても山地崩壊などの危険性が有れば実施されるなど山の保全を目的にして、こちらは林野庁の管轄である。役所で役割分担がされているのだ。
後年県庁の土木技術者に大学卒が大量に採用されるようになるが、当時は多くが工業高校の土木科、農業高校の林業系土木、農業系土木などの課程をトップクラスで卒業した人たちが主だった。測量や設計を外部委託するということも普通無かったから、若いうちから工事計画、測量、設計、積算などの実務を、先輩達から徹底して叩き込まれた。何年か経つと、現場を担当し、測量から設計、積算までを全部やる。現場のすべてを掌握して、想定外のことが起こっても、的確で有効な指示が返ってくるし、必要に応じすぐに飛んでくる。彼らも担当する現場に愛着があるのだ。四十代後半から五十歳くらいになると出先の課長になる人が出てくる。大半が仕事がよくできる技術者集団だった。
現場は「〇〇一家」
現場に関わる人たち、すなわち現場監督、班長、作業員たちも現場の工事推進には一体となって取り組む。ちょうど「〇〇一家」というイメージだ。現場監督と班長は別だが、作業員は地元の男女が加わることが多い。休憩時間には自慢の漬け物を誰かが持ってきてくれる。砂防工事などは10年近く続くことがある。もうみんなベテランなのだ。
工事期間が一年間続くような規模の大きな工事(先述の林道工事など)では県の技術者達と現場関係者たちとの関係は、もう家族並みだ。
原田さんという農家の夫婦が農業の傍ら、夫婦で会社の土木現場に通ってくれていた。決して裕福ではないのだが、奥さんはなかなか品格のある人で、蕎麦打ちの名人でもあった。私も何度もごちそうになったことがある。季節になると、この人の打った新蕎麦を通じて、県の担当者と現場の作業員の人たちとの、仕事仲間としての和やかな交流があったようである。もちろんこれは会社は関係無しなのである。
九大をやめて土方をしている馬鹿がいる?
現場にもどうやらなじみ始めたある日のこと、午後3時を過ぎた頃だったろうか、県の現場担当職員が、見知らぬ2人を連れてやってきた。現場担当がにやにやしながら、「九大(九州大学)をやめて土方をしている馬鹿がいる、その顔を見たい」というので連れてきたという。どうも役所内で私のことが話題になっているらしい。今ではもはや死語になっている旧帝大という言葉が、その頃はまだ根強く生きていたのだ。どうしても好奇心を我慢しきれず、噂の主の顔を見に来た、というのだ。
後年土木現場員は世間的にも評価が高まったが、確かに当時、まあ少し自虐的に過ぎるかも知れないが、もっぱら地元の人口に膾炙(かいしゃ)していたのが、「土方と山方(山林作業者)が喧嘩しているのを人間が仲裁した」というものであった。
初対面の県職員も、噂の「馬鹿」の顔を間近に見て満足されたようだった。お互い多いに笑った。じゃあ何は無くともまあ呑もう、と言うことになった。夕方5時になって、現場から事務所に三々五々、作業員たちが帰ってくる。話を聞いて、俺たちもと数人が飛び入り参加になる。鯖の味噌煮缶を一人一個宛、近くの猿渡(さるわたり)商店まで買いに走ってもらい、現場の焼酎を借りて、現場休憩所でささやかながら賑やかな酒盛りが始まる。
役所の人たちとその後も時に飲むことがあったが、会社の交際費を使うまでもないごく質素なものだった。話題も現場の仕事の仕方とか工夫など、至極まじめなものだったと思う。土木・建築に関わっていた20年のうちで、ただ一度だけだったが、顔見知り程度の県職員から暗に供応を要求された。もちろんお断りして以後その人には近づかないようにした。
時に起こる不祥事が元で、今では役所と民間との交流は殆ど無いと聞いている。あの頃の、淡いながらも温かい交流を懐かしく思う。
橋口岩夫さんのこと
人は氏のことを評して、「勘が鋭い」といった。しかし私の見るところ、彼は勘ではなく、「計算」を信奉していた。首をかしげる、口の中でぶつぶつ言いながら手のひらに人差し指で計算するのである。
問題の林道工事受注の際にも、現場が難工事であると見た根拠は、工事延長が長いこと、掘削の数量、運土距離、巨大な岩石層の速やかな除去であると判断。工期、稼働可能日なども押さえた上で、ブルドーザー2台、コンプレッサー2台が必要とはじき出したのだろう。
工事完成のための条件と、もしこの準備ができなければこの仕事は取らない方がよいとまでの確信を橋口さんに与えて、橋口さんの手のひらの計算式は既に消えている。人が橋口さんを評して「勘が鋭い」とする由縁である。
ちなみに当時会社が持っていた一番大きなコンプレッサーは、ヤンマーの単気筒エンジン(発動機と呼んでいた)で動かすもので、黒煙を出すほど回転を上げても、削岩機2台をフルには回せなかった。一方新しいディーゼルエンジンの2台のコンプレッサーは、それぞれ削岩機3台と2台を常時使用できた。
橋口さんの「鋭い勘」への信頼と、何よりも高度成長の時代背景が濃厚に感じられたからこそ、会社も銀行もこの投資を承認したのだろう。先月述べたように、その結果翌年から数年にわたる単独受注が実現したのである。
(佐々木 幸久)