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★【連載】山佐木材の歩み(11)
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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク)
一般土木予算が舗装工事へ振り向けられるとの情報
土木部に入社して3年か4年たった頃だろうか、昭和46年(1971年)頃のことだ。県の技師さん達と雑談していたとき、急に口調が変わって、「佐々木君も土木に一所懸命だけど、気の毒な事がある」と言い始めた。それはまた一体どうしたことだろう?
聞くとそれはおおむねこのようなことだった。
車社会への転換が急速に進捗している現状から、全国的に道路の舗装化が進められることになった。当然鹿児島県もその動きに追随する。その進捗が実に急で、しかも従来のように県道・国道だけでなく、町道、農道もその対象になる、実施のための費用は巨額であり、すべてを新規に予算確保する事は難しいので、一般土木の予算を削って舗装工事費に充当することになる。その額は一般土木工事の3割にも及ぶかもしれない。舗装のためのアスファルト合材プラントを持って、舗装事業を行っている会社には多大な恩恵があるが、一般土木のみの会社は、「気の毒だ」と言う事になる。
舗装事業の検討と準備開始
これは一大事と、会社の誰や彼やに話してみるが反応は乏しい。当時は舗装工事と言えばまずは国道、県道であり、従来の舗装業者の牙城だった。彼らはまた一般土木でも地区大手であり、業界のボス的存在であった。舗装工事は別世界のこととして、自分たちの仕事としては夢にも考えられない事だったのだろう。
役場に行って町道や農道の総延長を調べた。町内津々浦々に張り巡らされているのは町道、農道であり、延長、面積では国道や県道よりもはるかに大きい。しかも当時これら両方の道路の舗装道は無いに等しく、舗装された道路はごく近年のものだけ、率でいうと1%未満だった。これらがすべて舗装になるとすれば大変な事業量だ。高山町(当時)だけではない、舗装業者が集中している鹿屋市を除いた隣接町だけでも、内之浦町、吾平町、串良町、東串良町がある。この町々には舗装の専門業者はいない。町道、農道だけでも事業として十分に成り立ちそうだと考えた。
社内では父の社長がまず最初に賛意を示してくれた。2人で車に乗ってあちこち工場用地としての場所を物色したのも懐かしい思い出である。あの頃はまだ町の将来に楽観的で、地主も土地を手放すことに慎重で、土地買収は結構難しかったのだ。それでも事業用地として良い場所が見つかった。
事業の根幹となる技術者採用に当たり、緊張した事がある。会社の双璧である橋口、金山氏の給与と同等か、ひよっとして少し高めの給与を払う必要がありそうだったのだ。その同意を得られるものか、恐る恐るそれぞれに伺いに行った。案に相違して2人ともあっさりと「良かど」と言ってくれた。多いに安堵し、2人に感謝した。同時にこれで事業は成ったと確信した。
開業、そして早々に繁盛する
翌昭和48年(1973年)秋、工場と事務所、試験室が出来た。新設舗装部門の責任者は、新しく招聘した年配の舗装専門技術者、工場は自動制御に堪能な平野芳治君ほか1名、試験室は堂園和平君ほか1名、現場施工班は10名近く、総勢十数名の陣容となった。
舗装工事は近隣の町々でにわかに発注され始めた。近所に工場が出来たことも輪を掛けたかもしれない。というのも当時の悪路だらけの道路事情では運送費が非常に高かった。当社の工場が出来たことで工場と現場とが既存の工場からよりも十数km近づいて、工事費が当初予定よりも何%か下がったのだ。
舗装工事は側溝や路盤工事などの一般土木的な仕事と、表層舗装工事とから成る。県道、国道は合材プラントを持つ舗装工事業者に発注される事が多いが、町道、農道については、一般土木事業縮小を背景に、町内の一般土木業者に表層舗装工事とも込みで発注された。我が舗装部門は表層舗装工事を、一般土木業者から下請けとして請け負うことになる。事業は開業早々から繁盛した。
生産が思うようにいかなかったある事情
舗装の表層用に使う加熱アスファルト混合物(アスファルト合材)は、砕石(大、小)、砂、炭酸カルシウム粉末を加熱混合して、これにアスファルトを均一に混ぜて作る。熱いうちにダンプトラックに積み込み、厚い毛布で覆って現場に運び、専用の機械で敷きならして、ローラーで転圧して舗装表層を作るのだ。
繁忙期になって問題が起きた。合材の時間当たり製造量が、メーカー公称能力の半分にも達しないのだ。工場の生産が遅れると現場での手待ちも大きい。平野君とストップウォッチ片手に、生産工程を仔細に見ていくと、合材1バッチのサイクルタイムの中で他の工程は順調なのに、砂の供給だけが遅れることがわかった。繁忙期になると砂業者の在庫が無くなって、海中から採取したての濡れた砂が搬入され、その結果砂の水分の乾燥に時間がかかっていたのだ。砂置き場の床に溝を切って水はけを良くする、屋根を掛けて雨に濡れないようにする、在庫をこちらでも持つなどのアイデアが出たものの、明日の仕事に間に合わない。ちなみにこれらのアイデアは後日実施した。
ともかく夜間作業で砂の乾燥作業をやろうということになった。夜間に重油バーナーをつけた加熱混合用の回転ドラムに一度砂を通して、砂の乾燥と加熱とを予め行っておくのだ。対策の方針が出て、若い人たちは大いに張り切り、大喜びで乾燥予熱済みの砂生産に取り組んだ。これに毛布を掛けて保管、翌朝これを使用するのだ。仕事は大いにはかどり、合材を積んだトラックが次々に出て行く。当然工事現場の生産性も一挙に上がり、売り上げが覿面(てきめん)に上がるし、お客様からは喜ばれた。若い社員たちも給料日には時間外手当でかねての2倍以上厚い給料袋を手に満面の笑みだ。
試験室の取り組み
試験室の担当となった堂園君は町内農村地帯の出で、10人余りの兄弟の末っ子に産まれた。高山高校普通科を卒業し、入社2年目、19歳になったばかりという若さ。全くの素人からスタートして、ベテランの厳しい指導に、時に泣きの涙、耐えて耐えてしっかり技術をマスターした。試験室の業務はアスファルト合材の品質管理が主たる任務であり、これだけをやっていたとしても文句は言われない。ところが彼は試験作業から金を稼げる道を見いだした。
路盤工事には品質管理規定があって、私たちの舗装表層工事に入る前にその規定を満たしていることが条件である。この品質管理は元請たる建設会社の役目であるが、測定のための道具が要り、かつ技量も必要でどちらかと言えば面倒くさい。堂園君はその仕事を一貫して引き受ける流れを作った。一件当たりは数万円から十数万円くらいのものだが、一度道具をそろえてしまえば、あと必要な費用は紙くらいのものだ。彼はどんな小さな面倒な仕事も厭わず笑顔で引き受けた。助手を務める久保園さんと共に測定器具一式を積んだ軽トラックで現場に足を運ぶ。久保園さんは年では堂園君のお母さんほどの年配で、明るくて賢い女性で、土木部の愉快な傑物監督、久保園さんの奥さんだ。2人で年間100件以上の路盤品質管理の仕事をこなしていたと思う。自分で考えて自分でそのアイデアを実行して、黙々といつの間にか自分の給与の数倍を何年も稼ぎ出してくる。私の52年間の仕事人生の中でも、希有な人の一人である。
童顔白皙の堂園和平君が爾来50年、時に顔を見るとあの童顔のまま年寄りになっていて、思わず笑いがこみ上げる。もちろん自分を棚に上げての話なのだが。
空前のオイルショック襲来
話が前後するが、工事が進み、開業を控えて一抹の不安が忍び寄ってきた。しきりに石油供給に懸念の声がささやかれ始めたのだ。あわてて大きな重油タンクを増設した。そして実際にその事態が襲来、想像を絶する強烈なものだった。大金を掛けた重油タンクが無駄になると覚悟したところで救いの神が現れた。ある日の電話、「幸ちゃん、難儀をしちょいげなが(難儀をしているそうじゃないか)」。電話の主は松田さんで、石油店を奥さんと一緒に経営していた。同じ高山町前田の出身で、弟さんは私の一学年上、一緒に通学したりもしていた。奥様のふじ子さんは、独身の頃会社に事務員として勤務しておられた。小学生だった私の目から見ても笑顔の、そして何よりもしっかりした方だった。
この時の様子を過去のメルマガの中から再掲する。
(2017年4月メルマガ43号
シリーズ【社長連載】Woodistのつぶやき(10)「我が国林業七不思議(解題編)より)
舗装用合材を作るために必要な重油は、最初20KL入りのタンクを設置しましたが、夏頃には石油の入手に不安の声が出始めたので、急遽50KLタンクを併設しました。
忘れもしない操業開始直前、昭和48年(1973年)秋のオイルショック。私の泥縄の50KLタンクが出来たばかりで、この時ばかりは随分嘲笑されました。「あのタンクに油が入ることは永遠にあるまいよ」。なにしろ建設現場で生コンを頼むと「生コン車の帰りの軽油を提供してくれれば持って行く」、軽油を準備できない現場には行けない、というほどの逼迫した石油事情でした。
ところがそこに救いの神が現れました。松田さんという知り合いの石油スタンドの親父さんです。「俺が見つけてきてやろう」。半信半疑でいましたが、舗装部門開設の待望の日の朝、12KL積みのタンクローリー(油送車)が5台、2個の石油タンクの横に一列に並びました。大手の石油取扱店がドラム一本さえ調達できなかったのに、一体どうやって?
あの感激は今でも忘れません。ふんだんにある燃料のおかげで、操業当初からフル操業、初年度に思わぬ好業績を上げることが出来たものです。
(佐々木 幸久)