メールマガジン第86号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(13)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

前回に引き続き

 前回当時の「飲んかた」の紹介をした。お宅を訪ねての飲んかたの話をもう一話追加しよう。

 ところで、皆さんは晩酌のビールをおいしく飲むために、何かしていますか。例えば夏場、晩酌に備えて水を飲むの控えめにするとか。

 晩酌のことを鹿児島では、「だれやめ」、もしくは訛って「だいやめ」という。「だれ」は「だれる」であり、「疲れた」ときに、私たちは普通「だれた」と言う。その「だれ」を「やめる」ために「だれやめ」をするのである。

 

 今は、「とりあえずビール」と言って最初ビールを飲む人が多いが、当時ビールは贅沢品で、日常飲むものではなかった。だれやめはもっぱら焼酎である。その焼酎も今と比べるととても高いもので、なりたての土工なら一日分の日給と焼酎一升の値段はほぼ相当していただろう。

 その貴重な焼酎の1晩1合から2合をいかにおいしく、「だいやめ」を効き目良くするかは、午後から先の最大の関心事である人も多かったのだ。同年の社員T君に誘われて、ある日あるお宅にお邪魔した。

 

 (2018年8月メルマガ59号 シリーズ【社長連載】Woodistのつぶやき(26)より)

 

あの頃のだいやめ(晩酌)の一情景

 私が二十数歳のころ土木の現場で一緒に働いていた中に「時義じい」と呼ばれる年寄りがいた。石工の職人で、無口な鶴のように痩せた人だった。当時の私より30歳近く年上で、今の私よりも十数歳若かったはずだが、何と年寄りに見えたことだろう。彼は昼飯が済むとそれ以降は、真夏といえども茶も水も一切口にしない。

  仕事が終わって帰れば、風呂もそこそこに茶碗に焼酎を注ぐと、そのまま口に含み、飲み込む。きつい焼酎は乾いた口を灼きのどを灼つつ、胃に届くとはじける。目を瞑ってこれに耐える。次第に腹に落ち着いたら、また茶碗からぐびり。決まりの量を飲み干すと殆ど食事もしないままことりと眠る。 

 翌日は又何事もないように黙々とこつこつと仕事に励むのだ。呑むときの小食を責めて何か口にするようにうるさく勧めても、「いらん、食えば吐く」とぼそり。奥さんも「いっもこえなふじゃっど(いつもこんな風だよ)」。

 それでも特に健康を害することもなく、そこそこの長命を得たと聞いた。 

(引用終わり)


現場でダイナマイトを多用、大騒動が起こる

 砂防工事でも、林道や県道の道路工事でも、あの頃ダイナマイトを実に沢山使っていた。ちなみに現在はどうだろうと思い、先日山佐産業の門田道弘社長(土木部出身)に聞いてみた。この数年ダイナマイトを一本も使用していない、と言う。土木事業が当時とは大きく変容しているのだろうと思う事だった。

 

 ダイナマイトの使用は重大事故の恐れがあり、もしや盗難により犯罪行為に使われでもしたら大変なことになる。使用の際には許可申請を行い厳格な審査が行われた。その後も管理や使用状況についても監査を受ける。あの頃時に極左過激派の蠢動があり、警察や県庁から注意喚起の通達や監査があって神経を使ったものである。

 火薬類取り扱い責任者として免許も必要であり、会社でも数人がこの免許を取って、責任者の役割を果たしていた。私も入社早々試験を受けて、資格を取っていた。現場での実際の爆破に関する作業(ダイナマイトなどを使って岩石などは破砕させること)は、別な資格として「発破技士」があって、この資格を持つベテラン達が実務を行っていた。「設計士」と、「大工技能士」のような関係か。今は違うようだが、当時は「火薬類取り扱い責任者」の資格で、発破作業も出来たので、現場によっては私も装薬、結線、点火(電気式)など行うこともあった。

 

 ある林道現場で、ダイナマイト消費量が月に1トンを越える見通しになった。月に1トン未満なら私を含めて社員数人が持っている「乙種火薬類取り扱い責任者」の資格で扱うことが出来る。月に1トンを超えると、これの甲種の資格が必要になるのである。効率から考えて、本来なら乙種の資格を持っている該当現場関係者が資格取得すべきなのだが、どこやらから「甲種は難しいぞ」という話が伝わってきたようで、結局私に資格取りのお鉢が回ってきた。

 甲種資格取得後、私の名前でこの現場の火薬使用許可を取った。仕事の内容は山中に新しい道路(林道)を開削する仕事で、岩盤層がずっと続いており、爆破で岩盤を破砕した分だけ道ができていくようなものである。 

 

 一本100gの3号桐ダイナマイト250本入り段ボール箱と電気式雷管を、多いときは4,5箱、指定の火薬店に搬入してもらう。「火薬類運搬中」という赤い旗を掲げてトラックが入ってくる。

 実際の爆破作業は、有能な現場監督の指揮の下、経験豊かな発破技士さん達がこなすので、こちらは火薬店から事務所(火薬類取扱所)の受け入れ、事務所から現場への払い出し、現場から事務所への残火薬の受け取り業務が主である。 

 爆破が弱く取り残しの岩盤があると、後で面倒する。岩盤が不十分な爆破でひびが入ると再度の発破が効かない。また爆破後の岩石塊があまり大きくても、その処理に難儀する。装薬量の計算は、せん断すべき岩石の断面積総数に、岩質による係数を掛けて算出する。その岩石係数の上限値に近いところで爆薬を利かせて作業するのが、作業効率上のコツだ。

 

 こうして工事は順調に進捗したが、工事も大詰めを迎えたころ、ある朝大騒動が勃発した。某有力紙一面にこの工事は自然破壊であるとして大きく報道されたのだ。自然と人為との兼ね合い、端的に言えば自然破壊、という価値観が人々の関心を寄せる課題として浮上してきた時期であったろう。その波がここ大隅にも及んできたという事だ。 

 作業工法についても見直しがあった。そして県内各地はもちろん、全国的にもあちこちでこのような報道があり、その結果大規模林道は貴重な自然環境を破壊する行為との認識に方向付けられた。何より痛恨なのは、新規の林道開設は極端に縮小へと国を挙げて転換していったことである。

 こうして私の「甲種火薬類取扱責任者」の任務は半年(私の実質的現場業務は三ヶ月程度か)を以て終了した。

 

 後年ドイツ林業を見に行ったのだが、山の中まで大型トレーラーが通れる立派な林道が四方八方通っていて、これが丸太運送コストの低減に大きく貢献していた。林業手法が違うので、道が理由だけではないのだが、丸太の運搬費は1m3当たり600円(ドイツ、運搬距離50キロ圏内で概ね5ユーロ)と、我が国での2,000円から2,500円。このコスト差は、丸太の国際相場がたかだか1万円/m3前後の丸太としては致命的で、結局丸太価格の中間コストである運搬費の高止まりは、山元所得を直撃せざるを得ない。50年育てて、山元収入は1m3当たりわずか2,000円前後、と国際相場の30%程度にしわ寄せを受けているその一要素になっている。

 

  植林は道が無くても難儀はするが一応出来る。しかし木材の搬出は基本的に道がないと出来ない。本格林道がないから、かりそめの道(作業道)を作るなど、目立たないが自然に手を入れざるを得ないのである。

 山はあっても入る事も出来ず朽ち果てていく森林の自然破壊度と、林道を入れた場合の自然破壊度とを、過去のトラウマから脱して、今一度虚心坦懐に比較考量すべきだろう。

 


「新大隅開発」

 かつて「新大隅開発計画」として志布志湾沿岸を埋め立て、志布志湾臨海工業地帯とする計画が、当時の金丸三郎鹿児島県知事の主導のもと策定された。

 計画の概要は『20年後のかごしま』として、昭和43年(1968年)10月に公表された。その内容は志布志から高山までの海岸の沖合2kmまでの総面積3,600ヘクタールを埋め立てて、石油化学コンビナート、鉄鋼業、軽金属業の誘致と3万1000人の雇用創出という壮大なものだった。

 

 当時青年たちは農林漁業主体の穏やかな、一方眠ったような郷里に飽き足りず、また収入や技術習得のためにも活発な商工業活動の行われている都市部に仕事を求める大きな流れが常態化していた。

 しかし都市部に暮らしているあの頃の青年たちの多くが、いつかは郷里に帰ると考えていただろうと思う。この計画が彼らに与えた影響は甚大なものだった。変化や成長が郷里でも実行されるなら、何も異郷にいる必要はない、親と共に暮らせるならそれが良いという青年たちはたくさんいた。この発表を機に青年たちが多数帰ってきたのである。会社にも帰郷と入社の動機をこれだと語るものが多数いた。

  ただこの壮大な計画は甚大な反発も呼び、広範で激烈な反対運動を引き起こした。確かに当初計画の志布志湾全域のあの景観を皆無にするような計画が、そのまま実現しなかったことは、今思っても良かったというしかない。

 

 ネットで確認しながら、「新大隅開発」の推移を振り返ってみよう。

 県はこの反対運動に対処して昭和46年(1971年)に、総面積を,3600ヘクタールから2,463ヘクタールと、30%以上縮小した試案が発表されたが、反対運動は激しさを増すばかり。

  さらに後退して周辺市町村と調整を重ねて計画を再度縮小、昭和51年(1976年)、2次試案を発表した。総面積1,160ヘクタールと、当初の三分の一になった。しかし一度反対運動がおこり組織化され、マスコミも批判一色、それはまさに大津波のようなもので、手の打ちようがない事態に陥った。冷静な議論など望むべくもない。ある町の議会に多数の反対者達が乱入するなど、暴力的な様相になるに至り、郷里に何とか活力をと願う青年たちの声は潰されてしまったような形になった。

 

 このような騒ぎの中、昭和46年(1971年)に東京で政治家の秘書をしていた、鶴田辰巳氏(故人、肝付町名誉町民)が鹿児島県議選に出馬した。大隅地区を今後維持、発展させるには、何らかの開発は必要だと蛮勇を振るって公言しての出馬だった。それが大きな共感を呼び、価値ある初当選となった。氏のお陰で比較的自由に議論することが出来るようになったと思う。

 金丸氏の壮大な試みは、分断と混乱のみを残して、わずかに志布志地区の港湾整備と、港湾を利用した輸入穀物による飼料工場群、それに旧高山町波見地区、東串良町柏原地区沖合に国家石油備蓄基地ができただけに終わった。それでも関係市町や関連地域産業には相応の経済効果をもたらした。

 金丸氏の後任の鎌田要人知事は、混乱の収拾に難儀されたと聞く。またもう少し工夫して、秩序ある穏健な手法で大隅湾岸地域開発を行えればと悔やまれたことであろう。

 

 計画が潰え、幸い今も美しい志布志湾岸の白砂青松は残っている。ただ子供の頃家族であるいは学校行事で歩いた松林に入ると、当時とは全く様相が異なる場所がある。松林の木の下は文字通り白い砂浜で、海辺の強烈な陽射しの中適度な日陰が出来て、家族でござを敷いてお弁当を食べるのにうってつけの場所だった。春秋には松露(ショウロ)がよく採れると聞いたものだ。

 

 かつては農家が堆肥にするため競って松の落ち葉を採取していた。砂浜の落ち葉採取は、一種の採取権として、松林が個人ごとに区割りされていた。誰がその管理を行っていたのかは知らないが、その採取権はかなり広範に解放され、権利取得には競争があった。従って権利を持つ人は指定された自分の領域で熊手などを使いこぞって松葉を採取、軽トラックで運び、貴重な堆肥、厩肥にして農地に施肥していたのである。私がこれを知っているのは、土木現場に作業員として来られる農家に、この採取権を持っている人が何人もいたからである。彼らはこのシステムの有難さと愛着、山間の土地から海岸に行く楽しさ、などよく聞いた。その農業のやり方に変化があったのだろうか。

 

 志布志湾海岸の松の木一本切らせない、開発するようなものの入場は認めない、という先鋭化した運動の中で、確かな証拠があるわけではないし、改めて調べたわけでもないが、農家の人たちが自分たちのものと考えて大事にしていた松林が、実は違ったと感じ距離感ができ、立ち入る事の遠慮が出来たかも知れない。あるいは落ち葉の採取権を管理していた部署の人たちが、触らぬ神にたたり無し、と考えたとしてもおかしくないと想像するのである。

 全国的にみても恐らく最も進んだ自然循環型形態が崩壊したことは、痛恨である。

(佐々木 幸久)