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★【連載】山佐木材の歩み(16)
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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク)
部長総入れ替え事件(佐多岬国民宿舎事件)
昭和50年(1975年)のある時、社長から合宿研修を行うとの指示が出た。何の研修か事前連絡が無く、珍しいことだった。研修の場所は大隅半島最南端の佐多岬国民宿舎、会社から車で約2時間、好天で眺望も素晴らしい。部屋に落ち着くと会議室に集合。各部門から40人くらいだったろうか。
社長が深く信頼し、いろいろな相談をしていたタナベ経営幹部のT氏も臨席、社長の話は驚天動地のことだった。
全ての部長を入れ替えるというのである。といって私は当時まだ部長ではなかった。この頃はまだ役職や給与も不分明で、そもそも等級表や給与表も、2年後建築部長から総務部長に移って初めて拵えた。
社長の強い企業家魂と、当時の高度成長の追い風を受けて会社は伸びていたものの、個人商店の集まりのようなものだったかもしれない。特に勢いのあった土木部、しかもその中で、力はあるが癖の強い橋口さん、金山さんなどが率いる部隊は、それぞれ会社内会社という雰囲気もあったのだ。その金山会社のオーナーとおぼしき金山さんが、明日から経理部長である。そしてこれまでの経理部長が土木部長になった。私はというと現在のやり手建築部長を差し置いて、明日から建築部長と言うことになった。入社7年目27歳、建築の経験は全く無いのだが・・・・・
厳粛な研修会場がさすがに騒然となった。
これらの話が終わるとT氏、社長は席を外した。あとは食事と酒(焼酎)になり、唖然、呆然はいや増し、席はまさに阿鼻叫喚。これらの声は社長たちの宿所にも聞こえていたはずだ。果たしてこの冒険的な試みが瓦解するという懸念を持たなかったものだろうか。
社長は厳しい長い木材不況、その後の木材ショック、石油危機などを乗り切り、「進発式」を挙行した。売上の伸張は絶好調で、息子3人を含めて有望な若手が続々入社、恐らく強い自信が漲(みなぎ)っていただろう。この試みが事業遂行の上で一時的に様々な齟齬をきたすことは覚悟のうえ、会社の近代化には避けて通れない道だと確信していたに違いない。階下の騒動を、恐らくはT氏と共に、静かにビールを飲んでいたのではないかと想像する。
部長総入れ替えの事を、当時入社3年目、総務部に所属していた上大迫正氏(元オンリーワン社長)はどう受け止めていたか。
上大迫正著「株式会社オンリーワンの歴史」より
(引用)
<部門長の総入れ替え>
昭和50年(1975年)のもうひとつの劇的変化は、各部門長を全て交替するというものでした。例えば私のいた総務経理では、それまで土木の現場監督から部長になった人が来られました。それも元はといえば農閑期の日雇いからスタートした人でした。その他の部門も同様で、全く経験のない部門の部門長として全部長が異動になりました。
理由は、各部門の長として権勢を張っていると、いつの間にか「一国一城の主」となり、自分独自の城を築いてしまうこと。結果として自部門だけよければよいという我利我欲が前面に出て、会社としての統制がとれなくなるという弊害をなくそうというものです。
これにより、上記のように土木部長が総務経理の部長としてお出でになり、慣れない資金繰りや銀行回りをしなければならなくなったという訳です。しかし、荒療治ながらそれなりに皆さん感ずるところがあったのではないかと思料します。
結果として他部門の苦労も分かり、自分だけが難儀しているのではないということが分かったようです。その後しばらく(2年ほど)して、その人の特性を生かした部門へ再度異動となりました。(引用終)
新任部長、お見合い、結婚
この年は何かと多忙な一年だった。
5月1日建築部長就任。一番戸惑ったのが、下請け制度。今ではだいぶ様子が違うのだが、当時の土木部ではすべて直営で、土工、大工、運転手などの人と、トラック、重機械など殆どを会社でかかえて事業を行う直営方式を取っていた。固定費も大きいが、粗利率も高い。利益は積極的な減価償却で、厚く留保する。仕事が少し増えて、損益分岐点売上高を超えれば、それからの利益の伸びは大きいのだ。また従業員の質を上げることが非常に有意義な結果となる。反対に仕事が無い、あるいは少ない時期にはその運営に工夫がいる。
一方建築部では直接の現場作業はすべて協力業者に請負で依頼する。固定費は非常に少ないが、粗利率もまた低い。協力業者の親方との協力関係が重要だ。ただある職種では、前回無理な見積もりをお願いせざるを得なかった、今度の仕事で前の借りを返す、あるいはその逆というような「貸し借り」があるようで、それが数年にわたっているなどという関係は、わかりにくくなかなかなじめなかった。
ただ一般的には親方さん達は真面目なしっかりした人が多かった。中でも住宅建築の要(かなめ)になる大工棟梁さんたちは、仕事はもちろん、人格や暮らしぶりもしっかりしていて、見習うべきことが多かった。職人養成にも熱心で、息子を一人前の職人にしようと、一所懸命仕込んでいる親方さんも結構あった。まさにこのような人たちが社会を支えているのだと思うこともあり、お付き合いは楽しかった。
毎晩のように人と酒は飲むけれども、浮いた話の一つもない私に、さる人から鹿児島市内在住の女性とのお見合いの話がもたらされた。お見合いの席で初めて会い、こんな人に会った事はかつて無かったように感じた。初め挨拶のみ交わした母が、あとで「貴方には美人過ぎるんじゃないか」というような言い方をした。そう言われるとますます熱が入るのだが。
鹿児島や肝付で何度かお会いしたなかで、双方ともになかなかの読書家であることが分かったが、それぞれが持っている本で同じ本が一冊も無いこともわかってきて、ビックリしたものだ。住む世界がこんなにも違うものか。
後で聞いたのだが、お見合いの後私が「大隅一の飲み助」との評判が父上の耳に入ったらしかった。「根も葉もないことを」とも言えない。紆余曲折はあったものの無事結婚にこぎ着けた。江口日海夫・悦子ご夫妻の三姉妹の次女、父上は高校の国語の先生で、当時は鹿児島県教育庁の社会教育課長を務めておられた。
披露宴は鹿児島市内でと鹿屋市内でと二回行われた。鹿屋市内の披露宴の時には同業者やお取引先、社員達多数の他、今では想像も付かないが、付き合いのある役所の人たちも多数参加して祝ってくれた。披露宴のあと、父が初めて「三日酔い」というものをした。かつてないことで、それは心配した。
この年もう一つ重要なことがあった。鹿児島市内に「株式会社家具の山佐」鹿児島支店を出したいと言う話が、次弟佐々木明文君から提案された。当時の同社は手堅い経営を貫き、完全な無借金経営で、仕入れはすべて現金払い、当時それができた家具店は少なかったらしく、質の良い家具をかなり廉価に仕入れるという、抜群の仕入れ上手を貫いていた。店の立地が不利なだけに、かなり思い切った値引きも実施、良いものが安いということが口コミで話題になったようである。売れ行きは好調で、すぐに地域一番店になった。鹿児島市内からまで高山の小さな店に訪ねて来られるほどで、これは全く店を仕切っていた、母佐々木律子の才覚であった。
明文君は、野心的で負けず嫌い、守りよりも攻めを好み、才気煥発だった。財務内容は抜群ながらあくまで田舎の個人商店であり、こつこつと顧客のところを回りながらも、これだけに満足できるはずもなかった。
鹿児島市与次郎の商業用地が買える、という情報を得て勇み立った。様々な規制や制限がある中を精力的に活動、驚くほど短時日の中で解決して、翌春には着工にこぎつけた。
(佐々木 幸久)