メールマガジン第92号>会長連載

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★【会長連載】 Woodistのつぶやき(49)

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「鹿児島県木材界の歩み」を読む(前編)

 社団法人鹿児島県林材協会連合会を発行人とする「鹿児島県木材界の歩み」という500頁弱という大部の本が発行されたのは、昭和58年(1983年)8月15日である。

 先日思いついて筐底(きょうてい)からこの本を取り出し、ほこりを払いながら読んでみた。編輯長は元鹿児島県木材協会会長中馬徹氏。戦後の木材業界をよく知る人物であり、巻頭に41頁にわたって、編輯に際しての事実確認、調査、関係者への聞き取りの様子を交えて、当時の業界の動きについて詳細に概括している。

 戦前、戦中、戦後の様子についての他に多くの関係者の論考や回想が掲載されている。あるいはひょっとして、この時期苦労し活躍した方々が高齢になり、その生の声を残したい願いが、この本編輯の動機の一つになったのかも知れない。病床で執筆依頼を受けた、とエッセイの冒頭に書いている人もいる。戦前戦中の統制経済の様子や、戦後復興の資材供給に全力で取り組んできた、当時木材業界の息吹を感じさせる。

 拾い読みした中から、興味深く感じた事どもを抜き書きしてみようと思う。

 

中馬徹氏の概括から 旧軍人たちの製材経営

 「このような状況下(注 戦後復興のための資材として木材増産の強い要請がある中、技能者不足が深刻であった)において、鹿児島市で製材工場を経営する旧軍人グループ25日会(秋葉敏盛、故三原啓男、二俣義男、吉元茂夫の各氏、後日田頭秀雄、宇都巌、川野耕作各氏が加入)は常に自己研修に積極的な努力を傾倒しながら、全国各地または先進地の木材新聞などの主催するゼミナール、シンポジウム、講演会にも挙って参加し、努めて優秀製材工場を視察して経営に関する新知識の吸収に奔走した。また会内にあっては、この難局を突破克服するためには如何にあるべきかについて、絶えず研究討論を繰り返しながら自己研鑽に専念したと聞いている。」  

 

中馬徹氏の概括から 全国で初めての製材学校設立

 「(25日)会は県木連に対し労務緩和対策として製材学校の創設こそこの難局を克服する唯一の方途だと、信念を以て強く献策した。県も又協力を惜しまないとの態度であった。県木連の理事会及び総会では誰一人反論する者はなかった。直ちに副会長下薗嘉内氏と25日会からは三州木材社長故三原啓男氏が責任担当者と指名され、即刻学校を設立して技術工員の養成に邁進する事になった。」

 

 「生徒募集については、県木連をはじめ各単協組は各家庭及び中、高校を訪問するなど、努力の甲斐あって1~4部生63名の入学を確保することができた」

 

 「ともあれ全国最初の県木連立製材高等工業学校が昭和39年(注1964年)4月全国注目の裡にめでたく開校することになった」「校長は岡田幸一氏、教頭は田中信氏(略) 田中信氏は元国鉄工機部を退職後、鹿児島大学、宮崎大学の生産工学担当の講師で、(以下略)」

 

 田中信氏のお名前を目にすると懐かしく温かい思いが蘇ってくる。社長佐々木亀蔵はこの田中信氏と知り合って以降、終生まさに無二の師であり友となった。向き合う二人からは共に寄せる信頼が醸す温かさが放射していたように思う。次回に田中信氏の回想も併せて、述べることにする。

 

田中友善氏の回想  朝鮮半島の行政官から鹿児島県庁(のち県林産課長)へ

 「私は高農(注 鹿児島高等農林学校=現在の鹿児島大学農学部)を卒業するとその年慶尚北道(注 朝鮮半島の)に就職し、私の人生を朝鮮の禿山を緑化するという遠大な理想を持っていた」

 

 ただ事情により8年の在鮮期間を経て郷里鹿児島へ帰る事になる。高農の同期生が県庁にいた事から、その縁で鹿児島県庁林務課に就職する。

 

 「その頃の林務課の予算は慶尚北道の洛東江流域砂防事業という膨大な予算の中で働いて来た私にとっては予算や陣容の点では誠にきりつめられた窮屈なものに思われた」

 

 これを読んでこんなことを思い出した。屋久島の町民有志の方々が工場見学に来られた時の事である。屋久島は林業の島であり、一般町民まで林業に関心が深いのだ。行政業界から以外にも、町民の方々の視察もあったのだ。その視察者の一人Tさんという人から事前に連絡があり、高山町在住のFさんに会いたいという事であった。工場見学の合間にご高齢お二人の懐旧の語らいの場を設けた。「一体どういうご関係ですか」と聞いたら、屋久島のTさんから「鹿屋農業高校の林科を出て、一緒に朝鮮総督府に勤め、禿げ山に木を植えていた」と言う説明があった。高山のFさんは堂々たる美丈夫で、選挙の時など演説を頼まれるような名士であった。朝鮮総督府勤務、そして禿げ山の植林という経歴は、輝かしい誇るべきものだと思うが、Fさんからそのことを聞いた事がなかった。総督府に関りがあった事を言いにくいという当時の時代風潮があったのだろうか。

 

 ともあれ田中氏の懐旧譚から当時の朝鮮総督府、そして予算面でこれを全面的に支援した日本政府は、日本国内予算を絞ってでも朝鮮半島の砂防工事にまでふんだんに予算を振り向けたことがわかる。また田中さんやTさん、Fさんのような優秀な若者たちが朝鮮半島の緑化に情熱を傾けたことなどとあわせて考えると、500年の李朝専制の弊政により、みじめな状態にあった朝鮮半島を何とかしていこうという、官民挙げての善意が当時あったことは間違いないだろう。  

(佐々木 幸久)