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★【連載】山佐木材の歩み(19)
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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク)
良知塾について(承前)
南日本新聞社が昭和25年(1950年)来行っている南日本文化賞の産業経済部門で、今年団体としての山佐木材が受賞した。授賞式(新聞社の名称は「贈賞式」)は、本メルマガ(リンク)にて紹介されている。
贈賞式の後に祝賀会を催して戴いたが、私の隣席に新聞社の木脇良知専務さんが着座された。良知は「りょうち」と読むという。お名前の由来を聞き、良知塾のこともお話しした。私の父である佐々木亀蔵がライフワークとして若者たちと起居を共にした「良知塾」と名付けた心と、木脇専務のご父君が愛息にこの名を付けられた心とは、おそらく同根であろう。
陽明学にちなんで良知塾の名称をつけても、実際には陽明学そのものよりも、二宮尊徳翁の生涯をかけた活動や精神、下野した南州翁が開いた吉野開墾社、あるいは石田梅岩の心学などが父の精神の基調にあったように思う。我が国に息づく良き魂を、自分を介して若い人たちに引き継ぎたかったのではないだろうか。
生涯素晴らしい学び舎で、「一生の人生観の基礎はこの時代に築かれた」と言っていた鹿児島師範学校で、2年間本当に勉強したという。必須科目の他に選択科目として農業、絵画、数学を選んだ。卒業時の赴任先希望について、第一希望「純農村の小規模校」とのみ書き、第二、第三の欄は空欄で提出したと言っていた(佐々木亀蔵著「執念」66頁)。
絵は本当に好きだったようだが、多くは処分したらしく、「秋の夕暮れ」と題する絵が一枚だけ残っていて、今これを書いている部屋の壁に掛けられている。昔私が高山中学校の一年生の時に、絵の宿題が出た。父が指導してくれたものを提出した。美術の増田先生が、「お父さんの描いた絵があるか」と聞いたと思ったら後日自宅訪問、この絵の前で腕組みをして数分じっと見て、そのまま何も言わず帰られたことがある。自分の絵に貰った点数は覚えていない。剣道については、生徒たちを引率して日帰り遠征にしばしば出かけたと聞いたものだ。
昭和11年から20年まで10年間、県下5つの小学校の「訓導」として青春の情熱を傾けた。初任地の溝辺小学校、その次の次の任地の内之浦小学校では、教え子さん達との出会いがしばしばあった。多くは親愛の情を露わにしてくれたが、ある時内之浦のある地区の要職にある人が「おまえの親父には、ようまあ叩かれた。しかしよう考えれば、南方のあの戦線で生きて帰れたのは先生に根性を鍛えられたおかげだろう」。父に確認したが、教室で叩く事はまず無かったという。真面目に取り組まなかったり、態度が悪ければ剣道の授業の時に、結構「鍛えた」と言う事だった。
敗戦により教職を離れることになったが、事業経営者になってからも社員たちを良き社会人として「訓導」する精神は全く変わらなかった。そして晩年にいよいよ自分の人生の総仕上げとして「良知塾」を開いたのである。
朝早く起床、洗顔、一緒に読書した後、別れて清掃、農作業、食事作り。そして食事が済んだら出勤する。塾生は業務上残業禁止となっており、終業後はまっすぐ塾へ帰る。夕方の課業をこなし、勉強をして就寝。良き生活の中から、それぞれの人が持つそれぞれに良いもの(良知)を引き出し、勁く(つよく)賢い人間に育つのを見守る。
塾生たちよりも早く起きて、そして遅く就寝する。身を律して、「背中で教える」を信条とした。若い青年たちが1年を通じこの禁欲生活に素直に従ったのは、今考えると驚異にも思える。1年どころか数年にわたって塾生活を続けた人もいる。
噂を聞いた世の経営者の何人かから後継者育成を狙いとして子息入塾の依頼が続いた。社内からは異論もあったが、社長はこれらの申し入れを受け入れた。当然まずは入社する事になり、社員塾生と同じ扱いになる。多くは1年(何年かいたケースもあるが)経つと、帰って後継者修行に入る。これは社員たちに微妙な心理的影響を与えたかも知れない。
多くはここでの経験を活かして、経営者として大成したものと思うが、すべてがうまく行ったわけではない。ある企業の後継者の子息塾生が佐々木亀蔵塾長と起居を共にするうちに信愛が高じ、その人柄や生き方に人として経営者としての理想像を見いだした。そして我が身を顧みて我が父親との余りの懸隔に、とうとう父親批判に及んで親子間の葛藤が激しかったと聞いた。
社員たちの結婚ラッシュ
入社して如何にも頼りなげな若い社員が、ある期間を経てみるからに頼もしそうになってくる。にこにこしながら近寄ってきて、「部長」と声を掛けてくる。仲人の依頼である。自他共に認める稼ぎ手になり、これなら家族を養えると結婚の運びになる。次第に近寄ってくる様子でもう用向きがわかり、こちらから「良い返事を貰えたの?」と聞くくらいであった。似合いの良き相手から首尾よく承諾を貰えたら、今度は相手の両親からの許しを得ることである。
当時相手両親の了承は絶対不可欠だった。大事な娘を差し出すからには経済的自立は不可欠である。また親はいざとなれば夫婦が起こした不始末や面倒事を、背負う責務やその覚悟がある。それは親族を巻き込む大事になることも無いわけではない。娘の結婚相手の選択には厳しいのである。仲人の役目は親の了解を貰うために通うのである。私たちの一つ前の世代では、三日三晩通うのを常としていたそうだ。「犬猫を貰うのと同じには行かない」、当時はさっさと承諾する親は娘への愛が薄い、不人情との考えさえ親娘の間にあったことを認識できた。仲人は夫婦の不仲や夫婦の怠惰をさせない事を約する一種の保証人である。仲人が男の上司であればもっけの幸いで、男の職場での末永い手堅い立場を裏付けてくれるだろう。
私の頃は三日三晩は形骸化していた。すなわち一晩のうちに「三日三晩」を済ますのである。つまり一度訪ねて断られる。以前なら日を改めて訪れるところを、その晩のうちに再訪する。つまり家を辞して物陰でたばこを一本吸ってからまた行くのである。そしてこれをもう一度繰り返すのである。ほんの数分前に辞している家を再び訪れて、しれっと挨拶する口上は難しい。想像するだに苦しい。手間は掛かるが日を改める方が、心理的に筋が通る。
私の仲人役は本人同士が好きあっている、つまり「出来ている」カップルの、いわゆる「頼まれ仲人」である。十数組も努めただろうか。多くは社内結婚だった。一度で了承を戴くという略式ですべてお願いした。今は仲人など立てない結婚式が主流のようだ。それでも「もらい」、「結納」、「結納返し」、「結婚式の立ち会い」の基本型は踏襲した。こんな事例もあった。私より20歳年上の社員で久保園さんという方の、ご子息の縁組である。中堅大手ゼネコンに勤務するご子息で、父君が嫁取りなどすべて段取りされ、私は「結納」と「結婚式の立ち会い」のみである。正月三が日の城山観光ホテル(現在の城山ホテル鹿児島)での披露宴で、正月風景の一つとして、地元テレビで宴の様子が放映された。
私の仲人第1号は当時山佐産業総務部、現在常勤監査役の神田稔君ご夫妻である。奥さんになるのは総務部の神田政子さん、小柄で愛くるしい、誰からも好かれる人である。当時「スピーチコンクール」というのが毎週あった。部門から交替で話者が出て、3分スピーチを行う。都合の付く全社員が聞いて、私たち幹部が講評、採点する。最高点を得たものには、社長から褒美として図書券が渡される。総務は人数の都合から出る確率が高い。以前この欄に登場した梅木さんと、政子さんは出れば必ず一位を取る。総務からの話者がこのどちらかだと分かると、他の出場者は「あちゃー」とがっかりしたものだ。いつもビリケツになるのが、同じ総務のN君だが、常勝二人とどう違うのだろう、どう指導したら改善するのだろうと、話し方を見ながら考えてみた。一方は聴き手を見て話すのと、もう一方は手元の原稿から片時も目を離さないという違いがあると気づいた。話題や話し方が聴き手の興味を引くかどうかと言うのは、聴き手の顔を見ないと分からない。聞き手の反応を見ながら話し方を修正していくからますます良いスピーチになる。そこで私の講評の時、このことを述べ、「相手の顔を見て話しなさい」と指導した。このN君には再度登場願うかも知れない。
女性は結婚を機に多くは退職した。結婚退職は一般退職に比べて退職金が有利になっていた。これは後年女性の結婚退職を強要する要件になっているといって廃止のやむなきに至った。しかしこれは我が国の美風として復活しても良いのではないだろうか。結婚のお祝いとしてなるべくふんだんに払う。そして子育てが終わったら、本人の希望次第ではあろうが、前職を活かしてなるべく有利な条件で復職出来る道を講じる。空白期間の内に技倆が落ちる、と言う声もあろうが、その道が確立されているならば、本人も意識して技倆の維持確保に努めることはそんなに難しいことではないと思う。
(佐々木 幸久)