メールマガジン第93号>会長連載

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★【会長連載】 Woodistのつぶやき(50)

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「鹿児島県木材界の歩み」を読む(後編)

 

田中信氏の記録 元鹿児島県木材協同組合連合会指導部長

 「鹿児島県木材史余談」

 鹿児島県木材界の歴史の一部とするべく、田中信氏自らが関与した事柄について、当時の資料を収集し、それを採録するなど、正確を期して、病身の身を押して三十数頁にまとめている。昔の人らしく、感想や感慨など交えることなく、ただ事実を淡々と記録している。もう少し当時の人間模様や人物月旦評などがあると面白いだろうにと思うが、先生の性格や誰にも偏しない信条からはそれはムリな話だっただろう。

 学者肌、小柄で物静か、温厚。にこにこと父と話をしている姿が目に浮かぶ。鹿屋市の村田木材・村田社長は父とも仲が良く、二人だけでもよく意見を交わしていたが、田中先生を交えても経営や労務のことを話し込んでいたものである。吾平町に味噌うどんのおいしい店があったが、お気に入りで、お昼にはよく二人で、あるいは三人で行っておられた。

 

 記載資料は昭和39年から46年までの私の鹿木連時代のものが主となりましたが、県木材史のひとこまにでもして頂けたら大変に幸せであります。

 なお記載資料は、一応次のように分類しました。

①木材界の出会いと、製材学校勤務のひととき。

②経営者大学講座と指導部発足

③県木連単位の木材シンポジウム   全国で初めて (中略)

 

 昭和38年に鹿児島労働基準局に労務近代化推進委員会が設置され、私はその委員会の参与に任命されました。

 時の安全衛生課長と監督課長から、三州木材KKの三原社長と山佐産業KKの佐々木社長を紹介され、両社の見学と社長との面談をしたのが、木材界の人々との出会いの始まりであります。 (中略)

 

 木材界に深い関心を持ちながら、国鉄を定年退職した私は鹿児島大学と宮崎大学で生産工学の講義を担当していました。

 宮崎大学で講義を終り、鹿児島に帰る列車の中で三州木材KKの三原社長とバッタリ出会いました。

 ゆっくり挨拶もしない内に、「今度製材高等学校を設立することになったから手伝ってくれ」と相談を持込まれました。

 ゆっくり考える時間を頂くよう話しましたが、そんな余裕はないのだ、内諾だけでもしてくれと言われ、とうとう列車内で内諾の返事をしてしまいました。 (後略)

 

 一方佐々木亀蔵社長はどのような気持ちで田中信先生と向き合っていたのか。相対する二人を直接見た者には、それはもう一目瞭然だったのだが、それでは説明にならないので、本人の著書から関係部分を引用する。

 

「執念」から  佐々木亀蔵著  昭和62年(1987年)4月発行 

 田中先生と私が、初めてお会いしたのは鹿児島市の産業会館で、鹿児島県主催、中小企業経営者労務管理セミナーの講師として、ご講演してくださった時でした。

 素晴らしい人物と感銘してお話を承りました。温顔で、言葉やさしい中に、私共経営者が最も悩み、しかも肝腎な人の管理のことを、諄々と説き聞かせて下さいました。一言一句、心の中に刻み込まれる思いで、時のたつのも忘れて、講演が終っても会場を去るに忍びず、居残ってさらに色々のお話を伺いました。ところがその後、私共の鹿児島県木材組合連合会が、製材工業高等学校を設立することになり、三州木材の故三原社長さんのご尽力で、田中先生がそこのご指導を担当して下さることを知り、本当に小躍りして喜びました。

 そこで私は、三原社長さんを通じ「さらに、私の職場のご指導をも引き受けて頂くことが出来ないか」とご相談申し上げましたら、心よくお引き受けくださったのです。 (中略)

 

 更に田中先生が木修会という勉強会を企画なさって(中略)、三原社長さん、宮崎の丸岡社長さん、古本社長さん、その他木材業界の歴々の実力者の皆さんにご指導していただく機会が得られたことは全く幸運この上ないことでした。 (中略)

 

 ただここで、かえすがえすも残念なことは、三原社長、村田社長(注 前出 鹿屋市村田木材、国の森林審議会の委員を永年務めた)を早く失ったことです。あんなに顔色も健康そのもののの風貌をなさっておられたのに急逝されたお二人でした。すばらしい才能を持ち、物事をじっくり研究されていた逸材であったのに (後略)  

 

「三原社長」のこと

 「鹿児島県木材界の歩み」における中馬徹氏、田中信氏の回想、佐々木亀蔵「執念」の文章において、しばしば登場する三原社長のことである。 「戦闘機乗り」だったとご本人から聞いた記憶がある。職業軍人として厳しい戦争を直接戦った人の経営は、大胆な局面打開を図り、極めて積極果敢な精神に溢れていた。大径米材丸太(多くは米ツガであったと思う)を輸入し、私たちが見たこともない大型製材機械で、大量生産の先鞭をつけられた。当時全国一とも評価できる当時の鹿児島県木材業界での斬新な取り組みは、多くこの人、もしくはその周辺から生まれたと言っても過言ではないだろう。

 

 「執念」にあるように、病を得て壮年のうちに急逝された。驚かせられるのは、不治の病を自覚せられた際の身の処し方である。当時木材業界は決して不況ではなく、むしろ高度成長下であり、挽けば売れた時代であった。まして同社はしっかりした管理をしており、業績は業界随一であったことは間違いない。後継者として私と同年位の立派なご子息が会社におられた。それにも関わらず、工場の閉鎖を決意、それを断行して亡くなったのである。ちなみにご子息は他の業種の経営者として転身された。

 あの方の鋭い大局観から、当時のあの業態では製材業は早晩行き詰まる、とのご判断であったものだろうか。製材からスタートした山佐グループは早くから多角化路線に移行していたのだが、あれほどの会社の事業停止、工場閉鎖は木材専業の会社にとっては一大衝撃であっただろう。

 

 今思うに、もし当時の業態に飽き足りぬものがあったとすれば、三原さん独特の局面打開の能力を発揮、さらに進化した業態を実現するだけの寿命を天が与えていてくれたとするならば、鹿児島県の木材業界の現況はまたかなり違った風景であったろうと惜しむ思いがある。

(佐々木 幸久)