メールマガジン第95号>会長連載

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★【連載】山佐木材の歩み(22)

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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク

閑話休題  母佐々木律子の他界

  前号で佐々木律子が登場した。実は去る12月17日、佐々木亀蔵の妻、私長男 幸久、次男 明文、三男 典明の母佐々木律子は、満96歳10ヶ月にして他界した。少しその生涯を振り返ってみる事にする。

 

 人の死は生き残っている者達の絆を深めてくれるものだと改めて思った。お通夜の際に母の妹即ち叔母たちの話を随分聞いた。父亀蔵と母律子の結婚は戦時中のことで、二人とも鹿屋小学校の教師であり同僚だった。当時のこととて同僚とはいえ双方の知人の紹介であり、本人の意思よりはまず親の了承のもと、本人がそれに特に異存がなければ結婚が実現するというのが習わしであったようである。結婚に至る経緯は父佐々木亀蔵の著「執念」に詳しく記してある。

 母は長女で次妹の博子叔母は、当時姉が勤務する鹿屋小学校の4年生だったそうだが、教師佐々木亀蔵の強面(こわもて)で、特に男子生徒に対する熱烈な指導は有名だったようで、「お姉さんがあの怖い佐々木先生と結婚するんだ」と一種恐慌に陥ったそうな。

 

 また今回の事で東京在住の女性の方からお手紙を戴いた。文面によると現在83歳であること、父の父佐太郎の弟佐々木盛蔵の末の娘さん、つまり父といとこであることが分かった。その方が東京の女子大生の時、20歳くらい年上の亀蔵さんに、日本橋でご馳走になったと懐かしく記しておられた。父と母の婚礼があったときその方は小学生だったようで、親戚中で「亀蔵さんがきれいなお嫁さんを連れてきた」と話題になり、その時の事を今でも鮮烈に覚えているとお手紙にあった。

 ちなみに佐々木盛蔵は昭和25年(1950年)の、「肝付木材事業協同組合」の設立に関与し初代理事長となった。そして佐々木亀蔵が三代目理事長を、私が五代目理事長を勤めた。一昨年六代目理事長として肝付木材工業の亀甲社長に引き継ぐことが出来た。

 

 母律子はおとなしいきれいなお嫁さんでは収まらなかった。それどころか大変な商才を発揮して、父が創業した「山佐物産」(高山町)で商いを実務者として開始、その間自分の給与で目星をつけていた鹿屋市郊外の土地を取得、やがてそこに二号店として鹿屋店を出店した。社名を「家具の山佐」と変更、売り上げは着実に増えて、飛び切りの優良小売店に作り上げた。卸元である家具のメーカー間で、まずは知らぬ者のない有名女性経営者であったと聞いた。

 

 ともあれ昨年12月17日にその波乱に満ちた生涯を閉じた。葬儀は私のご近所さんである肝付町「横山葬祭」にお願いした。時節柄簡素を目指したが、田舎のこととてたちまち話は伝わり、会葬者も多数になった。また葬祭店横山社長の気風(きっぷ)もあってか、思いがけず大きなお式になった。

 


 

土木部長として石油備蓄プロジェクトに携わる 

 突然の部長所管変更から建築担当2年、総務担当2年の都合4年が経過して、土木担当に変わる事になった。時あたかも国家石油備蓄基地の建設が始まろうとしていた。志布志湾開発が当初案から縮小され、高山町(現肝付町)と東串良町とに立地されるこれが唯一の基幹事業であり、地域のみならず関連業界は色めき立った。大物代議士の膝下であり、色々と意見を求められる事もあっただろう。

 

 海中に人工島を造成し、陸地とは橋で接続される。島が出来てからタンクを据え付け、景観のため緑化工事が施される。このうち人工島造成は工事種別としては港湾工事になる。工事用船舶などを所有し、港湾工事を施工する専門業者を、通常「マリコン(マリンコントラクターの略)」という。工事の大要を占める人工島造成の担い手はマリコンの範疇かと思われた。

 ところが意外にも主要部分は大手ゼネコン(ゼネラルコントラクター=総合建設業)が担う事が分かった。恐らく次のような経緯を経てこのような決定がなされたものであろうか。マリコンは専門工事業として内部に堅固な施工グループを形成しており、大概のプロジェクトは外部に頼らず内部完結出来る。本件は永らく地元期待の大型プロジェクトであり、下請けとしてより広く地元に発注してくれる可能性が高い大手ゼネコンにという声が強かったのではないか。

 

 社内の政治に近い筋からは、特に設備投資せず今の体制のままで、大手ゼネコンの一次下請けとして受注できるとの情報整理が届いた。ゼネコンから受注したのち、再度下請けとして専門工事業者に発注すれば良いではないかというのである。ただ港湾工事の施工体制を持たないままでゼネコンの下請けをして、幾ばくかの中間費用を貰って、再下請けに出す、これを数年にわたり地元中堅企業として、胸を張って実施できるものか。また土木技術者としてそれで納得できるだろうかという疑念があった。しかしながら設備費、技術習得いずれもとてつもない大きな関門である。現場の者達と話し合ってみると、港湾工事業者として直接現場に取り組みたいという強い意欲があった。

 

 第三者の意見が欲しいと痛切に思い、あちこち当たった。そこに適任と思われる人物を紹介しようという人物が現れた。ご当人は建設関連とはいえ設備系の会社の経営者で、仕事で縁があるわけではないが、なぜかある人と馬が合って、永らく親しいという。

 普通行政の技術者は、土木部門だと道路や河川、港湾などいろいろな部門で勤務する。幅広く経験する事が技術者として総合的能力が高まるという考えだが、その分専門能力や専門的識見は浅くならざるを得ない。適任と自分が思うその人は、地位としてはそう高くないが、港湾部門にずっと勤務しているごくまれな港湾専門職だという。私の趣旨を説明、面談を打診したところまずは会ってみようと言って下さった由。

 指定の時間に夜、一人その方の鹿児島市内のお宅を訪れた。事情はよく承知しておられて、初対面ながら技術者として行政職として、実直にそして率直なご意見を戴いた。まさに第三者としてふさわしいご意見であり、そして実に常識的かつ明快であって、十分に納得し熱くお礼を申し上げてお宅を辞去した。

 

 帰って港湾土木進出について社論をまとめ、関係社員たちと共に大車輪で設備取得と技術習得、技術者・資格者の確保、育成の作業に入った。様々な人のご縁により有数の技術を持つ港湾業者(県外)で、必須技術の手ほどきを受けることが出来た、また造船所などの協力も得られ、驚くほど短期間に工事用設備(工事用クレーン付き台船、タグボートなど)の取得と、まずまずの技術習得、免許取得者の確保が出来て、新米ながら港湾土木業者として発足した。

 

 さる大手ゼネコンが受注した最初の工区の工事を、港湾工事業者としての一次下請けとして引き受ることができた。当社の工事受注額10億円以上で、工事が始まると一ヶ月の施工出来高が2億円前後、足掛け6ヶ月、正味5ヶ月で完工した。投資額も大きかったが、稼ぎも大きいことに驚いた。

 

 一連のこのプロジェクトの進捗中に、私は山佐木材に移ったのだが、その経緯については時期が来てから述べることにする。人工島四周の締め切り護岸工事が終わり、いよいよ来月から埋め立てが始まるという。締め切り池の中に現在会社の工事台船があるが、近々撤収しなければならない。船があるうちにそこで魚釣りをしないかとお誘いがあった。

 鰺のシーズンだからとその仕掛けの準備をして、数人小舟で台船に移った。巨大ないけすのようなものだ。後にも先にもこれほど釣れたことは無い。仕掛けを投げ込むと即座に強い引きがあり、すぐ引き上げると数匹かかっている。これを外して、また放り込んでまた引き上げて、その繰り返しで30分も経ったら、大きな氷温の魚箱が蓋も閉まらないくらいの満杯になった。

 雲が厚いとおもっていたら驟雨(しゅうう)に見舞われ、早々に切り上げた。昼前に釣り人の一人のお宅で昼食(酒飲み)という当然の流れになる。丸々とした大量の鰺を、台所で手分けして切る、煮る、焼く、揚げるにした。数人ではとても食べきれない。何人かに声をかけて新手含めてざっと10人、まさに昼間からよく食べ、よく飲んだ。

 私たちは初夏という時期から豆鰺だろうと思い、その仕掛けで行っていて、実は糸がもつれて難渋した。後で呼んだ数人が、翌日鰺の大きさにふさわしい、より大きな仕掛けで同じ場所に釣りに行ったという。なんと魚箱に12箱も釣って、魚市場に持ち込み数万円にもなったという。

 

 巨大な締め切り区画の中で、鰺にとって波風無く平穏に快適な環境にあり、これが繁殖にいがに絶好の環境であったものか大量発生、かくも良く成長したのだろう。埋め立てが始まってあの鰺たちは一体どうなったのだろうか、首尾よく海に逃れたものか、それとも・・・   結構真剣に考えたものである。 

(佐々木 幸久)