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★【会長連載】 Woodistのつぶやき(54)
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日集協理事長を退任
去る5月20日KKRホテル東京にて、日本集成材工業協同組合(略称・日集協)の通常総会が行われた。コロナ禍により、会場での開催は三年ぶりである。この時任期満了に伴う役員改選が行われた。私は九州地区理事を20年余り勤めてきた。
理事として私に替わり山佐木材社長有馬宏美氏を予め推薦してあったが、これが総会にて承認された。理事長は新理事の中から理事会で選任される。総会をいったん休会し、別室で開催された理事会において、新理事長として銘建工業社長中島浩一郎氏が選任された。
ひょんな事で副理事長を経験することなく日集協理事長に選任され、3期6年間何とか努めてこられて、この度無事卒業できた事は望外の喜びであった。
東京の休日
今回東京出張に前後して、3日の休日を確保した。休日の目的として、次の場所の訪問をかねがね思っていた。
1.日光杉並木の散策
2.間宮林蔵記念館
3.武蔵野御陵、もしくは伊能忠敬記念館
日光杉並木の散策
今回で3回目である。前2回は今市から日光に向けて歩いた。今回は反対方向に歩いた。2回目の日光杉並木散策を当メルマガ(山佐木材ウッディストのたより(メルマガ版)Woodistのつぶやき(34) 2019/6/24 Vol.68)にて報告しているので、そちらを参照戴きたい。今市からであれば、日光に向けてのコースの方がお勧めであろうか。
東武浅草駅から東武線特急で下今市駅まで行った。この駅構内がたいそう面白い。蒸気機関車の操車場が復元され、実際に蒸気機関車による列車が定期運行されている。
間宮林蔵記念館
北方領土の帰趨
最近のロシアによる理不尽なウクライナ侵攻である。我が国もかつてソヴィエトに手痛い侵略をうけたことなど思い合わせて、北方領土返還の動きにも関心を寄せていた。さかのぼって間宮林蔵のことにも関心を深めていた。
幕府末期に、鎖国日本に開国を迫る欧米やロシアとの間で様々な接触や紛争があった。それでも幕府とロシアとの間で、交渉の結果領土確定がなされた(日露通好条約)。それから明治政府とロシアの間で2度領土確定が行われている。
山田吉彦(東海大学教授)著「日本の領土と国境」により、経過を見てみる。
〇日露通好条約・・1855年2月7日
千島列島 千島列島最南端の「得撫(ウルップ)島」と、北方4島の最北端「択捉(エトロフ)島」の間に、
日露の国境線を引く。千島列島はロシア領とする。
北方4島 択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島は日本領とする。
樺太(カラフト)所属を決めず、日露国民が共に暮らす「雑居地」とする。
※注 条約締結の日2月7日を記念して、この日を「北方領土の日」と定めたそうだ。
〇樺太・千島交換条約・・1875年
日本は樺太の所有権(共有権というべきか)を放棄し、ロシア領とする。
代りにロシア領であった千島列島全島、すなわち最北の占守(シムシュ)島から最南の得撫(ウルップ)島
まで、18島全てを日本領とする。
〇ポーツマス条約(日露戦争を受けて)・・1905年
樺太(カラフト)の南半分、北緯50度以南を日本領とする。
日露通好条約において、樺太(カラフト)を日露共有とする、と取り決めたのは、開国前の外交力、軍事力も圧倒的な差が有ったなかで、よくやったと言えるのではないか。江戸期に幕府、民間ともに蝦夷地探検、蝦夷地の航路開発や開拓などを盛んに行っていた。間宮林蔵の初めての蝦夷地探訪も、幕臣村上島之允の従者として行っている。
間宮林蔵の間宮海峡発見、その精巧な地図(伊能忠敬による)が、ヨーロッパで知られていたことなど、幕府としては樺太の領有権を主張する際の大きな論拠とし、これをロシアも半ば認めざるを得なかったのではないか。
間宮林蔵記念館、菩提寺見学
つくばエクスプレスで筑波の手前「守谷駅」で降りて、取手に向かうバスに乗って行ける。小貝川という大きな川を渡ってすぐの「稲富橋」停留所で降車する。見渡す限り刈り取り前の麦畑と、植えたばかりの稲田のただ中で、誰一人とも出会わない。バスの本数も少ないし、もし間違っていたらどうしようと不安に思うほどだった。降りた停留所からスマホのナビで目的地方向を見ると、広大な田畑の中に、人家と大きなお寺が二つ見える。昔から今に続く巨大な穀物産地であるようだ。
最寄りのバス停から記念館方向をみる。 広い水田と畑の中
ちょうど刈り取り前の麦、植えた直後の稲という時期だった
「稲富橋」停留所からゆっくり目に歩いて約20分、間宮林蔵記念館がある。
初老の男性が受付をしており、丁寧な口調で応対してくれた。案内板の入館料100円を、安いなあと思いながら差し出すと、75歳以上は無料ですとのこと。館内は当然ながら撮影禁止。陳列された資料も多く、いろいろ興味深く、面白かった。
記念館入り口
門の奥が記念館、門の右側の小道をまっすぐ進むと、菩提寺の専称寺がある。
門を入って左側が生家。
村内の近くの本来の場所から移設、復元したもの。質素なつくり。
間宮林蔵のもっとも有名で偉大な業績は、間宮海峡(もちろん後に命名される)の発見である。樺太(カラフト、ロシア名サハリン)がロシアの大地と陸続きの大陸なのか、それとも島なのか当時未確認であった。それを苦心惨憺の上、ロシアとは別の島であることを確認した。そしてそこ(北樺太西岸ラッカ)に「大日本国国境」の標柱を建てたという。この頃の日本人の国土意識に脱帽せざるを得ない。
ロシアと樺太との間は「間宮海峡」と名付けられ、今でも国際的に使用されている。
三十二歳の時、江戸で三十数歳年上の伊能忠敬に弟子入りし、測量学を学ぶ。蝦夷地の測量を行う。伊能忠敬が創った全図のうち、北海道北半分は間宮林蔵が作ったものが基になっているという。
巨大な顕彰記念碑
記念館から200mくらいか、近くに「専称寺」がある。門内に入っていくと左側に大きな石碑がある。「間宮先生埋骨之処」という。
碑文の中に、「先生之功烈愈顕而先生之墓石愈小也」とあるそうである。
後世の人たちが、その功の余りに大きいのに、その墓のあまりに小さいことに切歯扼腕、この大きな石碑を建てたものだろう。
間宮林蔵のお墓
巨大な顕彰碑の裏に、両親の墓と並んでひっそりと建っている。高さ50cm余りの、小さな質素なものだ。拝礼のためしゃがんでも、柱頭が目の下にある。初めて樺太探検を命じられた29歳の時、生還期し難く自ら作ったという。
候補としていた武蔵野御陵参拝を次回に回し、明日の予定として伊能忠敬記念館に行く事にする。
(佐々木 幸久)