メールマガジン第98号>会長連載

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★【会長連載】 Woodistのつぶやき(55)

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伊能忠敬記念館、そして佐原の街並み

 伊能忠敬記念館は佐原(旧佐原市、現在は香取市佐原)にある。まずは成田に行くのだが、浅草線で直通か青砥乗り換えの成田空港行きで行ける。浅草橋界隈を定宿にしている身としてはこの路線を使うのが至便である。京成成田駅からは、乗り換えてJR線の鉄道で行く方法と、京成成田駅から出る佐原方面行きの路線バスとがある。行きはバスで、帰りはJR佐原駅からJR成田駅までの鉄道を使った。

 

 京成成田駅発佐原方面行きのバスで、「中央商店街」バス停で降りる。そこからずっと古い木造の商店街が続く。佐原は水運の便が良く様々な物流、中でも米穀等の取り扱いも盛んだった。こういう所につきものの酒造り、醤油造りが盛んで、様々な変遷を遂げながらも、繁栄は江戸期のみならず明治大正昭和そして現代まで持続した。観光も含めると多くの昔ながらの家々が活用されているのも嬉しい。洋館風の建物があちらに一つこちらに一つと見られるのも町の繁栄が永年持続している事を示している。

 

 

 一方以前訪ねた愛媛県内子町は、藩政時代に培われた鑞(ろう)と、天才的な商才の持ち主と、発明家たちの現出で一世を風靡した。開国と共に海外輸出の途を探り当て、巨万の富を築いた。内子という比較的裕福ではあったものの、一つの農村に手工業、商業の街が現出した。ただ惜しむらくは、ハゼ鑞が石油に取って代わられ、その変化はあまりに急で繁盛は長く続かなかった。二つの町を思い合わせると、蓄積の年の積み重ねの違いを感じる。

奥に見える橋の左側が伊能家旧居で、その前の河岸がこの遊覧船の発着所になっている
奥に見える橋の左側が伊能家旧居で、その前の河岸がこの遊覧船の発着所になっている

 

 忠敬は幼少からその賢さは際立っていたが、必ずしも順風な少年時代ではなかった。双方の家の縁者で忠敬の才能をめでていた人の周旋で、17歳にして佐原の名家伊能家に婿養子に入った。17歳から50歳まで過ごした家が、二百数十年後の現在も、恐らくは居並ぶ他の家ともども原形をとどめて、その本来の地に残っていて、今これらを子細に眺める事が出来る。

 伊能忠敬も坐ったであろう帳場。このような仕事場と、廊下を通って広々とした居住の場がある。間宮家の床はすべて板張りであったが、こちらは畳敷きである。

 

 伊能家旧居前の橋を渡って、運河の反対側少し奥まった所に、伊能家親戚の旧家を改築した「伊能忠敬記念館」がある。間宮林蔵記念館では観覧中殆ど一人であったが、こちらは数十人の入りである。なお内部はこちらも撮影禁止。

 

 展示物は多く、贅沢でさえある。面白い文書が展示されていた。明治5年、時の明治政府が伊能忠敬の遺品等を政府に差し出すよう指示があった。時の伊能家当主がそれに回答をしている。幕府に主だった成果品や道具は既に差し出しており、今ではそれらの残骸しか残っておらず、見苦しいもののみでとても差し出すようなものはございませんという文面である。

 その文書には当主のみならず、地区総代のような者も連署している。露見すれば何らかの罪に問われたであろうに大胆なものだと思う。まあ明治5年と言えば新政府も多事多難な折ではあっただろうが。この記念館の大量の所蔵品は国宝となったが、この時の伊能家当主の覚悟によるものである。

※後記 後で年譜を見ていて気付いたが、明治6年皇居で火災があり、伊能図唯一の正本が焼失している。

 

伊能忠敬記念館入り口
伊能忠敬記念館入り口

 

 しかし何という見事な生き方であろうか。17歳で婿入りした家は名家とはいえ、後継者に恵まれず、次第に家運が傾きつつあった。名家としての家の格も、同格の他家より低く扱われる状態だった。様々の苦心を重ね、商売も盛り返し、地区の代表としての役目も果たして第一の名家として復活を果たした。

 また天明の大飢饉は全国で数万人の餓死者を出し、打ちこわしなどの騒擾も頻発したが、佐原では一人の餓死者も、一件の騒動も出さなかったという。村方後見であった伊能忠敬を中心として、困窮者に貯蔵米の放出や現金の支給など様々な思い切った施策のおかげであったという。

 かねての生活は厳格にして慎ましく、しかしながら大事な時には金銭を惜しまなかったという。ちなみに後の全国測量の旅でもこれは変わらず、測量器具などには惜しみなく私費を投じつつも経費支出には厳格であったそうだ。

 50歳にして家督を譲った時点では事業(財産)は、4倍の3万両になっていたという。

 

 家督を譲り隠居してのち江戸へ出て、天文、暦学の第一人者として名高い高橋至時(よしとき)の門に入門する。そして幕府の支援を受けながらも多額の私費も投入、全国を十数年、第一次から第十次にわたる測量を実施、後に「大日本沿海輿地全図」と名付けられた精密きわまりない日本国地図を完成させたのだ。

 多くの篤学の士たちと交流を重ねたが、死に臨み若くして亡くなった師高橋至時の墓の近くに埋葬されることを望み実行された(東上野「源空寺」)。

 

 間宮林蔵、伊能忠敬の人生のごくごく一端に触れ、いくつかの感懐を得た。

〇江戸期にあって、武士のみならず農民、商人からも偉業を成し遂げる人が多数現れている。 

〇才能あるものを見出し引き立てる人がいる。

 伊能忠敬を伊能家に紹介した人。

 小貝川の堰工事の監督に来ていた幕府の役人が近くの農家の少年間宮林蔵の才能に驚き、引き立てる

 べく江戸へ連れていく。

〇蝦夷地についてはロシアの介入を懸念、広く国防意識が広がった。伊能忠敬の測量事業は蝦夷地から

 始まっている。

〇幕府もこれらの動きを基本的には助成したが、せっかく忠敬苦心の地図は国家機密として流通を禁じた。

〇大日本沿海輿地全図の正本は幕府にのみ保管され、写しが伊能家にあったが、いずれも焼失して国内に

 は残らなかった。シーボルトが海外に持ち出しを図り、国禁を冒したとして高橋至時の子高橋景保は

 捕縛され、獄死した。しかしこの持ち出しのおかげで伊能図の全容が明らかになった。海外で写本が

 広く流通した。これらを基に、大図全214枚を収録する「伊能大図総覧」が2006年(平成18年)に刊行

 されたという。

 ※注 大日本沿海輿地全図は、日本全国を3枚に書いた「小図」、8枚に書いた「中図」、

    214枚に書いた「大図」から成る。 

(佐々木 幸久)