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★【連載】山佐木材の歩み(25)
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「これまでの山佐木材の歩み」(リンク)
青年教育を使命とする決心
既に良知塾の事は「山佐木材の歩み(19)」で述べている。時系列でみると少し先行してしまっていたので補足する。有馬宏美君など各部門に高校、大学を卒業したての若手が入社し始めた。彼らを指導するのは、一足先に入社して当時の旺盛な成長を支えている一団である。年代で言えば戦後生まれで、地元高校卒業後都市部で経験を積んだ高度成長の申し子のような人たちである。郷里に帰って親の面倒を見るというくらいだから、性格も良く明るく仕事面では頼もしい連中である。歳周りから言っても新入社員への感化力は大きい。
社長の一抹の懸念は、戦後の教育現場の変化、たとえば教師と子供、親との信頼関係が、自分の教師時代と違って薄くなっている現状があり、その結果教師は子供たちに厳然と教えるべきことをきちんと教え切れていない、その結果かつての青年たちに備わっていた日本精神(大和魂)が失われつつあることである。会社や人生も良いときだけではない。
三十歳台、あるいは四十歳にもなったらさすがに無理だが、新卒の柔らかい精神に対しては、心から向き合って全力で取り組めばこれを教え育てる事が可能ではないか。社長佐々木亀蔵は青年教育に残りの人生を掛ける決意をし、それを淡々と着実に実行したのだった。
「良知塾」の設立
それぞれの持つ人格や個性を尊重しながら、ただ一本の芯としての魂を育てる。従って押し付けではなく、自ら実践、「背中で教える」、若い塾生たちより早く起床、共に朝の課業をこなし、会社や業界役員の業務をこなし、17時過ぎには塾生の便で、もしくは自ら運転して塾に帰る。共に耕し、鶏に餌をやり採卵する。食事の準備をして夕食、夜の課業をこなしてすべてが寝静まってのち床に就く。
引用 山佐木材の歩み(19)「良知塾について」
朝早く起床、洗顔、一緒に読書した後、別れて清掃、農作業、食事作り。そして食事が済んだら出勤する。塾生は業務上残業禁止となっており、終業後はまっすぐ塾へ帰る。夕方の課業をこなし、勉強をして就寝。良き生活の中から、それぞれの人が持つそれぞれに良いもの(良知)を引き出し、勁く(つよく)賢い人間に育つのを見守る。
塾生たちよりも早く起きて、そして遅く就寝する。身を律して、「背中で教える」を信条とした。若い青年たちが1年を通じこの禁欲生活に素直に従ったのは、今考えると驚異にも思える。1年どころか数年にわたって塾生活を続けた人もいる。
若者たちとの禁欲的な生活は、本人終生の人生観にかなうものであり、大いなる喜びだったことは間違いない。ただ日にわずかに四、五時間の睡眠。それ以外に休養の無い1年365日の生活は、六十代後半の身体に、本人の自覚しない無理が蓄積されていった事だろう。本人が無念さを露わにした事だったが、それから4年しか天は寿命を与えてくれなかった。
ただこの時の短い年数の中で、山佐木材の有馬社長、ヤマサハウスの森社長やあまたの拠点長などの振る舞いを見るにつけ、三十数年前佐々木亀蔵との共同生活が、青年時代の彼らの人格形成に大いなる一役をかった事は間違いあるまい。瞑目して父の心情に思いを馳せるのみである。
発病
社長70歳の時体に異変が生じた。突然に排尿障害が起こったのだ。手分けして知り合いの医師たちに意見を聞いた。老人性の前立腺肥大による排尿障害だろうという意見もあって、本人も周囲もどちらかと言えば楽観的な雰囲気であった。ところが次弟明文君の妻滋子さんの親戚のお医師が、症状を聞くや血相を変えて、直ちに専門医の精密検査を受けるようにと強く言われたという。それで認識が一変した。それでそのお医師に紹介してもらい専門医で本格的に検査してもらうと、前立腺癌(がん)という診断だった。当時はがんについては今と認識がかなり異なっていた。基本的にがんは不治の病であり、本人が知るとショックが余りに大きく、その悪影響が治療効果を上回る恐れがあるという認識が一般的だった。家族一同同様な見解で、本人には秘することになった。
佐々木亀蔵自伝「執念」の発行
社内報「やまさ」の巻頭言は、締め切りに苦しみながらも、創刊以来律義に毎月書き続けてきたから、相当の分量になっていた。発病を知り、これを本にして本人は勿論多くの人の手に取ってもらうという発想を得た。もちろん本人の了解を得なければならない。既に自伝部分は終わっており、これまでにも本にする機会はいくらでもあって、思いつかない方がおかしかったと後悔した。発病しての唐突な提案、果たしてその理由を何と言おうか、如何にもタイミングが悪いではないか。病が快癒することを本人は信じているし、私たちも願っている。「快気祝いの記念に本を作ったらどうだろう」という提案に素直に喜んでくれた。
編集方針として巻頭言の中から、自伝部分のすべてと「良知塾」に関する部分を選択して採録することにした。
印刷所の選定である。おおよそのページ数と装丁を提示して見積もりを取った。ある所の見積もりで面白いものがあった。何冊以下ならいくら、それを超えたらいくらというのだが、多くなると高くなっているのが個性的で、念のために理由を聞いてみた。冊数が増えると残業休日手当てが必要になる、特に装丁に手間がかかるというのがその理由だった。
結局大手印刷会社「凸版印刷」にお願いすることになったのだが、その経緯は次の通りである。永野易美君のことは以前この欄で書いたが(「山佐木材の歩み(20)」)、彼の長兄が凸版印刷でかなりの地位におられることを聞いたことがあった。恐る恐るではあったが、永野易美君を通じて打診してもらった。「郷里で活躍してきた先輩のために一肌脱ぐ」という頼もしいお返事があった。上京してお目にかかった。地元の工業高校を出て工場から始まり、まさに異例の実績、異例の栄進をした人である。精悍で豹(ひょう)を思わせる風貌に感じた。間違いなく、様々な取り決めを一決、即決できるお立場であった。このような事で佐々木亀蔵自伝「執念」発行のスタートが切られた。
本の発行は難航した。当時の印刷は、若い人には想像も付かないだろうが、原稿を見ながら活字を一つずつ手でひろって版を作るところから始まる。それを印刷(ゲラ刷り)して、郵便小包で送ってくる。こちらではそれを赤鉛筆を手に校正するのだが、この直しが最初は結構多かった。校正したものを先方に郵送する、版の活字を入れ替えて、ゲラ刷りがまた送られてくる。こちらの見落としもあり、この行ったり来たりを数回繰り返してようやく校了となった。こうして佐々木亀蔵著「執念」(350ページ、布装)が完成した。
(佐々木 幸久)