メールマガジン第44号>稲田顧問

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★【新連載・稲田顧問】タツオが行く!(第1話)

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1. 連載を始めるにあたり

 この連載は、鹿児島大学の塩屋先生と酒を飲み交わしている内に、決まってしまった企画である。塩屋先生も私も大酒飲みであるから、実際何を書くかについては、 どんな話をしたか正直あまり覚えていない。

 塩屋先生にそれを聞いたとしても、多分「タツオが行く」と大きな声を出されるだけで、実のある話は聞けないのではないかと思う。 というわけで、内容がどうなるかは書きながら考えることにして、まずは連載を始めてみようと思うのである。 

この場で連載タイトルが決まりました
この場で連載タイトルが決まりました

 私は三菱地所勤務時代、 いずれも大正時代に建設された「丸ビル」「日本工業倶楽部会館」という2つの歴史的建物の解体調査と建て替え計画に深く関わった。それらの仕事を通して得たことは、私にとって大変貴重な体験・知識となっている。

 

 私が携わってきた建築構造に関わる仕事は、 個人的には大変面白い仕事と思ってきたが、 世の中の見方としては必ずしもそう簡単では無い。 特に最近になって、 耐震偽装問題を始めとする様々な不祥事が起こるに及び、構造技術者に対する信用の失墜、様々な誤解も生じつつあるのではないかと思う。

 

 そのような事柄を少し念頭に置きながら、 丸ビルあるいは日本工業倶楽部会館を建設し、 また竣工後も歴史の荒波にもまれながらも支え続けてきた、 技術者達の活動・生き様を、その時代背景を踏まえながら振り返って見ようというのが、 この連載の趣旨である。

 この連載の名づけ親である鹿児島大学の塩屋先生の意図もそんなと ころにあるのではないかと勝手に思いながら、果たしてこれからどうなって行くのか少し心配だが、まあとりあえず始めてみることにする。

 

図1) 旧丸ビル(関東大震災後撮影)

 

図2) 日本工業倶楽部会館(改修工事前に撮影)



 

1.1  大正という時代

 この2つの建物の建設の舞台となった大正時代については、 元々私は、歴史はあまり得意ではないが、 昔の教科書を紐解いてみると、なかなかドラマティックな様相が見えて来る。

 

 1913年(大正2年)は、東京駅が開業した年である。米国では「商業の大聖堂」と称された、「ウールワースビル」(55階建て、高さ234m、ニューヨーク)が開業した年でもある。その竣工セレモニーで行われた点灯式では、ウィルソン大統領自らが全館点灯のスイッチを押したとあるから、 さぞや華やいだ時代であったのだと思う。

 しかし、その翌1914年6月28日、セルビア人学生がオーストリア皇太子を暗殺する という偶発事件に端を発して、 第1次世界大戦が勃発する。 しかし、結果として見ると、この大戦は日本にとって必ずしも悪い影響のみを及ぼしたわけではなかったようである。

図3) ウールワースビル全景


 開戦当初は一時おりからの不況が深刻化するが、 大正4年中期以降輸出が急増し未曾有の好景気となる。その理由としては、欧米との貿易が途絶えたことにより国内生産が増加したこと、 及び中国や東南アジアでは欧州からの輸入品を日本からの輸入に切り替えたことが上げられる。 この結果我が国の貿易収支は明治以来初めて輸出超過となり、大正4年から7年までの4年間は貿易収支は黒字となる。

 資料によれば、その4年間の総輸出額は54億円とあるが、それは大正4年以前の10年分の総輸出額に匹敵するとのことであるから、好景気はかなり大きなものであったことが分かる。これにより、産業界では事業の新設と拡張が相次ぎ、商業や銀行等も活況を呈し、 その間株価も大幅に上昇し、空前の投機熱となり多くの成金が誕生した。

 しかし、一方で言えば、未曾有の好景気も全く問題が無かったわけではない。一つには、急激な物価上昇の問題があげられる。資料によれば、当時の物価上昇は大正3年7月を100とすると大正8年6月には300、大正9年には400以上とあるから、かなり厳しいものであったと思われる。

 大正7年11月に大戦は終結し、多少の混乱はあったものの、 日本経済は依然米国向け生糸,羽二重, 中国向け綿製品等の輸出が好調であり、 引き続き大正9年3月まで、未曾有の好景気は継続する。しかし、大正9年3月東京・大阪両株式市場の大暴落をきっかけとして、戦後反動不況が起こり、この不況は我が国だけにはとどまらず、欧米を含む世界的な大不況に発展し、翌10年春まで続くことになる。その後一時的に景気は緩やかな回復基調に転じるものの、その後また反動が襲来し、大正11年銀行恐慌、大正12年の震災恐慌、昭和に入ってからの金融恐慌、そして1929年の世界大恐慌へと、長い暗黒の時代を迎えるのである。

 

1.2  大規模アメリカ式オフィスビルへの期待

 大正3年12月の東京駅開業と翌年からの大戦景気の影響を受けて、 明治以来整備が進められていた東京丸の内地区のオフィス需要は急激に増大し、 相次ぐ新ビル建設にも関わらず供給が追いつかない状況が続いた。

 大正時代に入ると、我が国のオフィスビルの形態は、それ以前の出入り口を1社で占有する棟割長屋方式のオフィスビルから、一つの入り口を多くの会社が協同使用する協同借家型のアメリカ式先端オフィスビルへと変貌を遂げる。ビル需要の急激な増大は、 アメリカ式大規模高層鉄骨オフィスビルの建設への期待に、 さらに拍車をかけることとなった。

図4) 三菱銀行旧本館


 丸ビルのような大規模なオフィスビルを建てるには、 その費用の捻出もさることながら、工期の面での技術革新がどうしても必要であった。 当時大正7年には米国式の大規模高層オフィスビルの草分けである、「東京海上ビルディング」が竣工したが、その工期は4年7ヶ月を要した。 三菱合資会社の地所部が担当した「三菱銀行旧本館」は実に5年10ヶ月の工期を要し、 その間の物価変動による建設資材価格の高騰は、 三菱地所部のビル建設担当者を散々に悩ました。もし、同様の建築様式で丸ビルのような大規模ビルを建てるとしたら、一説には十数年を要するという見積もりが建てられたが、 それは事業計画上致命的な問題となった。

 

1.3  ジョージAフラー社との出会い

 大正6年5月、三菱合資会社地所部は、副技師長の山下寿郎に米国出張を命じ、米国の建築工事事情の調査に当たらせた。前述したように当時の米国では、既に1913年にはウールワースビル(55階建て、高さ234m、ニューヨーク)が竣工する等、数多くの高層多目的ビルの建設が進められていた。

 山下は米国に到着すると、 当時在米中でありシカゴやニューヨークで高層多目的ビジネスビルの建設に関わっていた日本人建築家松井保生の紹介で、 ジョージAフラー社の副社長であるウィリアムスターレットと出会う。ジョージAフラー社は、 19世紀末の建築界に新風を吹き込んだ鉄骨高層事務所ビルの代表的な施工会社であり、シカゴのタコマビル(1898年)、シカゴトリビューンタワー(1903年)、ニューヨークのフラットアイロンビル(1902年)、いわゆる「プラザ合意」の舞台となったプラザホテル(1907年)等を施工している。

 ウィリアムスターレットは高層建築を極めて迅速かつ経済的に建築する革命的な工事方式を考案したスターレット5人兄弟の3番目の人物である。ちなみに、次兄のポールスターレットは、 シカゴの有名建築設計事務所パーナムアンドルートで修行の後、フラーに見いだされてフラー社に入社、 後フラー社の3代目社長を17年間務めた人物である。

 スターレット5人兄弟の長兄セオドアスターレッ トについては、 以下のような逸話が残されている。

セオドアは1906年に、不格好な箱形をした100階建ての建物を提案した。それは、低層部には生産工場を置き、 その上に事務所空間、 住宅、 ホテルと階を積み重ね、それらを劇場や商店街を含む広場で隔て、 さらにその上には遊園地、屋上庭園、プールを配するというものであった。彼は以下のように述べている。

 

「我々の文明は素晴らしい進歩をとげつつある。ニューヨークにおいては、我々は建て続けなければならず、それも上に向かって建てなければならない。我々は丸太小屋から30階建ての摩天楼へと一歩一歩進んできた。

‥‥今や、我々は何か違ったもの、何かより大きなものを生み出さねばならない。」

 

 大戦により欧州からの情報が途絶える一方、未曾有の好景気に湧く日本にあって、米国の摩天楼建設計画の熱気に接し、またこのジョージAフラー社の新工法との出会いは、その後東京駅頭に計画される巨大なアメリカ式オフィスビル建設計画に決定的な影響を与えたことは間違いの無いことである。

 

1.4  丸ビル建設の決断

 「東京停車場前貸事務所設計案」 と称されて進められた 「旧丸ビル」 の建設が最終的に決定したのは、大正9年9月13日のことである。「三菱社史」には次のように記されている。「大正9年9月13日   丸ノ内ビルヂング新築工事施工方認許ス。鉄骨煉瓦造地中室附8階建、一部9階一棟、工事予算900万円トス。」

 しかし勿論これは、工事内容の最終承認であって、実際の丸ビル建設をめぐる調整は大正6年の山下の渡米以降、継続的に進められていたものと思われる。その一端を記す資料としては、大正6年12月の「東京停車場前三菱本社計画案」、大正7年2月の「東京停車場前貸事務所設計案」とあり、地上6階、各階1809坪、延坪1万854坪の三菱本社を建設するとある。

 ちなみに、 これらの建設計画を中心となって推し進めたのが、三菱合資会社地所部技師長の桜井小太郎であった。桜井は、明治3年の生まれで、コンドル、辰野金吾らの指導を受けた後、英国に渡り、明治23年ロンドン大学建築学科を首席で卒業、帰国後海軍技師となった。 三菱合資会社に入社するのは、 大正2年のことである。

 「東京停車場前貸事務所設計案」が示されると、それら大規模高層建物の建設を想定して、大正8年4月より地質調査が全面的に実施された。またその頃から、フラー社との合弁会社設立のための交渉が開始され、翌9年1月には桜井が丸ビルの設計図を携えて渡米、3月19日に日米合弁のフラー建築会社が資本金40万円で東京に開設された。

 さて、東京駅頭に計画された、延坪1万8000坪、9階建て、総工費900万円の丸ビルの建設の決断は容易なことではなかった。 時期としては既に大正9年3月の株式大暴落の後であり、不況の暗雲は垂れ込め始めていた。総額900万円という予算は、当時建設中であった三菱銀行旧本館でさえも総予算が380万円であったことを考えると途方も無いものであった。 完成後の営業リスクの大きさを考える と経営上の不安は大きく、 建設反対を唱える合資会社幹部も少なくなかった。そのような状況の中で、プロジェクトを進める桜井等は、合資会社社長であった岩崎小弥太に熱心に直接働きかけることにより何とか了解を取り付けるのに成功したのであった。

 

次回予告

 次回は、三菱合資会社が米国フラー建築会社が取り交わした契約の意義、問題点等について、日本側、米国側それぞれの見方を踏まえ、考察する。

(稲田 達夫)


参考文献)

1)三菱地所社史編纂室編:丸の内百年のあゆみ「三菱地所社史」、1993年

2)三菱地所編:丸ノ内ビルヂング技術調査報告書、  1998年

3)武内文彦編:丸ビルの世界、かのう書房、  1985年

4)ポール・ゴールドバーガー著、渡辺武信訳:摩天楼、鹿島出版界、 1988年