メールマガジン第45号>稲田顧問

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★【稲田顧問】タツオが行く!(第2話)

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1. フラー社との契約

 第1話では、三菱合資会社技師長の桜井小太郎が、丸ビル建設についての米国フラー社との契約に、なんとか漕ぎつけるまでの経緯を説明した。契約に示された丸ビルの計画工期は2年8ヶ月であったが、この工期は当時としては驚くべきものであった。 

 

2.1 フラー社の開発した工法の特徴

 それでは、この驚異的な短工期を実現したフラー社の新工法とは、そもそもどのようなものだったのだろうか。それは一言で言えば、各種大型の建設用重機械類をふんだんに使用することにより、著しい工期の短縮を実現したことであった。

 

 当時の我国の代表的な構造設計者の一人である内藤多仲の回顧録に、以下のような記述がある。

「私も丸ビルの工事現場をよく見に行ったが、20mぐらいの杭(米松)を基礎杭として打ち込むのを見ていると、地面がやわらかいので1トン半ぐらいのハンマーでたたくと、ずるずるとはいってしまう。鉄骨を組んで、あれよあれよと言う間に2階、3階と建っていく。その速さはまるで手品のようであった。」とあるから、その手際の良さは際立っていたようである。

  

 基礎工事にあっては蒸気式杭打ち機(スチームハンマー)を採用し、運搬にあたっては2.5トン積みトラックを使用、また鉄骨骨組みの建て方にあたってはガイデリックと呼ばれる大型クレーンを導入し、建設工期の短縮を図っている。

 当時の記録によれば、「あたかも建設博覧会のような風景であった。」とあるから、当時の東京駅前の建設現場の光景は、何か新しい時代の到来を予告するような印象をもって、見られていたに違いないと思われる。

 

 その他、コンクリート工事にあってはコンクリートミキサーと手押しコンクリート運搬車を導入し、また仮設にあっては吊り足場を導入する等、無駄を排除した合理的な施工上の工夫が見て取れる。建築材料にあっては、ホローブロックと呼ぶ穴空き煉瓦を使用している他、軽量鉄骨の天井・内壁下地、それからモルタルプラスター塗りの内壁下地としてメタルラス(エキスパンドメタル)を採用する等、当時としては珍しい材料、工法には枚挙に暇もないという状況であった。 

 

図2-1)スチームハンマー

図2-2)ガイデリック

図2-3)ホローブロック


図2-4)手押しコンクリート運搬車

図2-5)エキスパンドメタル(内装下地)



 

2.2 契約に対するアメリカ側の受け止め方

 この驚異的な短工期を実現するために導入された、フラー社の新工法は、日本の建築界に革命的な衝撃をもたらした。一方またその工法を日本に持ち込んだフラー社側も、アメリカから遠く離れた極東の地、日本にアメリカ式の建築工事を導入することについては、様々な意見があったようである。

 

 フラー社で、桜井との交渉にあたっていたのは、スターレット5兄弟の三男のウィリアムであった。ウィリアムは、桜井のもたらした建設計画の依頼に対しては、大変誇らしくもあり、また名誉なことと感じていたようであった。当時の米国の一般誌に以下のような記述がある。

「かくして合衆国海軍ペリー准将が日本の港をアメリカ貿易に開いて以来70年にして、今度は日本帝国はビジネスと通商の神々に捧げられた鉄とコンクリートと石より成るモニュメントを建築するビジネスにおいて、合衆国の最高の頭脳にその扉を開いたのである。」 

 

図2-6)鉄骨建て方工事の状況

図2-7)吊り足場


 

 一方、この契約の是非については、ウィリアムは兄のポールに綿密に相談していたようである。ポールスターレットは、シカゴ第一の有名建築設計事務所であるパーナムアンドルートで修行の後、フラー社に入社、その後3代目社長を務めている人物である。

 

  ポールは、「君の言うことはよくわかる。文化を日本に伝授するという事業は、単なるビジネスの話よりは、遥かに意義のあることだ。しかし、極東への進出というのは、事業的には冒険に過ぎる。勝算はあるのかね。」ポールは慎重に言葉を選びながらたずねた。

 確かに、当時フラー社の活動拠点は、米国東海岸に限られており、カナダにすら進出したことは無かったのである。

 

「日本への進出の最大の課題は、多分地震対策です。しかし、以前米国西海岸に進出した際検討したところでは、ハリケーンによって200m超級のビルの低層部に発生する応力は、地震による応力をはるかに陵駕すると考えられます。日本で建設を予定している建物の規模が高々30m程度であることを考えると、それほど恐れることは無いと思います。」

「日本の建材調達事情は調べたのかね。」

「日本人技師から聞いた範囲では、日本の鋼材生産は未だ官営工場が操業を始めたばかりであり、我が国の100分の1程度の規模です。松杭等についても、基礎として使えそうな良い材料の調達は困難であり、我が国から輸出するしか無いようです。」

「そのような中で、日本に進出するというのは、やはりかなり無理があるのではないか。」

「日本人は、基本的に誠実で勉強にも熱心であり、信頼ができます。日本は極東にはありますが、それだけに列強の侵略も受けておらず、独自の文化を保っている数少ない国のひとつです。その国に我々の技術を伝授できるということは、ビジネスとしても充分に成り立つ価値のある投資といえると思います。」

 

 多分、このようなやりとりの中で、ウィリアムは兄を説得し、了解を取り付けたものと思われる。実際、この仕事にかけたフラー社の意気込みは相当なもので、その辺の事情は以下の米国の一般誌の記事からも見ることができる。

「日本人はフラー社に契約という形の贈り物を持参したのではなく、援助を求めたのである。彼らの交渉役は初めから自分たちはアメリカの建設業者が日本へ来て日本人に最新の建築施工法を教え、日本人がアメリカの建設業者が達成した能率と精度を用いて、自らの力で日本の都市を近代化できるようにしてもらいたいと要求した。アメリカ人にはただの建設業者としてではなく、日本人建築家と技術者に最新アメリカ建築施工法を訓練する教師として東京に来て欲しい、と彼らは強調した。」

 

 即ち、フラー社は、この丸の内での仕事が単に建築契約を結ぶことだけではなくて、アメリカで開発された最善の建築施工法を日本人に伝授することであると理解していたのである。 

 その後、丸ビルの工事が起工されるのは、大正9年7月のことであった。 

 

次回予告

 次回は主として、この契約に対する日本側の見方について、解説します。

(稲田 達夫)


参考文献)

1)三菱地所社史編纂室編:丸の内百年のあゆみ「三菱地所社史」、1993年

2)三菱地所編:丸ノ内ビルヂング技術調査報告書、1998年

3)武内文彦編:丸ビルの世界、かのう書房、1985年