メールマガジン第46号>稲田顧問

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★【稲田顧問】タツオが行く!(第3話)

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「これまでのタツオが行く!」(リンク

3.フラー社の技術に対する日本側の見方

 第1話で述べたように、丸ビル計画は、三菱合資会社副技師長の山下寿郎が大正6年5月に、ニューヨークにおいてフラー社のウィリアムスターレットと面会し意気投合したことから、事実上スタートした。その後、丸ビルの建設工事が起工するのが大正9年7月であるから、その3年間で、丸ビル計画はまとめられたことになる。その間、フラー社と三菱合資会社の間には、どのようなやりとりがあったのだろうか。

 

 山下は大型の重機械類を駆使して大規模ビルを短工期で実現するフラー社の先進的技術に感銘を受け、日本に帰ると合資会社の幹部達に対し、フラー社の技術の優位性を熱烈に説いて回ったものと思われる。一方、米国のフラー社は、第2話で述べたように、極東の国日本に自分たちの技術を伝授するという文化的事業に意義を見出したことから、2社の間には円満な契約関係が成立したものと思われる。つまり、先進的な技術を伝授するフラー社とそれを真摯に学ぼうとする日本という構図が見えてくる。しかし、本当にそうだったのか。 

 第3話では、明治維新以降、積極的に欧米の技術を取り入れた日本人技術者達の、技術導入に対する基本的考え方について、少し触れてみたいと思う。

 

3.1 2つの床伏図の存在

 私は、旧丸ビルの解体調査が始まった頃、調査箇所を検討するため旧丸ビルの床伏図を見ていたことがある。ふと何気なく天井を見上げると、見ている図面と実際の小梁の向きが整合していないことに気が付いた。つまり我々が、永年旧丸ビルの図面と思っていた床伏図が実は正式なものでは無かったのである。慌てて、古い図面類が納められている倉庫を調べてみると全く別の床伏図が発見された。ここに、2つの床伏図が存在することになるのだが、なぜこのようなことになってしまったのだろうか。

 

 

図3-1 2つの床伏図の相違 

 

  ここからは、私の推測であるが、当初我々が旧丸ビルの床伏図と思った図面には「Rigid Conection」という記述がある。これは、鉄骨の柱梁の接合部を剛接に繋ぐようにという指示と思われる。現在、日本の建築においては、柱梁を剛接にするというのは、基本的なルールとなっている。しかし米国では、現在でも、剛接にするのは外周フレームのみであり、内部フレームは必ずしも剛接には拘らないというのが、一般的ルールのようである。

 旧丸ビルの柱梁接合部も、フラー社が提案したものは、内部フレームに関しては剛接ではなかった。山下は、これが気に入らなったのではないかと思われるのである。それで、山下は新たに自分で床伏図を書いたが、これが当初我々が正式の図面と思い込んでいた床伏図である。 

 見方を変えれば、当初我々が正式な床伏図と思っていたものは、日本側の主任構造設計者である山下寿郎が書き起こした「最終構造設計図」とみることができる。一方、後に発見された床伏図は、フラー社が建物の最終形を書き残した「竣工図」とみることができるのではないかと思われるのである。

 ではなぜ、設計図通りに建物は建設されなかったのか、それを少し考えてみたい。

 

3.2 なぜ山下の意図はフラー社に伝わらなかったのか

 三菱合資会社とフラー社が設計に費やした3年の月日の中で、当然山下は、フラー社に自分の考えを伝えようとしたはずである。なぜ、それがフラー社に受け入れられなかったのか。一つには第2話でも述べた、「ハリケーンによって200m超級のビルの低層部に発生する応力は、地震による応力をはるかに陵駕する」という、自分たちの技術に対する自信(後になって考えれば過信)があったものと思われる。もう一つは、極東の地日本で進める建設計画において、従来とは異なるディテールを採用することに対する躊躇いが、フラー社には働いたのではないかと思われる。

 

 記録によれば、山下はフラー社の設計の問題点を先方に伝えるため、契約の下打ち合わせの為渡米する桜井に資料を託したとある。このことから類推するに、山下と桜井の間には以下のようなやりとりが行われたのではないかと推察する。

 即ち、計画案が最終段階に差し掛かっていた大正8年12月、山下は思い切って桜井技師長の部屋を訪ね、相談を持ちかけることにした。

「桜井さん、考えてみたのですが、どうも納得がいきません。」

「山下君か。新ビルの構造の話しだね。」桜井は以前から、フラー社の米国式の構造について、山下が疑念を抱いていることに気が付いていた。

「そうです。フラー社の米国式鉄骨構造のディテールの件なのですが、あの柱梁接合部のディテールでは建物の剛性が不足して地震に際して問題が生じることが心配されます。」

図3-2 鉄骨柱梁の接合部ディテール


「しかし、それについては、フラー社の設計する超高層建物がニューヨークの風外力に対応したディテールとなっていることを考えれば、高々30mのビルの地震外力などは、恐れるに足りないということでは無かったのかね。」

「確かに昔、そう言われた時には、それで納得したような気持ちにはなったのですが、冷静になって、昔見た濃尾地震の光景を思い浮かべてみると、本当に地震外力がフラー社の言うような程度のものなのか、どうしても疑念を抱かざるを得ないのです。むしろもっとずっと大きいよう気がしてならないのです。それから、先方が200m超の建物だからと言って、30mの建物の外力がはるかに少ないはずと言い切るのも、少し短絡的だと思います。直感的に考えてもやはり、地震と風外力は性質が違うのでは無いかと思うのですが、どうでしょうか。」

「なるほど。確かに地震力は複雑なものだろうから、それだけに直感は大事にした方が良いかもしれない。しかしそれで、君はどうしたら良いと思うのかね。」

「私は、フラー社の技術は確かに素晴らしいものだと思います。しかし、それを我国に導入するにおいて、盲目的に信じて良いものでしょうか。日本と米国の建設条件の違いを考慮して、フラーの技術を日本流に改善することも重要と思います。米国式の構造は、鉛直荷重を受ける方向の梁は、柱とフランジを介して力が伝達できるようにきちんとした接合がなされています。しかし一方、鉛直荷重を受けない直交方向の梁は、ウェブプレートのみで柱と接合されているため、横力に対する抵抗力は格段に劣ることになります。地震が存在しない鉛直荷重しか受けない米国東海岸であればそれでも良いのでしょうが、地震力を受ける日本では直交方向もフランジを介して柱と接合して、横力に対する抵抗力を確保する必要があると思います。」

「しかし、米国でも風外力で当然横力が発生するわけだが、それへの対策はどうなっているのかね。」

「外周部のみニーブレースと称する斜材が配されており、一応それで、トラスを構成することになるので、大丈夫ということのようです。しかし私はニーブレースだけでは地震に抗することは難しいと思います。それで、私は考えたのですが、柱と梁の接合は両方向ともフランジを介して力を伝えるモーメント伝達構造とすべきではないかと思うわけです。ここにその考えを反映した構造図を持参しました。この内容を米国のフラー社に直接伝える方法は無いものでしょうか。」

「なんだ、そういうことか。了解した。そういうことであれば、近々年明けには、私が米国に渡ることになると思うので、君の構造図をフラー社に必ず手渡すことにしよう。」

 

 しかし、結果としては山下の意図は、フラー社には伝わらなかった。その理由として、ある学識経験者が(多分冗談半分に)述べた説として、「山下の書いた英文が、稚拙であったため、先方にうまく伝わらなかったのではないか」というのがある。しかし、仮にも山下寿郎氏は、東京帝大造家学科を卒業したエリート中のエリートである。今の時代ならいざ知らず、この説は、当時のトップエンジニアであった、山下氏に対し、いささか失礼ではないかと思う。

 むしろ、これについては、資料を託された桜井の方に問題があったのではないかと思う。桜井の渡米は予定より大幅に遅れ、大正9年も半ばを過ぎていた。第1話でも述べたことだが、社会情勢としては、大正9年3月の株式大暴落の後であり、不況の暗雲は垂れ込め始めていた。旧丸ビルの総額900万円という建設費は、当時建設中であった三菱銀行旧本館でさえも総予算が380万円であったことを考えると途方も無いものであった。完成後の営業リスクの大きさを考えると経営上の不安は大きく、建設反対を唱える合資会社幹部も少なくなかった。

 そのようなことから桜井は、フラー社との契約について時期を逸すると、全体計画自体が頓挫しかねないことを恐れた。それで、フラー社との間の懸案事項については、山下の指摘も含め、契約後に解決すれば良いとの判断のもと、強引にフラー社との契約を推し進めたのではないかと思うのである。しかしこの判断は、着工後やがて新たに生じる大きな問題へと結びついて行くことになる。

 

次回予告

 次回は、旧丸ビル着工後生じた新たな問題について、考察することにします。

(稲田 達夫)


参考文献)

1)三菱地所社史編纂室編:丸の内百年のあゆみ「三菱地所社史」、1993年

2)三菱地所編:丸ノ内ビルヂング技術調査報告書、1998年

3)武内文彦編:丸ビルの世界、かのう書房、1985年