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★【西園顧問】木への想い~地方創生は国産材活用から(39)
「亀山関宿の木造消防署見学と薩摩義士治水神社参拝」
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私の「木への想いシリーズ」も39回目を迎える。「NHK大河ドラマ・西郷どん」の放送が、「史実をドラマ化」し過ぎた部分が多いので、今回は木材を離れ「西郷の史実との違い」を書いてみようと思った。しかし奈良への私用を機会に翌日4月17日に、三重県亀山市「東海道五十三次の関宿に在る木造消防署」を訪ねた事と、4月25日に264年前の「薩摩義士・平田靱負翁を祀った治水神社の春の大祭」へ7~8年ぶりに参列したので、濃尾平野の度重なる水害から守った歴史を偲ぶ報告を書いた。史跡には貴重な木造施設も多いので、参考になればと思いからの紹介である。
三重県亀山市 関宿にある木造消防署を訪ねる
木造消防署見学のため、駅舎内の亀山市観光協会で「木造消防署の場所」を聞いた。職員は「関宿は伝統的建築物群保存地区だから小学校や役場は木造だが、消防署が木造とは聞いた事がない」と相手にしてくれない。止む無く関消防署へ電話すると「木造です。待機中」との返事、観光協会職員へ「木造消防署でした」と伝えたが信じ難い顔をされた。
歌川広重「東海道五十三次・関」
訪ねて次の通り挨拶した。
私は約30年前「カナダ西海岸で木造消防署を見て驚いた経験」がある。日本の地方振興と林業振興には「木造消防署が、我が国でも普通に建つ様になれば」と言っていたら、平成22年に公共建築物木造促進法が制定された。林業振興には、木材利用の課題である「市民の防火への不安解消」が、木造需要拡大への第一歩と思っている。
27年「秩父市広域消防組合が木造」の情報を得て訪ね、それから情報を得る度に、大分県豊後大野市と宮城県仙南地区の木造消防署を訪ねた。貴署は公共建築物木造化促進法制定前の建設先発例なので、期待して訪問したと。
当時は「関町消防署」で、亀山地域消防組合の一員だったが、木造消防署は平成15年に完成している。落成式で当時の清水孝哉関町長が「消防署の事務所棟は地元木材を利用し、関の街のイメージに合う木造2階建とした。車庫棟はRC造だが、関町の自然・歴史に調和させ藏イメージのデザインとした、街のシンボル的建物の一つになると確信している」との挨拶記録が残る。地元材利用で、地域産業活性化と地区景観の調和に取組まれた事が判る。
歴史的価値の高い「伝統的建築物群保存地区」に相応しい建物とするため、日本で一早く公共建築物木造化促進法制定より7年も前に、木造消防署建設に取り組まれた当時の町長と役場担当者の大英断に敬意を表したい。
木造の事務所棟は、1階が事務所等で426m2、2階は会議室兼トレーニング室等で100m2。連結した車庫部分はRC造242m2、S造のホースタワーは14m2で、総合計782m2、工事費200,340千円。特別な補助制度は使わず、起債120,000千円で施工し、木材使用明細は残っていないが、柱に地元スギ材による大断面集成材を使っている。
関宿の景観に合わせた壁や瓦や漆壁、ヨロイ壁、延焼防止対策の嵌殺し式の灯取り虫小窓、ウダツ壁等の工法が取り入れられ、地域特有の冬の北西強風対策に防風林を植栽し、南面に「八の字に開いた建物配置」の伝統的防火対策が採られている。
建築コストはRC造に比べ差は小さかったそうで、梓設計名古屋支社が設計し、地元大手の白川建設が建設している。
職員は防火の専門家だから防火意識は高く、今まで何の問題も起きていないし、地域住民も木造消防署に馴染んでいる。築後15年経つがメンテナンス問題も出ていない。
「木造消防署だから」との見学者は、「貴方が初」と言われたが、「日本では貴重な木造消防署先進例」と気付いてもらい、前町長が地域景観と調和のため、わざわざ「木造消防署を建築した英断」に思いを新たにして頂いた。
全国の市町村長には、関消防署等の事例を参考にされ「地域振興で地材地消」に取組み、木造消防署の建設追随を期待する。
京都で薩摩藩ゆかりの場所を訪ねる
濃尾平野の海津市で開かれた治水神社の春大祭への参列で、前々日に大阪空港から京都に入り寺田屋を訪ねた。「坂本龍馬がお龍に助けられた宿」で、刀傷を癒すため西郷等に誘われ鹿児島へ同行したのが「日本初の新婚旅行」として知られるが、薩摩藩にとってはそれより5年前に重大事件が起きた場所である。当時は大阪堂島と京との物流は、淀川・宇治川を利用した三十石船で往来し、京の発着場南浜が「船宿寺田屋」で薩摩藩定宿であった。
島津久光が幕政改革に立ち上り、上京(当時は京へ行くのを「上京」と表現)する直前に、京や江戸の主要人脈に明るかった西郷隆盛を奄美大島・龍郷から呼び戻し、「先ぶれとして先発させ、下関で待て」と命じた。
京の不穏な動きを知り、久光の命を無視して先に京に上り鎮静に動いた行動が、命に背いたとして再度奄美(徳之島から更に沖永良部)へ流される訳だが、その原因となる溜まり場が寺田屋であった。その後久光は京へ上り「時代の急展開」に次々と遭遇する事となる。
薩摩藩にとっての「寺田屋事件」とは、「文久2年(1862)4月23日を期して、討幕挙兵を決行せん」とする薩摩藩急進派達の集結を知った久光は、「暴挙は事を誤る」と鎮撫使を差し向けるが、断念させる事が出来ずに薩摩藩の若い誠忠組同士の凄惨な切り合いとなり、有馬新七等の急進派志士9名が犠牲となった場所である。
この事件後に、久光は孝明天皇の勅諚を携えて特使・大原重徳の護衛役として江戸に上り、薩摩藩の武力を脅しとして幕府と交渉し、攘夷の実行や越前藩主松平春嶽復活等や公武協力体制を飲ませ、首尾良く意気揚々の帰り道に起きたのが生麦事件である。
そして賠償問題の難航から翌年の薩英戦争となり、薩摩藩が西欧との技術格差を再認識する経緯となり、斉彬時代の集成館事業を復活させ、西洋技術の積極的導入へ舵を切り、薩摩藩英国留学生派遣や、薩摩藩の討幕への方針転換へ進む原因となる。薩摩藩にとっては「歴史の転換起点となったのが寺田屋」だが、江戸時代からの木造旅籠の大黒柱は薩摩藩島津家からの拝領品が残り、今でも宿泊出来る旅館である。
見学者のほとんどは龍馬への関心が強過ぎて、庭に「薩摩九烈士碑」が建っているが見逃されている。鹿児島県人には是非とも気付いて欲しいものだ。
寺田屋から歩いて10分の距離に在る「九烈士が眠る大黒寺」を参拝した。殿の命に従わなかったとして東福寺境内の薩摩藩菩提寺に埋葬して貰えず、大黒寺の和尚が遺体を引き取り、今まで弔って頂いている寺である。薩摩藩の歴史を担ったが、日の目を見なかった人達に心からの参拝をさせて頂いた。また西郷と大久保が謀議をかさねた部屋も残されている。
Wikipediaより(By Degueulasse - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link)
翌朝8時前に小雨の清水寺を訪ね、その一角に在る成就院を訪ねた。西郷の京時代の良き相談相手で、西郷と共に錦江湾に身を投げた「勤王僧の月照」が住職を勤めた院で、予ては見学出来ない所だが庭園を特別に見学させて貰った。1639(寛永16)に再建され、庭園は相阿弥原作を小堀遠州が補修したと伝えられ「国の名勝」指定地である。小雨降る落ち着いた雰囲気の庭園を前にして、暫く縁側に座り静かに庭園を眺めると、風流とは無縁な私だが「西郷と月照の日本の将来を語る声が聞こえた気」がした。
西郷が名付けたと言う「境内の舌切茶屋」が、営業休み日だったのは残念だった。
高台寺の隣にある「霊山歴史館」は、明治百年記念に財界人寄付金で建設された「明治維新総合博物館」で、初めて入館したが西郷・龍馬・新撰組等の豊富な資料の展示は、時間を掛けて見学し直したい所だった。
知恩院横の数寄屋造り「いもぼう 平野」で昼食を採ったが、「いもぼう」とは変種芋の料理に過ぎず、定食2,700円には驚いたが後の祭りだった。
洛南の東福寺を訪れ、国宝の三門や屋根付き橋から新緑を眺め、「方丈八相の庭」も一巡りした後に、島津修久様と御一緒だった事も有り、普段は入れない「薩摩藩の畿内菩提寺即宗院」に特別入れて貰えた。西郷と月照が幕府の難を逃れつつ奥の茶亭に隠れ幕府転覆の策を謀った院で、維新前後は西郷が此処から密令を発し、諸藩と連携を謀り維新の大業を完遂した院で、鳥羽伏見の戦いで屯営を構え、裏山から幕府軍へ砲撃を加えて勝利を確実にした場所だ。
雨に濡れながら小路を一番奥まで登ると、明治2年に西郷隆盛が明治維新で犠牲となった霊を供養するため、石碑4基の524霊の一人一人の氏名を自ら揮毫した「東征戦亡の碑」が建ち、生麦事件の奈良原喜左ヱ門と「人斬り新兵衛」(田中新兵衛)の墓碑も在った。
薩摩藩関係の特別な寺院に参拝出来て、維新の歴史とは志の高い多くの人達の死を乗り越えてきたものだと学ぶ機会となった。
治水神社 春の大祭に参列する
264年前、美濃平野南部の木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)合流地点で、薩摩義士が苦難の末に当時日本の最難工事であった「宝暦治水」を成し遂げた輪中に在る「海津市・海津温泉」へ、夕方に大雨の中を着いた。夕食では平田靱負翁等の義士の遺徳を偲びながら、同行参加者と歴史話が弾んだ。名古屋城木造化の工事実現の話題にも及んだ。
4月25日7:30、出迎えのバスに乗り、養老町天照寺の「3士の墓と地域内の他24士との計27士の義士墓」を参り、女性名物和尚の読経を聞いた。近くの大巻の役館跡の平田靱負翁辞世句「住みなれし里も今さら名残りにて 立ちぞわずらふ 美濃の大牧」の記念碑も参拝した。
10:00、治水神社大祭に参列した。恩顧を忘れぬ濃尾平野の人達が、80年前に建てた立派な木造社は風格を感じる。慰霊式も多くの地元民が参列し、今も変わらぬ感謝の気持の伝わる儀式だった。7~8年前に参加した時に玉串奉奠では、名を呼ばれた鹿児島県知事や鹿児島県議長等の代理さえも立たなかった。鹿児島に戻り知合いの県議に、「岐阜の人達に恥ずかしい」と注意した所、「県予算は宗教色の濃い行事への参加は認められないと野党が反発する」と説明された。私は「薩摩義士参拝を、宗教行事と考える事がおかしい。鹿児島と岐阜県の交流事業として、貴方達有志で旅費を募ってでも参加すべき」と忠告した事を思い出した。今回は女性副知事と県議代表も参拝されていた。参列の席でホッとした。
直会の後に、千本松原や木曽三川公園等を見学し、更に毎回恒例の桑名市に在る「24名の義士が眠る海蔵寺」を参拝した。今回訪問の2カ所の寺とも、徳川幕府の圧力を恐れ他の寺院が埋葬を断った中で、「故郷から遠く離れた地での無念な亡骸を丁寧に弔ってくれた」慈悲深い美濃の地の歴史に感謝した。今回も「日本の歴史と木造建築は切っても切れない深い関係」を学び、木材再評価に繋がればと思う事となった。
中部空港出発までの時間調整として「トヨタ産業技術記念館」を訪れた。同行者は日本最大の車両展示場に多くが向ったが、私は「トヨタの生みの親・豊田佐吉の紡績機械展示場」で、島津斉彬公や薩摩藩士石河確太郎等の「日本の初期紡績事業分野の貢献」の展示資料を見て回った。曖昧さを感ずる展示説明を正したくて、おせっかいとは思いながらも案内係と議論し、帰鹿後に関係資料を送らせてもらった。
(西園)