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★【連載】山佐木材の歩み(2)
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追想 昭和20年から35年(1945~1960) その2
居宅の情景
台所の土間は三和土(たたき)だった。台所の入口を入って左側(東側)が水汲み用の手押しポンプと、流し台、薪を焚くかまどで、右側(西側)は鋸くずが燃料の鋳物のストーブと、食卓2、椅子10個程がある。家族の慌ただしい食事の場にもなり、夜業の時の従業員の食堂にもなった。
土間を上がると居間の四畳半、ここが家族団らんの場である。並んで西側が玄関のついた客間。奥に六畳の居間と寝間。4つの部屋が畳敷きで、すべて襖(ふすま)で仕切られているので、何かあるときはこの襖をすべて外して大広間になる。50人くらいの宴会、例えば山神祭り(やまんかんまつり)も自宅でしていた。 (参照 メルマガ第59号「Woodistのつぶやき(26)」)
玄関前には自宅前の道路から入る門付きの小庭園があった。ここから入ることはめったになく、かねては台所につながる通用口から出入りする。
その小庭園を流れる水は居宅の東側にあった養鯉池に導かれていた。父は動物を飼うのが好きで、犬はもちろんだがヤギ、ブタ各一頭、鶏(チャボ)数羽がいた。小さいころ牛乳と併せて、ヤギ乳もよく飲んだものである。
鯉のいる情景
鯉もその一環で、父は結構本気だった。居宅の東側に新しく掘った池に稚魚3000匹ほどを投入、大事に育てていた。私が小学生4,5年生になったころには、餌として蚕の蛹(さなぎ=絹を取った後)が大量に入手出来ていた。4斗入り(1斗=18リットル、つまり72リットル入り)カマスで購入する。この独特の匂いのさなぎを適量バケツに入れて池に撒くと、水の表面にぱっと油膜が広がり、もう一尺以上に成長した鯉がわらわらと集まり、壮観で楽しかった。
のちに当地で盛んになる養魚(養鯉)場は当時まだ殆ど無かった。自家用に食べることは全く無く、また全く商売にもしていなかった。山神祭りか客人の到来の時くらいのものである。全くの趣味のようなものだったろう。時に頼まれて分けたりしていた。その時の代金は果たしてもらったものだったろうか、父のことだから金は受け取っていなかったように思われるのだが。
印象深く記憶にあるのは、「嫁女(息子の妻)が子を産んだが乳が出ない。」と真剣な面持ちで頼み込んでこられた。父の快諾のもと、釣りの手伝いをしたものだ。どうやって食べるのと聞くと、「なるべく大きな肥えた鯉をそのまま昆布で巻いて、味噌で煮込んだものを食べると乳が出るようになる」ということだった。
かねて鯉を釣ることは禁じられていたが、池で生まれる鯉の稚魚を捕食するナマズやウナギなどを釣ることは推奨されていた。畳糸にウナギ用の釣り針をつけて、トノサマガエルの皮をはいだもので釣ると面白いようにかかった。
この池で級友たちとよく筏(いかだ)遊びをした。筏の角材をくくっていた縄がほどけて角材がバラバラになり、私とほかの二人が溺れかかったことがある。母が急遽風呂をわかしてくれ、皆で入って体を温めた。この話は級友間で広がり、壮年になってからも長く話題になった。
通学路の情景
自宅を出て右手方向が工場で、左手方向の学校へ向かう。道の右側は新田川(しんでんがわ=田圃の灌漑用水)である。
道路右側の最初の建物は、工場に隣り合って鹿屋営林署(現大隅森林管理署)大隅事業所の作業員宿舎(木造平木葺き)がある。ここに同級生の森君がいて、時に一緒に通学したものである(後年偶然会った彼のお姉さんから彼が若くして亡くなったことを知った)。そして線香の原料工場。椨(タブ、タブノキ)などの樹皮を臼で丁寧に叩いて、特約の線香工場に出荷するのである。そして自動車整備工場、下駄屋。
道の左側は駄菓子屋、八百屋☆、魚屋☆。
ここで交差点を過ぎて、左方向の新生町通りに入ると右側にお酒・食料品店、紳士服テーラー☆、産婆さん、葬具店(神棚やたまや、埋葬用の棺桶を作る)、精米所☆、映画館、飲み屋、左側はシナソバ屋、靴鞄店(希望のものを作ってくれる)、京染呉服屋☆、薬局、ラーメン店、旅館☆がある。これが往時隆盛を誇った「西町商店街」の一角、新生町通りである。
高山川にかかる大きな赤池橋を渡って左側の通りに入ると、西町商店街と当時覇を競っていた「本町商店街」が始まる。
通りに入って坂を下ると道の右側は、老舗旅館、鮨屋、ガラス店、書店、喫茶店、もつ料理屋、ウナギが有名なラーメンなども出す食堂、蕎麦屋、左側はバー黒猫☆、乾物屋☆、公会堂(木造の演舞場)、病院、精米所、三州バスの停留所など。ガラス店のところを一歩裏路地に入るとなかん(中身=もつの生肉)屋があった。
今はいわゆるシャッター街で人通りも少ない寂しいものだが、当時は大概のものが町内で揃い、あえて鹿屋市などに買い物に行く必要はなかった。往時は農業林業の盛んな繁盛した、歴史ある大きな町だったのだと思う。
ちなみに列記した商店などの後ろに付した☆印は同級生がいた所である。先行きに懸念があったものだろうか、あるいは元気と意欲に満ちた者には物足りなさがあったのか、その多くが後継の途を選ばなかった。
郷里を離れる級友たち
先月来「情景」として描いているのは、主として私が小学校3,4年から5年くらいの時期である。これから数年後のことであるが、多くの子供たちが中学校もしくは高校卒業後、都市部に就職した。また一部大学に進学する者もいたが、彼らもまた郷里には帰らなかった。。
沸き立つような都市部の好況に、彼らは故郷を離れ、意欲的に自ら参画、努力してそれぞれが、力強い我が国戦後経済の発展に大きく貢献したといえる。
もちろん学校を出て農業、商店など親の跡を継ぐもの、教職や地方公務員として地元に残るものもいたのである。併せて他国で暫く修行、壮年になって帰って地元で活躍する者、あるいは老境に入って郷里で過ごすため帰って来る者もいて、恐らく数十人の同級生が当地にいるようである。
地元での還暦祝い、あるいは関東での同期会などで各地から多数参加した。また時に帰省するものを地元勢で歓迎することがある。
先日久々に帰省した同級生のN君を迎えて、町の料理屋に二十数人集まった。彼は鹿屋工業高校を卒業、東京の会社に勤めた。聞くと春の叙勲で立派な勲章を受けたとのこと、彼の成功を心底から讃え、皆で拍手喝采したものである。
(佐々木 幸久)